植物と私

以下の文章は、水上文『monologue』に収録されている観葉植物についての記録に触発されて書いたものである。しかし、その記録とこの文章がどのように関係しているのかは必ずしも明確ではない。読み返すともはやほとんど関係がないような気もしてきた。

植物と意思疎通

 私は自分から植物を育てようと思ったことがあまりない(子どもの頃、命じられて水をやったことくらいはある)。かつてはそれに嬉しさを感じることができなかったからだ。今はどうかわからないから、試してみる価値もないとは思わない。

 ところで私は、親しい相手が自分の話を聞いてくれたり、会話すらしなくとも私のそばに留まってくれることで救われたような気分になることがある。その理由は、その他人が(不快な場所からはいつでも逃げることができるはず*1なのに)逃げようとしないからだ。他人が逃げないという事実が、自分の何かが許されているということの例証のように感じられるのだと思う。それは背理法によって得られた、他人からの承認の一変種である。

 同時に、私が家族や職場の同僚や植物や籠の鳥や電柱に向かって話したり寄り添ってもらったりしても今ひとつ救われない理由がここにある。それらは自分の目の前から立ち去ることができず(ただしこの「できない」の意味はそれぞれ違う)、無関係になることは最初から不可能だからだ。いくら彼らが偏屈な私と共に生きてくれるとしても、それは自分の何かが許されていることの証にはならない。彼らは、私がどんな存在であるかとは全く無関係な事情で、そもそも私から逃げようがないのだから。私のもとに配されるしかなかった者たちとの共生それ自体に救いを求めるのは絶望的な試みといえる。この意味では、観葉植物との共生もまたおそらく私を救わないだろう。

 ただ、野山に生える植物たちを見るのは昔から嫌いではなかった。何といっても、こちらから触れなければそれらは私に決して害をなさない*2からだ。さらにはこちらから何も与えず頼みもしないのに、季節ごとに多種多様な形を大胆に発展させて私の目を喜ばせてくれる。呼んでもないのに近づいてきて害をなしてくる動物や虫たちよりずっといい。

「植物の何より素敵なところは、意思の疎通が決して取れないところ、どうしようもなく一方通行でしかありえないところ、意思を伝える手段を持たないところ、途方もない無力さそのものである。」
(水上文『monologue』, p. 45)

 俊敏に動かない*3、「意思を伝える手段を持たない」、「意思の疎通が決して取れない」、「どうしようもなく一方通行でしかあり得ない」からこそ、私は植物に傷つけられることはあまりない。植物は、恐ろしい動物たち(多くの場合これは人間である)に包囲された子どもにとっては相対的に安心な生物になる。しかし前述の通り、植物と共にあることで自分の存在が許されることまでは期待できない。私を否定し、私との関係を断ち切ることのできる存在しか、私の存在を許すことはできないのだから。

植物とキャラクター

 植物は私と意思疎通をとることができない、私がどのような人間かということに良くも悪くも興味がない、植物には私を積極的に傷つける力はない、私から逃げようとしない、ゆえに私を救うことはない。けれども植物は意味の器になる。次のツイートが示唆しているように、そのあり方はフィクション作品のキャラクターのようだ。

しかし、ここで「キャラクターもまた私を積極的に傷つけないし、救わない」と言ってしまえば、ただちに反論が飛んでくる。「存在するだけで有害なキャラクターはいるし、キャラクターに救われる人はいる」と。実際のところは、人間のするキャラクターについての解釈(人間がキャラクターに見出す意味)が人を傷つけたり救ったりするのだが、解釈せずにキャラクターや作品を受け取るというのはおそらく並大抵のことではないので、あまりこの区別にこだわっても仕方がないような気もする。……この話題はここではやめておこう。

 とりあえず言えるのは、植物は様々な意味や物語や感傷を一方的に押し付けやすい存在であるということ、そして植物は人間がいくらそうしようが気にしないし怒りも逃げもしないように見えるということだ。もし植物が、観察する人間のほうに不意に飛びかかってきたり、話しかける言葉に応答するように声を上げるなどできていたら、人間は今ほど自由に植物に意味を背負わせることはなかっただろう。そこで人間は、防衛するなり会話しようとするなり、相互の肉体的なコミュニケーションに全力を傾けてしまうからだ。コミュニケーションがとれない存在だからこそ、私は植物について存分に感傷を託したりその形に意味を見出したりできるのだ。それが植物の素敵なところだと思えることはたしかにある。

 実際、古今東西多くの人々が花言葉や花に関する逸話を考え出してきたようだ。それらは現在に伝わっているものだけでも膨大な量にのぼり目が眩むほどだ*4。なぜ人間がそんなことをしてきたかといえば、特に理由はないといえばないのかもしれないが、一つには別の人間に対して植物を通じて何らかの意味を伝えようとしたからだろう。つまり、人間同士のコミュニケーションのために植物を利用してきたのである。

 私も、どちらかといえば植物の生理や化学的活用法よりも、花言葉や植物に関する神話や伝説に興味を覚える。そしてそれは、あくまで植物というよりも人間の営みに関する興味なのである。人間のする表現を促すかぎりで、植物の生理や構造に注意を向けるのだ。

 そういえば私は、物語に出てくるキャラクターに興味はあっても本当の人間のような相手として恋したり、夢中になったりすることがほとんどないのだが、その理由も以上の嗜好から説明できるかもしれない。たしかに私はキャラクターを人間のようにみなしたり、何らかの過剰な意味や物語を見出したりするが、それは私自身がどのような人間であるかを語ったり別の人間とコミュニケーションをとりたいからそうするのである。「キャラクターそれ自体を見ること」だけをしろと言われても、あまり気が乗らないと思われる。

 だが、このようなある意味の人間中心主義に我慢がならない人もいるようだ。

植物と人間

 若きニーチェの作品に「秋(Der Herbst)」という詩があるが、そのなかに次のような一節がある。

「私は美しくはない、
――そう雛菊はいう――
でも人間たちを愛しています、
そして人間たちを慰めてあげます、――
人間たちに今はもっと花を見てもらいたい、
私の方に身をかがめてほしいのです、
ああ、そして私を手折りなさい――
そうしたら人間たちの眼のなかに、
想い出の花が輝いて花開くでしょう、
私よりも、もっと美しいものへの想い出が――
――わかっています、わかっています――そうして、私は死ん
   でいくのです!」

「秋」より(富岡近雄訳)*5

 この詩は何だろう。何を意味しているのだろう(これもまた、応えないものに意味を見出す試みである)。まず思いつくのは、これは雛菊の花それ自体を見るのもそこそこに、それを感傷の種として消費してしまう人間を、雛菊の立場から皮肉ったものだということである。

 しかしよく考えると、「言う」とか「愛する」とか「慰める」とか、この詩自体が雛菊を擬人化しなければ成り立たない。思うに、植物に人間の物語や感情を仮託するのを皮肉ることこそ、他人に物語や感情を仮託してもロクなことにならないよ、という人間様の教訓の反復なのではないか。植物に人間の物語を押し付けて気まずく思うなら、あなたは植物に、人間の見出した意味に反対したり悲しんだりする人間精神をこそ託しているのだ。本当に植物に内面など無いのであれば、氷柱や台風や雷や星といった自然現象と同じく、ある意味をもつ記号として大いに活用して何が悪いのかわからなくなってしまう*6

 とはいえ、植物は自然現象とは異なるという直観は正しい。植物は光、水、土、空気を取り込み、状況に応じて新しい物質を作り出し、然るべき仕方で蓄積し、自らを発展させていく。アリストテレスが植物に見出した唯一の精神性がそれである。

 だから、もし植物の精神を傷つけることがあるとすれば、植物の生理を全く理解*7せずに、その生長*8を無用に邪魔立てすることである。植物を感傷の道具にすることが悪いとか悪くないとか決めるのは人間の都合である。それとは全く独立に、伐り倒したり毟り取らないかぎり、彼らの魂に傷をつけることはできない。ただ、草取りをしたことがある人ならご理解いただけると思うが、彼らを完全に毟り取るというのも多くの場合は簡単なことではないのだが。

植物の尊重

 「植物を物理的に傷つける」ことでいうと、絶滅危惧種を引き抜いて持ち去ったり他人の所有地の草木を切ったり抜いたりすることは人間社会的にもアレなのでやめたほうがいいとは思うが、道端で草や木の根を踏まないようにとか、庭の草取りや生け垣の刈り込みをしないとか、私はそこまで極端な実践はしていない(というより鄙びた土地でそれは無理である)。ただ綺麗な野草を見かけても、どうせ自分では育てられないので引き抜いたりはしない(子どものころはしていたかもしれない)。ものを書くときには紙も使う。野菜や果物はほとんど毎日食べている。植物の生長を早くしたり遅くしたりするなど様々な実用的な研究が行われているのは知っているが、特に何もしていないし詳しいわけでもない。

 ここまで書いてきて今更のことだが、植物は人間とは違う存在だ。人間が植物の守護者を気取るのは論外として、ではどのようにしたら私たちは植物を尊重していることになるのか。一生懸命水を与えて日に曝しさえすればいい、というものでもないだろう。本来植物は人間の決めた空間など無視して育ち続けるものだから、プランターから逸脱し庭を覆い尽くすほど繁茂する可能性もある。ふつう都市生活者として生きる人間は、切ったり抜いたり形を整えて、植物の生長を適切な範囲に収めようともするだろう。尊重しているからこそ切る、共存のために選別し排除するという理屈は通るのだろうか。だからといって、絶対に植物を傷つけないでおき、自分の庭や寝床が比喩ではなく草木に覆い尽くされるのは私は嫌である(不便だから)。

 「人間は自分と異なる存在に自分と平等な価値を認めることなど出来はしない」というのが『イーフィの植物図鑑』という物語で提示された諦めの境地だが、私はまだそこで立ち尽くしているようである。急いで付け加えれば、『イーフィの植物図鑑』はその諦めの境地に要約されてしまう物語では決してない。この物語では主要人物の誰もが自分なりに植物のことを愛していると主張するのだが、それらの主張に何らか反論したり賛同したりすることが可能か、可能だとすればなぜかを今後なにかの機会で書けたらいいと思うし、もしこの作品を読んだ方がいれば書いてほしいと思う。

 

 一つのきっかけを与えてくれた水上の記録に感謝したい。そこに描かれていた緑たちがよく生きますように*9

 

 

 

*1:しかし、双方が望んで自由に取り結んだはずの関係が耐え難くなっても、実質的に逃げられないことは多々ある。うっかり結婚してしまったが、経済的理由や子の養育のために離婚もできない専業主婦は? もはや側に居たくないと思えるようになった相手が、弱りきって今にも死にそうで、助けを求めているようでもある人だとしたら? 人には逃げるための資源が不足していたり、逃げようという決意を鈍らせる要因があったりするものだ。だからここには短絡がある。

*2:風に吹かれて飛んだ彼らの一部にやられることはあるし、広い庭を持ったり農作業に従事することがあれば、特定の植物の乱入に悩まされることになるが。

*3:しかし、この「俊敏に動かない」という性質を植物の本質に挙げるべきかは疑問だ。速度の面で見れば、オジギソウやハエトリソウなどの葉の動き、ホウセンカが種を飛ばす動きなどはなかなかに俊敏である。また、距離の面で見れば、動かないというのは人間の分類法に従って一株一株を別の存在として見た場合の話である。植物の中でも多くの種は風や水、虫、動物等を利用してはるか遠くに同じ遺伝子を持つ株を生じさせるが、これも同じ種の移動と考えれば植物はときには大陸間ほどの距離を移動することができる。また、気候や他種との競争などの環境変化に従って、群としての植物たちは常に土地を移動している。

*4:私が知っているものでは、春山行夫の『花言葉』やL.ディーズ『花精伝説』C.M.スキナー『花の神話と伝説』など。八坂書房という出版社がこうしたジャンルの書籍をよく発行している。

*5:秋山英夫・富岡近雄訳『ニーチェ全詩集[新装版]』, 2011, pp. 134-135.

*6:人間が世界を読むこと自体を暴力だというなら、また別の話になる。

*7:この理解というのは植物にとって両義的な結果を導く。それは植物の生長を促すことも阻害することも可能にする力を人間が得るということだから。

*8:かつては特に植物が伸びて大きくなることを指していたのが「生長」という表記だったが、現在では動物が育つことと同様に「成長」と表記することになっている。

*9:特に宗教の修練を経ていない自分にとっては、祈ることはいつもとても手軽だ。こんなに簡単でいいのかと思うほどだ。