ジェシカ・ベンジャミン『愛の拘束』(寺沢みづほ訳・1996年)読書ノート

愛の拘束

愛の拘束

 

今後のフィクション作品の読解に役立つと思い、各節の要約をつけながら読み直しました。後半の方は具体的な話題をうまく省けず冗長になってしまいましたが、それだけ重要に思える洞察が多かったということにします。

★印はコメントです。

 以下要約

  • 序論
    • フロイトによれば、幼児時代に強大に見えた大人への愛着をテコにして、人間は文明の法則に服従するようになる、つまり権威を受け入れる。支配は人間本性ではなく人間関係の問題として理解される。支配は、攻撃性や文明の突きつける禁止ではなく、愛の拘束の拡大として考えられる。本書の目的は、愛と支配との相互作用を分析することである。
    • その分析にはフェミニズム批評と従来の精神分析理論への新解釈を用いている。フロイト派の物語の中では、女が男たちと同等とみなされず、主体性を欠いた対象としてみなされているという女の劣位がある。精神分析学は、この区別が幼児と両親の存在から導出される過程を描き出すことに役立つ。しかし同時に、この区別が不可避であるとして、男と女が相互承認することができない状況も精神分析学が正当化してしまうこともある。
    • 服従という現象の分析に従来のフェミニズムがなかなか踏み出せなかったことには理由がある。支配の問題は、男の攻撃性の犠牲にされる女の痛みのドラマの面ばかりで捉えられてきたため、もし女が支配関係に参画していることを認めると、責任の重圧が男から女の方に移ってしまうという困難も生じるからだ。あらゆるラディカルな政治運動で見られるように、抑圧されている人々の理想化が生じるが、その理想化はジェンダーの二元論を再生産してしまう。男性の主張の自明性を疑うだけではなく、女らしさの反動的な称賛も批判する必要がある。
    • この本では、支配の複雑性や曖昧性を断ち切らないようなやり方で、支配に関する従来の説を作り変えることを目指すが、それは神秘と不確実性に耐える努力を必要とする。
  • 第一章 最初の拘束
    • 最初の承認
      • 「私が誰であるか認識することができる、私が生んだ赤ん坊として、わたしはあ な た を認識する」という最初の相互承認。ここには、あなたは私のものだけれど、もはや私の一部ではないという逆説がある。
    • 間主観性
      • フロイトから自我心理学に至るまでの今までの理論は、親と子の不平等な関係における相互的な承認を扱おうとしてこなかった。特に、自律的な別の主体として母親を見ることがなかったし、母親は常に子を気にかけられるわけではない。
    • 相互性:根源的な緊張
      • 母子関係には、良い「相互作用のダンス」もあれば、互いに承認を潰し合うネガティヴなサイクルもありうる。この相互作用をポジティヴに経験できるかどうかが、後の官能生活に影響するだろう。親との内的経験の一致をもとめて幼児は遊んだり探検する。だが、自分自身の興味と親との共鳴の間には緊張が生み出される。
    • 承認の逆説
      • ヘーゲルのエゴと古典精神分析のエゴは同じ。他者は自己確認の道具。自己は自分自身【の絶対性】を確認するために他者を承認しなければならないが、他者を(自分と同等の存在だと)承認することは、自己の絶対性を否定することになるからである。ヘーゲルは「抽象的な相互性」を最初から排除して考えようとした。
        • わがままを言ってごねる子どもの挫折は、親にとっての危機でもある。自分は子どもにとっての完璧な世界を作ることはできない。
    • 他者の発見
      • ウィニコットは、「対象が主体の外側に存在していると認識されるためには、主体の内側では破壊されねばならない」、それが承認ということだと主張する。これを経て、子は「対象の使用」を覚える。内側での破壊、つまり、まずは「相手の独立性を否定したい」と思い、その後に、でも外側を見ると否定できてないことに気づく。外側でも否定できてしまったら(つまり、相手が全く自己主張を捨ててしまったら)、対象は空想の中だけでなく現実にも破壊され、何とも関係できなくなる。
    • 内面化理論を超えて
      • 自我心理学は、他者と同じ機能を果たす内的対象を自分の中に確立することで、幼児の自立を説明する。しかし、自分で自分をなだめる能力は親の機能の内面化ではなく、自我が本来備えている機能が親によって活性化されるだけである。
        • 必要な欲求が充足された特定のひとときも、他者との関係の一種にほかならない(スターン) あやされ、至福の眠りにつくことは、自分の自己が他者の介添によって劇的に変形される一例である
        • 「古典的精神分析は、結合や併合(マージ)や自己=他者の調和の経験を、差異化や自己=他者区別が退行し、その正反対になったものとして見なし続けている。(略)フロイトロマン・ロランに対して自分はこの「大海の感覚」に馴染むことができないと語っている。」66-67
      • 一体性は、退行か究極の快楽として考えられるばかりで、分離の感覚と共存できる状況としては考えられてはいなかった。間主観性の重大な洞察は、相互承認の中に、同質性と差異性が同時に存在するということ。
      • かつての精神分析は主体と他者の相互性ではなく相補性ばかり強調した。他者は応答で自己は欲求とばかり考える。他者は乳房で自己は空腹、他者は抱き上げるが自己は受動的に抱き上げられる。あるいはその逆転しかない。
    • 同一性と差異性の緊張に耐えきれないと、一方の価値がおとしめられ、他方のものが理想化される(分裂)。これが、分離(自己確立)の過大評価の理由だ。
  • 第二章 主人と奴隷
    • 屈従する人々の心のなかに、支配がどのように固定されるのか
    • 支配と差異化
      • 奴隷は主人の承認要求を認めなければならないと結論するだけで、なぜそれに従うのかが十分に説明していない、ヘーゲルフロイトも 彼らの仮説的自我は、相手を自分と同じ人間として認めることは絶対にない。もしするにしても、いやいやであって、自分の全能を信じたい欲求は無意識内であっても頑強に持続する。
    • エロティックな支配の空想
      • O嬢の物語』は、人々は恐怖のためでなくても屈従に心から同意することも頻繁にあると教える。それは、屈従が承認を求めることからくるから。
        • 物語の中で、男たちはペニスを強調することで自らの依存を否定し、視線を遮断することで自らも対象に堕さないように距離を取る(だが、現実に自分の力を痕として確認できなければ不安になる=依存している)。しかし、女性の方はその距離にもかかわらず、自らが屈従することで「主人の権力を確証し完全なままに保っていること」に自己の満足を見つける。しかし、女が全くの抵抗も感情も失うと、主人は再び支配に満足感を覚えられなくなる。
    • 支配、死、そして不満
      • バタイユのエロティシズム=生と死の境界侵犯。ただし、現実に境界を壊してしまえば相手を殺してしまう。興奮は死そのものではなく死の危険の中にある。エロティックな相補性は、男の境界維持・女の境界破壊の受け入れとなる。男はより高い秩序の構築というような目的性をもつ啓発的なものとされる。
        • 「征服と抵抗との関係がいったん消滅してしまったなら、死もしくは遺棄が不可避的な結末になる」(93)
      • 対等な互恵関係は双方が対局たる相補関係に転じてしまうことは、SM以外の親交関係でもしばしば見られる。フロイト死の衝動説では、人は攻撃として自らのうちの死の衝動を外部に向けるが、結局他人の支配は緊張の低下に帰結してしまう。緊張の喪失とは全能感をもつことをいう。一方、間主観理論では緊張喪失とは相互承認の崩壊の結果と考えられ、必ず崩壊すると決まってはいない。
    • 破壊と存続
      • ウィニコット。子は他者を破壊しようとし、他者が破壊を受け止め=存続すれば(つまり、子の攻撃に対して復讐したり退却したりせずに接すれば)破壊は「内面化される」。しかし、存続や内面化がうまくいかないと、子は憤る。自己と世界の情緒的な区別をうまく作れず、空虚な感覚に陥る。
        • 存続の定義「親が、そこから先は許されないのだと子どもに告げる地点までは、子供の自己壮大感を充分――ただし過度にならない程度で――寛大に取り扱い、その上で親である他者の欲求と現実が、子供の精神的達成に制限を課することである」(100-101)訳が悪いな。
      • もしくは、親が懲罰や遺棄を続けると子は見せかけの黙従をする。他者の破壊を空想の中だけにとどめ、決して現実の親を攻撃しようともしない。彼は、間断なく責めさいなまれている偽の自己を捨てて、真の自己を見いだせる領域(他人の心の中)に逃げ込もうとする。このマゾヒズムは、「他者と一緒になっても(無理して同調せずに)孤立していられる」状態を求める戦略といえる。
        • 彼〔マゾヒスト〕は、自分の衝動を、外部からの指示なしに湧き上がる自分自身のものとして経験したことがない。彼は自覚していないとしても、自分の衝動を自分自身のものとして経験することを、生涯切望し続ける。103.
      • エロティックな結合において、自分自身を失いつつ、それでいて自分がいささかも損なわれずに存在し続けることは、まるで矛盾しないことででもあるかのように、現実に同時進行的に生じている。
    • 支配と性的差異
      • サディズムマゾヒズムが、なぜ男らしさと女らしさに結び付けられるのか。男子は、母親との当初の一体性を否定することによって男らしさを確立する。これはしばしば、母親を人間以下のものとみなすこと(対象化)によって成立する。’(「偽の差異化」という)そして、情緒的共鳴と身体的調和を捨てて自立したと思ったあとも、男子は相手とエロティックな関係を結ぶと「母親に吸収される恐怖」に怯える。男の支配は、この恐怖する構図をもとに逆転したものになる。
      • 女子は、母親との分離(差異化)を経験する明確な印がない。男が独立に邁進して母の主体性を認めなくなるのとは逆に、女子は自らの主体性を放棄してでも母親との絆を維持しようとする。この対母関係が、自らの主体性を放棄してでも相手との絆を維持しようとする屈従の基盤となる。
      • 女らしさとマゾヒズムの連想は、自然なものではない。女の自然本性が男に鎮圧されるのでもないし、教育のみによって叩き込まれるのでもない。そこには母親の主体性を子が認識することの困難がある。ただ、母親が必要な自己主張をするのはなかなか難しい。
      • キャリアウーマンの如く、自立を言ってみたところろで支配は崩せない。むしろ個人化の度合いが増すにしたがって、サドマゾヒズムが両者を救い出してくれるかのようだ。『O嬢の物語』。この状況の打破には、支配と屈従という権力関係の下には承認の切望があることを忘れないことが必要である。
  • 第三章 女の欲望
    • 女の欲望の問題
      • フロイト理論では、男とは欲望であり、女とは欲望の対象である。女の欲望表現の不在。母親は、その欲望と権力を自分自身ではなく子どもに奉仕するためにしか使用しないとされている。母親にこらえがたい性的欲求など想定されていない。「ファム・ファタール」のイメージも、対象としてセクシーなだけで主体的とは言えない。彼女の権力は、彼女自身の情熱ではなく他者の欲望を強烈に掻き立てる事実のなかにしかないから(男の存在を前提としているから)。女の欲望とは、むしろ欲望を持つ存在への羨望としてしか現れない。恋愛は、自分だけでは獲得することができない欲望を代理的に手に入れることを目的としている? 自分自身がどれだけ情熱を持って、男との関係を望んでいるのだと主張したとしても。女の欲望(羨望)こそが、欲望を持つ存在=男への屈従を帰結する。
      • フロイトの見解とは違って、男の子も女の子も生後二年までの間に母親との同一化を経て自らのジェンダーの感覚を形成する(前エディプス期)。女らしさは母親との同一視によって発達する。
      • フェミニズムの論客は性的対象化と受動性を拒否するためにセックスに見切りをつけた。性欲の問題を回避する清教徒的傾向は、欲望ではなく授乳する母親の称揚としばしば結びつく。しかし、この母性の理想化は女がさらされている性的価値剥奪(性的働きかけの欠如)を称揚することになる。女の領域を評価することは重要だが、女の欲望と男の権力の関係をよく理解しなければならない。
    • ペニス羨望/原因
      • 前述のように、重要なのは前エディプス期。前エディプス期では母親は無力で男根=権力を欠いたものとしてではなく、強大な存在として知覚される。この母親の権力にまつわる空想を元にして、父親と父親の男根は母からの分離独立能力の象徴となる。ペニス羨望という現象は、女の子が分離独立を達成しようとする努力の表現であると解釈できる。しかし、母が全能であるという空想を押さえつけるために父は全能であるという空想を持ち出すのは、真の解決にはならない(「火を消すために火を使うやり方」)。そこでは世界に対する愛情ある相互作用が見逃される。
    • 父親を選びとること
      • 幼い男の子も女の子も、支配や自制(特に、自慰を始めとする性的な事柄の)ばかりを押し付けてくる母親を拒絶して、母親の支配を逃れている父親のような存在になろうとする。しかし女の子は、父親が自分が女であることを理由に、母親に対してするように屈従を強いるのではないかというジレンマに直面する。父親との同一視は、父親のような権力によって母の支配と戦いながら、同時に父親からの軽蔑も回避しなければならない。
    • 欲望の鏡
      • 最近の研究では、ジェンダー自我は生後二年の間に発達し、三歳になるまではほぼ確立している
        • 父親と母親の違い、ジェンダー差異の知覚とは? 自分を世話する存在と、その存在よりも強力な、コントロールする存在という形でだろうか 142に回答あり。父親の遊びはスリリングで、自制がない。
      • 「和解段階」で欲されているのは、自分の欲望を承認してもらうこと。男の子は父親との遊びの中で承認され、欲望の主体として母親からの独立と依存の否定を同時に果たす。
        • 同一視的愛。相手と同じようになる、真似をすることによって他者の主体性を認識するのは特別な情緒的重要性を持つ。自分と相手とが異質であるために相手を愛すること、つまり対象愛よりも早い。また、これは理想愛=「自分自身の理想イメージを他者の中に発見しようと求める恋愛」の原型だと思われる。
    • 見失われた父親
      • 女の欲望が見失われているのは、父親が見失われているから。女の子は自分の個人化を達成するために父親と同一視しようとする。そのときに父の象徴として見るのがペニスである。
        • 同一視愛は、親の視点をもとに展開されている。父親は息子を自分の理想の男の子とみなして愛するが、女の子に対しては、父親自身が女との差異を主張する必要にかられているために、娘を承認することが難しくなってしまう。そして、親自身とは決定的に違う相手、対象として娘を扱う。
        • その結果、女の子は父親とのつながりを男の子のようには利用できなくなる。娘は承認されなかった怒りと独立をなかなか果たせない怒りを内面に向ける。若い段階の女児が意気消沈しがちになるのはこのためと考えられる。そして欲望の主体となれなかった女の子は、社交能力や将来の母性の強調という解決法に赴く。
          • 同一視に引き続いて承認が生じると、子どもは異性間恋愛、つまり自分とは異なるものを愛することができるようになる。しかし、同一視が不完全なままの、早すぎる時期に〔同一視の〕放棄が生じるなら、他者への否認や理想化に帰結してしまう。153
          • 同一視の欲望が応えてもらえない時に、羨望が生じる。羨望とはおよそ、阻止された同一視のしるしなのである。同
          • 見失われた男根への切望、つまり女の特質とされてきた羨望は、本当は、男の子には可能であるホモエロティックな絆への切望であり、同一視的愛への切望である。
      • 女の子が父親との同一視を達成するとき、した後に生じる困難。1,女を性的対象とする文化イメージとの葛藤。2、母親との同一視とは両立しない。3、父親が娘の立場をどう見ているかとも一致しない。4、父親とのエロティックな関係がほんとうに結ばれれば、父親への愛着は自立を準備するどころかその障害となる(★何を言ってんだ? やばいな)。これは現行のジェンダー制度での話で、違う制度のもとでなら女の子の父親との同一視も建設的になりうるだろう。そのためには、両方の親がそれぞれ子どもにとっての分離および愛着の体現者になることで、どちらにも同一視が可能となることだ。両方の親との同一化はある程度現実に起こっていることで、子どもは男であろうと女であろうと母親及び父親、同一性および差異の、両方を求めている。どちらをより強く求めるかは、親がその反対のものをどれだけ強調するか次第だ
      • 同一化の対象を交代させつつ成長できれば(異性間同一視と同性間同一視を共存させられれば)、自己と他者を理解する基盤ができる。ジェンダーを消去可能とは言わないが、自らの、そして自らと異なるジェンダーの表現とを同居させることが可能になる。柔軟性。
    • 女の理想愛探求
      • 母親との同一視と父親との同一視は衝突し女の子は葛藤する。これは性的行為者としての感覚を深く傷つける。その補償として、女達は理想愛において権力者と自己を同一視しようと務めることで、自己を喪失してしまう。
      • 理想愛では、女は自分に依存しなくても強いままで有り続ける男にのみ、自分の欲望を解き放つことができるとされる。これは、父親と母親の療法が体現しそこなっている「攻撃を生き延び、かつ依然としてそこに存在し続ける能力」を満たしている。
      • 見失われた父親の探求は、子どもの興奮と攻撃を受け入れ、認め、かつそれを制限付けることができる母親との和解を求める構造の一部に過ぎない。したがって、女にとって、男との同一視を通して母親に反逆するだけでは、幼児期の挫折の経験の全体は修復できない。母親からの分離と同一視の両立は未達成に終わる。
      • 原因は、女らしさと欲望との両立を認めないジェンダー区分にある。恐ろしい母親と外部世界の代表者としての男のイメージは相補的に文化の中に存在する。
    • 自分自身の欲望
      • 現在の父権的文化の中で、女の欲望を表現する方法とはなんだろうか。一つの案は、男根が象徴であるように、女性器を象徴として打ち出すやり方だ。しかしこれは既存の女性への侮辱を逆転させるだけで構図自体は維持される。女の体はすでに無限に対象化され、極限まで美化されているので、この構図は女性器を扱ったところで崩せない。心理の象徴的なレベルは、「去勢」など男根をベースに考えられており、女の体も男根との関係(それがないということによって)定義されている。
        • 精神内理論様式(「主体=対象の相補関係レベルでしか捉えないやり方」)にとって、他者の独立した主体性は考慮されていない。対象としか考えられていない女の欲望を発見しようとするなら、二人の人間がどちらも主体になりうるような間主観的な表現様式を考える必要がある。以下は仮説だが、それは空間的に表現される。ウィニコットが論じたように、母親と子どもが、2つの体の間の空間的境界線を移動させる遊びの中で、差異化と承認が可能になる。これを「ダンス」という空間の動きと呼ぶ。
        • 内的空間。ウィニコットのいう「内面」をもつとは、自分の衝動は自分自身のものだと感じさせてくれる安全な空間を精神の中に保持していることである。自分を解き放って他人の抱擁に頼ることができるのは性的主体性の能動面であり、抱擁は受動面という考え方は必ずしも正しくない。前者でも、自分がその状況を作り出しているという主体性の感覚には内面を持つこと(自分を保持・抑制すること)が不可欠だからだ。もしそれを持っていなかったら、ひとはただ「動因に駆られている」だけで、他人や自分自身に反応していることにはならないし、目的をもった行動もできないだろうから。
          • プシュケーの神話の読解(ギリガンとスターン:注76)。理想化と対象化から離れた孤立(「開かれた空間」)の中で、はじめて性的欲望の覚醒を経験する。
      • 精神分析医モントグレインは、女性は性的欲望を明白に確認できる器官を欠いているために、欲望をコントロールすることに困難を抱えているとするが、するとある意味、空間の一点に固定されていないのが女の欲望だと言えるのではないだろうか。性器の補い合いのみではなく、幼児期の遊びのように、体の内側と外側すべてを快楽の舞台とするような欲望。
  • 第四章 エディプス期の謎
    • フロイトのエディプス期のモデルでは、父親は子どもを幼児期の無限のナルチシスムに引き戻そうとし続ける母親から救い出してくれる人である。この開放者としての父親のイメージは、父親の理想化と母親のおとしめに至る。ここでは、父親の権力に対する恐れは浄化されて、その恐怖を母親の属性のせいにする(あらゆる理想化は防衛である)。
    • 父親の庇護のもとで
      • クリストファー・ラッシュの『ナルチシズムの文化』批判。これは、前エディプス期の権威の感覚は破壊的なもので、エディプス期においてその悪辣さから離れて、より発達した権威=超自我を作り出すという想定をしている。父親の権威弱体により、超自我が形成されず罪悪感も責任感も持つことができない人間が増えたという見立てをする。しかし、育児段階で父親の関与はむしろますます推奨されつつあるのでは?
      •  そもそも、どうして父親だけが唯一の開放者なのか。原初=ナルチスティックな母親と、文明化/エディプス的な父親という対照の問題は、前エディプス期の父親の、全能に見える理想像という役割が無視されることである。
        • オイディプス王の神話はフロイトと違ったように解釈できる。エディプス期の息子は、父親殺しの願望に憑かれているのではなく、自分が父親に取って代わるという願望に耐えられない人物である。神話のオイディプスは、父親を殺す(というより、いつか先に親が死に、自分がその位置につく)運命から逃げ出そうと努力していた。もし取って代わってしまったら、自分を守ってくれ、生き生きとした体験を与えてくれた理想を失ってしまうからだ。同時に、神話でオイディプスを殺そうとした実父ライオスのように、自分が息子に取って代わられるということを認められず、そのために殺人すら厭わないのが父親なのだ、とも読める。フロイトも、この父親の暗黒面を強く意識はしていた。でも同時に、父親はすばらしい、何でもできてまねしたいような理想であった。
      • 前エディプス期の殺人的な父親像、エディプス期の理性的な父親像という風に前後ではっきり分割し対立的に考えること自体が、前者のおとしめと後者の理想化になってしまっている。前者との同一視は「催眠術的指導者」への盲従を生み出すと考える人たちが見落としているのは、屈従は子供の父親への愛だけではなく、父親が幼児の愛に対して示す反応にも起因するということだ。前章で見たように、前エディプス期の父親との同一視が屈従を引き起こすのは、それが(父親によって)充分に承認されないときだけである。もし父親にほどよく承認されれば、それが自律性の基盤になりうる。屈従を生み出すのは父親の不在ではなく、父親の慈しみの欠如である。
    • 原初の母親
      • 理性的な父親の権威/非理性的な母親の権力という対立は、理性主義/ロマン主義アポロンディオニソスという伝統的な対立に呼応している。父親は一体性=母親=無限のナルチシズムの中から子どもを救い出す。
      • シャッスゲエ=スミルゲルへの批判。エディプスコンプレックスへの直面は、たしかに、自分と親との関係が、両親のあいだの関係とは違うことを認識することだとは言える。しかし、自我理想(全能な存在との一体感をもとめるもの)が母親との関係から生じ、超自我が父親との関係で生じるとするのは、メタファーと現実を混同している。現実には、母親が社会的・道徳的なルールを子に教え込むのだし、子どもとのエロティックな絆に制限を設ける。母親的な自我理想と父親的な超自我の対立があるのではなく、母親的な超自我と父親的な超自我との区別があるだけではないか。そしてエディプス期の父親が理想化を被っているのは、逆に彼が家庭の外におり、具体的な関与を欠いているからではないか。
      • 子供のナルチシズムは退行というより発達の原動力になっている。子どもが自分の完全性を捨てなければならないような事態のたびに、母親は挑戦・達成した子を承認してナルチシズムを取り戻させるが、そこで自律的に世界に働きかけることに価値が付与される。
      • シャッスゲエ=スミルゲルの、ナチズムと母親的理想の追求を結びつけることへの批判。恐怖は父親から母親に移し替えられる。すべての非理性を母親側に帰して、男根的理想が含む破壊的衝動を否認する。それは無意識界では母親が全能感のもとであるという理由をもって、父親が母親を支配することを正当化する。「女の危険性を喚起することは、論理よりもむしろ、女の服従を正当化する昔ながらの神話の問題であるように思われる。」214
        • ★あいつは恐ろしい力をもっているから(負の理想化)支配下に置かないとダメなんだ(支配の正当化)、というのは、なんとなく進撃の巨人を思い出す。
      • エンゲルのラッシュ批判と、その批判への応答。前者は、自我理想と超自我はどちらもないといけない(二重の支配権)。完全な共生は防衛的な差異否認であり、完全な自己充足は防衛的な依存否認だが、現状では双方の理想化に差がある。ただ、この2つが同一の心理的機能を表すと仮定すると間違える。
    • 女らしさの放棄
      • なぜ女の子が男のようになりたいと願うことは病的で、男が女らしさを捨てようとするのは自明なのか? エディプス期に息子が受ける命令は、「お前は母親のようであってはならないし、私が母親を愛するようなやり方でお前が母親を愛するには、お前は待たねばならない」ということ。そして、息子は母親を愛の対象として外部化(母親との同一視を放棄)する。善なる母親はいわば」失われた楽園となり、愛を通して外側から取り戻さねばならないものになる。エディプス期では同一視的愛が対象への愛に変換される。近親相姦の禁止は、(内的な)愛情の対象と現実のそれに似た対象との区別を表している。
      • 男の子は、自分が母親のように食物や命を作り出す能力がない事に気づき、自分の外側に出てしまった母を羨望し同時に貶めるようになる。母親との同一視ができなくなった男の子は、間主観的な空間にあった「何か生気に満ちたもの」を失ってしまった恐怖に脅かされる。もはや母親との関係でそれを回復することはできないから、その克服のために彼は女を求める。
      • しかし、もはや間主観的な空間が空である男は、女を前にして、その女への欲望が自分の内側から湧き上がるものだと実感できることはあまりない。欲望は対象=女のほうにそれを喚起する属性があるという男の主張は、これと関係がある。さらに、より完全な男性性の理想とは、女の誘惑に屈せずに女を征服する主体であるということになる。この帰結は、女を自分と同等の主体とは絶対にみなさない態度。彼は女を恐怖したり支配したり、距離をとったりすることしかできなくなる。
      • フロイトは、子どもは女の性器の存在を知らないのだと主張し続けてきた。意義ある性器はペニスだけだという「男根一元論」へのシャッスゲエ=スミルゲルの批判。これは、両性間の差異を不在や欠落のレベルに引き下げてしまう。女とは男ではないものとしてしか定義されない。母親の性器の否認は、母親を失われた楽園か危険なセイレーンとして(人間以上か人間以下のものとして)(★つまり、決して同じ人間とはみなさない)仕立て上げることになる。男根は男のセクシュアリティだけではなく女のセクシュアリティを表象する権力をもつことによって、女の独立したセクシュアリティが存在すること自体を否定する。
    • 対極性の原理
      • エディプス期の男の子は、かつて自分もその中にいた間主観的コミュニケーションを女らしさに結びついたものと思うようになる。情愛を込めて相手の動作を真似していた状態は、からかいや挑発の動作として否定的に使われるようになる。同一視は他者の経験と自分を繋ぐ橋としては機能せず、類似性を確認する機能しか持たなくなる、同時に、愛は対象愛としてしか考えられなくなる。
        • 「心の他者承認は、差異の表面の奥に共通性を感じとる能力を必要とするし、心の差異化は、分離性と結合性の均衡をダイナミックな緊張の中に維持するものである。」234-235
      • 子どもは、父親との同一視をしたとしても実際は無力で依存しているのであるが、自己は全能であるという幻想に未来を加えるようになる(「お前は私のようになるには待たねばならない」)。成長できればいつか依存は消える、と信じることで、他者を必要とすることの価値は一段と引き下げられる。
      • 自由を慈しみの敵対物にさせるメンタリティ。この二者択一は依然として残っている。自足した個人という理想は男の支配や父親の権威よりも広く浸透しており、後者を崩したところでその理想は維持される。むしろ、明白な権威がないことにより、各個人が理想を実現しなければならないというプレッシャーによって、より強固になっているといえる。しかし、自足した個人というのは中性的ではなく男性の理想だという主張は、ラッシュがそうしたように否定される。個人性と理性に関する理想は、男の支配の一形態である。この理想を持続させているのは、自己の完全喪失と依存を同一のものとみなす誤謬である。
      • 母親との一体性から母親嫌悪への移行というのは、社会化と個人性の確立というより複雑な間主観的関係を象徴的に簡略化する過程なのではないか?「間主観的関係は、他者との一体性でも自己完結性でもなく、交互に出現する無力感と慰安、共鳴と分離との対象、分離と個人差異への認識の生長を特徴とするもの」238
      • 成長した人間が失われた母親と再結合するイメージには、文明世界から永久に旅立つといった絶対性の要素が見られるようになるが、筆者が柔軟性を持つと考える自我にとっては、結合は単純に楽しい遠足である。この場合、エロティックな結合の中で自己を喪失すると感じることは、個別性の感覚を備えた自己を抹消したりはしない。幼児時代の母子共鳴の経験のように。世界から抜け出して休息状態に入りたいとか、エロティックな結合の共鳴を経験したいという大人も子どもも持つような願望は、差異化を目指す努力を全て無効にしてしまう、恐ろしい退行性の力であるなどと見なす必要はない。
    • 新しいエディプス
      • 無限のナルチシズムと理想的な理性の対立させる限り父親の権威は永続する。マルクーゼやO.ブラウンの思想にもこの対立が見られる。エディプス・コンプレックスは単なる発達の位置段階として見て、全エディプス期の努力の有効性を認めなければならない。
      • ローワルドの親殺しの意味。「自分自身の人生の責任を引き受けることは、心理的現実においては、親殺しに等しい」。親の権威は破壊され、リビドー対象として破壊されるが、親は破壊を生き延び報復することはない(これを「寛大な父親」と呼ぶ)。今では、父親への反逆とは、子どもが親を置き去りにして、自らの人生を生き始めることであり、それは単なる人生の一段階。ここでパニックになってしまわず息子を認めるのが、寛大な父親だ。
      • 後エディプス期の分離の意味は、親が比喩的に死に、現実に生き続けているという喜びと、喪失したことへの悲しみという両義性である。従来のエディプス期の後には、強大な親の介入が罪悪感と殺人の欲望として内面化されるが、それは攻撃的な権威を内側に作り出して、自分がコントロールできない他人から距離をとって自律的に見せかけることにしかならなかった。「自分の無力性を受け容れれば、他者を配慮しなければならぬ責任から免れられるというこの権威の内面化の態度は、人間は結局他者のためには何もできないのだという考え方によって、正当化されることになる。」246 方法序説デカルトの一節は、これを表現している。
      • 結局、男の女と子供に対する絶対的支配権が揺らいだことによって判明したのは、男の理想の中に他者を承認する能力が欠けているということだった。エディプス期モデルは、母子関係では差異化が生じないなどと述べることでこの欠如を隠蔽してきた。エディプス理論は、承認を求める戦いが父と息子の間にだけあるとして、女はその獲得競争の景品としてしか見ていない。承認を求め合う男と女の関係を構想するには、エディプス理論の父親偏重を考え直す必要がある。
  • 第五章 ジェンダーと支配
    • エディプス的なジェンダー対極性は、西欧の社会全体の二元論と通底している。中性的主体は殆どの場合男として規定されているように思われるが、この解明は難しい。げミニストたちがこれに取り組んできた。社会の合理化の論理は、慈しみと間主観的な人間関係を、女と子供の私的・家内的な世界に追放することで進められる。母親的な特質が蝕まれているのは、女たちが公的世界に進出しているからではなく、社会的にますます男の合理性のみが評価されるようになっているためである。
    • 男の個人性、男の合理性
      • ウェーバーフランクフルト学派。支配が非人称化されるに従い、支配は存在して当然のもののように思われてくる。組織の合理化・非人称化傾向は、男性形として理解されるべきである。つまり男の支配は(階級支配の場合と同様に)、個々の男女の意志とは無関係に社会的・文化的構造に発するものとなっている。
      • 自律的個人という概念へのフェミニストの批判は、自由な個人というブルジョワ的理想へのマルクス主義者の批判(マルクーゼ)に酷似している。どちらも、「他人からの自由」を重視。これは、母親との同一視放棄と、個人の自由を育みかつ制限付ける情緒的な絆の否認を経て男になる心理的過程と整合的なのであって、ジェンダー的に中立では決してない。
    • 客観性と自律性
      • イヴリン・ケラー『ジェンダーと科学への論考』。認識主体と対象との関係は、主体と彼の愛情対象の関係として現れる。科学の前提する主体と対象との二分法の徹底は、他者を対象としてしか認めようとしない男の態度と合致している。
        • ★現代科学には対象に影響を与える観測者という概念もある気がするが。でも人間を研究するには対象としてではなく生きた人間であると理解して行わないといけないのは同意。
      • ルカーチフランクフルト学派。哲学は、対象を主体のもとに包摂し、客観的世界を生命のない世界にしてしまう過程を経てきた。しかしフランクフルト学派も、間主観的な理論が欠けていたために、人間関係を一体への回帰としてしか考えられず、理性的精神が支配に向かう傾向を非難するだけに終わった。
      • ケラーのいう客観性。認識者と非認識者との間の共鳴や類似を引き出すこと。対象に十分な関心を払うと、対象はより完全なものとして現れ、自己は失われるのではなく対象の快楽を通して高められる。対象を敬う秘密の知識伝統が存在する。バーバラ・マクリントックの仕事は、知る行為が征服ではなく友達と感じられるようになることなのだと教えてくれる。合理主義にある支配の指摘からロマンティックな反合理主義を採用するのではなく、非合理的で幼児的という理由で追放されてきた物の価値を再考し、合理性を定義し直すことが必要。
      • ギリガンのコールバーグへの批判。特定の他者を全般的他者に吸収することで、人間としての一般的な視点に立って道徳を考えることができるが、これは純然たる自己主張を制限すると同時に肯定している。なぜかといえば、全員が全員と競い合うならたしかに私の欲求は制限されるが、これは自己と他者に差異がある、つまり、競い合わない他者もいるということを無視しているからだ。実際には競い合わない他者がいて、そうしたら自己主張をする者はその他者に一方的に要求をすることができてしまう。
        • ★ここの記述もよく理解しきれず、不正確かもしれない
      • ザイラ・ベンハビブの指摘。公的な疑問と私的な疑問の区別をつけよと主張すること自体が、暗黙の性の政治学である。女達が生殖的・情緒的な私的生活に固執してくれなければ、個人を他の個人から守ってくれる権利のシステムが崩壊してしまう。公的世界と私的世界の共謀は、前者から間主観的な関係と承認を排除することによって成り立っている。ウェーバーは、現代の最も偉大な芸術が公的な領域から退き、親密な領域の中に隠れてしまったことを嘆いた。後の時代の批評家は、その区別を自然で不可避なものと見なしている。
    • 私的領域の擁護者
      • ジェンダー保守主義者はそろって社会の合理化を嘆き、公私の区別を強調しようとする。これは、公的なものは個人の無力感を強めることしかできないから、競争に参加していない家庭内の人間しか保護を与えてはくれないという前提からくる。公的な機関が私的領域に入ってきたら、いよいよ自分の無力感から逃げる場所がなくなる。公的な支援は、自立した個人であるはずの自分が本当は無力であるという事実を思い出させるために、激しく抵抗に遭う。
        • 母親が家庭にいなくなったのをフェミニストのせいだと避難するジェンダー保守主義者たちは、男の育児の責任を言われると集合育児の問題へと話を逸らすことしかできない(父親の話をしているのであって、デイケアキブツの話は関係ない)。なぜそれほど父親に育児を任せることをしたくないのか? それは、男が家庭でも道具的理性を持って子どもに接することしかできないと考えるからだ。
      • 理想的な母親=妻は、自律的な個人の欲求を予め満たしてやることで、その個人が自分の欲求を認めなくともすむようにしてやるものである。したがって、その女に対する支配権を喪失することは、個人の自己統制の感覚をひどく脅かす。
    • 失われた理想たる母性
      • 母親への真の承認がないことを指摘することは、母性を感傷的に理想化することとは違う。この理想化は自律的個人を作り出すために喧伝された公私の分割の産物だからだ。合理性に失望し(脱魔術化)た人々は母性を称賛することで魔法の掛け直しを試みている。戦後、核家族の孤立が強まったことと母性の理想化は同時に進んだが、それで女は害を被った。性別役割が緩和された家庭もあるかもしれないが、相変わらず離婚後の養育責任は女にあり、経済的な依存度が減っても女は無力のままである。性別役割を取り戻そうとする動きは、女が依存の状態に戻せば、男たちを家族の責任ある地位に呼び戻すことができるという誤った希望の反映。
      • デイケアは子どもの情緒にとって害なのか? セルマ・フライバーグは、幼児は愛着の対象を変えて、未知の人を愛することはできないと主張する。しかし、ボウルビィは、親と愛着関係を形成している大抵の赤ん坊が、他の定期的に会う人間をも愛着対象とできることを認めている。デイケアを論じる人々は、母親だけによる育児が望ましいという主張をする前に、子育てを妨げるほどの労働組織改善や、高品質のデイケアが一部の特権的な人々しか利用できないことに言及すべきではないのか。
      • 退行的な魔法の掛け直しはイメージに訴えて人々の支持をもたらす。不十分な公的ケアや休暇と労働条件の改善を言う声よりも、胎児が放置されて死ぬイメージでもって中絶反対を掲げる人々のほうが強い。「幼児の面倒を他の人に委ねる母親」への拒絶反応には何がある? その一つは、依存している幼児は無限に脆弱で、その欲求は満足することを知らないという想定である。しかしこれには何の証拠もない。幼児を無視したり見捨てたりすることは問題だが、いっとき目を離された幼児が怒りを感じることも発達の一要素である。しかし、しばしばこの分離は危険だとみなされてしまい、片時も乳児から目を離さない「完璧な母親の幻想」が作られる。
      • 現実の分離(誰かが立ち去る経験)と、精神的分離(自己の外側に誰かが存在するという心理的確信)の関係。子どもが置き去りにされたことに対して腹をたてることができないなら、自分としては破壊したはずの人物が、冷静で無傷のまま存続していたという状況(ウィニコットの破壊の積極的側面)を経験することが絶対にできなくなり、空想の他人と現実の他人との区別を習得できない。この経験が、必ずしも完璧でも理想的でもないものとして他者を知覚できるかを左右する。また、自分自身の全能の攻撃性を相手に投影したもの(報復的な対象)への恐怖を小さくできるかも左右する。
      • 分離が連想させる攻撃性を生き延びられなければ、母と子はともに自己全能感の中に閉じ込められる。子どもは、母親の主体性(母さんは去る)にも出会えず、その出会いの痛みを内面の情緒的表現に変える(内部の対象を破壊する)機会も失う。同様に、母親が自分が立ち去る行為が子どもを破壊するのではと恐れているとき、彼女は子どもを分離した存在としてみていない。母親は自分や子どもがあまりに強大だと無意識で思っていて、〔子の報復的な怒りが自分を滅ぼしてしまうと思っている〕。
        • ★〔〕内はよくわからなかったため、推測による補足。
      • 母親は全能だ(ゆえに強大で恐ろしい)という信念が、男の支配を正当化する。理想化とは、攻撃に備えた防衛であって、憎悪と愛情を統合できないときに起こる。憎しみを表現できれば理想化を解除できるのだから。母親の主体性には、母と子の療法が、母親は現実の人間なのだから不完全であると容認することが含まれる必要がある。しかし、母親は自己充足しているという理想が広く通用している。
        • 母親たちはどのような保護と支援を必要としているかと訊かれた母親は、次のように応えた。「誰かが私の面倒を見るんですって……? 私が母親なのだから、私が面倒を見る方なんですよ。私が息子の面倒を見ています」
      • 社会的・文化的生活で母親の独立した主体が否認されたため、母親は子どもにとって全能の理想人物のままにとどまる。女の主体性など存在しないという子どもの空想は母子関係を通じて受け継がれる。
    • 母親の感傷的な理想化(卑しめられた対象と理想化された対象としての母親)が、男と女の相互承認の障害となっている。なぜなら、男の自己主張は空想的な殺人性を帯びているとしか思えず、母親は容易に滅んでしまうか、攻撃した男に復讐をしてくる恐ろしい人外でしかなくなるからである。
    • 男の支配の中心は個人的な暴力という直接表現ではなく、男だけが擁護するわけではない社会的合理性の中にこそ存在する、という事実の把握は難しい。弁護士のマッキノンは公的な法律原理によって隠蔽されている男の暴力と支配を明らかにするが、非個人的な法律構造自体が、ジェンダー支配の結果構築されたものである点を指摘できていない。社会的な合理性は、一面ではジェンダー差異を中性化し、もう一面で破砕の根底にある二元論を強化するという逆説的な傾向を持つ。二元論の用語が中性的に見える場合でも、いつでも再びジェンダー付けることができる。フェミニズムによる批判は、家族・父権制・母親のイメージなどを超えて視野を拡大しなければならない。
    • チョドロウとディナースタインの主張。男と女の双方が育児をするなら、幼児は親に対して抱くアンビヴァレンスを、両親のイメージを分裂させることで解決させるという策は取れなくなるだろう。男たちはもはや同性の親と同一視するために母親を貶めたり放棄する必要はなくなるだろう。これが、全ての重要な二元論的対立を支える合理性を解体するだろう。しかし、親は無意識的にも親子関係の外側にある文化表象と子どもの自我を対応させようとしてしまう。育児の作り直しと同様に、心理表象と文化表象の両方で、ジェンダーが二元論的対立として描かれる構造(心理学で言う分裂)を捉えることが重要。
    • ジェンダー対極性は、男と女の相互承認が実現しないことだけでなくもっと広汎な損害を社会に与える。集合的な価値と活動と制度から母親的な価値を排除し、母親の社会的身分を育児のみに切り詰め、母親の主体性を無効にする。ますます多くの他者が単なる対象と化し、自己主張が承認によって反応してもらえるような間主観的状況はますます希少になる。
  • 結論
    • 支配は自己と他者の緊張を破壊することから始まり、全能の空想を体現している強大な他者と同一視するか、またはその他者に屈従するかという道をたどる。
    • 他者とのつながりを断ち切るのではなく、そのもつれを解くこと、絆を足かせにするのではなく、承認の回路にすること。
    • 他者との緊張を分解させ、主体と対象の相補関係に変えてしまうものとして精神内部理論を取り上げてきたが、著者の真意は、これと間主観的理論の両方を尊重すべきだということで、一方が本質的で他方は随伴現象だとすることではない。
      • 理想的に行けば承認は決して揺らがないとか、個人内部と個々人間の緊張は決して崩れないとか理想状態を考えたところで、私たちが最も欲望するものが、私達を奴隷にもすれば解放しもする微妙なやり方を理解するための役には立たない。
    • 心理的現実は二重性があり、最初の親子関係から、相互承認と、不平等な相補関係が不安定な形で共存している。もちろん、幼児期に育ててくれる人物の理想化はある程度不可避である。しかし、自己と他者の差異に直面する不安を解決するために、理想化とおとしめという分裂だけに頼るのか、その分裂をジェンダー対極性として制度化するかは、不可避ではなく選択できる問題である。さらに、差異の知識を男と女の相補関係に引き下げてしまうのかも選択できる。その関係ではお互いがちょうど正反対で、それぞれのうちの矛盾を覆い隠している。
    • 対極性や単なる役割逆転という分裂の論理に疑念を向けること。当初の親子関係の中に間主観性の文化があったのに、その女の領域が、男根的象徴と父親の理想化によって堕落させられたなどということを想定しているわけではない。ある心理過程が緊張を崩して支配に変えることがあっても、その崩壊も緊張の再構築と同様に人生の一部なのだから、再構築の可能性も消えるわけではない(精神分析の臨床は、崩壊と差異性が常時可能性として存在することを明らかにした)と希望を持っているだけだ。また、緊張が崩壊したという時点を発見し承認の条件を見つけ出すことも可能なはずである。
    • 個人的な生活の中で承認を回復しようとする企ては、個人的生活を政治問題化することでもなく、政治を回避して変革の希望を捨てることでもない。個人的なものと社会的なものを接続し、承認を社会の中に再び生じさせようとする試みである。

以上要約

雑感

 この本の原書はアメリカで1988年に書かれたものですが、育児や女性の社会進出については、この国の現状に対してもまだ有効なのではないかと思いました(それだけこの国では遅れているような気がする、ということです。具体的なデータは調べてないですが)。しかしながら、「母性を称揚するフェミニスト」って一体いまどこにいるのだろうとはちょっと思いましたし、「完全な母親」という理想像を拒否して不満の声を上げる母たちの主張はニュースになったりもしているので、若干ですが状況の変化はあるのかなと思っています*1

 とはいえ、そういった変化を信じさせてくれる情報は興味を持たないと手に入らないのは変わらないし、インターネットとそれ以外の言説、都市部の家庭と過疎地の家庭、年齢層でも認識に差があるだろうことは予想できます。

 

 興味深かったのは、第一章と第五章で言及される、ウィニコットの破壊と生き延びに関する議論です。攻撃という形で自己主張を始めた子に対して、その攻撃を受けてパニックになったり復讐したり従属したりすることのない関係を継続する親が、現実と空想の区別を用意すると。

 私は、自己主張をすると変な顔をされるのでずっとそれを戒めていた人が、親密な相手と出会って自己主張をし始めるという筋書きの物語をよく読みます。その二者関係の中で、どちらか一方がひたすら相手の要求を受け入れ、避難所を提供してやることが美しいことだと感じていました(どうでもいいですが、私が美しいと感じるのは比較的男性が臣従する場合のことが多いです。中世の騎士道物語的なものを想像してください)。

 しかし著者のベンジャミンが指摘するように、ケアする人の美化は、その人が男であろうと女であろうと、「完全な母親」というイメージの反復になってしまうような気がしています。完全な人間などいないのであって、実際私がよく読む物語では、やはりその親密な二者関係の中でも互いの主張が衝突し合ったり、付き合いきれないと思ったほうが片方を遺棄します。

 私は、私の経験においてこのような二者関係がうまくいったことがないために、その不毛さを強調しすぎていました。相互理解など結局不可能なのだ、人間は結局、どんなに相性が良いと思った人との間でも憎み合うことしかできないのだという悲観は、ケアする人の美化と表裏一体となった分裂的な見方です。本当に重要だったのは、人が相手への不満を表現しても、それだけで相手は自分に報復したり自分を見捨てたりすることはないと信じられるようになることです。自分の理想の親を空想の中で攻撃し破壊しても、現実の親は生き延びており、その攻撃を恨むことはないという認識を持つことです。ケアする人の寛容さは、嫌な要求でも我慢して従うという性質ではなく、自分と同じく相手が不完全であるという理由でもって、相手を恨まないことができる資質なのです。

 

 この本が絶版であり続けているのは悲しいことです。版元様には、そのうちに復刊してくれることを望んでいます。

*1:追記:このような話題のときには私の立ち位置について明らかにしておくことが望ましいと思うので言いますが、私はシスジェンダーヘテロセクシュアルヘテロロマンティック)の男性とされても現状で違和感を持っていない人間です。つまり、あまり苦労しなくとも社会の中で諸々の特権を享受できる存在です。だから、私が女性たちに関わる変化を論じてもそれを他人事のように済ますことは許されず、変わらなければならないのは私自身の方であるということがつねに補足されるべきです。さらに言うなら、私は自分と最も立ち位置の近いマジョリティたちに変化を促す必要があります。そのような切迫感は、今回話題にしているこの本を繙いた理由の一つでもあります。