『「ハネムーン サラダ」の隠し味』発行予定について(序・目次・第0章掲載)

この記事で言っていたとおり、連載をまとめた本を発行予定です。

dismal-dusk.hatenablog.com

 

11月23日の文学フリマ東京での頒布できればと思っているのですが、間に合うかどうか確証が持てないのと、諸々の抵抗感も未だあり、どうするかは未定です。

通販は行う予定です。

 

bunfree.net

 

以下に現段階での序文・目次・第0章を掲載します(発行時には変更される可能性があります)。

序 三十年後のあなたへ

 本書は、二宮ひかるによって二〇〇〇年から二〇〇一年にかけて雑誌『ヤングアニマル』で連載された漫画「ハネムーン サラダ」に関する批評である。

 「どうして今更そんなことをするのか」とあなたは訝しがるかもしれない。おそらく漫画を日常的に読む人の99%は、そんな古い作品を改めて読んでみようとは思わないだろう。漫画は大量に生産されては消費され順次忘れられていく流行りものであり、(一部の全国的・世界的ヒット作を除いては)新しい作品が読むべき作品となる。ただ、いつの世の中にも、他の人とは差異化できるような消費の戦略を立て、図書館やアーカイブを渉猟し、忘れ去られた作品の表現の中に、自分が求めていた感性の発露を見出す人々がいる。彼らは好き好んでそうするというよりも、そうしなければ自分を保っていられないと感じていて、だからそんなに必死なのである。

 ただ、そうした探索にも何らかの手がかりが必要となる。私は、いつかの私のような必死な人のために、(全国的・世界的にはヒットしていない)過去の作品の内実について少しでも手がかりを残したいと思い、この本を書いた。今この時、この世に生きている人、私が直接声をかけて関わることができる人のためにではなく、私が死んだあと、全く何も書かなくなってしまった後に現れるかもしれない「幸福な少数者」のために。

 

 ただ私は、自己肯定するために失われた歴史にすがりつき、それを盲目的に崇める切迫した消費態度を全面的に肯定したくはない(私が生きているのは、そうした歴史の動員が同時多発的に起こっている時代でもあるのだが)。この本で「ハネムーン サラダ」を知った人には、それがどのような時代に、どのような制約のもと描かれたのか、そして、発表の二十年後にそれを読む私はどんな人間で、どんな問題を作品の中に見ていたのか、そうしたことも頭の片隅に置きつつ、作品を享受してもらえたらと老婆心ながら思う。しかしそう批判的に作品を読むからといって、当の作品を古臭く野蛮な時代の遺物として切り捨てることも私の望みでは決してない。私はその点を誤解させないようできるだけ気を配った書き方をしたつもりだが、あまり自信はない。

 

 『「ハネムーンサラダ」の隠し味』という題には、第一には当作品の中に隠された工夫について解明するという意味合いがある。しかし、「隠された」という言葉には注意がいる。まさにレタスのみで作られたサラダ(=ハネムーンサラダ)のように、一見極めてシンプルで気取ったところのない作品であるが、そう感じるのは物語の筋や男性向けの作品という枠に引きずられて、描かれてあることをよく見ていなかっただけかもしれないのである。隠し味は、まったく隠れていたとしたら味わう者にとって何の意味もない。作品の作者や制作スタッフは何も隠すつもりなどない。それはすでにそこに描かれているのである。だからむしろ考察するべきは、どうすれば描かれているものを描かれているとおりに味わうことができるかということなのである。すると本書においては、当の作品を考察する筆者がもつ諸々の解釈枠組みが不断に相対化されていくことは避けられないだろう。無論、相対化自体が目的なのではないが。

 また不遜なことかもしれないが、本書の題には、本書が「ハネムーン サラダ」という作品をより美味しくいただくためのスパイスとなってくれればよい、との願いも含まれている。本書が元の作品を台無しにしていないことを祈るばかりである。

 

目次(仮)

  • 序 三十年後のあなたへ
  • 目次
  • あらすじ
  • 第0章
  • I 恋人たちと家族の精神分析
    • 破壊的な他者依存性
    • 耐えること
    • 親殺しと自立
    • 破壊の経験について
  • Ⅱ 共同生活の政治学
    • 一花の取り柄とSAについて
    • 不機嫌と性欲
  • Ⅲ 恋愛・性・結婚の現代
    • 差異化戦略と二つの破壊
    • 性行為描写の分析
    • 着ること:自己表現から共装へ
    • マリッジ・トラブル:結婚という混乱
  • Ⅳ 労働・責任・失踪
    • 行為の理由を問うことについて
    • 「自分にこそできること」の追求
    • 責任と失踪
  • 参考文献
  • あとがき

第0章

 「ハネムーン サラダ」という作品を読んでいく前に、これまでのその作品はどのように語られていたのかを雑駁に確認しておきたい。加えて、私がこれまでの言説の何が問題だったと考えているのか、すると本書はどのような立場のもと当の作品を読んでいくのかということも、ある程度明確にしておきたい。

 なお、本書の題に明らかであるように、本書は「ハネムーン サラダ」という一作品を中心とした批評であり、作者・二宮ひかるの作品を列挙したり、活動歴を紹介したりすることを目的としない。なぜなら、それらは「二宮ひかる」という単語から少し調べれば容易にたどり着ける情報だからである。二〇二一年の時点でほぼ完全な作品リストと活動歴がWikipedia上に掲載されており、紙媒体でも残されている*1。過去の作品の多くも電子書籍として読むことができる。十分に資料を揃えれば、個々の作品紹介にとどまらず「二宮ひかる」論を物することも可能だろうが、そうした作家論は私の得意とするところではないし、一年二年で成るようなものでもないだろう。しかるべき場でそうした研究が為されることを願う。

従来の言説の状況

 これまで「ハネムーン サラダ」という作品を語るとき、ほとんど常にと言っていいほど、女性の他者化・神秘化がその背景に存在していた。

 後の章でも扱うことになるが、当時の巨大匿名掲示板サイト(現5ch)では、一花、ときには遥子のことを「デンパ」という表現で、自分には理解が及ばない存在として語る投稿がなされていた。

 また、過去に二宮ひかる作品を愛好し、同人誌を作って残した人々でさえ、女性キャラクターの他者化・神秘化という点で全く同様だった。二宮作品に関するほとんど唯一といってもいいアマチュアの印刷物に、同人誌『H.W.K.K.』がある。これは、「H.W.K.K.(二宮ひかるを考える会)」という同名称のサークルが二〇〇一年五月十三日に発行したものである。内容は、二宮ひかるの既刊単行本紹介、同じ同人イベントに参加していた作家によるキャラクターの二次創作イラストやSS(ショートストーリー)、サークル構成員と思われる人物たちの対談(一回分)、短い批評風エッセイ(一篇)である。二次創作についてはこの文章で扱う対象から外すこととするが、とりわけ私が耐えがたいと思ったのは対談である*2。対談は当時連載中だった「ハネムーン サラダ」を主な話題としているが、一花と遥子について「不思議女二人」と呼び合うことで参加者が通じ合う様子が見られる。また参加者の一人が「ハネムーンサラダ」以前の同作者の連載「ナイーヴ」について「不思議系女をある程度描けた」などと述べている(52 総長 以下、ページ数は『H.W.K.K.』のそれを指す)。どのキャラクターを指したものかは不明だが「ヒロインの性格がヘン」という発言もあった(50 前田)。

 これらの資料から見るかぎり、「ハネムーン サラダ」の女性キャラクター(主に一花)や、「ナイーヴ」の女性キャラクターを「電波/デンパ」「不思議系」「ニヒリスト」と呼び、自分の理解を超えている存在と位置づけて貶したり崇めたりしながら盛り上がるというのが、当時の作品の語り方の主流だったようである。

 また女性の他者化・神秘化に関連して、当の作品は「男性読者を想定したラブコメディ」の系譜の中で語られてきた。たとえば『H.W.K.K.』の対談の中で「ハネムーン サラダ」と並んで名前が挙がっていたのは「一九八〇年代前半のヤンジャン」『みんなあげちゃう』『ネコじゃないもん!』『いとしのエリー』といった作品であった。また、話が脱線する中では『とらいあんぐるハート』『WHITE ALBUM』などの恋愛を描いた男性向けビジュアルノベルの作品名や、当時それらをまとめて呼んだ「ギャルゲー」というジャンル名も挙がっている。

 こうした作品と並べて「ハネムーン サラダ」を眺めてみれば、物語をどう語るかは自ずと限定されてくる。第一に、主人公の男(実)は、女性キャラクターの中から誰を選び(あるいは選ばずに)恋愛関係および肉体関係を結ぶのか、という点が読者の話題の中心となった。実際、先の対談参加者は「ハネムーン サラダ」の物語を「恋愛成就までの過程を描いた話」だと要約していた(50 前田)*3

 第二に、「3P」など、アダルト作品に特有のシチュエーション*4も読者の関心を引いていたのか、それらを期待し数え上げるような語りも見られた。また、物語ではなくキャラクター未満の要素に独立して関心を持つ「データベース消費」*5的な傾向も見られた。これは、この女性キャラクターが受容者の嗜好を刺激するのはこういうわけで、このキャラクターがどうもハマらないのはこういうわけで……といった、「好みのタイプ」の話に落ち着くことになる。

 こうした語り方は、男性読者を想定したラブコメディ作品について現在でも掃いて捨てるほど見られる。当時「ハネムーン サラダ」にも、その語り方は大いに適用された。むしろ、それ以外の語り方はまるで存在していないかのような状況だった。

 

 ここまで概観してきた言説に共通するのは、それが徹底してホモソーシャル的な観点で作品を扱っていたということである。この点について『H.W.K.K.』収録のエッセイの著者は自覚的だった節がある。

 二人〔一花と遥子〕の姿が曖昧として捉え難いのは、神の視座ではなく、主人公の夏川の内側から夏川の瞳と思いを経た視点で描かれるからに他ならない。(中略)

 二宮ひかるの作品はマジックミラーのように私の心を映し出す。ある時は惑う私自身を映し、またある時は楽しさや悲しさを複雑に反射する。そして時には漆黒の闇しか見えなくなるのだ。見えるのは畢竟自分自身でしかないのだが。

T.I.「らぶそんぐ」(21)

 ただ、「一花と遥子が実の視点から描かれる」、という言い方は正確ではない。確かに物語は実のモノローグが中心だが、女性キャラクターの視点から物事を見たりモノローグが挿入されることはあるし、そもそも漫画の構造として視点人物が一貫して指定されるということはない。むしろ、H.W.K.K.の対談参加者たちは、実の視点からしか物語を受け取らなかったのだというべきだろう。そのために彼らは、実が「女たちのことを理解できない」とパニックになる点に共感することしかできないのである。「女はわからん」という合言葉をぼやき、女性を他者化・神秘化し、同じ精神や意志を持つ人間と見なすことなく男性たちだけでバカ騒ぎをする、そうしたネタの一つとして当の作品も消費されてきたのである。「見えるのは畢竟自分自身でしかない」、その通りだ。彼らが作品を語る中で繰り返されるのは、男たちが血肉となるほど共有してきた決まり文句だけである。

 右のホモソーシャル的な言説に比べて非常にまれではあったが、二宮ひかる作品は当時のサラリーマンが日常的に生きているような労働の状況をうまく描けている、と評価されることもあった*6。それは「ハネムーン サラダ」にも受け継がれた要素である。しかし先述のように、大半の読者の興味は「誰と誰が『くっつく』のか」「誰のどんなところが女性として魅力的か」「どの種類のエロいシチュエーションが採用されるか」といったことにあった。その結果、恋愛に限らない日常場面や労働の場面が物語上果たしている役割については、踏み込んで語られることがほとんどなかった。語られるとしても、仕事が恋愛に影響を及ぼしているとか、その逆であるとかを指摘するにとどまっていた。
 「ハネムーン サラダ」のあらすじをさらってみれば、それは実と遥子という主要人物がキャリア選択に苦悩する物語でもあることがすぐにわかる。それにもかかわらず、仕事という観点から作品を語る言葉は、従来あまりにも少なかった。

本書の採用する手法

 こうして、「ハネムーン サラダ」に関する言説を瞥見すると、本書が採用しうる読解の手法は自ずと定まってくる。
 第一に、ジェンダーの観点を取り入れての読解である。すでにこの観点から、従来の言説はホモソーシャル的な傾向のもとにあったことを確認した。これは確かに、『ヤングアニマル』という青年誌で発表されていた以上、避けられない結果であったかもしれない。ただ、私はホモソーシャルに対する個人的な思いやその他さまざまな事情から、当の作品を男同士で馴れ合うためのネタにして終わらせたいとは思わない。というよりそれが目的なのだったら、ひとりで本など書かずにSNSで人を募って会合でもなんでも開けばいい。

 過去の言説が着目しなかった作品の側面に、当時の(そして今も変わらない)男性の目線の偏りが析出される。例えば、作中でときに重要な役割を果たす「衣服」について、注意を向けた言説はほとんどなかった。また、共同生活の物語であるためにしばしば描かれている「家事」に関しても、言及する者は皆無だった。こうした要素は実際にそこに描かれているのに、どうして無視されてきたのだろうか。それは当の作品を語ってきた男たちが、衣食住に関わる事柄を女性の領分と見なし、したがって取るに足らないことだと信じてきたからである。

 これと対比的に、従来の言説は恋愛をすること、その相手と性的に交わること、恋愛から結婚に移行すること、それらに適した異性を見極めることは誰にとっても重要であり、無条件に良いことだと前提していた。もちろん「ハネムーン サラダ」が恋愛やセックスや結婚を分量的に多く描く物語であることは確かだが、それらに対する各登場人物の態度はそう単純ではない。恋愛やセックスや結婚について、人物たちはベタに肯定的に考えているだけではなく、ある一面ではうんざりしたり苦痛を感じたりしている。その苦痛や倦むことの質が、これまで明確に分析されてこなかった。

 また、先に見た女性の他者化・神秘化の言説は、「恋愛」の語りにある歪みをもたらしてもいる。女性を「絶対的他者」に喩えて語られるような恋愛論は、暗黙裡に「恋愛の中で男は男らしく、女は女らしく振舞うものだ」というヘテロセクシズムを内包している(高橋2021)。つまり異性との恋愛を「他者との出会い」と規定するすべての恋愛論は、その出会いに肯定的価値を見出すか見出さないかにかかわらず、男女の振舞い方や性質には越えがたい差異があるということを暗黙の前提としているわけである。この種の恋愛論の中ではしばしば、恋愛の中の非合理性や混乱は他者としての女性(の感情や気まぐれ、理性では捉えられない魔術的な性質)が由来なのだとされたり、恋愛の中で男性が感情的になることが不問に付されたりする。こうして再生産される非対称性に目を向けなければ、恋愛への言及は、悟ったような顔をした男の繰り言にしかならないだろう。

 

 まとめておくと、本書の読解が目指すところは、ホモソーシャル的な言説のうちにある女性蔑視、性的なものや非合理的なものへの崇拝と軽蔑、ロマンティックラブ・イデオロギー等をはっきりと認識したうえで、それらに批判的な視点から作品を読んだときに何が見えてくるかを確かめることである。そのためには、家父長制的と総括できるだろうそれらの価値観を批判的に分析してきたフェミニズムジェンダー研究から多くを学ぶ必要があった。

 ただし、西原麻里が指摘するように、「ジェンダーの非対称性や権力構造を告発するような政治的意義をもつことと、物語としての面白さや魅力などに基づいて作品を価値づけすることとは別の次元のもの」(西原2016:192)である。「『ジェンダー規範を覆す可能性があるから価値がある作品である』とか、『ジェンダー規範に従属的だから価値がない』とかいうように、ジェンダーの問題と作品の価値を安易に結びつける」ことには慎重でありたい。しかし、従来の言説の前提を踏襲し精緻化するよりは、ジェンダー的観点を過剰なほどに取り入れてかかる方が、少なくとも自分や自分の周囲の人にとって有意義な読解ができるはずだと私は確信している。

 

 第二に本書が採用するのは、精神分析の知見を用いての物語や人物たちの関係の読解である。フェミニズム精神分析には単純でない因縁がある(北村2020, Benjamin1988=1996)ため、この両者が並び立つことは奇妙に思えるかもしれない。しかし精神分析はもともと、言葉を発せなくなってしまった者(ヒステリーの症状に悩む女性)に言葉を取り戻してもらう実践として開発されたものだった。そうであるならば精神分析は、目下のところ理解不能な存在として扱われがちだった一花や遥子に、彼女たち自身の言葉を取り戻させるヒントになるのではないか。
 実際、精神分析を擁護してきた精神科医斎藤環はその知見を批評活動にもしばしば用いてきたことで知られている。しかし、彼が精神分析の知見を用いるのは、ただ作品を作る作家について語るためであるらしい(斎藤2009:2-3)。すると、作品それ自体に精神分析の知見を使おうとするのは無謀な試みなのかもしれない。ラカン派の精神分析家、立木康介ラカンにならって次のようにその可能性を疑問視する。

そもそも、書かれたテクストを「分析」することなどできるのでしょうか。書かれたテクストを前にして分析しうるのは、テクストそのものではなく、それを読む私自身の思考であったり、こういってよければ「内面」であったりするだけではないのでしょうか。いずれにせよ、「書かれたもの」そのものを、精神分析で患者さんが語ることばを分析するのと同じように分析できるかといえば、ぜったいムリに決まっています。なぜなら、その分析の効果がどこにも現れてこないからです。私たちがいかに「分析」しようと、テクストそのものに何らかの変化が生じるわけではありません。その意味で、精神分析には「書かれたもの」を分析することなど不可能だし、ラカンにもそのような野心はありませんでした。

『「文学としての人文知」第3回』

 かりに私が登場人物の無意識を論じてみようとも、それが作品を普通に読んだときよりも正当な解釈なのだと判断する基準はどこにもない。それは人物自身が何らかの効果を実感できたかによって判断されるのだが、あいにく完結済み作品のキャラクターはその効果を私に伝えてくれるわけではない。私のしようとした精神分析の真似事はそれこそ妄想めいた推測にとどまり、私が自分自身の内面をさらけ出していることにしかならない。

 しかし立木は、この直後で次のように留保をつけてもいる。

 フロイトパラノイア患者ダニエル・シュレーバーの手記を「分析」しました。これはいま私自身が述べたこと(「書かれたもの」は分析できない)に矛盾しますが、その点は脇に置いてください。いや、この「分析」の結果フロイトが手にしたのは、当の「分析」を通じて再構成されたシュレーバーの妄想の論理が、フロイト自身の精神分析理論とあまりにも似ているという驚きだったことを考えれば、フロイトの「分析」の性質がいかなるものであったかについては議論の余地がありえます。しかしいずれにせよ、フロイトシュレーバーのテクストの「分析」が、話された言葉による分析の代わりを不十分ながら務めると考えていました。

『「文学としての人文知」第3回』

 私が「ハネムーン サラダ」を読んでいくうちに気づいたのは、精神分析の技法を用いて行われた面接の記録が、作中の人物たちのコミュニケーションと類似しているように見えるということだった。

 本書では、物語に対して超越的な位置に立ち、つまり私自身が分析家となって、キャラクターを精神分析的に解釈することをなるべく控える(と言いつつも、しばしばそうすることもある)。前述のとおり、それでは解釈が正しいかどうかを(私の思い込みではなく)判断する基準がないからである。したがって私はむしろ、物語の中で関わる二人の人物に、それぞれ精神分析医やその患者という役割を仮想的に割り当ててみることにした。たとえば、「Aは分析家のように、Bは患者のように、互いにコミュニケートする」という形で私が解釈する。そしてその解釈を、精神分析の臨床場面の記録と重ね合わせてみるのである。

 もちろん、そうして重ね合わせてみることにも、私の何らかの思考や欲求は混じらざるを得ないだろう。しかし、私がそうすることで、物語内でこれまでどうしても不可解だった彼らのコミュニケーションの推移が、より多くの人に論理的かつ情緒的に理解できるようになったとしたらどうだろうか。精神分析の理論は、結果としてその作品の理解に資することになったと言えるのではないか*7

 また精神分析は、親子関係についての独自の理論を持つようになっている。従来あまり言及されることはなかったが、「ハネムーン サラダ」は家族関係の危機と再構築も物語の中で一貫して描いている。精神分析のうちのある理論は、作中の主要人物たちの間だけではなく、彼らとの彼らの家族とのコミュニケーションについても、多くのことを教えてくれるはずである*8

 

 細かく見ていけば、ほかにも読解を行う中で使った手法はある。社会学の理論や調査結果を参照したり、自分の経験を持ち出したりと、そうすることに妥当性があるのか迷ったものもいくつかある。しかし一介のブロガーが完璧な裏付けをすることは難しいため、文献が存在する場合はできるだけ示して、読者の検証に頼らせてもらうことにした。
 また、これは手法というより私の悪癖であるが、本書ではしばしば次のようなことが起こる。作品の読解のためにある知見を持ち出すのだが、その知見によって物語を読んでいくうちに、参照した知見から何か別の理論らしきものが生まれ、物語の読解と一体となって記述全体を呑み込んでしまう。かくして、私は作品を読解していたのか、作品を読解することで何か私の考えていることを更新しようとしたのかが不明確になる。その二つの目的を区別して書くべきだったのか、そもそもどうやって区別して書くことができるのかはわからないままだ。ただ、当の悪癖のままに書かなければ生まれなかった概念や思考も確かにあった。あとは読者が本書の中から利用に値するものを拾い出してくれると信じている。

 以上で、「ハネムーン サラダ」をめぐる従来の言説の確認と、本書の用いる戦略の概観を終える。

参考文献

Benjamin, J. 1988, The Bonds of Love: Psychoanalysis, Feminism, and the Problem of Domination, Pantheon.(=1996 寺沢みづほ訳『愛の拘束』、青土社

H.W.K.K.(二宮ひかるを考える会)2001『H.W.K.K』.

稀見理都2017『エロマンガ表現史』、太田出版

北村婦美2020「精神分析フェミニズム――その対立と融合の歴史」(西見奈子編著『精神分析にとって女とは何か』、福村出版。)

西原麻里2016「マンガの/で,ジェンダーを考えること」、(小山昌宏・玉川博章・小池隆太編『マンガ研究13講』水声社、2016年)。

高橋幸2021「ジェンダー平等な恋愛に向けて――大澤真幸の言う「恋愛」はなぜ「不可能」なのかの考察から」『現代思想2021年9月号 特集=〈恋愛〉の現在』、青土社

「⑥ 哲学と文学、精神分析と文学」(塚本昌則、立木康介廣瀬浩司、鈴木雅雄『「文学としての人文知」第3回』2019年12月7日(金)於東京大学文学部)、「blog 水声社http://www.suiseisha.net/blog/?page_id=12689

*1:次の雑誌を参照。『別冊ぱふ コミック・ファン 2000年07号 検証 まんが界の問題点』、平成十二年二月一日発行、雑草社
類書として、二宮2002も参照。

*2:本筋から逸脱するが、この対談の中でさらに許しがたいことがある。参加者たちが、二宮ひかるが性描写の分量が多い作品を主に描いてきた理由について、根拠のない勘繰りを延々と続けていることである。二宮について、雑誌の中の「脱ぎ組」と冗談めかして位置づけたり、「普通のを描かせてもらえないのかな……」と発言したりすることは、アダルト作品とその作者に対する嘲笑と蔑視以外の何物でもない。そのくせ彼らは同じ対談で「エロゲー」の作品名を次々に挙げて喜ぶのだから、自分が見下しているものたちによって仲間を確保し、自尊心を備給していることに何の疑問も抱いていないのである。いわば彼らは「風俗に行ってサービスを受けておきながら、風俗店で働く女性の背景を勘ぐって憐れんだり、説教を垂れたりする男」と何も異なるところはない。

*3:こうしたごく抽象的な評価に比べ、5chでは少し踏み込んだ投稿もみられた。そこでは、投稿者たちの恋愛の実経験や、他の二宮作品との違いを踏まえつつ、各登場人物の心理が考察されていた。しかし、恋愛の過程について語られているという点ではH.W.K.K.のメンバーと同じであった。

*4:よく行われていたのは「シチュエーション」を見出すことであって、アダルト作品に特有の「表現技法」の指摘ではなかったことに注意する必要がある。後者についてはマンガ表現論の流れを汲んだ研究が行われており(稀見2018)、ここで指摘した言説とは性格を異にする。

*5:東2001を参照。

*6:https://comic.5ch.net/test/read.cgi/comic/1012053897/ 482ほか。

*7:ただ、私の推測を読んだ誰かが、一花や遥子に代わって「腑に落ちた」と思ったのであれば、その人にとっては、私はなにか意味のあるように精神分析の知見を用いたことになる。ただこれは、私を含む読者の分析ができたということであって、作品の分析ができたことにはならない。その二つは全く関係がない、と言うことはできないが。

*8:ちなみに、二宮ひかるはかなり自覚的に精神分析的な知識を取り入れながら作品を制作してきた。例えば「もう逢えない」(1996)では、「子供が初めて好きになる異性ってね おとうさんおかあさんなんだって」と、エディプスコンプレックスを指すような発言が見られる。また「性夢十夜」(1997)はより決定的である。登場人物の一人がフロイトの名前を挙げて、次のように言うからだ。
「なああんた知ってる? そーゆう夢ってフロイトに言わせると/性的欲求不満なんだってさ」
 こうした証拠から、二宮は精神分析のことなど全く知らないし、その手の知見と無関係に作品を制作した、と言うことは不可能である。「作者はそこまで考えていない」という批評につきものの揶揄は、少なくとも精神分析を用いた読解に関しては当たらないわけである。