岡本裕一朗『ヘーゲルと現代思想の臨界:ポストモダンのフクロウたち』読書メモ

読んでみたら重要なことが多かったので書き留めました。

未だに誤解されることがあるヘーゲル像の修正に役立つかもしれないと思い、公開します。ちなみに、近年また人気のジュディス・バトラーにもヘーゲルは関係が深いです。バトラーはヘーゲル研究から自分のキャリアを初めたからです。

また、以前読書ノートを書いたジェシカ・ベンジャミンも、ヘーゲルの「主人と奴隷」の部分や相互承認について語っており、今回の本と響き合うところがあるのではないかと思います。

dismal-dusk.hatenablog.com

私としては、5、8、9、10章が特にヘーゲル思想の意義を感じたところでした。たしかに、フーコードゥルーズの語るように、最後には和解に至るとか、戦闘や排除がなくなるとか考えるのは楽観的かもしれません。昨今は法も国家も碌な働きをしないし革命したくなっちゃいますよね。しかし、あらゆる秩序から逃げたり戦ったりしようとした諸氏が、結局新しいサークルを作ってたくさんの人を巻き添えに死んでいったのを見てくると、そういう逃走線を考えることすら無理ではないかという気がしています。まあ私にはそもそも一緒に既成秩序を抜け出してくれるような人望もないので無用の心配なんですが、一緒に逃げた人とも結局は人間同士である以上ルール決めをしなければならず、ダルいけど結局「法」に頼ることになるだろうと思うのです。だとしたらヘーゲルの言うような「ガイスト」による共同性の範囲内で、内ゲバを収めつつやっていくことは、たとえ国家が消滅した後でも必要になる気がします。もちろん、68年とかから随分経って、改良主義的な方向が言われて何十年ときて、一向によくならないと痺れを切らして暴れたり全部放棄したくなるのも当然だとは思うのですが。

 

話のスケールを少し縮めます。いま苦しい少年に対して「時間が経てばいつか大丈夫になるから」と大人が言ってなだめすかすのは、私が最も憎んだシチュエーションです。でも今は、そう言いたくなる大人の気持ちも少しわかります。

よろしい、あなたの苦しみはあなただけのものです。仮にそれに対して後で補償金が出たとしたって、あなたのつらい記憶は決して消えないし癒えずに痛み続けるでしょう。ただその苦しみとやらをよく検討してみると、あなたのそれは必ず社会で流通している考えを背景としていて、他の人々も大抵は同じようなことで苦しんでいます。言ってみれば凡庸な悩みなんです(だからといって他人から軽視されるいわれはありませんが)。そんな凡庸さにしがみつくことで何か特別な存在になれる気でいるのでしょうか?  私はこのように苦しんだ、だからお前らとは違う、他の誰の苦しみも一切わからない、わかるつもりもないと意地になり続けることは、少なくとも高校生の私には不可能でした。インターネットを見ていると、やがて「他の人とは違う私でありたい」と望むことの平凡さに気づいて恥ずかしくなったからです。私は歴史の教科書に残るような特異な苦境を経験することはなく、あまりに凡庸な思春期を送っていたので、世代や居住地の違う名もなき人々の苦しみにも安易に自分を見ることができました。それが結果的に私自身をも救いました。もちろん、これは私の場合であり、当時の私と状況が違う人には別の理論が必要です。ただ現在の私は、私も含めて、この現実にそこまで唯一無二の人なんていないのではないかと疑っています。人間が持っているパラメータ自体はだいたい似たようなもので、状況によりだいたい似たような行動をし、似たようなことを言うものではないかと思います(そうでなければ都市部というのはどうしてどこもあれほど混むのでしょうか?)。もちろん、それぞれの生きてきた履歴や時代や地域の状況が異質でも、どこかは必ず誰かと重なる余地があります。だとしたら、相互承認というのも荒唐無稽なアイデアではないと思っています。私は他の人々と大差ない私であり、それを信じられることは、私が人々の中で生きられる可能性です。もしかすると、「いつか大丈夫」と言った大人は、そういうことを私に伝えたかったのかもしれません*1

 

1対1の関係で考えても、私は死ぬまで相手と戦い続けるなんて嫌です。だから私はすぐに主人か奴隷かになろうとします。ただ、その状態で自分の立場を徹底しようとか、立場を逆転しようとか思ったところで何にもならないし、どちらかが死んでその対立が終わるのも後味が悪いです(数年前でも未だに私は不快感があります)。私は先に進みたいです、相手も自分も生きているままで、しかも棲み分けるのではなく*2。一度は主人と奴隷になっても、互いのことを(「差異」をではなく)承認できるように。頭お花畑な考え方だと思いますか?

 

以下メモ(内容を網羅するものではありません)

★…本にはないコメント。

  • 序章(略)
  •  第1章
    • ヘーゲルでは「主人」と「奴隷」の対立が描かれる場面があるが、この「主人」と「奴隷」の立場は逆転しない。「主人」が「奴隷」に逆転することも、「奴隷」が「主人」に逆転することもない。ただ、議論としては、「主人にとって、対象としての真理が奴隷である」ことから、話題が奴隷の経験に移っていく。しかし、この移行は「主人が奴隷になる」ことではない。主人がどうなるかは何も言っていない。主人にとって、自分がどういうものかという証拠になってくれるものの一つが奴隷だ、ということでしかない。
      • 43-44 「結論的に言えば、「主人は奴隷に逆転する」ことはないし、「奴隷が主人に逆転する」こともない。このことは、テキスト解釈を離れても明らかだと思われる。なぜなら、主人と奴隷が逆転したとき、いったい何が成立するかを考えてみるとよい。主人が奴隷になり、奴隷が主人になるのだったら、ふたたび「主人‐奴隷」関係が出来上がるだけではないか。かんたんに図解すれば、一目瞭然である。
         ここでは、主人と奴隷が交互に繰り返されるだけで、この関係は終わりなく続いている。こうした事態は、ヘーゲルの用語で言えば、「悪無限」と表現できる。こうしたことを、ヘーゲルが論述したとは信じられない。」
    • 奴隷は、主人になるのではなく「ストア主義」という新しい自己意識の形態へと移行する。そして、ストア主義は他の形態の意識と「主人‐奴隷」という形で対立するわけではない。
    • 多くの研究者たちが「逆転」を語るのは、精神現象学のいち展開にすぎない「主人と奴隷」関係に、歴史全体に貫通するような「支配‐被支配」の関係を読み込んでしまうからだろう。サルトルやイポリットが、マルクスの解釈に影響を受けたことも、この神話を助長した。
  • 第2章
  • 第3章
    • 最近の文献学的研究に基づいて、精神現象学の成立過程を追う。
    • ヘーゲルは、「第一部 意識の経験の学」として、今日の精神現象学の途中までを書いて、出版社に印刷させた。「第二部 論理学」を続けて書こうとしたが、まだできていなかった。出版社は残りの半分を出せと言いヘーゲルと喧嘩したので、ヘーゲルは計画を変更して、最終章「絶対知」の前に、精神と宗教の章を追加してページ数を稼ぐことにした。そして、肥大した第一部を「精神現象学」と改題して完成させた。しかし、すでに「意識の経験の学」として印刷させた表紙が一部で取り替えられなかったため、同じ内容なのにタイトルが2つあるという状態が生じてしまった。ヘーゲルは、おそらく途中で急いで書いた部分を指して、最後の部分に不格好が残ってしまったと手紙で言い訳している。
  • 第4章
    • ヘーゲルはたびたび、体系を作らねばならない、体系でないものは主観的意見の吐露でしかないとまで書いている。しかし、体系を志向していたことと、実際に彼が体系を完成していたのかは別の問題である。
    • ヘーゲルの「体系」について批判したアドルノも、哲学は世界全体を説明できるような体系を目指してきたことを認めている。プラトンもカントもドイツ観念論もみんな体系を目指した。ヘーゲルだけが「体系家」というのは不適切だろう。
    • ヘーゲルの思想は簡単に言うと3つの時期に区分できるが、『精神現象学』が最初に入っていた「現象学体系」は哲学史の中でも異例だった。論理学・自然学・倫理学というストア派以来の伝統に当てはまらないからだ。しかし、ヘーゲルはこの独自の体系構築を途中で諦めてしまった。論理学のあとに出す予定だった「精神哲学」「自然哲学」を結局書かなかった。ごく簡単な『エンチクロペディー』という短い本でそれに替えた。
    • 『エンチクロペディー』の時期も、「体系」と呼べるものかは怪しい。その本は、初版ではわずか288ページの短いもので、教科書として利用することを想定していた要綱的な本だった。ページ数が後に600頁以上に多くなってしまったのは、弟子たちがそこに色々付け加えて、「第一部論理学」「第二部自然哲学」等を捏造したのだ。ヘーゲルが直接書いたのは第3版までで、1巻だけで補遺もなかった。
  • 第5章
    • ヘーゲルの2つの「論理学」はしばしば、「神の叙述」と評価され過去の遺産扱いされることが多い。しかし、論理学の言葉遣いを厳密に見てみると「神の叙述と表現することができる」とか、「できる」と言っているだけで断定しているわけではない。そう言いたければ言ってもかまわない、ということ。論理学の応用が自然哲学や精神哲学なので、どうしても「自然と有限な精神の創造以前」みたいな表現になるが、神そのものの話はしていない。★アリストテレス形而上学(メタ自然学)が本来は神の議論じゃないのと同じか
    • 論理学の中にはしばしば、「量から質の移行」が取り上げられているとされ、水の相転移の比喩が持ち出される(エンゲルス三浦つとむ)。しかし、ヘーゲルはそういう自然にみられる過程について考えたかったのではない。私たちは通常、量と質を独立して存在すると考えているが、ヘーゲルはその関係自体を問い直したかったのだ。ヘーゲルはだから、「量とは止揚された質」だという。これはカテゴリー間の連関であって、水やその温度そのものの話ではない。
    • 論理学が取り扱うのは、私たちが言葉を使うとき、意識しないで使っているカテゴリーのつながりの姿である。日常では意識しないが、カテゴリーは網の目のように連関している。
    • 「存在」と「無」、「質」と「量」をまったく別個のものとして扱う論理学では、それらの間のつながりがわからない。それぞれのカテゴリーはそれ自身のうちに自分自身の否定を持っており、その意味内容を解明すれば自分自身の他者に導かれる(=弁証法)はずだ。こうして、私たちの思考を暗黙に規定するカテゴリーの連関をたどるのが「思弁的論理学」である。だから「存在は無である」みたいなことをヘーゲルは言う。
    • ヘーゲルの論理学は、構造主義でいう「差異の体系」にも通ずるところがある。ヘーゲルは、体系を構築するときに言葉の多義性を利用しつつ、言葉の意味をずらしながら論証を行う。ヘーゲル自身は、その意味のずれや多義性を言葉の「思弁性」と考えていたようだが、第三者からすればこじつけに見える。ただ、この論証の進め方は精神現象学でも共通。私たちの思考のネットワークの解明が完全に終わっていないのであれば、まだヘーゲルの論理学を捨てるのは早いだろう。
  • 第6章
    • ヘーゲルの『法哲学』は、当時のプロイセンの現状を肯定し全面的に追認する本として悪名高い。しかし、ヘーゲルが本来行っていた講義とは随分内容が異なり、これは国家の自由主義弾圧が強まった動きに対応してヘーゲルが改定を加えたらしいという話もある。とはいえ証拠が十分でないので、『法哲学』が国家の御用哲学という評価が当たっているかを考える。
    • ヘーゲルが、自分の時代の現実として肯定していたのは、国家というよりも「私的所有」が可能になったという点だ。私的所有と各人の意志を尊重することが何よりも重要であり、それがなかったからプラトンの国家は不当だと言っている。
    • ヘーゲルは、市民社会(各人が全面的に相互依存しあっている)を国家とは別の概念とした。この市民社会では、富が過剰なのに十分には富んでいない状態に陥る。この状態の改善のために、国家が統治権を行使して管理を行わなければならない。彼は、進歩的(フランス革命)・反動的(プロイセン国家)といったスケールの話はしていない。彼なりの理想から、プロイセンフランス革命の批判すべき点・肯定できる点がある。そして、彼が考えた市民社会の問題は決して過去のものではない。
  • 第7章
    • ★あまり使い道が分からなかったので簡単に。
    • ルカーチの思想に引きずられて、外化・疎外 には特殊なイメージがついてしまった。良かったものが外部に他のものを生み出し、その他のものが自立して、よかったものを脅かす。その他のものを、良い形で取り戻さないといけない、という発想。
    • こういう疎外論の発想は、疎外論を批判したハーバーマスさえも陥っているものである。
    • ヘーゲルはそんな訓話めいたことを言いたかったのか、という疑いがある。彼は、むしろそういう訓話を暗黙に支配する論理(メタ訓話)を見たかったのであって、メタ訓話訓話を対置するのは確かに有効ではないだろう。國分功一郎の何かの本に、疎外論的発想の例がいくつか書かれていた覚えがある。
  • 第8章
    • 精神現象学では「欲望」は、外的な差異を克服し自己満足した主体になろうとする企てだ(バトラー)。しかし、現代フランスの思想家は「自己満足する主体」などありえないと批判した。
    • 190 フーコーは、支配関係が相互承認に至ることなどなく、規則が戦闘に取って代わるなどということはなく、支配から支配へ進むだけだといっている(歴史学、考古学、系譜学)★悲観的だな
    • カトロッフェロは、精神現象学の続編が書かれなければならないという。ヘーゲルの絶対知が成立するときの相互承認する「われわれ」はどちらも男性的な主体なのではないか。「われわれ」から、ジェンダーエスニシティ・階級などの点であらかじめ排除されたものはいないのか。
      • 195 >どのようにして「私は考える」から目的である「われわれは存在する」に到達するのか、しかも、この「われわれ」を密かに個々の主体自身の自己理解に還元しない道を通って到達するのか、が可能となる条件を具体化しなければならない。(『暁のフクロウ』)
  • 第9章
    • ヘーゲルの思想の中でも「ガイスト」ほど多義的な言葉もない。ガイストは、個々人の心のことでもあり、世界精神や民族精神というのが言われたりする。象徴ネットワークを形成し、社会の秩序を維持する、欲望をそれぞれに方向づける原理が「ガイスト」だ。そしてガイストも「主体」である。★ただ、孤立した主体ではない。
    • 主体の死というのが言われたりするが、そういう論者も、他者と(気づかぬままに、嫌々ながら)相互承認を行い従属することによって立ち上がる何者かの話をしているわけで、結局「ガイスト」の動作の仕組みについて話しているわけだ。たとえばアルチュセールイデオロギー論。そしてラカンの欲望論。
    • ヘーゲルの主奴論の始めでは、二人の人間が自由を求めており、自分が自由であることを他人の姿によって証明しようとして戦う。ここでどちらも絶対に自由を求め続けたら、両者とも死ぬか、片方が死ぬかになるが、そういう結末をヘーゲルは認めない。永遠に戦い続けるのではなく、自由を選んだ主人と生命を選んだ奴隷の関係に移行すると考える。
    • しかし、ドゥルーズはこれを奴隷道徳として厳しく批判している(『ニーチェと哲学』)。ガタリとの共著『アンチ・オイディプス』などからすると、自由を犠牲にして生命を選ぶことなど不可能なのだ。しかし、生命を選ばず誰も隷属しないなら、すなわち何の社会秩序も成立しない。そんなことが可能なのか? 社会秩序は現存しており、歴史的にも絶えず維持されてきたことをどう説明するのか。
    • ラカンは、ヘーゲルの主人と奴隷について「自由かそれとも命か」と迫られたとき、自由を選んだら両方とも即座に失い、「一巻の終わり」だと述べていた(『セミネールⅪ 精神分析の四基本概念』)。生命を選び、奴隷として生きることは一面では居心地も悪いが、言葉を使うかぎり、その規則や意味に従い、法などの掟を受け入れなくてはならない。それらの編成はもちろん変わっていくが、象徴のネットワークや社会秩序がすべて消失することは考えにくい。だから、「ガイスト」について考えることにまだ意味はあるはずである。
  • 第10章
    • 現代政治哲学の「承認」と、ヘーゲルが提示した「承認」は同じものではない。
    • 239~ 現代の承認は、当然のごとく「差異」と結び付けられる。
      「簡単に言えば、「承認」とは「差異」を認め、同一化を排除することなのだ。文化間の差異を尊重したり、男女の差異を[ママ]固執することが、「承認」とみなされている。(……)/しかし、「差異の承認」というのは、「承認」概念としてはきわめて特殊であり、ヘーゲル由来とは言えない。その点は、「主人‐奴隷」関係を考えてみれば、即座に了解できるはずだ。というのも、「主人‐奴隷」論において、「差異の承認」を主張するのは、支配関係の永続化に他ならないからである。」(筆者)
    • 「差異の承認」は寛容あるいは相互無関心の考えであり、集団の分離主義を生み出すだろう。ヘーゲルにとっては、承認は他人との差異を克服し共同性を形成する原理であり、分離主義を目指さない。
    • 主人と奴隷は、一方がどちらかを打倒することによって自由になるのではない。双方が我意を放棄することによって、主人のかわりに「法」が支配する状態になり、暴力的支配は不要になる。このような共同性を形成する相互の放棄を承認と呼ぶ。
    • ヘーゲルは、アイデンティティを主張したり、差異を尊重することを目指してはいない。ヘーゲルがもともと考えていた承認概念を見直せば、デリダの「歓待の倫理」にも接続が可能ではないか。
  • 第11章
    • アメリカでのヘーゲル再評価。1950年代、セラーズが分析哲学の伝統の中ではじめてヘーゲルに言及を行っていた(『経験論と心の哲学』)。
    • ブランダム『明示化』(1994)がローティ、ハーバーマスから評価を受ける。ブランダム自身は、ヘーゲルを読むことで考えを形成したと書いている。
    • 以下ブランダムの議論。カントとヘーゲルに共通するのは、「概念の規範的性格」だ。判断し行為することを導くのは概念である。これは、後期ウィトゲンシュタインがいった「言葉の意味とはその使用である」と関連付けることができる。概念の使用がその意味を規定する。使用によって与えられる内容を離れては概念は何の意味も持ちえない(プラグマティストのテーゼ)。カントとヘーゲルはともにプラグマティスト的だ。ただしカントは概念の確立と適用を分けるが、ヘーゲルはこれを分けない。カルナップよりクワインに近い。
    • 概念の規範的性格は社会的な特質をもつことになる。何が正しいのかという判断や行為は社会的に達成される。
    • 258-9「たとえば、私がチェスをするとき、「どのコマを動かすか」は自分で決めることができる。ところが、「どのようにコマを動かすのが適切か」は、私が勝手に決めることはできない。これについては、「他者に依存する」からである。」(筆者)
    • 自己は相互承認によって統合化されており、共同体もまた、多数の自己からなる構造化された全体として、相互承認により統合されている。ただこの共同体はアイデンティティによって固まっている個々の共同体のメンバー全員を含んだ一つの大きな共同体のことであって、その承認は「差異の承認」ではない。
    • マクダウェル『心と世界』(1994)。序文で、この本はヘーゲル精神現象学読解のプロレゴメナですと宣言。「ヘーゲルと所与の神話」(2003)で、セラーズの言及をヒントにカント哲学の不徹底を突き、ヘーゲルを評価する。
    • マクダウェルはブランダムと違い、ヘーゲル思想の社会的性格や共同体への志向を強調しない読解をしている。
    • マクダウェル、ブランダムのヘーゲル評価には、ドイツの哲学者や他のヘーゲル研究者から批判もある。ex. 精神現象学は近代社会の分析の本ではないだろ(ホルストマン)。しかしドイツでも、アメリカの分析哲学プラグマティズムの展開に合流しようとし始めている。分析哲学と大陸哲学の分裂は解消されつつある。
  • 終章
    • 絶対知とは、意識と対象の対立が克服されたとき成立するもの。絶対知に移行するには、「対象性の形式」を止揚しなければならない。つまりイエスとかの外部的なイメージに頼らずに、意識と実在の一致を確認しなければならない。それを達成するための契機として、ヘーゲルは「観察」=頭蓋論、「啓蒙」=有用性、「良心」=ロマン主義者 に期待した。★これらは、物と精神を統一的にとらえる仕方だから。ヘーゲルは自分の時代の動向に興味をもち、それと絶対知を結びつけて考えていた。
    • 現代でいうと、絶対知に移行するための契機はなんだろうか。ヘーゲルの時代の「頭蓋論」にあたるのは、現代では脳科学遺伝子工学だ。「有用性」にあたるのは、ルカーチがかつて解釈したように「資本主義社会」だ。また、有用性というとハイデガーの道具論、あるいはドゥルーズのいう管理社会に結びつけることもできる。
    • 「良心」について、ヘーゲルは3つのタイプを論じている。①行為する良心、②批評する良心、③アイロニー的良心。
      • ①は、正義を直接的に確信しすぐ行動に移す。現代でいうと(イスラム圏の?)原理主義者か。
      • ②は、①をあれこれ批評し、じっさいには正義に反していると説く。これはロールズ的な「リベラリズム」だろう。しかしそれも言ってみれば「西洋原理主義」では。
      • ①と②の相互承認に移行する時に見られる③は、ヘーゲルの時代ではF.シュレーゲルが想定される。こうした、自分の立てるどんな規定も偶然的で虚しい仮面だとしていつでも放棄してしまう態度は、リチャード・ローティのような「リベラルなアイロニスト」にあたるかもしれない。
    • 絶対知は現代の状況において常に読み替え可能である。絶対知は、他のそれまでの意識形態と違って具体的な内容を持っておらず、だから「想起」と呼ばれる。絶対知とは過去に実現された「一つの精神形態」を指すのではない。過去の意識形態の捉え直しを常に行うこと以外にその内容はない。

*1:最近は、「大人」への反発がネット上でブームなのでしょうか。30歳以上の言うことは信じるな、という誰かの格言をよく目にします。しかし身体の年齢だけで人を区切るような発想が根拠なく出回っている経緯はよくわからないところです。

*2:この狭い島国でどうやって棲み分けろというのでしょう? それとも、経済的には依存し合っていても、ネット上でブロックして相手の生活をできるだけ見ないようにして、心理的に切り離されていれば大丈夫ということでしょうか。すると震災時には?