不機嫌と性欲(『「ハネムーンサラダ」の隠し味』第5章)

当記事を読む前に

当記事は予告なく削除されます。いかなるソーシャルブックマークSNSによる一言コメントも無駄に終わりますので行わないでください。仕組み上可能ならば他人の言葉をどう扱ってもいいと考える方が最近は多そうなので、あえて言っておきますが、嫌なのでやめてください。私は嫌だといいましたが、あなたは他人が嫌だと言っていることをわざわざやろうとする呆れた人ですか? そうでないことを願います。

ちなみに、当記事を頭から終わりまでどこかに無許可で転載したらそれは剽窃です。

 

当記事と同じ文章が以下の個人誌に収録されています。削除後はそちらを参照してください。

dismal-dusk.hatenablog.com

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「ハネムーン サラダ」の隠し味 | pictSPACE - 創作活動を支援する同人専用自家通販サービス

 

以下、本文

 


「ハネムーン サラダ」は作者自身も語るように、序盤の陰鬱さが一つの特徴である。

主人公の夏川実の悩んでいる部分とかモヤモヤしてたり落ち込んだりするマイナスの感情の部分が全て自分の中にあったものだったので連載の初期は彼は常に不機嫌で訳もなく暗い。

(二宮2002:86)

 この引用で、連載初期の実について「不機嫌」「訳もなく暗い」と言われていることは非常に重要である。実際、彼の暗い気分や不機嫌には訳=明確な原因が見いだせない。

 とはいえ、その原因と言えそうなものはいくつかある。転職後の慣れない環境、家族との軋轢や思い出される過去の破局、見知らぬ他人との衝突(一花との最初の接触)など。しかし、時系列としても離れているそれらの断片的なエピソードは一つの明確な感情を呼び起こすことはなく、それぞれが絡み合い鬱屈した気分として実の視界のうちに張り付いている。

 この気分に対して、実は一人きりでは為すすべがないと感じている。原因がわかっていれば、それについて内心で反論したり、正当化したり、悪態をついたりすることもできるだろう。しかし、その原因がはっきり特定できないためにそのような手段は奪われている。気分に打ちのめされている不機嫌な人間は、その気分を紛らわせてくれるような、ある特定の他人を求めることになる。

 

不機嫌は特定の他人の同席を要請する

 批評家の山崎正和は、日本の近代文学者たちの「不機嫌」に着目し、不機嫌な人間はある特定の他人を必要としていると指摘した。山崎が始めに例に挙げるのは、志賀直哉の『大津順吉』の不機嫌な主人公である。彼は同居人である祖母を鬱陶しく思いながらその場を離れることもせず、明確な攻撃を行うこともせず、わざとそっけなく応じていた。

いひかえれば、彼の不快は他人を完全に拒絶するほどの主張をも含んでいないのであり、その表現は正負いづれの方向にも極度に消極的なものだ、といふほかはない。自閉的でありながら、しかも純粋な隔絶と孤独を選び得ないのが、この気分のもうひとつの特色であるらしく、主人公はつねに、この「残忍な」ふるまひを「安心して働ける」相手を必要としているのである。

(山崎1986:14-15)

 「自閉的でありながら、しかも純粋な隔絶と孤独を選び得ない」と聞いて、すぐに連想されるのは第6〜7話の実である。彼は、原因を特定できないような漠然とした不快感と責められている感覚を抱えながら、ひとりアパートに帰るのではなく一花のもとを訪ねている。彼は夜遅くに突然押しかけたことの釈明もなく、気まずい沈黙を持ち込んだだけである。

 一花はその後も、しばしば実の不機嫌につきあわされていることがわかる。たとえば18話前後など、彼は確かに身体的に暴力を振るってはいないが、明確な理由なしに、彼女との会話を放棄したり気まずい沈黙を導いたりしている(図5 -1、5-2)。実は、不機嫌による「残忍なふるまい」を「安心して働ける」相手として、一花を選んだようである。

図5-2(3巻53頁)図5-1(3巻52頁)

 不機嫌な男たちは沈黙すらも自分の精神状態の表現として受け止め、解釈を続けてくれることを相手に期待している。彼らは、相手にそうは告げないけれども、誰かが側にいて、心配してほしいのである。山崎は、夏目漱石の息子・伸六の著書から、漱石に関する記述を引いている。幼い伸六は、書斎に閉じこもる父(漱石)と、その書斎と襖一枚隔てた部屋で、涙を流しながら仏壇の前に座っていた母の姿を見たことがあったという。山崎はこの場面の漱石について、「不機嫌な父」の典型例であると考える。

不機嫌な人間は他人との交渉を拒否するのであるが、しかし、けつして他人を遠く離れて完全な孤独を求めようとはしない。漱石もまた、ここで散歩にも行かず旅行にも出ず、仏壇の前で泣いてゐる妻を意識しながら、あへてその隣室に「虎の様に蹲って」ゐる。(中略)

不機嫌は一方で表現のはけ口を求め、しかも表現の明快さは拒絶する感情であるから、それがせめぎあへば、落ち着くところは襖を隔てた沈黙となるのは当然である。しかし、不機嫌がこの姿を保つためにはひとつの前提が必要なのであって、それは沈黙そのものを一箇の表現として理解してくれる親しい他人の存在である。

(山崎1986:50)

 「誰かと一緒にいたい」「一人では自分のこの気分になすすべもない」とわかっていても、自分からはそう言いたくない。作中でその手の台詞を発するのは、むしろ一花の役割となっている(図5-3)。

図5-3(1巻156頁)

 「一花って 言葉にするの下手じゃないと思うけど?」(5巻183頁)と遥子が評するように、一花は自らが他人の同席を必要としていることについて、実に比してよほど率直に言葉を用いる。わざわざ近づいておきながら無言の圧力をかけるなどという姑息な手段には出ない。むしろ、彼女は彼の不機嫌にすら「誰かと一緒にいたい」という思いを読み込んで、それを自分の口から言うことになるのである。 

 不機嫌な実、彼と席を共にし続ける一花。こうした気まずい沈黙の絶えなかった物語前半の彼らの関係について、遥子は「〝気分〟みたいなモンに流されて お互いふりまわし合ってるてゆーか」(3巻65頁)と評したことがある。たしかに、実がコミュニケーションの意欲をなくしていくのは一花の「緊張」を、「自分のことを避けている」と解釈した結果でもあり、彼らの間には少なくない相互作用がある。そして、明確に表現し得ない「気分」は、はじめは沈黙としてしか表現できないのかもしれない。しかし、自分の部屋に逃げて沈黙する実とは対照的に、一花は遥子との対話の中で関係の再構築を模索している(3巻18頁、41頁)ことは付け加えておくべきだろう。

 

依存の否認

 18話前後の実と一花のように、沈黙によって自分自身を伝えようとする男と、その男のもとから逃げ出さずに、無言の圧力に心をかき乱されながらその場に留まる女との親しい関係は、「耐えること」で論じた投影同一視の経験(の男女逆転版)といえるかもしれない。しかし重要な違いは、不機嫌な男は相手の存在を必要としないかのように振る舞うということだ。本当に居なくなられたら困るのに、おまえなど居なくとも結構だという顔をしているのだ。

 もし、「どうしたの」と尋ねる用意が女にあっても、男はそれに応じる用意がない。そう尋ねられれば、彼は自らが気分に屈していることを暴露してしまうことになるからである。不機嫌な男は女に対して無言を貫くだろう。気にかけてくれなどと頼んでいない、そんなことを尋ねられるほど自分は奇怪な態度はとっていないとひとりごちるだろう。本当に気にかけてほしくないのなら、その場を去ればいいというのに。

 山崎は、不機嫌に関係して祖母が描かれることに特別な意味を見出している。曰く、祖母は青年にとっては、家庭をサポートし自分に利益を与えてくれる者であると同時に、青年を家長として尊重し従属する者でもある。この、自らの依存的立場と権威的立場を同時に連想させる存在だからこそ、彼は「抵抗するにせよ庇護するにせよ、憎むにせよ愛するにせよ、全身をあげてひとつの感情に一体化することをさまたげられることになる」(山崎1986:27)。

 このような存在は、青年にとって不機嫌という気分そのものの象徴に思われてくるのだろう。男に自らの依存を思わせると同時に、男が権威を主張する相手。これは、祖母に限らず家父長制における女性の位置そのものである。

 つまり不機嫌な男が苛立っているのは、自分が完全に依存的でも主体的でもいられないという事実に対してである。その耐え難さが、親しい関係にある女に両価的な感情として投影されているのである。

 自己主張と、依存相手の意図を窺うことの不統一は誰との関係でも少なからず抱え込まなくてはいけないものであって、明確な感情にならないからといって焦ってしまうのはある程度仕方のないことだ。しかし、緊張に耐えるのはその人自身の仕事である。緊張状態を言語化することを放棄したり、「どうしたの」と聞かれて何も説明しないのは怠慢である。わからないのなら素直にわからないといえばいいのであって、それを自分の弱みだと思って取り繕う必要はない。

 男性は、私的領域において自分自身や自分に関わる人々の「気分」の扱いをまともに行うことをせず、多くの場合は女性にそれらの業務を代わりにやらせている。しかし、その依存をなかったことにするという欺瞞的な操作によって、公的な場では自立的で感情の管理に長けた人間とみなされることになる。たとえば作中では、実は、遥子・一花との共同生活に入ることによってはじめて、重苦しい鬱屈から抜け出ることができた。彼らの共同生活が始まったのち、実と同じフロアの女性社員はこう語っていた。

「夏川さんって

最近なんだか 変わりましたね」

「丸くなったって言うか…」

(中略)

「そうじゃなくて 雰囲気が

柔らかくなって… 話しやすくなったみたい」

(2巻8頁)

 つまり、彼は親密な他人から心身ともに様々なケアを行ってもらって漸く、職場で適切に感情を管理できる人物となることができるのである。これは実が、一花の行っているSA*1に価値を置かなかったことと同様、男性の私的領域における受動性を示すものである。

 主体の操作できる対象ではない「気分」について沈黙することによって、権威を維持し、依存を否認するということが、男というジェンダーを構成する核なのである。しかし、いくら気分について沈黙したところで、男がそれに流されるままであるということは変えられはしない。むしろ、気分について言語化し対処する術を心得る気がないのであれば、より一層気分に流されるままになるだけである。

 

相手と状況を選ぶ

 『介護する息子たち』の著者である平山は、息子が母親を介護する場面で「思わず」暴力的になってしまうのを「自然なこと」とみなす言説を分析して、そこに私的領域における男性の受動性が前提されていることに気づいた。そして平山は、実際のところ男性は感情に対しても受動的だと考えられていると結論づける。

さらに言えば男性は、最も私的なものとされる感情に対しても、受動的で依存的な存在として前提されている。男性性は感情の抑制としばしば結び付けられるが(Levant 1992)、それは、感情を起こさないことまでが自身のコントロールの及ぶ範囲だと前提しているからであり、言い換えれば、起こってしまった感情に対しては自身のコントロールがきかないことを前提にしているからである。その意味で、男性は感情に対しても、「されるがまま」の依存的な存在として構成されている。

(平山2017:223)

 たしかに、息子が母親を介護する場面で「思わず」暴力的になってしまうことが「自然なこと」とみなされるためには、感情に対して男性が受動的でなければならないだろう。

 また前述の通り、そもそも突発的な怒りを準備するような「不快な気分」は、明確な原因が見いだせず、対処の方法がごく限られている。不快な気分に対しては、抑制するという行動すらもその気分を深くするだけで、能動的な対処が最初から封じられているように思われてくる。

 ただ、「私的領域における受動性」や「気分の厄介さ」を以て、現に私的領域で女性に対して不機嫌に振る舞う男性の行動を正当化することに妥当性はない。なぜなら、彼らは気分に全面的に流されるのではなく、ある特定の相手、ある特定の状況を見計らって不機嫌な態度をとるからである。鬱屈とした気分は必然的に不機嫌に至るのではない。不機嫌な男たちは、状況に応じて、相手を選んで不機嫌になるといえる。

 たしかに気分に対しては、誰であろうと為すすべがないように思われる。しかし、鬱屈した気分を振り払うことはできなくとも、それを、他人の前で「不機嫌」という表現未満の表現として発するか、別の表現をするか(たとえば、その気分を記述するなど)、それとも無理にでも作り笑いをするかという選択の余地はある。もし気分によって絶対的に人の態度が規定されてしまうのであれば、日々の感情労働など不可能なはずである。

 実際、実も仕事の上では不機嫌を表に出さないようにすることができている。彼のしている営業という仕事は、社外の人間にできるだけ上等な態度で接する典型的な感情労働であるから、取引先の前では、不機嫌が顔に出てしまうことは厳しく規制される。取引先に向かう前の彼は上司に「眉間のシワ」を指摘され、自らの振る舞いが客観的にどう見えるかを検討し(つまり、恥を感じ)、冷静さを取り戻そうと努力し始める(1巻61頁)。

 しかし、取引先には不機嫌を隠しても、社内の人間に対しては話が違ってくる。転職直後の実は、明らかに話しかけにくい印象を同じフロアの人間に与えていたようである(2巻60頁)。ただこのような単なる印象を規制したり罰したりすることは難しいから、彼にそう指摘する者はおらず、彼はどこか不機嫌そうな社員であり続けていた。この仮説は、一花との時間がうまくとれず不満に思っている時期の実の勤務態度によっても確認できる(3巻22頁)。

 さらに、実は遥子や実の母親には不機嫌を隠しもしない。彼女たちが何か危害を加えているわけではないのに、彼女たちへの応答は八つ当たりに近いものとなっている。また先述の通り、実は「調子の悪い日」に、アパートの前に遥子が来ていなかったことに落胆に近い思いをする(1巻145-146頁)。彼は、鬱屈した気分のとき誰もそばにいてくれないよりは、不機嫌になる相手としての遥子が居てくれたほうがよかったのだが、このことを彼が自覚することはなかった。彼は、自分が気分に圧倒されてしまうことを自覚もできないために、遥子に率直に気晴らしを乞うこともできない。気分に圧倒され、気晴らしを求めてしまうこと自体はまさに「仕方のない」ことであるが、その表現方法の検討が行えないという意味で彼は受動的なのである。彼が選択しているのは、気晴らしを行ってもいいとみなす「状況」と「相手」のみであり、どのようにして他人に気晴らしの相手をしてもらうのかは行き当たりばったりである。

 この無計画性が端的に現れたのが、第20話(3巻78頁以降)の実の行動である。会社で、社長から突然に新事業の担当に選ばれた実は、自分が抜擢されるような人間ではないと感じてその話を撥ねつける。この話が伝わり上司からはやっかみの声がかけられており、ままならない状況に苛立ちをつのらせた彼は、泥酔して家に帰り着く。その後、彼は一花・遥子に介抱され、手厚い看護を受ける。その後に、彼は二人の女達の「訊かれるままに」(3巻87頁)、自分の不機嫌の無数の原因を探り始める。

 自分の気分を探り当て表現することについて明確な方針をもたず、酒で正気を失った後に、二人の女達にお膳立てをしてもらって漸く、彼は自分の気分やそれを左右するものに意識を向け始める。そして、取り繕わず人に助けを求めるという選択肢を検討し始める。彼の受動性をこの上なく克明に描いているのが、この場面である。

不機嫌と性欲

 「ハネムーン サラダ」の実の不機嫌の描写には、もう一つの重要な要素が見られる。それは、彼の「性欲」と気分の関係である。特に物語初期から中盤にかけて、実の「不機嫌」の度合いと、彼が性交渉する機会は反比例の関係にある。次の遥子のセリフは示唆的である。

「一花はさ~~~ も少しみのりちゃんにやさしくしてあげなよー」

(略)

「あいつ最近また機嫌悪くて 困るよー

おとこヒステリー! 欲求不満!」

(3巻19頁 遥子)

 ここでは、彼の不機嫌は欲求不満と並列されている。そして遥子のいう欲求不満とは、「性的」欲求不満のことである。それは私や遥子の邪推ではなくて、実についていくらかの真実を突いている。周到なことにこの(性的)欲求不満は、実自身のモノローグから逆照射されるからである(図5-4、5-5)。

図5-4(3巻16-17頁)

図5-5(3巻22-23頁)

 また、一花とのわだかまりを解き、久しぶりに彼女と身体を重ねたあとの彼は仕事の面でもどこかネガティヴな気分を払拭し始める。その独白が、次のようなものである。

不思議と 身も心も軽かった

他愛ないことで 気分は変わる

目先が変わっただけで なにもかもが上手くいくような気がしている

(3巻154-155頁)

 この性欲と不機嫌の連動は、偶然の産物ではない。山崎が論じたように、男の「不機嫌」は、自分の内面から湧き上がると同時に主体的なコントロールの外にある不快な気分に由来すると考えられた。この気分はまさに、日本の近代性欲学の文献から赤川学が抽出した「性欲」の定義と一致している。

私見によれば、「性欲」は、自己の内側にありつつ、それでいて(内面にとっては)外部的であるような実在として観念されていると思われる。たとえば男性にとって、「性欲」とは自己の内側にあるものだが、しかも「内面」の統御から逃れでる、手に負えない厄介な代物として観念されている。

(赤川1999:184)

 性欲と不機嫌の背景にある不快な気分を共通して特徴づけるのはこの「厄介さ」、自己の内側から生じてしかも自己にとって外的であるという二重性である。すると、気分を処理する過程で受動的になり不機嫌に至る男性の行動原理を、性欲に関する言説から考えていくことが可能になる。

 先に述べてしまうと、自分の行動について「気分や性欲に突き動かされてしまった(から仕方がない)」という純粋な受動性を主張してしまうことになるのは、先の二重性の一方の側面をあえて捨象した結果である。

性欲抑制の困難と免責の論理

 赤川は、「(男性の)性欲は抑えられない本能であり、何らかの方法によって充足させなければならない」といった性欲=本能論的なレトリックについて、「さまざまな性をめぐる行動をあとづけ正当化するためのロジックとして利用されてきた」と述べる(前掲書268)。

 この論理展開は、先に平山の研究によって確認した通り、親を介護する息子の暴力を、「仕方のないこと」と正当化するのと同様のものである。それはどちらも、変更不可能な生理的欲求や衝動が男性には自然に備わっていると前提する本質主義的傾向を持っている。

 しかし、ここで不機嫌について思い起こすのなら、このような免責の論理が全面的に通るわけではないことがわかる。男であっても(公的な場でそうするように)自らの気分をさておいて、感情を抑制し愛想良く振る舞い、相手の感情や人間関係に配慮する能力を十分に持っているからである。つまり、実を始め、世の多くの男性は相手や状況を見て、性欲をどう表現するかを選択している。

 赤川によれば、そもそも大正期の性欲に関する言説も、あらゆる場所・手段で性欲が発散されることを許容してなどいなかった。むしろ、性欲抑制の困難を語りながらもその統御を志向するというねじれた態度があった。それが大正期の通俗性欲学における「性欲の善導パラダイム」である。性欲の善導パラダイムのもとでは性欲と社会との望ましい関係を追求することが目指されており、個々人が性欲を思うままに解放すれば良しという予定調和的論理はまず問題外だった。「後者〔大正期の公娼論〕においては、性欲の完全抑制は不可能(または非常に困難)と結論されながらも、それをある程度、社会的力によって水路付け、規制する必要が意識されていた」(前掲書186)。

 また、大正期の学生たちにとって、性欲の抑制(より具体的には、自慰の抑制)は一つの真面目に受け止めるべき課題となっていた。赤川は次のように総括する。

前節でみたような「煩悶」を通して、抑制できない(と観念されている)「性欲」と、それを抑制する「自己」という主体の二重性が構成される。それは近代日本における「性欲の意味論」がもたらす、一つの論理的帰結である。そして統御され得ない(と観念されている)性欲を統御しようと試みる、ほとんど不可能そのものへの挑戦が「闘性問題」の中核を構成することになる。

(赤川1999:232)

 主体や社会が性欲をいかに統御すべきかという「闘性問題」はナショナリズムや立身出世主義との関係が深いものであったが、戦後、それらの要素はなし崩し的に脱色される。売春防止法などの社会的変化を受けて、どの性行動によって性欲を満足させるべきかという「性欲のエコノミー問題」が性欲に関する言説の主たるテーマとなる。ただ、赤川も指摘するように、この「どの性行動によって性欲を満足させるべきか」という問題意識の中で「性欲は抑制できない」ことが、いつの間にか不動の前提となっていた(前掲書183)。

 性欲の抑制に関して、(ある程度)そうすべきという上からの圧力が消失した*2とき、性欲はたんに抑制困難なものとして理解されることになったように思われる。加えて、赤川がいうように性欲=本能論から性=人格論という変化が起こったのならば、「コントロール」という発想も後景に退くだろう。性=人格は、そもそも国家や専門家の指導のもとコントロールを図るようなものではなく、個人が発見し涵養していくものとなるからである。その変化以降、「とにかく性欲は抑制できない」こと(性欲抑制の困難)を前提に、多様な論客がどの性行動をどういう理由でとるべきかを語り始めることとなった。

 現代に至っては、性=人格から切り離された「性欲」はもはやそれを「コントロールする」という発想を離れて、何か男性の原罪のような逃れがたいものとして語られることがある(e.g. 森岡2005)。赤川は、日本国内では「オナニーを宗教的な罪や道徳的悪とみなす傾向は、基本的には存在しなかった」(赤川1999:372)と語るが、これは怪しくなってきたといえる。最近では性欲について、「汚いもの」「絶対的な加害性」と、原始宗教的・倫理的にそれを否定的価値を置く態度が現れてきたからだ。しかし、こうした語りを男性が自虐的に行うとき、かつて性の専門家たちが擬似医学的言説を用いてそうしたように、「性欲抑制の困難」を補強する結果に終わってしまう*3。かつては性欲抑制の困難を科学的言説で権威づけていたのが、「男性の悲壮な運命」としてドラマティックな納得を演出することに変わっただけである。性欲=抑制困難という等式はより素朴で魔術的な形で生き残っており、その困難の強調によってさまざまな免責を求めるという論理は脈々と受け継がれている。

 たとえば、隠岐さや香は日本で国民的な共感を得たサブカルチャーについて、「罪悪感を感じながら、何もできないボク」という主人公が多く登場すると述べたことがある*4。その点について、清水晶子も次のようにコメントする。

隠岐さんが「日本のマスキュリニティ」について「何もできないボク、の異様な国民的人気」の話をしていらして、私はこれはものすごくクルーシャルなポイントではないのかと直感的には思ってる。

(清水2021)

 こうした「完全な受動性を主張する男」の台頭は、ゼロ年代以降たびたび指摘されてきた。永山薫は二〇〇六年の時点で「近年とみにカッコワルイ男、ダメなオトコノコが主役を張る作品が増加傾向にある」と述べていた(永山2014:249)。また、「セカイ系」と呼ばれる作品群を分析した前島賢は「女の子を守るために闘うべきなのに、それができない弱い主体に同一化したいという欲望」が、当時のセカイ系作品の読者に見られたと述べる(前島2014:174)。

 このような「男の完全な受動性」の強調は、性の分野では性欲と罪悪感への全面降伏の主張となる。しかしその主張が前提としているのは、完全な性欲統御という保守的な男たちの夢である。これは逆説ではない。完全に自分でコントロールできるはずだと信じてしまうからこそ、いざそのコントロールに失敗することが非常事態に見えてくる。そして失敗を過剰に恐れて他人に対して回避的になったり、性的なものを罪悪と考えたりする。挫折を受け入れられないために、自分の受け入れがたい側面を「性欲」や「他人」に押し付けることが生じる。ジェシカ・ベンジャミンが語るように、こうした投影は男らしい男が「女への欲望を自分のものとして認められない」ことの理由でもある(Benjamin1988=1996:225)。

 もちろん、男が性欲をその本性上抑制できないというのは明確な嘘あるいは誇張である。日本の「性欲抑制の困難」の言説に対して、十九世紀アメリカでは性欲の統御や抑制が可能であり、特に困難なものではないとする言説が多く見られたと、デビッド・ノッターは報告している(ノッター2007:54)。これは赤川も述べているように、自己統制能力が中産階級の男性の中で美徳とされていたこともあったが、アメリカの伝統社会に日本とは異なる男女交際の形態が存在していたことにもよるとノッターは述べる。十九世紀アメリカでは、婚姻前の家の中での男女交際(コートシップ)において、性交のみが他の身体的接触と区別されて回避されていた。ノッターは当時の婚前妊娠の少なさも指摘し、若者達が親の監視なくしても、身体接触を行いつつ性交の手前で踏みとどまることが実際に可能だったと推測している(前掲書48)。言い換えれば、彼らは交際の段階を認識し、その段階に応じてどのような行動をとるか(あるいはとらないか)を選択できていたのである。

 また日本国内においても、現実の性的な行動は控えつつも、それでも性愛的な含意のある関係を希求するという、「純愛」の実践者たちは存在した。大島みち子と河野実による書簡集『愛と死をみつめて』(1963)はその関係を詳細に報告する代表的な資料である。たとえ性的な行動にペナルティがない場であっても、抑制が美徳とされる言説などほとんど見られなかったとしても、人は様々な状況を鑑みて性的な行動を控えることもあるし、それは実際に可能だった。

 加えて、もし「性欲抑制の困難」を真面目に受け取るならば、セックスレスが現実に起こりうる理由を合理的に説明できなくなるだろう。赤川が『セクシュアリティの歴史社会学』の末尾で指摘しているように、九十年代前半に日本国内でセックスレスがことさらに問題化されたのは、性欲のエコノミー秩序の中で夫婦生活のエロス化が理想化されてきたためである(赤川1999:386)。セックスレスとされている人々は、配偶者との性的接触によって性欲を解消しない日々が一定期間以上続いても何も問題を感じないのであり、「性欲抑制の困難」が単なるレトリックであることの生き証人である。しかし、この場合は「性欲をコントロールできている」とは若干異なる。相手と性的なことをする気はあるが、どうしても実際の行動に移れないという逆向きの不如意はありうるからだ。「性欲抑制の困難」に対して、「性欲喚起の困難」があまり表立って語られることがないのは、その困難は性暴力を正当化するレトリックとして機能し難いからであろう。

 性欲は宿命でも罪でもなく「自分の性欲」なのだが、だからといって、それがいつでも完全にコントロールできるとは限らないし、その人がその人であるかぎり一切コントロールできない、とも限らない。また「コントロールしている感覚」にもさまざま種類があるかもしれない。私たちを覆う、なんとなく陰鬱とした気分についても同様である。二重性、緊張、自らが完全に依存的でも主体的でもいられないという事実を受け入れられないときに、免責の論理が作動する。

実の粗雑な性欲表現

 不機嫌と性欲の関係からすると、機嫌が悪くなると女たち(主に一花)に都度都度その処理をさせる実は、性欲に関しても相手と状況を選んでその後始末をさせているように思われる。彼はいったん帰宅し靴を脱いでしまうと、とても開放的に、悪く言えばぞんざいに一花を抱こうとする。当然それは、彼が「性欲を抑えられない」ことを意味しない。痴漢に走ったり、性風俗に通ったりするでもなく、わざわざ彼は一花の肩に手を置くのだから。彼は性欲に突き動かされることは少ない(「淡白な方だ」)と自認していたが、実のところそうでもなく、自分にも性欲があり、かつそれは完全にコントロールできるものでもないことに気づいてはいる。ただ、それをどう表現すればよいのかがわからないから、一花の腰をいきなり抱いたりするのである。普段は淡白にしか見えない人間が、私的領域においては衝動的に振舞うこの分裂した態度を、カワイイと思うかグロテスクだと思うかは人それぞれだろう。ちなみに「男性の私的領域における受動性」を批判的に論じてきた本書の立場からは、実のような性欲の表現力の欠如、照れでは済まされない思考の無さを許容できないことは言うまでもない。

 彼は「性欲が完全にコントロールできるものではない」と意識はしているからか、過度に罪悪感を覚えたり、性欲を何か原罪のように考えてはいない。だから、誰かに欲情することに関して、先述の「免責の論理」を持ち出して言い訳する必要も感じていない。ただ、それも相手による。遥子に対しては、彼はほとんど反射的に性欲を抑制するし、彼女との性的な交流を想像することは、破滅的な予感と罪悪感とを彼に与える。これは実と遥子の関係の歴史にも依っているが、ともかく確実なのは、実がそのように「抑制しなくてよい相手」を無自覚に選んでおり、その相手に対しては全面的に思考を手放してしまうということである。

破壊と表現技術

 あえて強調しておくが、私は、気分や性欲に振り回されてしまう場合がどうしてもあること自体を、何か罪悪であるかのように考えることを勧めてはいない。繰り返すが、そのような罪悪視は「完全な統御の夢」、絶対的に主体的でありたいという願いの裏返しでしかないからである。したがって、私は実と遥子がよくするような「八つ当たり」や「口論」も、親密な関係の中では互いの感情表現の一つとして重要なものであると考えている。ただし、それが自らの慰めの要求や暗い気分と意識的に関連付けられており、かつ、互いが関係を維持したいという意欲を萎えさせない限りで。それらの激しい言動はウィニコットのいう「破壊」であり、もしかすると相手を実際に破壊してしまう(相手が愛想を尽かし、関係を切断してしまう)かもしれない危険な賭けであるが、破壊を受けてなお生き延びる他人がいてくれなければ、人はあらゆる自己主張が他人への加害となるという耐え難い妄想に囚われてしまうだろう。

 不機嫌は、他人を破壊してしまう事態を恐れるあまり明快な自己主張を諦めたうえで生じる、不発の八つ当たりといえる。ただ、明快であればいいのだと何も考えず傍若無人に振る舞っていいというのも誤りである。赤川や平山の議論を通過してきた者は、「性欲抑制の困難」に代表される免責の論理が、私的領域におけるジェンダーの力関係を規定し続けていることに無神経ではいられない。素朴を避けながら明晰さを目指す、不快な気分の表現技術を磨いていくこと。この義務が、親密な関係を求めるあらゆる人々に課せられている。

 

参考文献

欧文文献は基本的に既存の訳文を引用した。訳を変更した際は、本文でその都度指摘している。
なお、引用中の〔 〕は筆者による補足である。

書籍・論文・ウェブサイト

赤川学1999『セクシュアリティの歴史社会学』、勁草書房

Benjamin, J. 1988, The Bonds of Love: Psychoanalysis, Feminism, and the Problem of Domination, Pantheon.(=1996 寺沢みづほ訳『愛の拘束』、青土社)。

デビッド・ノッター2017『純潔の近代』、慶應義塾大学出版会。

平山亮2017『介護する息子たち』、勁草書房

平山亮2018a「SAには『先立つもの』が要る――『お気持ち』『お人柄』で語られるケアが覆い隠すこと」 、山根純佳・平山亮『「名もなき家事」の、その先へ――“気づき・思案し・調整する”労働のジェンダー不均衡』Vol. 3、『けいそうビブリオフィル』(https://keisobiblio.com/2018/04/26/namonakikaji03/)最終閲覧2021年11月1日。

前島賢2014『セカイ系とは何か』、星海社。(新書 『セカイ系とは何か ポスト・エヴァのオタク史』SBクリエイティブ、2010年)。

森岡正博2005『感じない男』、筑摩書房。(文庫版  『決定版 感じない男』、2013年)。

二宮ひかる2002『二宮ひかるオールコレクション「楽園」』、白泉社

清水晶子2021 、twitterID=@akishmzの2021年3月27日午後10:05のツイート(https://twitter.com/akishmz/status/1375796237610274816)最終閲覧2021年11月1日。

山崎正和1986『不機嫌の時代』、講談社

※「巻数+頁」の引用はすべて「二宮ひかるハネムーンサラダ』1~5、2000-2002、白泉社」からのものである。

*1:Sentient Activity 平山亮2017, 2018aを参照。

*2:また、国内では西欧諸国と異なり、性欲を完全に抑制することに「男らしさ」や「文明化の進展」という価値が付与されることもなかったという(赤川1999:232)。

*3:ここで私が想起しているのは、2015年に「イミ」というハンドルネームで「自らの性的な加害性」に関してブログ上で告白した人物である。(「性嫌悪と自分の内なる加害者性について」『自意識をひっぱたきたい』二〇一五年九月一九日投稿https://web.archive.org/web/20151215073030/http://ymrk.hatenablog.com/entry/2015/09/19/205907)この記事はまさしく「性欲抑制の困難」を知人女性に弁解し、認めさせるというエピソードを含んでいた。その点についての自己批判があったかは未調査であるが、この記事は公開当時から多数の批判を受けたらしく現在は非公開となっている。

*4:「【緊急対談】ミソジニー、ハラスメント、ヘイトの問題」『BHチャンネル』二〇二一年三月二十七日公開(

www.youtube.com

)。最終閲覧二〇二一年十一月一日。