他人たちのような自分―琴葉とこ『メンヘラちゃん』(上)について

メンヘラちゃん (上)

メンヘラちゃん (上)

 

  この作品は、ある人から教えてもらった。正確には教えられたというより、その人の読書記録が公開されていたので、私自身が勝手にその中から見つけて読んだ。

 内容としては、不登校かつ不安障害持ちの女子中学生「メンヘラ」(これはキャラクターの名前である)、体調を崩しやすくほぼ登校していない女子中学生「病弱」、特に目立ったキャラ付けもない男子中学生「けんこう」の三人を登場人物とする四コマと、自由なコマ割りの挿話から成っている。

 この作品の基本姿勢は、メンタルヘルス界隈によくある日常のエピソードをブラックジョークとして軽妙に消費していくものである。またその中には当時の流行語・ネットミームが幅広く取り入れられている。こうした特徴は、南条あやによる『卒業式まで死にません』の筆致を否が応にも想起させる。ただ、その軽い*1四コマの合間に挿入される長めのエピソードは本当に生々しく、逃げ場がなく、ありあまる悲惨さが紙面に写し取られている。このような描き分けが絶妙な作品であることは間違いがない。特にその落差が激しい上巻についてはなおさらである。

 ただ、メンヘラネタをコミカルに描く割合がどれだけ多くとも、私にとってはこの作品はあくまで恐ろしい物語である。それは最初に出会って以来ずっと変わることがなかった印象である。その印象のもととなった、私を最も怖がらせた作中のエピソードについて今回は語るつもりだ。

  そのエピソードとは上巻中盤の、メンヘラが病弱と服を買いに行く話(書籍版p. 96以降*2)である。以下その内容を要約してみる。メンヘラは病弱に服を買いに行こうと誘われていた。メンヘラは乗り気であったが、当日の前の晩に中途覚醒があり(これはメンヘラの自己判断による断薬の影響であったことが後に明かされる)、わずかな睡眠のまま朝を迎える。二人は服屋に着きしばらく物色するが、彼女の気分の変調に気づいた病弱が途中で帰宅を勧めると、メンヘラはパニック発作様のものを起こしてしまう。病弱はメンヘラを落ち着かせることはできず、自らも何をすればいいのか戸惑う。その後事態がどうなったかは省略され、両者は帰宅したらしい描写に飛ぶ。

 このエピソードは、作品の中で最も恐ろしく悲しいものだと私は思う。服屋でのメンヘラと病弱は、お互いがまったく意図せずに互いの恐慌を相互に煽り立て、なす術なく恐慌の渦の中に飲み込まれていくからである。なぜそんなことが起こってしまったのかという半分嘆きのような問いが、私にこの文章を書かせている。今しばらくこの恐慌の発生過程について考えてみたい。

 

「他人から不快に感じられたくない」ということ

 まず、二人が普段から何にもまして恐れるのは、他人から不快な人間だと思われることである。嫌悪を目の前で表現されるのが怖いのは言うまでもないが、嫌悪を抱かれること自体がもう怖いのである。この心の機微については、かつて中島義道が正確に言い当てていた。

なぜなら、多くの人は、他人から自分が「不快である」と明言されたくなく、それを明瞭に示す振舞いもされたくなく、さらに――これがポイントである――他人に不快に感じられたくさえないのであるから。

ある組織において、すべての同僚がじつは自分に対して不快であったが、あたかもそうでないように振舞っていたことをあとで知って、彼らに感謝する人はいないであろう。むしろ肩を落として悲嘆にくれ、自分の馬鹿さ加減を呪い、彼らを激しく憎むであろう。

『差別感情の哲学』(文庫版)p. 36
(強調は中島、原文では傍点)

 メンヘラが、他人から嫌われることを何よりも恐れているのは、下巻の終盤に至るまで何度も描写されている。そして病弱もまた、ある程度はその恐れを持っている(これについては後述する)。

 両者は互いに友人のことを気遣い、相手の気分がいいようにしてあげなければとも思っている。お互い性質は違えど病んでいるということもあるから、この思いはそれぞれとても強力である。

  「他人に不快に感じられたくない」ということと対になるように、「相手の意を汲んで、気遣わないといけない」ということがあるのだ。なぜなら気の利かない人間は、よくある友人関係のようなところではだいたい不快に思われるからである(もちろん、そうでない友人同士というのもあろうが)。

 

気遣いと恐れの共振

 思うに、先の恐慌とは次のような悪循環のうちに発生する。すなわち、他人から不快な人間だと思われるかもしれない、という恐れを背景にして一方は他方のことを気遣うが、その気遣いが相手の同じ内容の恐れを誘発・増幅するのである。

 まず、 メンヘラは病弱との約束において、彼女が楽しみにしているのだから自分の苦手な外出にも挑戦しなければとも思っていた。そこで、情緒が安定しないながらも外出してしまう(pp. 99-100)。

 そこで病弱はメンヘラの気分を読み、心配する言葉をかける。そこで、メンヘラは「大丈夫」と答え、気分があまりよくないことを隠さなければならない、と思う。なぜなら、ここで「やっぱり無理だ」と言って引き返したなら、せっかく自分を誘ってくれた病弱の厚意を無碍にしてしまうからである。「面倒くさい奴だな」と思われたくないからである。ここで彼女は、病弱と予定通り問題なく過ごさないといけない、という重圧を意識する。

 病弱のほうからすると、そのように「気分を読んで気遣いの言葉をかける」のは、外出に慣れていないメンヘラを無理して付き合わせたくないからである。そんな無神経なことを続けていたら、自分はこの傷つきやすい友人から拒絶されるかもしれないからである。服屋に着いて後、徐々に外部への反応が薄くなっていくメンヘラに対し、途中で帰ることを切り出すのも、彼女に無理をさせたくないからだ。

 しかし、メンヘラは「帰ろう」という病弱の言葉を、「自分といることが楽しくない」という宣言だと解釈する。そう取ってしまった瞬間、彼女は「私もうダメだ」という恐慌に陥り、涙を流してしまう。この速度に病弱は反応しきれない。まず彼女は涙を見て、自分は何かまずいことをしたのかという驚きと不安に駆られる。そして次に、自分たちの周りでざわめく人々の視線に気づいて、彼女もまた恐慌にとらわれていく。病弱は気がつく、泣いているメンヘラとその理由を問う自分は、客観的には彼女を問い詰めて泣かせているように見えてしまう、ということに。

「ねえ 私が泣かせたみたいになってるよ」

(p. 105)

繰り返すが、病弱も「他人に不快に感じられたくない」のである。通りすがりの人からでさえ、「人を泣かせてるロクでもない奴だ」と思われてしまうのは本当に耐えがたいことなのである。上に引用した悲鳴のような一言は、「(私が泣かせたみたいになってる)けど本当はそうじゃないよね、私はまずいことをしてないよね」という確認を誰にともなく求めているのである。ここでの病弱は目に涙を浮かべており、完全に余裕をなくしていることがわかる。

 そしてメンヘラは、彼女に向けられたものというよりは病弱の独言に近かったこの一言を、自分が泣いていることへの叱責と取る。だから彼女は「ごめんなさい…」と泣きつつもとりあえず謝るのだ。しかし、ここで謝ってしまったことによって、むしろ「病弱がメンヘラを責めている」という外形が完成されてしまう。もちろん、責めていたつもりのない病弱はすかさず「なんで謝るの⁉」と口にするのだが、もはやここにくると、病弱自身メンヘラのことを気遣いたいのか、責めたいのか分からなくなっているのだと思う。

「どうして来たの⁉」

「体調悪いなら来なくてよかったのに」

(p. 105)

服屋のシーンの最後に位置するこの病弱の二言は、おそらくメンヘラに対する気遣いでもあるし非難でもある。どちらも本当である。「責めるようなこと言ってごめん」と後に病弱は言うように、彼女にはメンヘラを責めるというか、「自分はあなたを気遣っていたつもりなのに、あなたが泣いたからあたかも自分が何か悪いことをしたかのような状況になってしまった」という苛立ちが確かにあったのである。

 だが、メンヘラも泣こうと思って泣いたわけではない。彼女は人一倍、誰かに嫌われたのではないか、誰かに不快に思われたのではないか、という恐れが強いだけである。まさにそれが身体的な症状として即座に現れてしまうほどに。それがこのときの彼女なのであり、彼女はそれ以外であることはできないのである。それにもかかわらず、この恐れが、どんな無理をしてでも普通であるようにと彼女自身を脅迫する。

 この無理な努力を試みる彼女にとって、相手の気遣いは、自分が普通に振る舞えていないことのサインでしかない。それを見た瞬間「自分はダメだ」「嫌われる」という恐れが涙として表に出てしまう。すると相手は慌てふためき、ますます状況を悪くするのである。

 以上、気遣いが相手の同じ内容の恐れを誘発・増幅する過程を追ってみた。一つ一つの気遣いに、なんら悪いところはない。服を買いにいこうと誘う。眠くても立ち上がって家を出る。相手の体調を心配する。大丈夫だと答えて気丈に振る舞おうとする。帰宅を勧めてみる。自分の過ちを振り返り、相手の行動の意味を尋ねる。しかし、それらの気遣いが重ねられるほど「他人に不快に感じられたくない」という互いに共通の不安は膨らんでいったのである。

 

恐慌の後で

 この悲惨な一日を終えた二人はどうしたのか。まとめてしまうと、次のことが行われた。

  1. メンヘラは熱を出して倒れた病弱の元に見舞いに行き、互いに謝り合う
  2. それ以降は両者ともに以前のように振る舞い、服を買いに行った一日のことについては互いに言及しなくなる

このうち1では、病弱がまず「元気なフリさせて……ごめん」とメンヘラに謝る。そして、「私のこと 嫌わないでほしい」と涙ながらに訴える。それを見たメンヘラが、自分だけでなく病弱も、他人から嫌われることを何よりも恐れていたのだと認めることになる。

ああ… そうか

私は今まで
私だけが悩んでいると思ってた

違うんだ

病弱ちゃんも 私と一緒なんだ

私と一緒で つらかったんだ

(pp. 111-112)

このシーンで、メンヘラは自分がつらいように相手もつらかった、二人が同じであるような苦しみにそれぞれ巻き込まれたからこそああいうことが起こった、そう理解したのである。ただ、では具体的にどうすればその苦しみを回避できたのかを理解したわけではない。それについては全く語られない。涙を流し、共に苦しかったと、「ごめん」と謝り合うことで、このシーンは終わり場面が変わる。

 その「共に苦しかった」ということの確認だけに、なぜ紙面を割くほどの価値があったのだろうか。思うに、死にそうなほどの苦痛を受けて心身ともに打ち倒された人にとって、自分と同じように不安に打ち倒されている人間がいるということは幾分かの慰めだからである。

「自分を一方的に苦しみに突き落とし、平然と見下ろす他人など存在しない。
「他人から嫌われる」という恐れに打ち克てる者などそうそういない。
だから自分がつらいのもおかしなことではない。
自分が特別に弱くて不完全なわけではない」。

このように、他人たちと同様であるような自分、あるいは自分と同様であるような他人を認めることは、一種独特の安心なのである。人間がどうしても上下の比喩に頼らざるを得ないとすれば、その認識は「自分の上には誰もいない」と判明することだからである。これは、あらゆる点で自分は低級だと思っている人にとっては衝撃的なことなのである。

 続いて2について、メンヘラのモノローグは次のようなものだ。

あれからは いつもと変わらない

あの日のことは 私も病弱ちゃんも 何も言わない

(p. 113)

「あの日のこと」、つまり服を買いに行った日の出来事からは、彼女たちはお互いにつらかったということ以外は何も引き出さない。何がどのくらい悪かったか、本当はどうすればよかったかも考えない。裁判がそもそも行われないので罪も罰も再発防止への提言もない。そして「いつもと変わらない」ように振る舞う。これらは法外に寛大な態度である。なぜなら、お互いに関わってしまったからこそ二人は共に苦しんだのに、その苦しみを認めてなお従来の関係を続けることこそがすでに赦しといえるからである。

 私には、この手の赦しを真似できる気がしない。もし二人が経験したような事態に私が巻き込まれたとしたら、私は穏便に関係を解消するためにあらゆる手段を尽くし、自分の人生から相手の痕跡をできる限り消し去るだろう。「この人とこれ以上一緒にいたら、またああなるかもしれない」という最悪の想定に耐えられないからである。あるいは誰が悪いとはっきり決まっているわけではなかったとしても、自分がつらい思いをしてまで関係を続けようと思わないからである。

 そんな私とは全く異なり、どんな目に遭っても容易には関係を諦めない根気が病弱とけんこうの二人には宿る。それを示すのが「僕たちがいるよ」という言葉なのである。

けんこうくんは

「僕たちがいるよ」

そう言ってくれたんだ 

 (p. 130)

たとえ、メンヘラが「甘えてしまうと迷惑をかける」と思って距離をとるようになっても、この二人は彼女と連絡を取ろうとし、家を訪ね、話をする(p. 213以降)。このような関わり方が全面的に肯定できるものなのかは疑問もある。この、意地でも相手を放っておかないしつこさが、メンヘラと病弱・けんこうとの関係は共依存的なものだと指摘される理由でもある。ただその是非については今回論じるつもりはないので措こう。

 

普通であることと普通でないこと

 こうしてまとめてみると、窮地に陥ったメンヘラにとって希望になりえたのは「自分は他人たちとさほど変わらない」ということの感得であることがわかる。実際、上巻の終盤で病弱がメンヘラにかける言葉も、その感得を支持するものだった。

メンヘラちゃん
外 見てみなよ」

「人ってたくさんいるけれど
みんな生きてるの」

「こんなに たくさんいるのに 生きてる

だから メンヘラちゃん
きっと大丈夫」

(pp. 221-224)

これを受けたメンヘラの、「大丈夫なんだ/私 これからも大丈夫なんだ」というモノローグには、「自分も、相当な確度でそのたくさんいる人々と変わらないだろう」という思いが含まれている。世界の多くの人が生きているから、自分もそうだろう、そんな推論から「大丈夫」という安心が導かれてくる。これは帰納法である。例えば、日がいつも東から何万回となく上ってきたから、明日も東から上るだろうといった考えと同じものである。もちろんそうならない例外も考えることはできるが、上の引用では、二人の目前の「たくさんの人」の多さがそれを圧殺する。

 「自分は他人とそこまで異なっているわけではない」と思うことは、彼女にとっての救いの形なのである。それ以前の彼女は「普通/普通でない」という対立を措定することによって、自分と他人たちが絶望的に違っているということしか考えられなかった。言い換えれば、彼女は自分が普通でないという意識を持ち、だからこそ「普通でありたい」と強く願っていた。というのも、彼女は何としても「他人に不快に思われたくない」のであり、不快に思われたくないなら普通でなければならない(普通でなければ不快に思われる)と考えたからである*3。実際、彼女が自己判断で薬を断とうとしたり、友達と一緒に買い物に行きたいと思ったりするのは、それが普通だと彼女が思っていたからである。

 ただ、メンヘラは今回取り上げたエピソードを通じて次のことに気づく。彼女の思う「普通の人々」も、他人に不快に思われたくないというだけで悩んだり、自分の能力上できないことをやろうとして失敗したりするということに。誰と、何をしに外出することがあるか、趣味嗜好は何か、持病を持つか、何に頼って生活しているかという点が全く違っても、他人たちはそれほど自分と似ていないわけではないと彼女は気づくのである。自分は普通ではないと思う人は、人々が実際どんな姿をしているかにかかわらずそう思えてしまうからこそ異常なのであり、人々のうちの一人でいられなくなるのである。これは異常というよりむしろ認識的な傲慢である*4。この傲慢を自覚するなら、自分/他人の二項対立と対応していた異常/普通という対立は、その区別を残しながらも常にすでに侵食し合うことになる。例えば、メンヘラの趣味嗜好は普通でなくとも、他人から不快に思われたくないという思いは全く陳腐であり、普通である。ただ、その不安によって泣き出してしまうのは普通ではない、などと細かく差異化されることになるのである。

 

 ここで誤解されては困るので、一つ言っておきたい。私は深く悩み苦しむ人に「お前より苦しんでいる人がいる」「悩んでいるのはお前だけではない」というお決まりの台詞を投げることをまったく推奨しない。たしかに、メンヘラは「今まで私だけが悩んでいると思ってた/違うんだ」と気づき、そのことが彼女の希望になり得た。すると、悩める人にはそう気づかせてやればいいんだなと早合点し、意気揚々と上のような台詞を口にする人が現れても不思議ではない。しかしながら、そのようなやり方は誤解に基づいており決して成功しない。なぜなら、メンヘラは「悩んでいるのはお前だけではない」と誰かから言われたことによって、その内容を事実として認めたわけではないからである。彼女がそう認めたのは、嫌われたのではないかという不安と無力感で泣き出す病弱と対面していたからである。言われたのではなく、直に見たのだ(p. 111)。この例からすると、深く悩み苦しむ人が「自分は他人たちとそこまで変わらない」と思うためには、付添人はまさに彼女であるように苦しむ姿を彼女の前で曝さなければならないだろう。彼女が彼女自身を付添人のうちに見るまで、付添人はスペクタクルに苦しむ必要があるだろう。こんな役目をわざわざ買って出る者はそうそういない。そもそも病弱でさえ、好き好んでメンヘラの前で泣き出したわけではない。だからほとんどの人は「悩んでいるのはお前だけではない」と涼しい顔で諭すだけに終わるのである。そして彼女はますます「女生徒の感覚」を深くする。自戒も込めて言うが、跪いてその人と共に苦しみ、わあわあと号泣するのが嫌ならば、あるいは相手の絶望をより深めたくないならば、諭したい欲求を抑えてその場を去ったほうがいいと思う。

 

 何度読み返しても、この作品にメンヘラが劇的に回復したという場面はない。回復のために意識して何かをしたという記述もほとんどない。むしろ、今回読んだ服屋での悲惨な一日のように、どちらかというとトラブルのほうが目立つように感じる。しかしメンヘラのモノローグを追っていくと、彼女の自意識は(「普通」ということに関して)確実に変わっていったのではないかということが推察できる。彼女が、物語開始時よりも悪いどん底から「大丈夫なんだ」という安心に至るまでのアクロバティックな過程はまさに奇跡である。つらいときに他人がつらそうだと安心する、という後ろ暗い感情は、自分は他人たちと似ているという認識に変換される。これはひとえに関係を諦めなかった病弱やけんこうの存在あってのことだが、もちろん彼女たちが事態をすべてコントロールできるわけではないから、この結果に至ったのはほとんど運である。この物語には恐ろしい不運もあるが、最終的には三人は運に恵まれる。冒頭で私はさんざん怖い話だと言ったが、幸運を信じれば安心して読み進められる話でもある。

 今回はあまりにも悲惨なシーンに注目しすぎたが、下巻になると並の恋愛物語よりも恋愛感情について考えさせられる描写もある。したがって、『メンヘラちゃん』は単なるメンタルヘルス系漫画にしてしまうのももったいない作品ではある。そういうわけで、いずれこの作品の下巻を中心に記事を書くこともあるかもしれない。

 また、「私たちはなぜ悲惨な経験を語りそれを喜ぶのか」ということについても今回の記事に取り入れるつもりだったが、都合がつかず削ることにした。これも後に別の記事として書くつもりである。

*1:注意しておきたいことだが、この軽さに伴う笑いは決して明るいものではない。理不尽な目にあっても、信頼できる大人に「これは問題だ」と訴える気すら起こらない若者は、ただ笑うしかないからである。

*2:紙書籍の場合、ページ数表記が本の内側に近いところにあり気づきにくいので注意。

*3:たしかに学校生活の中では、子どもは群れの中で同じ行動をとらない子どもに対してたいてい冷酷であるように思われる。実際、メンヘラ自身の語る小学校時代はその種の冷酷さに接した経験だった(p. 84)。

*4:しかし、これを言ってしまうと、先の「みんな生きてる」からメンヘラも生きる、という論理は成り立たなくなってしまうかもしれない。もちろん人はその人によっては死ぬからである。