流行曲に性愛疲労の物語を見出してしまう話(DAZBEE『アディオス』/YOASOBI『アイドル』)

この記事で、『ダーリン』という曲はアロマンティックの視点から共感できる、としていた人がいたことを書いた。

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こういう解釈は他の楽曲でもコンテンツでも可能だろうと思っている。ただ、私は「そういう風に受け取ることもできる」と言うのであって、「特定のアイデンティティの人のためのコンテンツです」などとは保証しない。だから試した結果ぜんぜん自分に合わなかったというクレームは受け付けない。私はアロマンティックまたはアセクシュアル(Aro/Ace)のすべてを語る権限はそもそも無い(そんな権限はたぶん誰にもない)。そして私はその当事者とも言い切れない。

Aro/Aceとそうでない人の分かれ目はなにか。それを名乗るか名乗らないかで線引きしても、ある意味ラディカルでいいのかもしれない。しかし私は教科書的な理解に沿って、三次元に生きる手近な人間との性愛を積極的に求めるか否かだと思っている。これは、そういう性愛を過去に試したことがあるか否かを問わない。

Aro/Aceを任ずる人に「試してみないと本当にそうかわからないでしょう」と言うことがなぜおかしいか。例えば、異性愛者は同性の相手と性愛を試そうと思わなくとも、自分は異性愛者だと確信している。それが有効なら、自分が三次元に生きる手近な人間との性愛を志向しないセクシュアリティであるのは、たとえそれを試さなくともはっきりわかる、ということに論理上なるだろう(私が初めてこのような説明に触れたのは、四ツ原フリコ『セックスしたい、したくない』のあとがきであったと思う)。

以下にみるのは、(三次元に生きる手近な人間との)性愛を積極的に求めるとは言い切れないが、試そうとは思っている人たちの気分であり、そういう意味では「クエスチョニング(Q)」にあたるのかもしれない。そんな余計なプロセスを踏まなくてもいいのにとか、ちゃんちゃらおかしい、そんなのはマイノリティではないと憤る向きもあるかもしれない。ただこの検討に入ると本題がいつまでも始まらないのでとりあえず後日考える。この記事では必要に応じて注釈を加える。

いろいろな事情や忖度により(三次元に生きる手近な人間との)性愛を試そうと思いつつ、全然いい思いがないし何もうまくいかない気分。とりあえず、この記事ではそれを「性愛疲労」と暫定的に称することにした。以下はそれを写し取った楽曲として受け取ることができなくもないと私は思うし、今の私はそう受け取ってしまう。そして、もしこの世のどこかにそういう気分で受け取っている人がいたら、私は一時的には心強い気がするし、その人にとってもそうだろう(といいな)と思っている。

 

DAZBEE - アディオス

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逆に、このMVをほかの人がどのように受け取っているのか知りたい。繰り返し聴けば聴くほど、私は次のような物語を想像する。

恋愛の高揚感というものがまったくわからないが、寂しいという気持ちは理解できるので(または、恋愛をしたことないとなにか自分が未熟であるような気がするので)、色々手近な人と恋愛らしきものをやってはみるものの、どこか茶番劇のような感触を拭えず、数回会って特に生活も交わらせないまま関係の解消を繰り返す。その解消に際して揉めたり、かつて親しかった相手にも気まずさを感じて二度と会わなくなる。

しかし「恋愛の高揚感というものがまったくわからない」と言っても、相手には首を傾げられたり憐れまれるばかりで、分かり合えることはない。それによる苦しみを世の中は気づいてくれることもない……

「恋」を扱いながら、ここまで絶望的な歌を私は他に知らない。こういう解釈から出てくるのは、「性愛に対する感性が違う人間同士分かり合うことはできない」という断絶はもう前提として、どうしてその断絶を相互理解にまで持っていかなくてはならないのか(理解などしなくてもいいんじゃないか?)、という反問である。

僕ら分かり合いたいが分からない
それが当然だと分かるけど

『アディオス』

これは前提である。問題は次だ。

僕ら分かり合いたいが分からない
都合よく見えないよ大体

『アディオス』

この一節の「が」が、私には逆接ではなくて主語を示す助詞に思えることがある。つまり、「僕ら『分かり合いたい』が分からない」という風に聞こえることがある。

感受性が違っていても、個人間なら衝突しながら分かり合っていくことができる、そうすべきだという価値観は、逸脱者をなんとか既定のレールに戻そうという方向で制度が作られていた「包摂型社会」ではもっともらしく響いたかもしれない。しかし今では事情は変わったようだ。分かり合うことはできなくともとりあえず経済的に生かし合えればいいだろ、みたいな考えが割と優勢に思えている。もう相互理解は流行らない。不毛な軋轢を避けるため、互いに棲み分けるべきだと。いくら話し合いを重ねても、相手の望むことや期待していることが都合よく見えるようになったりはしない。だから「僕は分かり合えないなら逃げたい」となるのではないか。

しかし、いろいろな事情や忖度があり、そう簡単に手近な人間との恋愛をしなくてもいいと開き直ることは中々できそうにない。次の部分は、現行のおかしな価値観(恋愛伴侶規範)に基づいて自己認識をした結果、自虐するしかない人の心持ちを描写しているかのようだ。

誰も私に興味ない
ガラス1枚挟んだ声しか知らない
って誰にも言わないけど
ただの怖がりだって分かってはいるけど
僕には僕が青くて青くて仕方がないだけ

『アディオス』

具体的な情景を当てはめる。マッチングアプリやその他のデーティングサイトを通じて適当な相手と通話しても、結局会ったりはせずに、何か倦んでしまいそれっきりで終わる人の話を身近でよく耳にする。なんなのだろう、その無駄としか思えない時間は? そうして関係から途中で降りることを「ただの怖がり」と自虐するわけだが、実際に性暴力とかの危険があることを考えると、その警戒はむしろ必要なものであるとは思う。むしろ、ネットでも何でも使って勇気を持って関係を進めなくてはならないと煽る人々の言説のほうが無責任であることは注意されてよい。ただ、この自虐的な気分を持つ人はそんなおかしな価値観を付け替えることが今はできないのだ。

「自分にとって自分が青い」というのはどういうことだろう。日本語の「青」は草木の緑と関係があり、「青田買い」や「青二才」という言葉があるように、若さや未熟さと結び付けられる。作詞・歌のDAZBEEは韓国出身であるが、韓国語版字幕にある「푸르다」も植物の緑色を表すことができ、「熟していない」という含意もあるようだ(ただし、通例では人に対しては用いない)。私はこの青のイメージから次のような通俗的な想像をする。つまり、恋愛をしなければ成熟はできないのではないか、というおかしな価値観*1のもとで、それを振り切れずに苦しむ人の描写として、このフレーズを受け取る。

 

この曲について「アンニュイ」と紹介されている記事を見たが、どちらかというと私は、時々入る不協和音やぶつ切り感が印象に残り、不快感に窒息させられているかのような緊急性を覚える。「そんな目で見ないでよ」「憐れまないで」というフレーズを聴くと、自らの個人的な経験もあって叫び出したいような気分になる。その裏に、どのような無神経な言動があったのか。

「アディオス」は、気軽な別れの言葉ではない。通常はもう二度と会うことがない相手に対して使う挨拶だ。この言葉が何度も使われる曲の構成自体が、私にはかなり自傷的で救いがなく思えてしまう。「逃げたい」「いっそ恋してみたい」と望みながらもどこにもたどり着けず自虐するしかない、ただ性愛のとば口で疲労する人の姿。改めて思うが、他の人はこの歌をどのように受け取っているのだろう?

 

続いてもう一曲挙げておきたい。といっても、もう多くの若年層は一度は聞いたことがあるだろう次の曲である。

YOASOBI - 『アイドル』

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ちなみに私は『【推しの子】』は原作を一巻読んだだけでアニメも見ていない。

今回の話に関係するのは、次の部分である。

「誰かを好きになることなんて
私分からなくてさ」
嘘か本当か知り得ない
そんな言葉に
また一人堕ちる
また好きにさせる

『アイドル』

まず、この曲のタイトル『アイドル』や、『【推しの子】』の登場人物「アイ」の表面的なキャラを鑑みれば次のような解釈が出てくる。これは「」部分の言葉をあえて言うことで、初心さやちょっと浮世離れした印象を付与し、プライベートを隠しつつもファンを増やす戦略の成功を描いているのだと。

 

しかし、すでに性愛疲労の気分を嫌になるほど確認した文脈からすれば、この場面はどう見えてくるだろうか。それは「アディオス」で歌われるような人が「恋愛の高揚感というものがまったくわからない」と説明したところで、その気持ちがそのものとして受け取られるより先に、聞く者にかえって恋愛めいた執着を喚起してしまうという悪夢的な状況なのではないか。

本来「誰かを好きだという気持ちがわからない」という告白の裏に、何か別の意図を読み取る必要はない。特に、アイドルが複数人に向けて宣言しているのではなく、プライベートな関係でふと言われる場合には。しかし、まずそれが嘘か本当か疑われ、そして、ある種の「かまとと」、あえて清純を装う媚態として解釈されることは実際よくある。そしてより無邪気な者が言うには「まだそういう相手に出会っていないだけなんだ」とか「自分との関係であればそれ(誰かを好きだという気持ち)が分かるかもしれない」云々。「そうなんですね~」と答えて今まで通り接するという選択肢が彼らにはないらしい。常識からかけ離れたことを言われるから、びっくりしてつい紋切り型を提出してしまうのだろう。「どうして人を殺してはいけないのか」という問いに驚愕して直ちに少年殺人鬼をイメージする教師たちと同じだ。そういううんざりするような顛末が、私には先に引用した部分には見えたのである。

『アイドル』のMVでは、そびえ立つ大きなハートを見上げるアイが、それをおそらく不思議に思って、そっと触れる。しかし結局はその内実を感じられないままに、そのハートは無数の小さなハートとして飛び散るだけだ。率直な告白すらまったく逆効果で、同じループがまた何度か繰り返されるだけだとしたら、どこに出口があるのだろうか。それとも、「誰かを好きだという気持ちがわからない」とあえて言っていく先にそもそも出口などないのか。逃げたいと思いつついっそ恋してみたいと思いつつ、口をつぐんで生きていくべきなのか*2。いつか性ホルモンが落ち着く年代になったら、人類が単為生殖を始めるようになったらすべて解決するか。それまでの時間が耐え難いからこういう楽曲が作られたのではないかと、私は思っている。

 

*1:これに反対してきた人としてポピュラーなのは小谷野敦であると思う。

*2:ここで「ソープに行け」などと言い始める人はこれまでの文章を読んでいませんね。最初に、私は性愛を経験したかしないかにかかわらずそういう気分を持つ人がいることを認めざるを得ないと説明したはず。