無責任で一方的で、失踪も引きこもりもせず牛乳を買いに行く「推し」文化の話

 たいへん有用な論文があったので紹介します。次に収録されている、村松灯「『推しのいる生』の何が新しいのか」です(以下、「論文」はこれを指します)。

 これは「推し」実践の当事者である筆者が、従来論じられてきたオタク文化の特質と比較しながら、現代の推し実践の特質を考察するものです。各章を要約している余裕はないのですが、特に意義深いと感じたのが3節と4節なので、それを中心に紹介していきます。

 

「推し」=「責任を取らない愛」

 論文の3節で村松は、小説『推し、燃ゆ』の主人公・あかりの心情をサンプルとしながら、推しへの態度が、不完全で儚い存在への無償の贈与であるとします。そして同時に、推しとの関係はある「へだたり」を置いた、一方的で応答責任を免除された関係だとします。

 私は、前者の贈与についてはよくわかりません。村松は、あかりが推しのことを「かわいい」と言っていることから、四方田犬彦の『「かわいい」論』を経由し「かわいい」が庇護の必要の感受だと論じています。しかし私には、「推し」が「かわいい」ものだというのがどうも腹落ちしません。私はなにかを好きだとか美しいと感じることはあっても、かわいいと感じた経験がそこまでありません。そしてどちらにしても、他ならぬ自分がそれをすすんで保護したり応援する必要はないのではないか、私がそんなことをしなくてもそれはそのままで完全ではないかと感じます*1
 ただし、身近な誰か、自分もその関係から恩恵を受けている人のケアをしたほうがいいとか、若い人が安心して暮らすことができる社会の方がいいとか、だから労働力や金銭を提供するというのは別で、それは義務としてやらねばならないと感じます。でも、そういう存在たちがかわいいからそうするのではないと思っています。相手がかわいくなかろうが美しくなかろうが、やらなくてはいけないという義務感が先に来ています。

 ただ、後者の洞察については直感的にわかります。「推し」実践の中心にあるのは、この応答責任の免除(論文の中では「無責任」とも言われています。)と、一方的な関係ではないかとも思うのです。私は、以前から次のような言葉がずっと心に引っかかっていました。

 「責任をとらない愛」と対比されるのは、パートナーや親族、あるいは親しい友人との関係だと私は考えています(まさに論文中で援用されている悠木碧の議論のように)。これらの関係では、常に応答し合うことを求められます。すれ違いざまに起こる雑談やLINEのトークルームでの無数の情報交換がなくなってしまえば、相手が何を必要としているのか、自分が相手に何を求めるかの手がかりがなくなり、ケアし合う関係も失われます。例えば『失踪の社会学』という本では、親密な関係で常に応答が求められることを「親密なる者への責任」と呼んでおり、失踪者が感じる自責の念と、失踪された側の怒りに結びつけて論じていました。親密な人への応答を一切断ってしまう失踪は、「親密なる者への責任」に背くことであり、無責任とみなされることになります。

 もしかすると、「推し」との関係は失踪と同じように、この「親密なる者への責任」からの離脱の一形態なのかもしれないと思えてきます。推しを推す人の一部は、当の責任に倦んでいるのかではないかと、うっすら感じることがあります。そう思った事例を次に2つ挙げます。

 

植物を愛でること、つぶやくこと

 近年、植物との関係に特別な安らぎを感じるという人の言説を見かけています。ではなぜそう感じるのかというと、次の記事で引用した水上文の言葉にあったように、植物はこちらがかけた言葉や解釈に応答してこないから、ただ見て愛でていてもこちらに目線を返さないからです*2

dismal-dusk.hatenablog.com

そういう断言は植物のコミュニケーション方法に関して一面的な見方かもしれません*3が、植物とそれを愛でる人間の関係は、親密な関係において人間が人間に応答を返す様子とは随分違うことは確かです。

 あるインターネットの空間上で、「いろいろ返信できていなくてすいません」と誰にともなく言っている人を見かけることがよくあります。私は、仕事で絶えず連絡をもらうということもなく、頻繁に会うような知人もなく、あらゆるLINEグループは止まっていて、稀に家族から連絡が来るくらいなので、生まれてこの方そういう状況になったことは一度もありませんが、実際みな大変なのだろうと想像します。人に応答したり、応答しなければならないと思うだけでも体力を使うし、うんざりするものです。応答したら応答が返り、またそれに応答しなくてはならず終わりがないからです。そういうときでも、誰か匿名の存在が潜むかもしれない森に向かって一方的に「つぶやく」ことはできる。応答をあまり想定しないことの安らぎというのが、インターネットには残されているはずです。

 この二つの事例に関わっていたのは、私の知るかぎり、女性としてみなされてきた人たちが大半でした。母数があまりに少ないにしても、このことに性差を読み取ることは不当ではないと思います。現状、女性とみなされる人のほうが親密な関係を築く圧力が強く、実際にその中に身を置いているからこそ、応答責任に倦むことも多いのではないか、という推測をしています。

 ただ、前述の『失踪の社会学』で失踪した人たちは、伝統的にはむしろ既婚男性が多かったような気もしています。「親密なる者への責任」を担いきれなくなるとき、なぜ失踪ではなく、一方的な関係に安らぐ「推し」的な実践を組織することがあるのでしょうか。

 

推す人は生活圏を捨てない

 論文の第4節では、従来のオタク文化が現実世界の歴史の断片から虚構世界を構築する志向を持っていたことに対し、逆に「推し」文化では現実世界が「推し」を中心とした意味体系によって再解釈・二重化されることを論じます。何かを推す人たちのベースは、あくまでこの現実世界だということです。現実世界というのは、論文中の例のとおり、私やあなたが然るべき場所で牛乳を買って飲むような、この生活圏のことです。

 どれだけ妄想をたくましくしても、実際にこの生活圏を捨てるわけにはいかないという認識が、何かを推す人たちにはあるのではないでしょうか。それは、もうすでに色々な人と応答し合う関係の網の目に巻き込まれており、簡単にはそれを捨てられないことが彼(女)らには明白だからです。

 親密なる者への責任が担いきれなくなって失踪し、場所を変えても、結局、失踪先で誰かと互いの生命を守り合う関係を多かれ少なかれ築かなければジリ貧です。貨幣経済が浸透しているところではお金を払ってその場限りの関係を渡り歩いていくこともできるでしょうが、定期的にお金を得る能力や無償で人に何かをしてもらう能力がないかぎり、行旅死亡人となる未来のほうが濃く見える。また逆に生活圏を極限まで縮めてすべてに応答をやめる、つまり引きこもるのも簡単ではありません。一切働かず学校にも行かず、誰からも何からも応答せず一人でアニメを見続けるとかゲームをし続けるというのは、その家に面倒くさい関わりをせず世話をしてくれる人がいるか、超弩級の金持ちでないと無理です。お金のない一人暮らしの方々には同意してもらえると思いますが、現在の家賃で年単位で引きこもることは現実的な選択肢ではありません。

 個人的には、生活圏であまりに応答の負担を感じるときには一時的な失踪(無断欠勤・欠席、家出、実家に戻る、友人宅に避難など含む)も選択肢の一つだし、貯金があるなら引きこもるのも良いと思いますが、その高いリスクをとったり厳しい条件をクリアする以外で何か、応答責任を免除できる瞬間をつくれたら是非そうしたい*4。今の生活圏を維持しつつその中の息苦しさを緩和するために、手軽なことから何ができるか。その有力候補として受け入れられているものの一つが推し文化なのではないかと思います。

 

 私は「推し」周辺の文化が、牛乳を買って飲むようなことから変に距離を取って、日々の「雑事」として見下していないところは、自分自身がこれからも生きていくにあたって重要だと思っています。自分の生活の穏やかな苦しみも捨てがたさも感受しているからこそ、それと付き合う方法を探す、「推し」という意味の中心を持つことで、いまの生活が再構成されて違う味になる。そういう様子を描いたいくつかの作品を正しく受け取らなければならないと私は思ったので、次のような文章を書いたこともあります。

また、彼女たちは自分の推しを愛してもいわゆる二次創作は行わないし、その作品やパフォーマンスを研究者ぶって分析することもない。だからといって、彼女たちが資本主義社会にただ踊らされる愚昧な消費者であるというのは誤りだ。彼女たちが一心に創作するのは、推しへの愛情表現を巧みに織り込んだ彼女たち自身の生活にほかならない。彼女たちにとって、作品の解釈を他人と議論したり、二次創作として著したりブログに批評として載せたりすることは、決して無駄なことではないが、何を差し置いても熱中するべきことではない。結局それは、自分自身の生活を「推し」の光の下で再組織化することの一つの方法でしかないからだ。

 二次創作や批評や作品分析に没頭する者は、推しを愛する彼ら彼女らのことをライトな消費者としてしばしば軽蔑する。だが、そんな同人作家や自称批評家たちは、ファンたちが自らの好きなものを追う生活を創ることについて、どれだけ真剣であるかを見ていないのである。

 自分自身の置かれている生活をひとたび客観視するならば、それは必ずどこか真綿で首を絞められているようなものだと誰しも気がつく。(…)このような生活の穏やかな苦しみを認識する者だけが、その苦しみと意識的に交渉し、その交渉によってようやく創作物を生活に引き入れ、自らの生活をより望ましい形に彫琢することができる。他方、この苦しみから目を背ける者はいつまでたっても創作物についてのおしゃべりに終始し、その他の「雑事」は創作物を愛することとも自分の努力とも無関係と考え、いつかどうにかなるだろうと(もしくは他人に丸投げすればよいと)なおざりにし続けることだろう。

田原夕「ファンカルチャーと生活の創作術」
『息あるかぎり私は書く』hesperas, 2021, pp. 166-167, 強調引用者)。

 さすがに、大げさに礼賛するような調子が鼻につくような文章です。村松論文でも警戒されているように、「推し」文化がアカデミックな考察対象になったり、その政治性が大真面目に評価されるようになれば、既存の言説空間の秩序の内部での位置取りに利用されるだけになるかもしれません(実際引用文では、「同人作家や自称批評家たち」をこき下ろすために推す人々が参照されている節もあります)。そういう振る舞いは、実際に「推し」をもって生活している人たちからすればクソどうでもいい空中戦であることはほぼ確実です。

 

 まあそういうわけで、推し文化の意義を大上段に語ることは大概にします。私は当面、今の生活圏に留まりつつ、私の生活の味を変えてくれるようなコンテンツとその傾向を探索します。その試み自体が「推し」文化の一端に同調することだと思います。例えばこの記事でも書いたように、人間と植物の関わりや、キャラクターと人間の関わりに安らぎを見出すという話は最近自分の中でまた熱くなっています。うまいまとめ方は思いついてませんが、もし興味がある方がいれば連絡をください。いや、でも連絡も連絡でお互い応答がダルいと思うので、自身が日々どのような関係に安らぎを感じることがあるかを何処かで書いてください。SNSやブログ上で言及があれば、こちらから巡回する可能性があります。

 

*1:これはおそらく、私が美しいと思うものの裏にどんな努力があるかを想像できないことに原因がある気がします。つまり、一生懸命肌や髪のケアをしたり合う化粧品を探したりと模索し、結果的に美しい姿を見せてくれた人の、結果の部分しか見ていないから完全だと感じているということです。たしかにそれは完全であると感じていいのですが、何の努力もしないで完全であると信じているなら問題があるとも思います。「かわいい」と寿ぐ人はそのかわいくするプロセスを見ている、かもしれません。

*2:映画監督の金子由里奈は、動物よりも、ぬいぐるみや植物、蜘蛛など「絶対にわかりあえない」「こちらから一方的に見るだけで関係が成立してしまう」存在に惹かれる、という趣旨のことを話していました。次の24:50以降。

#14 傷つくことも、傷つけてしまうことも怖い…。それでも他者と生きていく私たちへの処方箋は? ゲスト:金子由里奈さん 【聞くCINRA】 - 聞くCINRA | Podcast on Spotify

*3:植物も音声以外の様々な方法で外界と連絡していることはよく言われています。例えば次。

*4:もちろん、失業時の支援や自立支援の制度、NPOの支援活動などは多いですし自分も恩を感じることがありますが、助けてもらうためにも最低限の情報のやり取りは発生し、それすらもダルすぎる、苦手と感じる人は少なくない気がしています(実家に戻るのとどれほどの差異が?)。人が人のことを面倒を見ている以上、自販機でものを買うようにはいかないでしょう。