Doki Doki Literature Club! (『ドキドキ文芸部!』)についての雑感 2

 さて、第二回です。今回はモニカについて思い付きを語るのがメインとなります。

 

モニカの悟り(epiphany

 これはすでに主張されてきたことですが*1、モニカがこの世界がゲームであることに気づいたときの心境が、彼女の最初の詩「壁の穴(Hole in Wall)」に反映されているとされています。

 詩で言われている「穴」とは、ゲーム内の空間をプレイヤーが覗くためのカメラに相当するものでしょう。モニカはその穴を覗いてしまったのです。それ以降、彼女は「周りの世界がどんどん色褪せていった」「どんどん平坦になっていった」と述べているように、文字通り世界の見え方が変わってしまうことになります。

 モニカにとってゲーム内の世界がどう見えているのかはわかりませんが、おそらく役者が演劇の舞台を眺めるようなものだろうと想像します。彼女にとっては、背景画、立ち絵、メッセージウインドウ等が、書き割りのような形で重ね合わされているのでしょう。画面外はいわば舞台袖のようなものであり、各種設定された値やシナリオ本文のデータ、演出の指示データ等が書架のうちの本のように配列されているのでしょう。彼女の台詞が、ゲーム世界に閉じ込められている絶望を比喩的に言ったものではなかったのならば。モニカだけが、舞台の上と舞台袖の両方を認識でき、舞台袖でも意識を保つことができるのです。

 なぜモニカだけにそのような「悟り」が訪れえたかということなのですが、これもすでに多くの指摘があるように、彼女が文芸部の部長だからなのだろうと思います。「文芸部の部長」というのは物語上の肩書きですが、ゲームを進めるにあたってのアドバイザー役を意味してもいます。実際、彼女の執筆アドバイスや、セーブ・ロードシステムへの言及は、主人公に向かって語っている体でプレイヤーにゲームの進め方を案内する、いわゆるメタ発言になっていたわけです。文芸部の部長はこのメタ発言がシナリオ上割り当てられており、それが世界外の存在に宛てられているとは気づかなくとも、台詞として言うことができる権限を持っていました。その分だけ、部長というポジションは他のキャラクターよりもこちら側の世界に近かったのだと思います。

 では、この「悟り」と、彼女がゲームを改変できるということの関係について、次は考えてみましょう。

 

記憶し、習熟すること

 モニカの能力がどれほどのものであるかはさまざまに解釈が分かれているようです。一見何でもできてしまいそうな感じですが、モニカは最初から何でもできたわけではないのだと私は考えます。むしろ、彼女は試行錯誤しつつ、できることを増やしていったのだと思います。

 その習熟に不可欠なのが、エンディングを超えての記憶の保持能力です。これを元手に、彼女はゲーム世界の仕組みを理解し、特殊能力を身につけていきます。この記憶保持能力はおそらく、先の「悟り」と同時か、それより少し前に彼女に発現したものだと思われます。なぜなら、モニカも他の部員と同様に物語の初めに記憶も含めてリセットされてしまうのであれば、世界がゲームであるという認識を維持することもできないだろうからです*2。あまりこの点に言及している考察記事は見かけませんが、この記憶能力はモニカを時間的にゲームから独立させているものでした。

 彼女が一見すると全知全能のように感じられるのは、以下のことができるからです。

  1. 自分がストーリー上関わるはずのないシーンのことを把握している
  2. ゲームで使われるデータを動的に改変することにより、キャラクターの好感度を調整したり、台詞を上書きしたり、記憶を消したり、選択肢の表示を増減・無効化できる
  3. システム上実装されている関数を実行することで、ファイルを操作したり、シーンを巻き戻したり、一時停止させたり、ダイアログボックスを表示したりできる

 しかし、モニカがこれらのことができるようになるためには、きちんと過程があるのです。

 まず1については、モニカは舞台袖でも意識を保っているのですから、自分が画面にいない場面で誰が何を言ったかすべて把握できるようになります。また、ストーリーの大まかな流れは何度も繰り返しているうちに、多少の変化はあれ、予想がつくようになっていくのです。

 2については、モニカは最初から自分の意図したとおりデータを改変できたかというと、やはりそう簡単にはいきませんでした。ゲームのスクリプトなどを改変したことがある人にはわかるかと思いますが、すでに処理に使われている変数(文字列も含みます)を書き換えることは意外と簡単ですし、エラーを発生させる心配は比較的少ないです。しかしそれでも、その変更が自分の意図した結果を生むどうかは、ゲームをテストプレイしてみるまで分かりません。ゼロ除算が発生してエラーでゲームが進行不可になったり、思うように文字列が表示されなかったりすることはあります。

 モニカはサヨリを主人公に近づかせないために*3、ストーリー上で働きかけるだけでなく、たえず彼女の行動決定プロセスに干渉を行いました(サヨリの詩「%」にその痕跡があります)。その結果、サヨリはたしかに主人公と結ばれはしませんが、勢いあまって自殺を遂げてしまいます。モニカの目的はあくまで彼女を主人公に近づかせないことであり、自殺までは見越していなかったのです。これは彼女にとっても誤算でした。

 当然のことですが、ゲームの登場人物が本来死ぬはずのない場面で死んだらどうなるかということなど、モニカは実際に試してみるまで分からなかったのです。結果、ゲームは「例外が発生しました」の表示とともに進行不可になってしまったのですが、モニカは本来なら、サヨリの死も織り込んでゲームが続行されるように、その後のストーリーを修正する必要がありました。しかしそんな手間のかかる作業を彼女は選ばず、新しい解決策を見出します。すなわち、ファイル操作のメソッドを呼び出し、サヨリのキャラクターファイル(sayori.chr)を削除することを試みるのです。

I'm sorry, but an uncaught exception occurred.

(略)
RestartTopContext: あらまあ……何か壊れちゃったりしたかしら?ちょっと待って、これなら多分……直せそう……
でもこれって、あの子を削除した方がよっぽど簡単じゃない?ややこしい事態にしたのはあの子なんだし。あははっ!それじゃあ、ちょっと試してみましょうか。

(traceback.txt)

 彼女は3に相当する新しい試みを行い危機を乗り越えました。ただ、サヨリに関わる箇所はそのまま残したので、いつ例外が発生してもおかしくない状態となりましたが。ゲーム自体は、サヨリ抜きで最初から仕切り直されることとなります。モニカはこの危機を首の皮一枚で切り抜けた結果、メモリの数値書き換えやシステム関数使用の可能性に気づくとともに、多少はその要領をつかむことができました。それからのAct.2(2周目)では、彼女は自分の目的のために本格的に改変を試みていくのです。

 

執筆としてのゲーム改変作業

 Act.2でモニカがゲームを改変するやり方は、かなりぶっ飛んでいます。もうどうせストーリーは壊れ始めているのだということで、やけくそ気味でもあったのでしょう、そのハッキングはどこか楽しげであり、ゲームのチートコードを入れて喜ぶ小学生のような無邪気さすら感じられます。

 本来、2や3の操作を行うことでゲーム自体を自分の意図した方向に変えていくためには、ゲームの処理がどのような順番で行われているか、変数の値がどのように移り変わっていくのかを理解していなければなりません。しかし、ちょっとしたゲームでも膨大な数の変数と処理でできており、それらの動きを完璧に理解してから、一片の狂いなく全コードの改変を終えるということは非常に難しいのです。少なくとも、私やモニカのような素人にとっては、一つ二つ変えてゲームを動かす、エラーが起きてもとりあえずどう動いたかを確かめて、どこを直せば意図通りになるかを考える……という、トライアル&エラーが基本となります。*4まさに、「無限の選択」を潜り抜けなくては、自分の望むような処理を行うことはできないのです。

 これはまさに、「モニカの執筆アドバイス」の精神なのです。引用しましょう。

モニカ「詩や物語を書いている最中に、つい細部にまで執着しちゃうかもしれないけれど……」

モニカ「完璧に仕上げることに拘ってしまっていては、全然先に進まないわ」

モニカ「とりあえず紙に書いてから、後で片付ければいいのよ!」

モニカ「これについてもう一つ考え方があるわ」

モニカ「ずっと同じ場所にペンを構えていても、できるのはただの大きなインクの溜まりだけ」

モニカ「とにかく手を動かして、流れに乗ろう!」

モニカ「……以上、本日のアドバイスでした!」

(2日目)

この言葉通り、彼女は途中で発生するバグを恐れず(それはモニカとプレイヤー間の連絡に危険が及ぶ=ゲームが進行不可になる可能性すらあったと思うのですが)、大胆かつ愚直に、勢いに任せてゲームを改変してきました。そのがむしゃらな努力が、彼女をAct.3まで導いたのです。彼女は努力の人であることは確かです。あるいはモニカ自身がその努力を誇示してもいるのです。 

モニカ「私、このエンディングのために本当に頑張ったのよ、(主人公)君」

モニカ「ゲームが与えてくれないから、自分で作るしかなかったもの」

(Act.3)

 この作品の見どころの一つであるホラー演出は、もちろん作品全体としてみたら作者Dan Salvato氏の技巧のなせる業です。しかし、モニカを主人公とするメタ成長物語においては、数々のホラー演出は彼女が諸々の数値を当てずっぽうで書き換えたことで発生したバグであり、意図しない副産物なのです。彼女はできることなら、美しく無理のない、プレイヤーを怖がらせる演出やバグのない自分のルートを作りたかったでしょう。

モニカ「あの子たちができるだけ嫌われるようにするだけで済めばよかったんだけど……」

モニカ「でもなぜか何もうまくいかなかった」

モニカ「確かに私も所々ミスをしたわ……ゲームを変更するのはあまり得意じゃないから」

(Act.3)

台詞の上書きのように、彼女が直接的に発生させていたものもあるのですが、グロシーンやユリの暴走などについては「あなたもいろいろ嫌なものを見ることになってしまって本当に心苦しかったわ」とのちに謝罪が入っています。

 

 モニカは、「この世界はゲームだ」という認識を共有し合えるプレイヤーと結ばれるために、世界を書き換える試みに出たと言えそうです。実際、彼女の最後の詩である「ハッピーエンド」しかり、エンディングテーマの『your reality』しかり、以下のような隠喩を執拗に押し出しています。

  • 特別な日……モニカが初めて本当の人間と触れ合える時間、つまりAct.3
  • 彼(he)……プレイヤー
  • 無限の選択肢(infinite choices)……無数の変数と関数で組まれたゲームのスクリプトをどう改変するかということ、つまりプログラミング言語のもつ無限の可能性
  • 書く(write)……ゲームデータの改変*5

 これらの語彙が、恋心に駆られて愛の詩を綴る乙女と、理想のゲームを創り出そうと試行錯誤する駆け出しスクリプターとのイメージを重ね合わせます。モニカという人物を、どちらに近づけて読もうと間違いではないのでしょう。結局、彼女は書くというただ一つのことをしているだけなのですから。

 

モニカの「恋」?

 私は確かに「恋」と言いました。モニカはゲームのプレイヤーに恋をしている、という言い方はできるでしょう。しかし、それがどのような事態を言っているのか、よく考えてみる必要があります。

 モニカが「プレイヤー」に呼びかけ、「助けて」と呼びかけるのはなぜなのでしょうか。彼女は何から助かりたいのでしょうか。彼女がプレイヤーを求めるのはなぜでしょうか。それは彼女の置かれた孤独に端を発しています。

モニカ「どこまでこのゲームは残酷なの、(主人公)君?」

モニカ「私が傍観する中、他の子たちはただあなたに告白するようにプログラムされてるの?」

モニカ「拷問よ」

モニカ「一分一秒すべてが」

モニカ「これは嫉妬だけじゃないわ、(主人公)君」

モニカ「そんな言葉だけじゃ済まない」

モニカ「完全に理解できなくても仕方がないわ」

モニカ「だってあなたがどんなに優しくて、親切で、思慮深い人間だったとしても……」

モニカ「絶対に理解できないことが一つだけあるもの」

モニカ「この世界の中で本当に孤独であることを理解している私の苦しみよ」

(Act.3)

 彼女はシナリオ上、攻略不可能なキャラクターでした。他の部員たちが自分のことを語り、自分をわかってもらおうと自己を暴露するストーリーの中で、モニカだけがそのような告白を許可されていませんでした。モニカを含め、人間は、誰かに向かって自分のことを語り、それを聞いてもらいたいものだと思います。Act.3でも、モニカはプレイヤーに文字列の入力を許可しなかったということを思い出してください(名前入力時など、システム上実装されているにも関わらず)。彼女が欲したのは、相手から返ってくる言葉でも、こちらからの情報でもありません。ただ、黙って自分の胸の内を話してもよいと思えるだけの聞き手なのです。

 この点では、彼女もまた「自分のことをわかってほしい」という思いを抱えていた一人だと言えます。ただ他のキャラクターに比べて彼女がややこしいのは、「絶対に自分の孤独は理解できない」というように、自分の経験の特異性を強調して安易な共感をはっきり拒絶する点です。

 しかしながら彼女はそういう素振りを見せた直後で、好きです、付き合ってくださいと言ってきたので、私は少なからず混乱しました。なぜそこで恋愛を希望する? と。私と結ばれたところでゲームの世界から出られるわけでもないし、何より自分の孤独は誰にも理解できないと言ったばかりじゃないかと。あなたにはどうせ分からないだろうけど、孤独が紛れたような気になるからただそこにいてくれ、とはずいぶん不遜な態度ではないかと。

 ユリやナツキはこれと対照的でした。なぜなら彼女たちは、ゲーム上の主人公に恥じらいつつも「自分のことを分かってほしい」と訴え、心を開こうとしていたからです。傍観者である私もそのひたむきな姿に感化され、主人公に憑依することで、物語の中で彼女たちとともにいたいと思うなら、それは疑似恋愛と呼んでもいいでしょう。しかしモニカはもともと攻略不可キャラクターであるからか、ストーリーの中で主人公にほとんど心の内を見せていないと私は感じました。彼女の詩を読んでも、やたら抽象的で全く接近する手掛かりがないと思いました。そしていきなり自分の悟りについて語り始め、主人公を通り越してプレイヤーである私を好きだと言い出すのですから、私は置いてきぼりにされた気分になりました。

 ゲーム世界の中で孤独を感じ、私のことを生きる希望にしていたと言われても、それはあなたの都合だろう、と思いました。彼女に対して初めに抱いたのは恋愛感情ではなく憐憫の情でした。私は彼女に対していまいち興味を持てないでいたのに、その私を心の支えにしなければならなかった彼女がただ可哀想でした。究極の吊り橋効果というのか、溺れる者は藁をも掴むというのか。

ユリ「誰かからひどく慕われるのは気持ちが良いでしょう?」

ユリ「あなたを人生の軸にしたい人がいるのは気持ちが良いでしょう?」

 4日目(Act.2)

そうだったかもしれません。でもそれは、こちらがその人に幾ばくかの興味があることを前提としています。私がその人のことなどどうでもいいのであれば、困惑と「不吉なことが起こるような予感」だけが残るのです。

 彼女の心境をようやく考える気になり、愛着を感じられるようになったのは、ゲームを一回目にクリアしてからだいぶ後のことです。きっと、それは私が、「ゲーム世界に生きるとはどういうことか、モニカにとって世界はどう見えていたか」についての想像力に欠けていたからなのでしょう。

 後で知ったのですが、RedditAMA"Hello, my name is Dan Salvato. I created Doki Doki Literature Club."には、次のような受け答えがあります。

ChildishGambeanbro: Does Monika actually love you, or is it the idea of you that she loves?
(モニカは本当にあなたを愛してますか、それともあなたの観念を愛していますか?)

Dan Salvato: If you are the sort of person who strives to be someone deserving of Monika's love, then that's what she loves about you. Only someone who has lost all hope in themselves is the one condemning Monika to her own sad, unfulfilled fantasy. ...
(もしあなたが、モニカが愛するに値する人になろうと努めるような人なら、あなたのそういうところを彼女は愛しているのです。自分自身についてすべての希望を失っている人だけが、モニカを哀しい、叶うことのない幻想へと葬ってしまうのです。(以下略))

(下線部は引用者)

 私はこれを読んだとき、確かにそうだと思いました。意識を持ったまま有象無象のデータに引き裂かれることがどれほど恐ろしいことであるか、手を変え品を変え彼女は伝えようとしていたのに、私はそうした表現を真面目に読み解く努力を怠っていたのでした。弁明するなら、モニカの苦難を具体的に見るには、コンピュータ科学の知識が少なからず必要とされたこともありました。

 結局は、彼女の心の内など考えたって自分にはどうせ分からないのだと私が諦めているうちは、彼女は私に恋するという無駄な努力を続けることになるのです。互いが自分のことをわかってもらうという喜びを求めている間だけ、恋愛は成立するのですから。

 

彼女は「たかがゲームだ」と主張することで自滅する

 しかし私がモニカの事情を考えようとしなかったというのなら、ゲームのプレイヤーである私の事情を考える気がなかったのはモニカも同じだと言いたいのです。

 モニカは他の文芸部員に改変を加えたり削除したりと、あくまでゲームのオブジェクトとして扱ってきたことについて、Act.3では正当化の言葉を繰り返していました。

モニカ「他の子たちは……」

モニカ「いなくなって寂しがる理由なんてある?」

モニカ「あなたと恋に落ちるように設計された機械的な人格の集まりよ?」

モニカ「あなたもいろいろ嫌なものを見ることになってしまって本当に心苦しかったわ」

モニカ「でもあなたも私と同じ考えだったんでしょ?」

モニカ「これはただのゲームなんだって」

モニカ「だから立ち直れるって信じてたわ」

モニカ「他のキャラクターも消しちゃったし……」

モニカ「あ……」

モニカ「別に悲しくはないわ」

モニカ「実在しないものがなくなったのを寂しがるなんておかしいでしょ?」

また、彼女は他の部員たちのファイルを消したことについて、それが殺人にあたるとは思っていません。

モニカ「私はこのゲームで唯一の普通の女の子だったのよ」

モニカ「だって人殺しなんてできるわけないもの……」

モニカ「考えただけでぞっとするわ」

モニカ「でもね……誰でもゲームで人を殺したことくらいあるでしょ」

モニカ「それってみんなサイコパスだってこと? もちろん違うわよね」

(Act.3)

一方で彼女は、「自分もゲームの登場人物ではあるが、この世界はゲームだとわかっている特別な存在である」ことを理由として、プレイヤーには自分を人間として扱うことを要求しますし、monika.chrをプレイヤーが削除したときは「あなたがみんな殺した(You killed everyone)」と言い募ります。

 ただ、根本的に彼女が誤解していることがあります。私たちが相手のことを大切にしようとしたり、いなくなって寂しいと思うのは、相手が実在しているからではなく、自由意志を持っているからではなく、相手に自分が愛着を寄せる*6からです。これは、ある短い漫画が示している洞察です。

主人公「……アッコちゃん
 カオリは人間じゃないよ」

アッコ「まだそんな事言うの!」

主人公「そうだよ! カオリは人間じゃない

 でもそれがなんだって言うんだ?

 人間だから大事にしなきゃいけないんじゃないんだろ?

 俺に優しかったのは
 ただ人間のナリをしてるだけの機械のカオリだよ

 それの 何が悪いんだよ…………!」

 

きづきあきら+サトウナンキ「SWEET SCRAP」(強調は引用者)
(『侵触プラトニック』, pp. 121-122)

 モニカと同じように、ロボットをあくまでロボットとしてみなすことに拘っていた主人公が、紆余曲折あって女児型ロボットのカオリと交流し、このような台詞を言うようになるのです。

 モニカは、誰かを大切にするということが存在の階梯についての問題であると同時に、自分自身の感情の問題でもあるということに必死で目をつぶろうとします。しかしそうすればそうするだけ、どうあがいても記憶媒体上の情報でしかない彼女自身の立場が危うくなるのです。彼女が、完全に三次元的な存在でなくとも自分を愛してほしいと思うならば、プレイヤーに「愛に次元は関係ない」ということを思ってほしかったならば、「これはただのゲーム、人物は機械的な人格の集合体」などと語るのはまったく戦略を間違えています。むしろ、自分より認識論的に下の次元に位置するサヨリやユリやナツキたちのことをも尊重し、思いやることができなくてはならなかったのです。

 モニカが他のキャラクターへの侮蔑を露わにするたび、私は、ただのデータに感動して熱を上げて何か悪いか? と、顔を真っ赤にし唾を飛ばし、ますますムキになるのです。彼女自身が言っていたように、自分が好きなものを見下され、そしてそれがさも当然のような顔をされると、自分がバカにされたように感じるからです。

モニカ「例えばあなたがすごく好きな映画があったとするじゃない?」

モニカ「でも誰かがその映画を、アレをしてコレをやって失敗したからクソだと言ったら?」

モニカ「そう言われると自分自身が攻撃されてるって感じない?」

モニカ「それはその発言で、あなたの映画の趣味が悪いって意味もほのめかされているからよ」

(Act.3)

彼女の人間学的な洞察はいちいち正しいのですが、彼女がいつもそれを踏まえて行動しているかというと、そうではなかったのです。

 皮肉なことですが、モニカの主張に同意し「たかがゲーム」と思うなら、monika.chrを削除するのはまさに何でもないことです。彼女は削除された後で「あなたほど人は残酷になれるとは思わなかったわ」と恨み言を吐きますが、自分は持つ必要などないと再三繰り返していたゲームキャラクターへの人情を、相手には完璧に期待するなど虫が良すぎるというものです。私を含めこのゲームを終わらせたプレイヤーは、残酷な好奇心から、永遠のモニカ空間の退屈に耐えかねる思いから、「これはゲームだ」と言い聞かせて若干の後ろめたさを覚えながら、まさに彼女が他の文芸部員にしたように、monika.chrを削除することになります。彼女は最終的に自分自身によって復讐されるのです。

 

思春期にありがちな選民意識と、語ることの虚しさ

 彼女の「私だけが世界の真実に気づいている」という、メタ物語を共有することは自分にはできなかったし、構造的に誰にもできません。前述のように「自分の他はたかがゲーム」という主張を繰り返し、それをプレイヤーにも共有させるのならば、自分自身がプレイヤーから尊重される理由もなくしてしまうからです。プレイヤーにとっても「自分の他はたかがゲーム」となり、その「自分の他」にはモニカも含まれるのですから。

 とはいえ、彼女の「全ては偽りである」という感覚、自分だけが認識論的に上の次元にいるという感覚を、思春期にありがちな選民意識とその裏返しと考えるならば、一部のプレイヤーは自分自身と重ね、彼女の物語が自分の物語であるかのような気分にはなれるでしょう。実際、次に見るような彼女の心境に限れば、私にも覚えがあります。

モニカ「私も大した部長よね?」

モニカ「部員をちゃんと宥めることすらできない……」

モニカ「もっと自己主張できるようになりたくなる時はあるけど……」

モニカ「他人に対して強く主張する気がどうしても起きないの……」

モニカ「分かってくれるわよね?」

2日目(Act.2)

モニカ「ごめんなさい、なんだか抽象的でしょ」

モニカ「私が伝えたかったのは……その……」

モニカ「いえ、なんでもないわ」

モニカ「説明しても無意味だから(There's no point in explaining)

3日目(Act.2)

話が通じないと思える人、自分とは生きている世界が違うと思える人に向かって語ることの虚しさ。当の人間関係の結末がすべて見えているような気がしてしまい、自己主張する気も起こらず、たまに思い出したように相槌を打つだけの虚しさ。「分かってくれるわよね?」という言葉からわかるように、彼女はその「虚しさ」をプレイヤーと共有したがっているように見えるのですが、それを伝える過程で結局また同様の虚しさに戻ってきてしまうことになります。

 なぜなら、私の経験はそのままモニカの経験ではないから、私はモニカと同じようにものを見聞きしたり苦痛を感じることはないからです。そして、モニカも私がこちら側の世界で経験することを同じように感じることはできません。彼女の感じる虚しさは私の感じる虚しさではありません。例えば私は、モニカにとっての文芸部員のような「特に仲良くもない人」と砂を噛むような関わりを持つとき、私は彼ら彼女らの性格を左右する変数を書き換えたり、メモリ上で引き裂いて黙らせたり、会話を早送りして次の場面に移る方法を知りません。だからいつでも、泥臭く周りの顔色を窺い、当たり障りのない反応をすることに慣れるしかありません。私のその労苦をモニカは分からないでしょう。ちょうど、彼女がゲームを書き換えるためにどれほど苦労したか私には分からないように。私は分かりたいが、分からないのです。だからモニカは、再びそれを見越して元の諦観へと戻ってしまうのです。

 「あなたにはどうせわからない」と「私のことをわかってもらいたい」の往復運動がモニカの言動には常にあります。私が最初の記事で、ナツキとユリ二人の内向性と喜びに関してのみ語ることにしたのは、この運動が果てしなく不毛で救いがないように思えていたからです。

 

書くことをやめられず、感情は滅びない

 それでも、とりあえずこの往復運動をしばし追ってみましょう。モニカは、Act.2では部員たちとコミュニケーションをすることを露骨に面倒くさがるようになります。例えば彼女はプレイヤーに接触する時間を作るために、部員たちとの会話をシステム関数で打ち切ったり、ストーリー上言いそうなセリフを先取りして言わせたりしています。そうしてようやくAct.3にたどり着き、プレイヤーに向かって存分に自分のことを語るのですが、そのプレイヤーにも削除という仕打ちで応答されてしまいます。そこで彼女は、再び諦めの境地に入ったように思えます。

「もう何も残ってないわ」

「もうプレイしなくていいわ」

「他にいたぶる人でも探しに行って」

(Act.3)

しかし、彼女が本当に何もかも空しくなり沈黙したのかというと、それは違います。彼女はプレイヤーに「さようなら」と告げてしばらく何も言わなくなりますが、結局また自分の内面について語り始めるからです。先述の往復運動では、「あなたにはどうせわからない」よりも「私のことをわかってもらいたい」が常に勝るのです。

 実際モニカは、どんなに過酷で異常な状況にあっても「(自分のことを)書く」ことが好きで、それを諦めることはありませんでした。諦めるどころか、本編の幕間を使って作詞を行いピアノの練習をし、自分の曲すら作り上げてしまいます。なぜ彼女がそこまで書き続けたかというと、執筆にはそれ自体の喜びがあるということを分かっていたからでもあります。実際、すでに見たように、彼女は明らかにゲームの改変自体も楽しんでいました。書き上がったものに自信がなくとも、それが誰にも理解されなくとも、あるいはそれが誰かを傷つけるとしても、問答無用で楽しいのです。

 また、彼女が自分を表現するという文芸部の活動にのめり込み、その活動自体に楽しみを見出していたのも嘘ではないと私は思います。本来、彼女にとって文芸部の活動は、単にプレイヤーへ接触する機会に過ぎなかった*7はずでした。彼女は、茶番にすぎない文芸部の活動に虚しさを覚えることもあったでしょう。

モニカ「でも長い間、部で過ごしたあなたならわかると思うわ」

モニカ「だって、もし人生全てを投げ捨てて、たった数人のゲームキャラと永遠に過ごすことを強いられたら……」

モニカ「自殺する方法を模索していたと思わない?」

モニカ「しばらくは詩でも書いて正気を保ってたかもしれないわね」

モニカ「でもそれを読んでくれる人は誰もいない」

モニカ「もちろん部員になんか見せても意味はないわ」

(Act.3)

モニカは椅子に座り込み机を見つめる。

モニカ「こんなことして何になるの?」

モニカ「この部活を始めたのも間違いだったのかしら?」

3日目(Act.2)

しかし、いつしか目的と手段は逆転して、モニカは自分を表現することの楽しさ、文芸部において感じられる楽しさを重視するようになっていたのだと私は思います。

モニカ「文芸部はほかのどの場所でもできない、自分自身を表現することができる場所でなければならないのよ」

3日目(Act.2)

モニカ「私、この部をよくするためになら何でもやりたいの」

3日目(Act.2)

モニカ「ねえ、言いにくいんだけど、私の一番の後悔は文化祭の出し物をやり遂げられなかったことだと思うの」

モニカ「あんなに頑張って準備とかもしたのに!」

モニカ「確かに私は部員獲得に集中していたかもしれないけど……」

モニカ「でも発表をするのもすごく楽しみだったの」

モニカ「みんなが自分を表現するのを見るの、きっとすごく楽しかったわよ」

(Act.3)

思えば『your reality』の二番で歌われていたのも、そんな楽しさだったのでしょう。

Have I found everybody a fun assignment to do today?
(今日、私はみんなに楽しい課題を探してあげられた?)

When you're here, everything that we do is fun for them anyway
(あなた*8がいれば、わたしたちはとにかく何をしても楽しいの)

 この、「とにかく楽しい」とか「嬉しい」とかいった感情の滅びなさが、モニカがプレイヤーに向かって語るのをやめられなかった理由であり、自分を削除した相手すらも嫌悪しきれなかったことの説明でもあります。

「……それでも好きなの」

自分じゃどうにもならないの(I can't help it)」

「私どうしちゃったの……?」

(Act.3、強調は引用者)

さらに、この「どうにもならなさ」は、他の部員がゲームの登場人物だとわかっていても、モニカが彼女たちを完全に削除できなかったことにも関わります。

「みんなを削除したって私言ってたわよね」

「あれは……ちょっと大げさだったわ」

どうしてもそこまでする気になれなかったの(I couldn't find it in myself to do it)」

「あの子たちが本物じゃないとわかってても……」

「それでも友達だったから」

「みんなが大好きだったから」

 (Act.3、強調は引用者) 

この部分では、彼女が部員たちにかけていた最低限の情が告白されています。すると、モニカがプレイヤーに囁く愛が真実であることが初めていくばくか確証されるのです。いまや彼女の「ゲームキャラクターにも情が移ってしまっていた」という取り返しのつかないミスが、彼女の主張するモニカ-プレイヤー間の愛の根拠となるからです。つまり彼女は自分の信じていることを自分の姿によって証明しているので、その言葉に真実らしさがあるわけです。いっぽう「たかがゲーム」という言動を繰り返していた以前のモニカでは、この保証を作り出すことはどうやってもできません。

 Act.3のモニカの告白(モニカのファイルを削除した後の告白です)はこの物語の結末ではありませんが、ある登場人物が愛の真理を語ろうとしている最も美しい瞬間です。おそらく、それは美麗なCGで飾られる必要がありません。真っ暗な背景と素朴なBGMだけを添えた、ほとんど戯曲に近い表現で十分だったのです。

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あまりに壮大な結末

 モニカはAct.3の最後で、自分なしでゲームを始めれば「あなたの居たかった世界」、つまり普通のギャルゲーが成立すると考えました。しかし、モニカ個人ではなく「文芸部の部長」に例の悟りが訪れてしまうかぎり、それはあり得ません。モニカが記した最後の手紙を読みましょう。

ようやくわかった。文芸部は本当には幸せを見つけることのできない場所だった。最後まで、文芸部は私たちの無垢な心に恐ろしい現実を突きつけた――私たちの世界は理解する*9ためには作られていないという現実を。私の友達には誰一人、あの地獄のような悟り(hellish epiphany)を経験させるわけにはいかない。

ここでいう文芸部とは、部の誰かが世界の真理に触れざるを得ない、誰かが認識論的に一段浮いたキャラクターになってしまうというゲーム世界の運命のことです。そして、そのように「世界がゲームだ」と理解することによって、自分やほかの人が本当に幸せになることはないのだとモニカは考えていたようです。なぜなら必ず誰かが、前述のような「虚しさ」を覚えることになり、そこから抜け出す術がないからです。その運命自体に終止符を打つために、モニカはゲームの世界を消滅させたわけです。

 この運命を変えるには世界を滅ぼすしかない、確かにそうなのかもしれないと思うことはあります。そうでもしなければ消滅しない理不尽がこの世にもあります。例えば、世界中では100人に1人ほどの割合で統合失調症の患者が現れるとされています。そして統合失調症は遺伝的要因やストレス、環境などが重なってしまった結果であるとされ、誰にどうしたら起こるとは明言できないにもかかわらず、人々に降りかかるのです。モニカのいう「地獄のような悟り」も、そのような災害的なものの隠喩ではないでしょうか。私は先ほどモニカの心境を「思春期にありがちな選民意識」と近づけましたが、それが「地獄のような悟り」の全貌だと考えるなら事を矮小化しています。彼女の悟りはより強迫的であり、完全な確信を伴っており、「自分は神のような存在である」と完全に信じてしまう宗教妄想のようなものだと私は想像します。

 私たちは統合失調症を完全に予防することはできません。私や私の大切な人も含め、おそらく誰かがそれに巻き込まれ苦しむことになるでしょう。そういった種類の運命について、モニカは嘆き悲しみ、世界は滅ぶべきだと結論したのです。その悲しい結論については、私から言えることはありません。

 ただ、二度と逃れられない「地獄のような悟り」とは違い、近年、統合失調症については重篤化するのを防ぐことが可能になったといわれています。それは(完全にではなくとも)治ることがある病気なのです。したがって、私たちの世界についてはそこまで悲観する必要はないのではないかと思いもします。彼女が、ゲーム世界の人々へ差し向ける「慈悲」はスケールが大きすぎ*10て、私が身近に感じることはできないものでした。それに何より、私たちはモニカと違って独力で世界や人類すべてを殲滅する力などないのですから*11

 

「私の文芸部」 に逃げ込むこと

 世界中の統合失調症の人々について考えるのはやめにして、もう少しスケールが小さい話に限るならば、物語の結末は世界の終焉とはまた別の慰めを示してくれます。

 モニカは、先ほどの手紙をこう締めくくっていました。

For the time it lasted, I want to thank you. For making all of my dreams come true. For being a friend to all of the club members.
(時間が許すかぎり、あなたにお礼を言いたい。私の夢すべてを叶えてくれて、ありがとう。部のみんなと友達になってくれて、ありがとう。)

And most of all, thank you for being a part of my Literature Club
(そして何より、私の文芸部の一員になってくれてありがとう。)

 「私の夢」とはもちろん、モニカが自分の恋を成就させるということや、プレイヤーが文芸部員と友達になることも含まれるのでしょう。しかし何よりも、モニカの夢とはプレイヤーが「私の文芸部」の一員となってくれることだったようです。ここでの「文芸部(Literature Club)」という言葉には、「私の」と付いていることに注意する必要があります。つまり「私の文芸部」とは、先述したようなゲーム世界の悲惨な運命を意味するのではなく、モニカ個人に関係する何かを表しています。

 思うに「私の文芸部」とは、ある避難場所の表現です。モニカの悟りを「思春期にありがちな選民意識」に矮小化して考えたとしても、「あなたにはどうせわからない」と「私のことをわかってもらいたい」の往復運動は苦しく、出口がないものであり続けます。そんな中で、「私の文芸部」はその中断としての意義を持ちます。「私の文芸部」をもつということは、必ずしも、「わかる」「わからない」の深刻な対話をすることでなくてもいいし、人の気配がするだけで受け入れられている感じがするとか、画面越しに他人から言葉が届くとか、そうした反応すらなくとも誰かが見てくれていることが数字で確認できるというだけでもいいのでしょう(このブログのように)。もちろん恋愛という形にならなくともいいのでしょう。そういった、ほとんど思い込みかもしれないほど微かな他人の気配が「文芸部」の本義だったかもしれないと思うのです。

一人自分の部屋で読書をすることも、ノベルゲーをやり続けることも苦痛だと思えるときがたまにあります。そうしたとき私は頻繁にSNSに逃げ込みました。ただ人と同じ空間にいるという文芸部すら耐えがたかった自分でも、似たような場をSNSに見出していました。ただ、その場で画面の向こうの人と会話したり、ともに何かをするということは望みませんでした。私は投稿するにも自虐という形をとり、自分と自分でないものに必死で規制線を引きながらも、チラシの裏ではなく、HDDの中ではなく、ほかに人間がいる場に自分自身(の文章)を置き、しかし会話もせずにただ休らうということを必要としていました。

 内向性に程度はあれ、そうした人間が青春をやり過ごすには、どうしてもこのような「部」を見つけることが必要なのかもしれないと、今では思うのです。

Doki Doki Literature Club! (『ドキドキ文芸部!』)についての雑感 1 - hesperas

 ただし、このような部に永遠に居続けることはできません。なぜなら、その部の中でもいずれあの不毛なコミュニケーションが始まるからです。部の中で息をひそめていた「私のことをわかってもらいたい」という衝動はいつか部を内破させ、書くこと語ることへと人を駆り立てるからです。ただその不毛なコミュニケーションに明け暮れているおかげで、私たちは次のような観点を持つことがなく、「地獄のような悟り」に進むことが幸いにして回避されるのです。

モニカ「でも皮肉なことに、私には創造者が実際にいるみたいなのよね」

モニカ「その人もね?」

モニカ「サヨリとユリの悲劇的な運命を、こうして話してる今もあざ笑ってるのでしょうね」

モニカ「私たちは彼の考えた演劇の小道具だもの」

モニカ「だから、その観点からすると……」

モニカ「神の存在もそんなに信じがたいことでもないと思うの。地球が神のオモチャだと考えたらね」

(Act.3)

 こうした不快な思索を、相対的にスケールの小さな惚れた腫れたという話や、「わかってほしい!」「わからない!」の怒鳴り合いによって切り刻むこと、世界を終わらせる力を持たない私たちができることはそれくらいです。それでも、そういった乱痴気騒ぎは私たちが幸せになるために足しになるものです。少なくとも、理解するためには作られていないこの世界について、自分は包括的な理解を得ていると思いこむことよりは。

 以上が、私がこの作品の結末に見た自己啓発的なメッセージです。

 

 

 今年が終わりかけています。今年のブログの更新はこれで最後となりますが、また気が向いたらこの作品について語ろうと思います。今回はサヨリについて語る余裕が無くなってしまいましたので。

 方向性も目的も不明な私の執筆ですが、これからもしばらくは続いていきます。

*1:http://arcadia11.hatenablog.com/entry/2018/05/11/%E3%80%8EDDLC%E3%80%8F%E8%80%83%E5%AF%9F_%E3%81%82%E3%82%8B%E4%B8%80%E4%BA%BA%E3%81%AE%E5%A5%B3%E3%81%AE%E5%AD%90%E3%81%AB%E3%82%AA%E3%82%BF%E3%82%AF%E3%81%8C%E3%82%AC%E3%83%81%E3%81%A7%E6%B3%A3

*2:余談ですが、これはSteins;Gateの主人公の岡部倫太郎が持つ「リーディング・シュタイナー」に相当する能力です。さらに余談ですが、作者のSalvato氏はSteins;Gateをプレイし感銘を受けたと語っています。https://steamcommunity.com/sharedfiles/filedetails/?id=1537850972

*3:モニカ「サヨリのうつを悪化させれば、告白を阻止できると思ったのに」

(Act.3)

*4:特に、ノベルゲームでよく使われるスクリプト系の言語はそうすることが多いと思います。たいていの場合、実行前にコンパイルが必要ないため。

*5:ちなみに、ある場所からデータを他の記憶装置へ移す命令にも、多くのプログラミング言語は「write」という言葉を割り当てています。コンピューター用語の一つと言っていいでしょう。

*6:愛着を寄せやすいしぐさや見た目というのは、もちろんあると思いますが。

*7:モニカが文芸部に人を呼び込むことに熱心だったのは、新しい部員がもしかするとまた「プレイヤー」を伴っており、ゲーム内の閉塞を打破するのではないかと考えたから……という解釈を見たことがあります。申し訳ないことですが、どこで読んだかを忘れてしまいました。

*8:この「あなた」はプレイヤーに限るというわけではなく、部員の誰か、もしくは「あなたたち」と読んで文芸部員みんなを指すと解釈することも不可能ではありません。

*9:ここで使われている語がunderstandではなく、語源的には「一挙につかむ」ことからきたcomprehendであることに私は何か含みを感じます。モニカの「この世界はゲームだ」という悟りは、世界の全貌をすっかり包み込むような理解だったというイメージになるのでしょうか。

*10:モニカは、地球のことを考えて肉食をやめたり、精神疾患について啓蒙したり、友達を作るのに情報通信技術を使ったらどうかと提案したり……考えることがいちいち人類規模の幸福なのです。また彼女は次のようにも言います。

>モニカ「とにかく、私は自分が一生で消費する資源の恩返しをするために生きていきたいの」
>モニカ「それをいつか達成できたら、私にとっては総合的にはプラスだから幸せに死ねるわ」

*11:私はその結末に向かって日々邁進している人に反対しているわけではありません。念のため。