私は中学時代の半分と高校時代の7割をノベルゲームに費やしたといっても言い過ぎではありません。私はノベルゲームとともに青春を過ごし、それらによって育て上げられた子どもでした。このブログに「ノベルゲーム」というカテゴリがあるのは、それが理由といえます。
さて、標題のゲームですが、私は(不幸なことに)この作品についていくつかのネタバレを得てからプレイを始めました。ですが、いろいろと予想を超えた仕掛けが前情報以上に用意されていたため、あまり問題もなく楽しむことができました。
以下でもネタバレに配慮はしませんが、私はゲーム文化全般や演出技法についても詳しくないので、そういった観点からこのゲームについて何事か語れるとは思いません。私は普段からそういう訓練をしている人間ではない、取るに足らない一労働者です。したがって今回も、単にひとつの物語として、その中に私自身の物語を見てしまうような場として、人物たちの交流の記述として、この作品を語ることになります。
このゲームは、あまりメタフィクションなことを考えなくても、普通のギャルゲー(死語)として十分に満足のいく出来だと私は感じています。生き生きとしてテンポのいい掛け合いの中で、ふと切り裂くようにそれぞれのキャラクターの信じてきたことがちらりと覗く瞬間があります。あるいはその信条について滔々と語り出す者もいます。
思春期の私が一部のノベルゲームに惚れ込んだのは、まさにそういった随想的な意識と掛け合いとの交代が心地よかったからでした。それはなにもノベルゲームの専売特許というわけでもないのですが(後に私はそれを女性向け漫画にも見出すことになりますし、ライトノベルにも受け継がれていったものだと思います)、作者はこの限られたメッセージウインドウの中でどう台詞を展開すれば、その国産ノベルゲー風文体が再現できるか完全に心得ているかのようなのです。その文体は、どんなに他愛のない着想であったとしても、画面に表示されているキャラクターの立ち絵とともに強力に印象づけられる言葉を生み出すのです。自分には何の縁もないが偉大だとされている思想家のどんな箴言よりも、説教好きな教師の人生論よりも、数百ピクセル四方の画像の下の文章がプレイヤーの血肉になるのです。これは、結果的に何を言ったかというより誰が言ったかが重要だということになるのかもしれませんが、テレビや映画はプロパガンダにとても有効な媒体だったとかそういう話かもしれません。
文芸部のメンバーは、それぞれ文章や詩を書くこと、読むことについて自分なりの考えをもっています。それがもっとも先鋭化され、鋭く対立させられているのはナツキとユリについてであるので、以下では二人の文学観を再構成しつつ、この作品のキャラクターが作り出す文芸部という空間を描写していきましょう。
ナツキとユリの文学観
まず、ナツキはかなり現代に寄った文学観を持っています。ナツキは「マンガは文学」と断言するとおり、文学とはかしこまった堅苦しいものだというイメージに反対しています。むしろ、自分の伝えたいことを気の利いた形で気づいてもらう方法全般を、彼女は文学と呼ぶのです。
ナツキ「高校生って、詩は洗練されたものだってイメージしがちでしょ……」
ナツキ「だからみんなわたしの書くものを笑うの」
主人公「けど詩を書く意義って自分を表現することだろ?」
主人公「執筆のスタイルがどうであれ伝えたいことの正当性とは関係ないだろ」
ナツキ「そう! その通りよ!」
ナツキ「わたしは読みやすくて、ガツンとくるものが好きなの」
(2日目 合評タイム)
ナツキにしたら、例えば糸井重里の考えるようなキャッチコピーも文芸活動であり、もっとも典型的な文学だということになるでしょう*1。文学と広告を近づけていたロラン・バルトにも通じる考え方をナツキは持っています。
これに対し、ユリの考え方はわりに伝統的なものです。文芸活動とは、自己自身との解釈学的関係を築くことであると彼女は繰り返し主張します。
「自分に向けて書かれたものこそが、真の書きものだから(The truest form of writing is writing to oneself.)」
(1日目)
ユリ「あなた自身について学んだことはありますか?(主人公)さん」
主人公「え?」
ユリ「ほら、詩を書くことは自分自身を知る(get in touch with yourself)ためのすごく個人的な活動じゃないですか。だから……」
ユリ「結局のところ、良い書き手か悪い書き手かどうかなんて関係はありません」
ユリ「そして私の見解はあくまで一つの見解ですしね……」
ユリ「どんなときでも、一番重要なのは自分自身を探索し発見することだと信じています」
(4日目 合評タイム)
作品とは、それを読み書きする者がそこに自分自身を見出すべき場なのです。自分の思考を目に見える形にし、自己を隅から隅まで照らし尽くし、認識しつくそうと試みる技術として、読むことと書くことが行われるのです。これはヨーロッパではキリスト教が興隆して以来主流となり、連綿と受け継がれてきた文芸の概念といえます。執筆は自己認識の儀式の一種なのです。
余談ながら、この儀式は、「自分の中には何か隠れたものがある」という考えを前提しています。
ユリ「人の謎はその人自身にも分からないことがあります」
ユリ「でも正直で思いやりのあるあなたなら……」
ユリ「あなたの中にある、あなたが気づいていない感情を見つけることができるかもしれません」
(5日目)
このような想定は、ミシェル・フーコーによれば、キリスト教的な自己解釈学の特徴でありました。
自己検討には三つの主要な型がある。…(中略)…第三は、隠れた思考と内的な不浄との関連についての自己検討。この最後の契機に始まるのが、キリスト教的な自己解釈学であって、それは内的な思考の解読を伴っている。それは、われわれ自身の中には何か隠れたものがあって、われわれはその秘密を隠す自己幻影につねに陥っている、ということを含んでいる。
ミシェル・フーコー「自己のテクノロジー」
(『自己のテクノロジー―フーコー・セミナーの記録』, 2004, p. 66.)
また、ユリが後から自分の発言を振り返って、相手に不快な思いをさせはしなかったかと逐一思い悩むさまは、自己を裁判官であると同時に被告人とし、その罪を告発する「裁判モデル」に沿っていることも興味深いです。その種の自己検討がもつ道徳的な意味は、フーコーがキリスト教的な自己のテクノロジーの特質として強調していた点でした(前掲書pp. 44-45)。
彼女たちが物書きであった理由―「内向性」
ナツキとユリは、文体に相違があっても、文芸部メンバーの中で古くから執筆に取り組んできたということは共通しています。それはなぜなのか、少し考えてみたいと思います。
二人に共通するのは、一般には理解されにくい趣味を持っているということです。ナツキについては漫画を読むことが、ユリについては、ナイフ収集(リストカットはここに含めるべきなのかどうか)が変わった趣味として挙げられていました*2。また自分自身で言及することもあるように、それぞれ性格として変わったところも持っています。ナツキについては、やたら強気な話し方の反面無類のかわいいもの好きであること、ユリについては、没頭すると周りが見えなくなること、言葉を発する前に考えすぎること、逆に余計なことを口走ってしまうことなどがそうでした。
彼女たちは、こうした趣味や性質を表に出すことで馬鹿にされたり、自分の周囲がそれらを軽蔑しているさまを見たりすることが、少なくとも一度はあったのだと考えられます。例えばナツキは、普段のクラスでは漫画や趣味の話は決してせず、家ですら家族の目を気にしてそれらを楽しめなかったのです。
ナツキ「こんなの友達に読ませられるわけないでしょ……」
ナツキ「みんなマンガは子供の娯楽だと思ってるし」
ナツキ「こんな話をしたら絶対……」
ナツキ「『え~? まだそんなの読んでるの~?』って言われるんだから」
ナツキ「顔を殴ってやりたくなるわ……」
(2日目)
主人公「どうして趣味を隠してるんだ?」
ユリ「そ、それは……」
ユリ「恥ずかしいですし……」
ユリ「きっとバカにされますし」
(3日目 合評タイム)
そしてユリは、自分の趣味をひた隠しにすることもそうですが、そもそも人との深い関わりを避ける方向に動きました。
ユリ「誰でも変なところなんてありますよね」
ユリ「でも誰かと関わってからすぐに自分のそういった部分をさらけ出すのは不適切というか……嫌われやすいようです」
ユリ「少なくとも私はそう学びました」
ユリ「子供の頃は気づかないうちに過激に言い過ぎることがあったせいか……」
ユリ「周りから誰もいなくなってしまって」
ユリ「その時から……自分のそういったところが嫌いになりました」
ユリ「自分の趣味の一部と……」
ユリ「あまりに興奮すると自分を抑えられなくなるところが」
ユリ「だから……」
ユリ「次第に人と関わるのをやめました」
ユリ「私の大切なものが周りに受け入れられず、それが原因で嫌われるくらいなら……」
ユリ「……ふさぎ込んだほうがましですから」
(Act.2)
ユリの場合、自分が紡ぐ言葉は自己と完全に一致していなければならないのでした。時間をかけて言葉を紡ごうとすると、自己との無限の対話は隠喩の絵画として現れます(彼女の詩がその例です)。しかし、猶予の与えられていない会話内で言葉を求められたときは、沈黙するか、あきれるほどに率直な言葉*3しか言えなくなるのです。
ユリ「私はいつもこう……」
ユリ「話す前によく考えると、気まずくて嫌な気分になる」
ユリ「でもよく考えずに話すと、私の中にしまっていたものが出てしまって、みんな私のことが嫌になる」
ユリ「だから……無理に私に近づかないでください」
(4日目 合評タイム)
自己自身と言葉とが一致していることが最優先なので、そのほかの規則遵守はいったん宙づりにされてしまうのです。これが、彼女が周囲から浮いてしまう理由でした。
こうした意味での内向性から、彼女たちは何かを書き始めたのだと私は考えています。内向性と物を書くことの結びつきを明確に描いているように思われる点が、私がこの作品を好きな理由です。
ユリの言うように、誰にでも変わった趣味や変なところはあるかもしれません。それについて、そこまで必死に隠さなくてもいいのだ、馬鹿にされることを恐れなくてもいいのだとどうしても思えなかった人が、ペンを執り、紙に向かって自分のことを告白するのだと思います。ナツキが言うには、詩の意味とは「言えないことを表現すること」なのですから。
ナツキ「でも、今まで誰にも詩を見せなかったのには理由があるの」
主人公「ナツキ……」
ナツキ「だって……」
ナツキ「誰もわたしと真剣に向き合ってくれないから!」
ナツキ「他の人に詩を見せても『かわいいね、いかにもナツキってカンジ!』なんて笑いながら言うだけで!」
ナツキ「かわいいのが嫌になるときだってあるのに!」
ナツキ「誰も分かってくれない!」
ナツキ「わたしすごく頑張って書いてるのよ」
ナツキ「どんなスタイルだって関係ない」
ナツキ「そこに感情が込められているのに」
ナツキ「なのにどうしてみんな分かってくれないの……?」
(5日目 合評タイム)
ユリ「(主人公)さん、私は知ったかぶりなんかじゃない!」
ユリ「むしろ逆です! 私は何にも知らない!」
ユリ「私は人との接し方が分からないんです」
ユリ「どうすれば普通に振る舞えるのかが分からない」
ユリ「自分を幸せにする方法すら分からない!」
ユリ「こんな気持ちを抱えて……」
ユリ「それを使ってできることは読むことと書くことだけ」
(5日目 合評タイム)
彼女たちの言葉の根本にある「誰も分かってくれない」という鬱屈は、裏返せば「自分のことを分かってほしい」という訴えであるとも思います。誰とも関わらず、一人で充足しているように見える執筆という作業――ユリなどは「自分のためだけにやっている」と主張するそれ――は実のところ、すでにコミュニケーションの強力な要請なのです。
モニカ「自分のためだけに執筆してる、って言う人もいるけど……」
モニカ「でもそれは他人と共有するときほどの充実感を得られるとは思わないわ」
モニカ「共有できるような人を見つけるのに時間が掛かってしまったとしてもよ」
モニカ「ユリのときだって覚えてる?」
モニカ「ずっと誰にも自分の文章を見せなかったのに……」
モニカ「気がつけば、喜んであなたと趣味を共有していたじゃない」
(Act.3)
ナツキもユリも、誰かに自分のことを本当に分かってほしいけれども、どうせそんな人などいないのだという鬱屈を紙にぶつけてきました。私が思うに、彼女たちが物書きであった理由というのは、ただそれに尽きるのです。
文芸部の意味
この作品における文芸部というのは、開幕時では特に活動もせず、ただ各自本や漫画を読んだり雑談したり、菓子をつまむだけの部活未満のものでした。
突然私の話をしますが、私も高校の頃まさにこういった部活に所属していました。活動日は特になく、共同してやることといえば年に何度か小説や絵をまとめて部誌を出すだけで、基本的には部室で各々好き勝手なことをしている人々の集まりでした(実際、部誌に原稿を載せたことがないという部員は珍しくありませんでした)。
当時の私は、部員たちがわざわざ部室で漫画を読んだりエロゲをしたりすることの意味が分かりませんでした。家から遠い学校に通っていたのもあって、なぜ早く帰らないのだろう、自分の部屋で一人作品と向き合うことと何が違うのだろうと思っていました。私はそもそも自分の趣味を他人と共有しようという気があまりなく、ただ自分が向き合うものだと思っていました。
しかし、この作品を終えた今では、彼らは当時そうすることで本当に充実していたのかもしれないと思うようになりました。ただ同じ空間にいる、人目をはばかる必要がないという、それだけが重要だったのかもしれないのです。
モニカ「内向的だからといって社会的交流を拒絶したり、人と関わることを嫌うとは限らないわ」
(略)
モニカ「内向的な人の多くも、他人といるのが好きなのよ」
モニカ「親しい友達を一人や二人だけ呼んで、のんびり過ごすのが好きだったりするの」
モニカ「特に一緒に何かをするわけでもなく、一緒にいるだけで楽しいの」
モニカ「本気で言ってるのよ」
モニカ「パソコンを持って家に行って、しばらくそこでまったり過ごすだけでも……」
モニカ「その人にとってとても良い一日にすることができるの」
(Act.3)
ユリとナツキという2人も、自分の変わった趣味、変わったところを必死に隠している日々に休憩時間を入れたかったのです。別に仲良くしなくてもいい*4し自分のことを認められなくてもいい、ただ、最低限自分のことを否定されない安全な空間がほしい。特にナツキにとっては、これは切実な願いだったようです。
ナツキ「わたしはただ……」
ナツキ「わたしはただ、何人かの友達と楽しく過ごせる場所が欲しいだけ」
ナツキ「文芸部がわたしにとって居心地のいい場所で何が悪いのよ?」
ナツキ「こういう場所……こういう場所は、わたしには他にいくつもないの……」
ナツキ「それをモニカがわたしから取り上げようとしてるのよ!」
(3日目(Act.2) 文化祭の話し合い)
対してユリは本の世界を理想化すると同時にその中へ閉じこもり、誰も周りにいないとしても、仮の安全地帯を作ることができました。彼女に接近しないルートをたどるほど頻発する「私には本がありますから」という決まり文句は、自分にしか分からない世界とその外部、あるいは自己と自己でないものとを分割する呪文です。
ユリ「でもあなたは私といるより、ナツキちゃんやサヨリちゃんと一緒にいるほうが楽しいのでしょう?」
主人公「ユリ――」
ユリ「お願いですから……」
ユリ「気を使われないほうが私にとっては楽なんです」
ユリ「それに……」
ユリ「私には本がありますから」
ユリ「それで……十分です」
(4日目 合評タイム)
当時、あまり部室に行くことがなかった私の戦略も、ほとんどユリと同様のものでした。作品は純粋に自分のために書いており、一応部誌に載せるという体にはなっているけれど、どうせ誰にも読まれないだろう、むしろ自分が黙々と執筆しているということそれ自体に意味があるのだろうと思っていました。自分も高校生でありながら、高校生と雑談することがどうしても好きになれず、この世にそれほど無駄に疲弊する行為はないと思っていました。「私は誰かと話していて、気まずい気分にならないことがほとんどないんです……」というユリの台詞に、当時の私は全面的に同意するでしょう。私は自分と自分の夢中になるもの以外のものを切り離し、だいたい見下していました。自分には本とゲームがあればよく、人間と共にいる時間は最低限度でよいと思っていました。
しかし、モニカの言うところはその通りです。
モニカ「結局のところ本で現実から完全に逃げ出すことはできない」
モニカ「ただの包帯に過ぎないわ」
(4日目 合評タイム)
一人自分の部屋で読書をすることも、ノベルゲーをやり続けることも苦痛だと思えるときがたまにあります。そうしたとき私は頻繁にSNSに逃げ込みました。ただ人と同じ空間にいるという文芸部すら耐えがたかった自分でも、似たような場をSNSに見出していました。ただ、その場で画面の向こうの人と会話したり、ともに何かをするということは望みませんでした。私は投稿するにも自虐という形をとり、自分と自分でないものに必死で規制線を引きながらも、チラシの裏ではなく、HDDの中ではなく、ほかに人間がいる場に自分自身(の文章)を置き、しかし会話もせずにただ休らうということを必要としていました。
内向性に程度はあれ、そうした人間が青春をやり過ごすには、どうしてもこのような「部」を見つけることが必要なのかもしれないと、今では思うのです。
合評のもつ危うさと喜び
この物語では、主人公が来たことをきっかけに詩の執筆と合評が行われるようになります。そこでナツキとユリは初めて自分自身の文章を人に見せるということを経験します。
その合評は、その後に待つのがどんなことであろうと、活動らしい活動をしなかった文芸部の安寧を壊したことになります。お互いに深く話すことはなく、相手の心の内が窺える姿を見かけても、それを本人にフィードバックせず、憶測のまま一人で納得してしまえば、それより平和なことはありません。
かつて私は、作品への批判がどうして作者にとってあれほど耐え難いのか(どうして作者は自分の作品への批判にあれほど過剰な反応を見せるのか)について、作品についての無条件的な肯定を仮定し考えたことがありました(→過去記事)。自分の詩に向けられた批判未満の言葉、あるいはたった一言の評価にも神経を尖らせ、口論に発展してしまったユリとナツキの姿を見ていると、その仮定を思い出すのです。
主人公「執筆というのは本当に個人的なことで」
主人公「それを共有しあうことは間違いなく難しいと言える」
主人公「俺たちは今日そんな教訓を得たんだ」
主人公「ちょっとした批判でもムキになってしまいかねない」
(2日目)
ナツキとユリは、物書きとしての内向性は類似しているので、その内容ではなく文体の点で主に対立します。ナツキは一人称を用いず、最小限の語彙と反復表現を駆使し、部分と全体の関係から自分の主張を浮かび上がらせる、非中心的な文体を好んでいます。対してユリは、自らの内面に浮かび上がる視覚的なイメージを、できるだけ豊富な語彙で描写する方法をとります。それは常に「私」の見た光景として記述されます。これは、集団の力関係に意識的で、全体としてどうかを常に考えるナツキ*5と、自己への没頭と瞑想が常であるユリ、それぞれの生活様式の反映なのです。
サヨリやモニカが、合評会で諍いを起こさなかったのはたまたまではありません。ユリやナツキのように、書くことと自分自身の距離が近ければ近いほど、書いたものの評価に過敏にならざるを得ないのです。
しかしながら、書くことと自分自身の近さは次のことも意味します。もしもある人が、一見厄介な彼女たちの言動の意味を辛抱強く探り、詩を読み解き、彼女たちのことを真剣にわかろうとするならば、その読者は彼女たちにとって何にも代えがたい大切な存在になるのです。最も無防備で傷つきやすい剥き出しの肌が晒されるとき、本当の信頼が芽生えるのです。
ユリ「その手の文章を見せることって、自信以上のものが必要なんですよ」
ユリ「自分に向けられた書きものこそが、真の書きものだから」
ユリ「そういったものを見せるときは、読者に対して心を開いて(open up to your readers)、自分の弱さを晒し(exposing your vulnerabilities)、自分の心の最も深いところすら見せる(showing even the deepest reaches of your heart)つもりでいなければならないのですよ」
(1日目)
ユリ「あなたと詩を見せ合うようになって……」
ユリ「本当に欠けているものが何だったのか分かりました」
主人公「でも俺は何もしてないよ……」
ユリ「いいえ……」
ユリ「そんなことありません」
ユリ「ただ辛抱強く敬意をもって接してくれました」
ユリ「それは私にとって……とても大事なことだったんです」
(5日目 合評タイム)
この危険を冒した結果、自分が受け入れられたという喜びは至上のものです。その喜びは、詩の書き手である彼女たちと読者である主人公をどうしようもなく近づけます。ここには絶対に抵抗することができない力があります。それだけ取り出しても仕方がないので引用はしませんが、ナツキ・ユリの各√で5日目の合評を行ったときの彼女たちの様子をもう一度確認してもらえば、その喜びが見て取れると思います。
ところでこのゲーム自体の改変能力を持つモニカは、どうにかして彼女たちが主人公に好意を持つことを妨害しようとしますが、それは決して成功しませんでした。それが成功しなかったのは、モニカが言うように、彼女たちが「あなた(主人公/プレイヤー)と恋に落ちるように設計された機械的な人格の集まり」だからでしょうか? 明らかに違います。
自分自身というのはまずは無理でも、「自分自身を表現したもの」が受け入れられたとしたら、誰かに分かってもらえたとしたら、嬉しくない人がいるのかどうか、私はそういう話をしているのです。程度はどうあれ、嬉しいに決まっています。そういう経験が今まであまりなかった人にとってはなおさらです。主人公にヒロインが好意を抱くという「このゲームに深く刻まれた必然的な展開」の必然性は、その嬉しさの必然性なのです。モニカがユリやナツキに主人公のことを好きになってほしくなかったのなら、そもそも彼女たちの自己表現を主人公が読み解き、彼女たちに報告する機会を与えてはならなかったのです。つまり詩の合評をするということをやめなければならなかったのです。彼女たちの好意は、自分自身(の書いたもの)がわかってもらえるということの、強烈な、エロティックな喜びと分けることはできないのですから。
その喜びが、平凡な相手を不用意に結晶化し、嫉妬や見るも恐ろしい独占欲を呼び起こし、第三者を孤独と絶望に追いやったりもするのですが、だからといって、その喜びを虚妄として追放することは誰にもできないでしょう。モニカにも、ゲームの設計者にも。私たちが、単に刺激に応じて快楽物質を分泌するだけの有機体であるとしてもです。
このゲームは、センセーショナルだとか人を不快にさせるといった要素ばかり喧伝されますが、私はごくまっとうな、健全なメッセージをもつ作品だと受け止めています。それはこの作品が、「私のことをわかってほしい」という訴えと、それが相手に届かないかもしれない不安と、訴えへの応答があったことのうれしさについて、素朴に描き切っていると思われるからです。
―
しかしながら、自分自身について書かれたものと自分自身とを同一視することはできないのも、また議論の尽きない問題です。それはいくつかの過去記事でも扱いましたが、この作品もそんなことは重々承知しています。ナツキについては父との関係、ユリについてはリストカットに対する態度など、書かれなかったこと、結局誰にも分かってもらえなかったことというのは無数にあります。
さらには、本人が誰かに分かってもらう必要がないと思うこと、むしろ安易に分かられてしまっては困ることがあるというのも真実なのです。それはサヨリやモニカが作中で何を言っていたか、素直に考えれば思い当たることです。サヨリのdepressionを、モニカの特殊な孤独を、果たして上記のような喜びが贖いえたかどうか。残念ながら、私は否と考えます。それはまた別の話なのです。
今回はユリとナツキを中心にしましたが、文芸部のメンバーはあと二人(主人公も加えるなら3人)います。サヨリについて語るのはわたしにとって若干つらいことです。彼女の台詞の一つ一つを読むたびに、私はある死んだ人間のことを思い出すからです。モニカについては単に考えがまとまらないので後にします。2人について何か書くとしても、おそらく今回よりは短くなることでしょう。
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*1: また3周目では、モニカがラップを文学の最も洗練された形式として挙げる会話が発生することがあります。これはナツキに限らず、低俗なものとみなされやすい文化こそ素晴らしいという肯定がこの作品の基調にあるものと思われます。
*2:作品の嗜好で言えば、ナツキは日常系・キャラクター描写の豊富な作品を好み、ユリは残酷な筋書きのものを好んでいます。
*3:「思ったことを言ってくれるところ、私は好きだよ」(3日目 サヨリからの言葉)というように、この性質を美点と考えることももちろんできるのですが。
*4:「もし学校の外で集まっていたら……でもそんなことするほど仲良くもなかったし」(モニカ 3周目)
*5:>「〔ナツキは〕なんだか友達についていくのに必死だったみたいで」
>モニカ「高校の友達グループの中には、お互いをいつも弄りあってたりするようなグループってあるじゃない?」
>モニカ「あの子はそういうのを結構気にしちゃってたみたい。だからいつも身構えてるような態度をとってたのよ」
(3周目)