「消えたい」の解釈を拒絶する:プロジェクトセカイ「25時、ナイトコードで。」について

 

dismal-dusk.hatenablog.com

 

警告

以下の文章では希死念慮(死ぬことを想像したり求めたりすること)を扱うので、身体の不調を覚えたら一度画面から目を外し、自然光の元に出ること。

 

免責事項

本記事は、セガ・Colorful Paletteが提供するIOS/Android用ゲーム「プロジェクトセカイ カラフルステージ! feat. 初音ミク」(以下、「プロセカ」)について扱う。ただし、主に言及するのは次の動画1「『25時、ナイトコードで。』メインストーリー」内の情報に限定する。

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動画1 メインストーリー(25時、ナイトコードで。編)【プロセカ公式】

これには2つの理由がある。

第一に、ゲームの特性上、補完的なエピソードを勘案しようと思ったらキリがないからだ。プロセカにはエンドコンテンツとして補完的なエピソードが無数に存在するが、これを収集できるかどうかはガチャ運等不確定な要素が大きく絡む。これらを全て集めるには資金と時間がいくらあっても足りないので、いっそ無視することとした。

設定を多く知っていることが勲章だった旧来のオタクの態度を踏襲すれば、限界まで補完的なエピソードを収集するべきなのだろう。様々な画像や会話を獲得していればしているほどに考える材料が増えるのだから。しかし、仮にエンドコンテンツも含めたゲームの総体を知っているほどよいものが書けるのならば、制作側が書いたものがいちばんよいということになるはずだ。私は自分が不利だとわかっているゲームには参加したくない。

第二に、メインストーリーのその後まで含めてしまうと物語が長大すぎて語り切れないからだ。メインストーリーは、定期的に開放されていった「イベントストーリー」へと続いて展開されている。このイベントストーリーは1つ1~2時間の長さがあり、メインストーリーと直接のつながりがあるものに限っても10以上ある。私はその一つ一つについて詳細にメモを取りながら読んだわけではないので、すべてを勘案する準備はできていない。

イベントストーリーは現在も次々に追加されている。物語がはっきり区切れる点はどこなのか、あるいは私の人生がそうであるように、自分で任意にターニングポイントを設定するしかないのか。未読のイベントストーリーがいくつか残っていることもあり、その見当がついていない。

 

序、「消えたい」を焦点にしたあらすじ

この物語は、極限状態にあり死にたくなっている人が、死にたいままでコミュニケーションを続けられた話なのだと私は思った。

勿論、切り口は色々とあっただろう。流行りの「毒親」の弊害を描くストーリーだとしてもいいし、創作の意味が人によって異なっている点に注目してもよい。友人間の薄っぺらい肯定に唾を吐く話だとしてもよいだろう。ただ私はまったく個人的な経験から、頻繁に登場する「消えたい」*1という言葉にまずは着目せざるを得なかった。

 

高校2年生、朝比奈まふゆ。彼女が「消えたい」と発していた場面を中心に、物語の流れをさらってみる。

彼女は物語開始時点の1年ほど前から、インターネット上の音楽サークル「25時、ナイトコードで。」(以下、「ニーゴ」*2)に所属して活動していたが、特にこれといったきっかけがあるわけでもなく、ある日突然サークルに出てこなくなる。その少し前から、彼女は「セカイ」という異空間の中でひとりで曲を作り始め、2週間で20万再生の曲を4曲公開しカルト的な人気を博していた。

まふゆがサークルに顔を出さなくなって1週間経った夜、ニーゴのメンバーである奏、絵名、瑞希の3人は、まふゆのセカイに偶然呼び込まれる。メンバー達に対して、まふゆは次のように告げる。ニーゴで曲を作ってみても、自分が「救われる」ことはなかった。だからひとりで曲を作ることにしたが、そうしても「救われる」ことがなければ、そのときは「消える」ほかないと。

メンバー達を現実世界へ追い返し、まふゆは一人で楽曲制作を続ける。その1週間と数日後、生活のすべてに嫌気が差した彼女は、誰もいないセカイの中で「ただ消えたいんだ」「これで楽になれる」とひとりごちることになった。

そして、まふゆが危ない状態にあると思い再びセカイに入ってきたメンバー2人(奏、瑞希)に対しても、「ひとりで消えたい」から放っておいてと叫ぶ。途中で、残りのメンバー(絵名)も参加し、約15分にもわたって言葉が交わされる。そののちに、まふゆはひとまず今、消えるのは諦めることとなる。

 

一見、自殺を考えた人が、周囲の言葉によって思い直すストーリーに見えるが、その見立てはひとまず間違っていない。

「プロセカ」のメインストーリーは、ユニット(異なる音楽性やバックグラウンドをもつ集団)ごとに5つあるが、共通の様式を持っている。それは、各ユニットのメンバーがセカイの中でバーチャルシンガーの助けを借りて「本当の想い」に気づき、最後にその想いから出来た歌を歌うというものだ。今回のニーゴのメインストーリーもその様式に即していて、まふゆが「本当の想い」を見つけて物語は終わる。彼女の本当の想いとは「消えたい」ではなく、「(私を)見つけてほしかった」だという。

[ミク]
――あの子の本当の想いは、
消えたいなんてものじゃない
(1:35:30)*3

[???]
……そうか、わたし

"見つけてほしかった"んだね、ミク
(2:21:22)

ただ、私はむしろ、「消えたい」を別のものに読み替えようとする全てへの拒絶の力を、この物語の端々に感じた。「消えたい」をさまざまに解釈し文脈づけようとする登場人物や読者に対し、黙れと命じる人の姿が一瞬だけ見えて、すぐに掻き消された。

それは気のせいだったのだろうか?

 

親密な相手には「消えたい」と言えない

まふゆが、「消えたい」と発言した相手とタイミングは、かなり限られている。それは、ニーゴから失踪した後に、他のメンバー3人とセカイの中で対峙してのことだ。それでは、まふゆはそのとき初めて「消える」アイデアに囚われたのだろうか? 明らかにそうではない。クラスメイトにも、親にも、ニーゴのメンバーにも言わなかっただけだ。「消えたい」は、いつでも誰にでも言えるようなことではなかった。

社会学者の中森弘樹は、最近の著書で「死にたい」という言葉の特異な性質を考察していた。「死にたい」は、それを発する者と親密な関係にある者、つまり、その具体的な生に配慮し関心を持つ者をとりわけ動揺させ、不安にさせる。つまり、「死にたい」と発する人の怪我や病気に気を配ることができ、そうする責任を感じている相手にこそ、「死にたい」と言うことは原理的に難しくなる。「死にたいなんて言うのは自分のケアに原因があったのか」と思わせ、過剰な追求や逆上を招くことも予想されるからだ*4

そもそも学術的にいわれる「親密圏」とは、具体的な生命/生への配慮・関心によって維持されている関係だとされてきた。その中で交わされる、生きていくことを前提にしたコミュニケーションを、「死にたい」という言葉は無効にしてしまう。中森が述べる架空の会話は、その典型的な例だ。

親からの将来の問いかけに対して、息子が、「生きているのが辛くて仕方がなくて、そのうち自殺するつもりだから、食べて行けなくなってもかまわない。むしろ死にたいのだから、その方が都合がいい。」と答えた場合、親はどんな反応をするだろうか。*5

こう言われると、親は動揺し、対応に苦慮する事が考えられる。「息子の将来」というのは息子が生きようとしていることが前提であるため、その前提が崩れると会話を続ける理由が何もなくなってしまう。そこで心療内科を勧めることも「息子が生きようとしている」ことが前提なのだから無駄に終わるだろう。悪くすると、「死にたい」は必要な努力を怠ける方便なのではないかと親が感じ、叱責に転じる場合も考えられる。このように、「死にたい」という言動は、親密な関係――この場合は親子――のコミュニケーションの基盤を破壊してしまう。このことを感覚的に理解しているために、自殺念慮者は親密な相手にこそ「死にたい」と吐露しない傾向があるのだろうと、中森は考える。

中森の考察を踏まえれば、まふゆが、クラスメイトや親に「消えたい」と発することなどなさそうなのは明白だろう。彼らは、まふゆが「生きようとしている」ことを前提にして(いるように見え)、まふゆの体調や心理状態や将来の福利に少なからず気を揉み、実際にその生を支えてもいる。だからこそ「消えたい」などとは言えない。突拍子もない冗談ととられるか、深刻な戸惑いを招くか、なんにしても良い結果をもたらしそうにはないからである。

 

ニーゴのメンバーにはどうして「消えたい」と言えたのか

ニーゴの3人(奏、絵名、瑞希)もまた、まふゆ=雪*6にとって幾分「親密な相手」ではあったように思われる。物語序盤では特に互いに気遣いあっているように見えるし、決まった時間にログインしてこなければ、どうしたのだろうと心配もする。まふゆがサークルに顔を出さなくなったとき、絵名は「1週間も連絡がないと、さすがに心配だよね」(39:45)と言い、セカイに一人いたまふゆを発見した瑞希は 「よかった、無事だったんだね」(51:17)と話しかける。4人は、曲作りを継続するうちに多少は互いの生活のことを知り、心配し合い頻繁に連絡し合う間柄になっていた。

そのような気遣いの発生は、まふゆが「消えたい」と発しづらくなるということでもあっただろう。実際、まふゆは瑞希に、母の言葉に抑圧を感じないかと聞かれても「私、そういうのあんまり気にならないから」と受け流した(32:45)。ここで彼女は、間違っても、消えたいなどと口にはしなかっただろう。

では、最終的にまふゆはどうして3人に対して「消えたい」と言えたのだろうか。ニーゴのメンバーとの関係は、クラスメイトや親とのそれと、何が異なっていたのだろうか。

 

前掲書で、中森は次のように考察していた。「死にたい」を言動しやすい相手(「死にたい」と言動しても、困りそうにない相手)とは、自身の生に特に関心を持ち配慮してくれてはいない相手で、「生きたい」を前提にしたコミュニケーションを強制してこない相手だと*7

ここから考えるに、まふゆにとってメンバーの3人は、少なくとも親やクラスメイトほどには、自身の生に関心を持ち配慮をし合っているとは思えていなかった。かつ、3人は「生きたい」を前提としたコミュニケーションを強制してこないだろうと、雪は直感していた。だから、「消えたい」と言ってしまってもよかった。

 

ニーゴの特性:目的本位のドライな関わり

ニーゴのメンバー達が互いの生にそこまで関心を持ち配慮をし合っているとは思えないというのは、先ほど確認した4人の様子と矛盾するようにも思える。しかし、そもそもニーゴはインターネット上のサークルである以上、クラスメイトや親などと築く物理的な近さがないのは確かなことだ。4人は互いに住んでいる場所も本名も知らず、対面したこともなかった(絵名については、同じSNSにいた瑞希は写真で見ていた)。だから、物をやり取りして生活を物理的に支えたり、一人では難しい場所に同行するなどの便宜を図れたわけではない。

また、4人のつながりはあくまで、曲を作るという目的があってのものである。だから普段の会話も事務的なものが多いと推測される。多少の雑談や予定の確認などはあるが、「雪ってあんまり自分のこと話さない」と絵名は言っていた(40:48)。瑞希がまふゆとその母の会話を聞いてしまったのは稀なことであり、彼女たちが学校のクラスメイトや親族よりも互いの生活を知っているとか、将来を気にかけているとは考えにくい。

また目的ありきの関係であるから、目的に資するならメンバーの入れ替わりも想定されている。まふゆが抜けた後、曲作りのためには他を探したほうが良いだろうと瑞希は提案していた(1:12:47)し、絵名はもうまふゆは戻ってこなくていいと発言していた(1:01:00, 1:44:22)。

こうした物理的な遠さや、生死をふくめた生活が見えないことや、メンバーの入れ替わりはインターネット上でありふれたものだ。インターネット上でメッセージをやり取りしたことのある人が、不穏な投稿をしたり、しばらくアカウントの動きを止めたりしても、そういうものだと受け流してしまう経験が誰にでもあるのではないか。

実際、セカイまでまふゆを助けに行くと決めた奏と、同行すると言った瑞希に対して、絵名は次のように告げていた。

『KもAmiaも、雪のこと構い過ぎじゃない?』*8

『しんどいのなんて、みんな一緒でしょ。
雪だけ特別なわけじゃない』

(1:50:50)

そもそも、インターネット上の匿名の人間関係は大抵の人にとってはオプションに過ぎない。それが仮に一部欠けても生活が壊れることはない。インターネット上のつながりは、それに留まらない共同生活にでも発展しないかぎり軽いものだ。グループを抜けてしまえばさようなら。更新がなくなって、アカウントが消えてしまえばいつの間にか忘れている。

ニーゴのメンバーとのつながりもそんなドライなものだとまふゆには思えていたし、実際に幾分かはそうだった。だからこそ、まふゆは「消えたい」と口にすることができたのだろう。

 

ニーゴの特性:「生きたい」を前提としていない人々

そしてもう一つの要因は、ニーゴのメンバーは、「生きたい」を前提としたコミュニケーションを強制してこないと雪が直感していたからだ。言い換えれば、メンバーたちは、どこかで互いを「生きたいことを前提に置いていない人たち」として認めていたということだ。

それを最も直截に表すのは、次のまふゆの台詞である。

変? 私が変なら、あなた達だってそうでしょ

だって本当は、
Kも、えななんも、Amiaも――
誰よりも消えたがってるくせに

(56:51-)

この台詞を、奏、絵名、瑞希の3人は否定しきることができない。3人はどこかで「消えたい」という感覚を持っていた。例えば、瑞希の表現では次のようになる。

……でもさ、なんとなく、
ボク達って似てるような気がしたんだ

周りに少しずつ自分の形を変えられそうになってるところとかさ。
それに抵抗したり、受け入れたりして――

そうやって必死になってるうちに疲れて、
全部どうでもよくなっちゃう。
……そんな感じが、似てるなって
(2:10:30~)

こうした厭世的な感覚が語られるのは「プロセカ」という作品の中でも珍しいことだ。他のユニットのストーリーでは、生きていく中で嫌なことがあると感じる人物は数多いが、そもそも生きなくてもいいのではないか、という気分は描かれていなかったからである。「全部がどうでもよくなる」という中の「全部」には当然、自分が生きていくということも含まれている。

まふゆは、「消えたい」という感覚がニーゴの他の3人にもあることを直感していた。3人と活動していれば「救われる」かもしれないと彼女が一度は思ったのは、この直感があったからだろう。

 

奏、絵名、瑞希の3人が「生きたいことを前提に置いていない人たち」であることは、次のことからもわかる。3人は「まふゆの『消えたい』を消すにはどうすればよいのか」という問いを一度も立てていなかった。

そもそも「死にたい」をいかに消すか、どうすれば死にたくなくなるのかという問い方には、「人は生きているべきだ」とか「人は消えたいなどと思うべきでない」という暗黙の前提があると、中森は前述書で指摘していた*9。「死にたい」とインターネットでつぶやく人はその前提を持っていないので、問うた時点ですでにすれ違ってしまうのだと。

「人は消えたいなどと思うべきでない」という前提を持っていないニーゴの3人は、まふゆが「消えたい」原因を具体的に知ろうとしているようには見えないし、実際その原因にたどり着くことはない。そもそも「消えたい」を消せるという発想や、「生きよう」を無条件に既定にできるという発想がないので、知ろうとする動機がないわけだ。

例えば奏は、まふゆが「消えたい」事情は何も知らないし察する気もあまりないが、とりあえず自分がずっと曲を作り続ければどうにかなるはずだと信じ込んでいる(2:12:55~)。ある種の音楽は、相手と問答せずに、つまり「人は生きているべきだ」という前提に納得するプロセスを経なくとも、幸福を与えるはずだと確信している。

絵名は、まふゆが消えたかろうがそうでなかろうが、才能ある人が生きて才能を発揮することは義務だと主張した(2:08:55~)。人は生きるべきだから生きるべきだというトートロジーではなく、才能があるものはその才を発揮するべきだから、消えるのは許されぬということだ。逆に言うと、仮に発揮するべきものが何もなければ生きる理由も怪しくなるのであり、これはひとつの能力主義である。

瑞希は、消えたい人はそうすればいい、と認めたうえで、本当に消えてしまうと自分は同類とみなせる人が減って寂しい、と伝えた(2:10:14~)。これは単なる瑞希の感想であって、まふゆが、瑞希の寂しさを考慮に入れて仕方無しに生きる必要などないと思うなら、瑞希にはそれ以上返す言葉はないだろう。その感想に踏みとどまることが、瑞希も「生きたい」を前提としていないことの表明だった。

 

ある自殺した人が生前言っていた。自らの行動の選択肢の中に、常に「ここで自殺」があるのだと。つまり、「死にたい」「生きている甲斐はない」ことがデフォルトであって、むしろ積極的に生きたいことが例外的な事態である。そういう人に、なぜ死にたいと思うのか、どうすれば積極的に生きたいと思えるのか、と尋ねることがどれほど通じ合えない印象を与えることか。

3人は、そんな不毛な問いかけはしないはずだとまふゆはわかっていた。だから「消えたい」と言えた。4人のコミュニケーションは「消えたい」「生きている甲斐はない」ことがデフォルトだという前提を共有したうえで継続したのである。

 

「消えたい」背景の物語は共有できない

ニーゴのメンバーは、まふゆにとって「消えたい」と吐露してもそこまで問題ないような、特殊な他人たちだった。しかし、彼女は3人がセカイに再び入ってくると激しく拒絶し、放っておいてと叫ぶ。まふゆにとって、3人とのつながりは何が十分ではなかったのだろうか。

重要なのは、3人が「消えたい」ことにある程度の理解があったとしても、その「消えたい」背景にある物語はそれぞれ別個のものだという点だ。まふゆは「消えたい」人々との関係を求めながら、その「消えたい」背景にある物語が見えてしまうと、自分には無関係としか思えなくなる、そんな繰り返しの中にいた。

これは、まふゆが「OWN」として作曲を始めても満たされなかったことに似ている。彼女が当初「救われた」と感じた奏の曲は、聴者の「生に配慮するわけではない」し、「生きたいという前提がない」ところが確かにあったのだろう。しかし「それじゃ足りなかった」と彼女は言う(55:23)。おそらく、奏の曲はあくまで奏の曲であり、まふゆ自身に完璧にフィットするものではなかったからだ。ならば自分で作るしかないと思い、まふゆは一人で活動に入った。それでも、結果は以下のとおりだったのではないか。

もう疲れたの!!
探しても、探しても、探しても探しても探しても!!!

見つからなくって……っ
また探して、違うって、絶望して………………

(2:12:22)

OWNとしての作曲は、まふゆが自分自身を表現したと確信できるものにはならなかった。彼女は創作の中で自分自身を見出すことはできなかった。結局のところ、創作者自身をそれ自体で表すような創作物は作れない*10。その一つの要因として、どんな作品も、その理解を作者が完全にコントロールすることはできないからだ。

作品を解釈する場合と同様に、奏、絵名、瑞希はそれぞれ、自分が「消えたい」と感じるまでの物語に沿った形で、まふゆの「消えたい」を理解するほかはない。まふゆはまさにその多様な解釈こそが気に食わなかった。

「消えたい」という感じの共有は、その背景の物語が具体的になったとき、「違う」と痛感する絶望に変わる。「消えたい」と思ったことのある人たちだからといって、易易と互いに手をとり合えると思うのは間違いだ。むしろ各々が自らの物語に依拠して語れば語るほど、腹を割って身を入れて話をするほどに、互いがバラバラであることがわかっていく。それが、セカイの中でまふゆが3人を10分以上もの間拒絶し続けた際に起きていたことだった。

 

諸々の解釈は拒絶される

奏は、まふゆに対して「消えたい」という気持ちがわかる、と言った。そして、自身の中学時代、父親が倒れてしまったことへの自責の念を持ち、「消えたい」と感じつつも作曲を続けなければならないと使命感に駆られてきた経験を語った。この経験から、奏にとってまふゆの「消えたい」は、「(音楽による)救いを求めている」ことなのだと自動的に受け取られてしまう。そのような「呪い」に憑かれている奏の伸ばした手は、まふゆにとってこの上なく鬱陶しく感じられる。まふゆは奏の語った物語を次のとおり撥ねつける。

でも私は、Kの呪いなんてどうでもいい。
そんなものに、私を巻きこまないで
(2:05:12)

実際、奏と類似の経験をしてきた人物はどの世であってもそこまで多いとは思えない。少なくとも、まふゆの置かれてきた状況とはかなり違う。だから奏の人生のディテールを聞くほどに、自分とは無関係の人間が何か言っているという思いが強くなる。「消えたい」背景を赤裸々に語ることが、実際は「消えたい」を個々人が自分の都合が良いように受け取りあっていることを明るみに出す。

 

まふゆに対する絵名は自らの物語を語った訳ではないが、彼女もまた自分の経験や価値観から「消えたい」を解釈するため、早々にまふゆと話が噛み合わなくなる。

絵名は自分の作品を多くの人に認めてもらいたいし、作品への期待をされたいと思う。しかし、自らにはそれだけの才能がないと感じ、才能を補うような努力もできていない。そんな彼女にとって「消えたい」とは、才能がなければ努力することもできない、「何もない」者の嘆きである。だから、何もない人間が消えたいと口にするならわかる。しかし、絵名にとってまふゆは、「私が欲しくてたまらないものを、あんたは持ってる」と嫉妬をあらわにするような、天才的な資質をもつ創作者である。そんなまふゆが「消えたい」と発することは、絵名にとって理解を超えた出来事だった。

なんなのあんた?

なんであんたは、私の欲しいもの持ってるくせに、
消えたいとか、平気で言えるわけ?

(2:07:40)

しかし、まふゆはそもそも自らの作品や才能を認めてもらえなくて「消えたい」のではない。実際彼女は「OWN」としてインターネット上での支持を得ていたし、学校では文武両道の優等生であり、大人達から素晴らしい将来を期待されていた。それでも何かが欠けていると感じるところに、まふゆの「消えたい」はあった。だから彼女は次のように語る。

……私の曲がすごいかどうかなんて、そんなの、どうだっていい

私がほしいのは、すごい曲じゃない。誰かの称賛でもない。
私はただ――見つけたかっただけ
(2:09:13)

 

瑞希は前述の2人とは異なり、自分の「消えたい」と思った物語を具体的に語ることも、まふゆの「消えたい」を自分の価値観から理解することもなかった。さらには、まふゆと母親との会話を聞いてその生活の苦しみに想像を広げつつも(1:45:10)、まふゆ本人の前では、あれこれ探りを入れることはなかった。次の台詞で見るように、瑞希は個人の具体的な悩みに踏み込むことを避けようとしている。

ボク達がいろいろ言ったところで、
雪の問題は雪にしかわかんないんだからさ
(2:10:20)

だから瑞希は、先に引用したような漠然とした類似を言い(2:10:30~)、「全部どうでもよくなっちゃう」ことに共感を示すだけだ。しかし、自らの経験を明かさない瑞希が感じる「消えたい」が、まふゆの「消えたい」にどの程度通じるところがあるのかは、まふゆにとって依然として疑問だろう。なにより、瑞希はいま消えようとはしていないのだから。

 

3人は、それぞれ「消えたい」と思う経験があるために、その物語の都合に合わせた仕方でまふゆの「消えたい」理由を解釈したり、浅く共感を示そうとする。まふゆはその態度に、次のように嫌悪を表明する。

勝手なことばっかり……

勝手に嫉妬して、
勝手に共感して、
勝手に救おうとして……

やめてよ……もう、十分でしょ
(2:11:15)

「消えたい」は慰めや助けを求める声ではない。自身の無能力の嘆きでもない。共感の合図でもない。他人が「消えたい」を解釈し利用することを、まふゆは悉く拒絶する。この、「やめてよ……」は、3人だけではなく読者である私たちにも向けられたものだ。

「死にたい」人が登場する作品の感想を書く者の中には、すぐ滔々と、自身が死にたかったときの話や、死にたい人に相対したときの話を始める輩がいる。それでキャラクターをなにか深く理解した気分になったり、自分の人生や思想が正しかったことを確認した気分になったりすることがある。それをやめろと言われている。自分の物語にかこつけて、私の「消えたい」を解釈するなと。

 

「誰もいないセカイ」で比喩は使えない

この否定の力、別の人間の物語を安易に重ね合わせることへの潔癖な拒絶は、まふゆの想いが「誰もいないセカイ」として現れたのを根拠とすることもできる。

第12話「ただひとつの歌」より

私たちは、直接には迫ることが難しい事柄を前にしたとき比喩の力に頼る。例えば、ユニット「Vivid BAD Squad」のメインストーリーで登場する「ストリートのセカイ」では、「酒に見えるウーロン茶」を喩えに、高校生たちに「見かけの様子がすべてとは限らない」という話が提供される。その話が、メンバーの一人の「本当の想い」を探すヒントとなった。ただ、まふゆの想いから生まれた「誰もいないセカイ」には、このような比喩のための材料がない。したがって、物のもつイメージを経由して、まふゆの「本当の想い」に迫ることは一切できない。

あるいは、もし「プロセカ」の他のユニットの「セカイ」のように、まふゆの記憶や理想を「誰もいないセカイ」で見ることができたのなら、メンバーたちは(瑞希がまふゆの家族との会話を聞いたときのように)、「消えたい」についてもっといろいろ考えを巡らせたかもしれない。しかし「誰もいないセカイ」には誰の記憶も理想も現れないため、それも不可能である。唯一の例外として、「セカイ」には奏が過去に作った曲が存在したが、その曲の内実は明らかにされないため、まふゆの「本当の想い」に迫る材料とすることは難しい。その曲の存在は、奏に対し、曲を作ることが事態を解決するという信念を与えただけだ。

セカイに唯一いた人物であるミクは、まふゆを救ってほしいと思いつつも、彼女のプロフィールや記憶を奏たちに何も教えてはくれない。曲の存在と同様に、奏に対し、曲を作ることが事態を解決すると励ましを与えただけだ。

「誰もいないセカイ」の光景は、人の「想い」が多重の意味を折り込まれた豊かなものだとされることに抗議するかのようだ。そうして物語の最後には、まふゆの本当の想いから生まれたとされる曲「悔やむと書いてミライ」で、「死にたい消えたい以上ない」と身も蓋もなく歌われる。

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まふゆの視点から描かれる日常シーン(メインストーリー第4話=0:26:54、第10話=1:37:19等)を読んでしまった読者には、この「死にたい消えたい以上ない」を、そのまま字義通りに捉えることは難しいかもしれない。まふゆのクラスメイトとの関わりや、親との思い出などから、彼女の置かれている状況の何が問題であったのか、どのような現在であるべきだったかをあれこれ考えてしまうだろう。

そもそも、人物たちの経験をザッピングしながら紹介するという物語の作り自体が、「消えたい」理由に関する無数のおしゃべりを誘う性質を持っている(この記事も部分的にはそのおしゃべりに属する)。しかし、その手のおしゃべりはすべて下衆の勘繰りとして、予めまふゆ自身に否定されていた。彼女の想いのセカイには何もなく、誰もおらず、何の記憶もなかった。それを忘れるべきではない。

 

「消えたい」を正しく解釈しなくても、行動はできる

私は「消えたい」に関する様々な解釈が、それを発する人に大抵の場合届かないことは認める。しかし、だからといって消えたいと発する人は放置しておいて問題ないとか、そういう人に対しては何もできないのだと説くつもりはない。

この物語は、「消えたい」の正しい意味が理解されなくても、誰がどのような人生観をもっていようとも、目の前の相手が消えるのを阻止しようとすることは可能であると告げる。確認したように、ニーゴのメンバーはまふゆの「消えたい」を勝手に解釈するばかりで、まふゆ自身に「消えたい」背景を説明させることはなかった。しかし、だからといって3人はセカイに彼女を放置したわけではなく、「消えたい」の正しい意味を理解しないままに対面し、まふゆが実際に消えるのを妨げた、あるいは妨げることを宣言した。特に奏の、自らが作る音楽がいつか事態を解決するという非合理的な確信に気圧されて、まふゆは消えるのを延期することになった。

まふゆが消えるのを諦めたのは、明らかに、彼女自身やその周囲が「消えたい」の意味を正しく理解しその通りに行動したからではない。たしかに物語の最後では、「消えたい」ではなく、「(私を)見つけてほしかった」というのがまふゆの「本当の想い」だと判明したのだが、それだけではほとんど内実がないからだ。まふゆを見つけるような他人が必要だという程度のことはわかるが、これまでだって彼女の周りに他人はたくさんいた。なぜその人たちでは駄目だったのか、どのような他人がどのように関わった場合に、「見つけられる」=「救われる」のかは、誰も知らない(が、おそらくは音楽というメディアがその条件に関わっている)。それでも、ニーゴのメンバーたちは彼女が消えるのを阻止することができていた。

 

メインストーリー後の展開

メインストーリーでは、まふゆの「消えたい」背景の正しい理解などというものは放棄され、威圧と実力行使によって、彼女が消えずにいるという結果だけが出てきた。しかし、メインストーリーの続編である多数のイベントストーリーに入ると風向きが大きく変わる。まふゆは自身の家庭や過去の思い出について少しずつ話し始め、「誰もいないセカイ」にも、ミク以外のバーチャルシンガーや様々なモノが現れ始める。すると、「マリオネットの糸」や「リンゴ」などのイメージを通して、まふゆの「想い」に迫ることが可能になる。そして、まふゆの「見つけてほしかった」とはどういうことだったのか、具体的にどのような場合に「救われる」のか、「消えたい」と思わせる背景に何があるのかを、4人共同で探求していくことになる。

この探求の過程を覗き見る読者たちは相変わらず、まふゆが「消えたい」と発する背景を具体的に探り、ときに自分の物語をそこに重ね、物のイメージをパズルのように組み合わせ、理解しようとするだろう。私も例に漏れず、物語の感想を書きたがる一人としてそうしてしまうだろう。特に、最近のイベントストーリーは、「家族」という最後の親密圏に切り込む衝撃的な展開が続いた。そういった物語を具体的に検討せずに済ませることは、物語制作者への礼を欠くことにもなるだろう。

しかし、そうやって物語を解釈しようとするとき、あるキャラクターにとっての救いの形を真剣に考えてあげているとき、私の脳裏には彼女の言葉が響く。

――やめてよ…… もう、十分でしょ――と。

 

 

 

*1:なお以下では、「消えたい」は「死にたい」と相当程度互換性のある表現だと考えておく。この言葉が選ばれたのは、考察を要すると指摘していた方もいる(プロセカ『25時、ナイトコードで。』ストーリー感想メモ|kqck)が、今回は深入りせずにおく。

*2:この略称は何だかアイドルファンが使う愛称のようで少しこそばゆいが、ストーリーの中でも自称しているので使わせてもらう。

*3:以下、動画1からの引用には時点を示す。

*4:中森弘樹『「死にたい」とつぶやくーー座間9人殺害事件と親密圏の社会学慶應義塾大学出版会、2022年、89-93頁。

*5:前掲書、82頁。

*6:まふゆは、ニーゴの中では「雪」というハンドルネームを使っている。

*7:前掲書、98頁。

*8:Kは奏、Amiaは瑞希が使っているハンドルネーム。

*9:前掲書、261頁。

*10:この点は、フリーのノベルゲーム『かたわ少女』の琳ルートが深く切り込んでいた。私もそれを「自己表現的創作者の隘路」として紹介したことがあった。『息あるかぎり私は書く』第6章。