友情――水上文『monologue』の解説について

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なぜ私がこの本を開くに至ったかという質問は受け付けていない。そもそもこのブログにコメント欄は設けられていない(今後設ける予定もない)。

インターネットで活動中の面識のない相手に言及することには独特の困難がある(この記事の第八章の項を参照)が、できるかぎり本自体に向き合うように努めたい。

今回の記事では、主にこの本の解説に言及している。本文のほうはまだざっと目を通したという段階で、言えることは少ない。本文は著者のnote(https://note.com/livingdead312)で過去記事として読めるものもあるので、未読の方は読むといいのではないだろうか。

この本の解説を読んで考えさせられたのは、私がどのように他人と友人関係を築くことができるのか、そして、その関係にものを書くことや読むことがどう関わってくるのか、ということである。以下、解説を担当した佐藤歩、久高春*1の文章を借りながら雑駁に語ってみたい。

 

佐藤歩「対話なんてしたくない――あったりなかったりすることの可能性へ向けて」(pp. 61-63)

 文学は意味や言語に還元されることがない何かである、という水上の言葉(p. 8)を受けて、佐藤はその「何か」への可能性を、バフチンのいう「生に対する意味を離れた興味=芸術的興味」から考察する。あらゆるものに意味が求められる世の中で、意味を求められない可能性として他者がおり、その他者たちの世界こそ芸術の領域である。佐藤によれば、バフチンの描き出す風景はこのような感じらしい*2

 そして、水上のいう文学が「意味を離れた興味」を抱え込んで成り立つのなら、友情もまた「意味を離れた興味」を抱え込んではいないか、と佐藤は思い至ったらしい。

「意味を離れた興味」が芸術を駆動するエネルギーであるなら、文学は友情にも似ている気がする。
(p. 63)

簡潔で印象的な指摘である。しかし、この前後をよく確認してみると、佐藤は友情がこの「芸術的な興味」だけで成り立つとは言っていない。実際そんなことが可能だろうか? 「あらゆる約束、義務が免除され」、「未来とかかわりなく」、「それ自体で価値をもつ」ような関係がありうるだろうか? 芸術的な興味が相手の利益も自分の利益も約束しないなら、関係を持つ明確な動機もないだろう。「純粋に」芸術的な関係は成り行きで生じるしかないし、絶対に維持しなければならない理由もないだろう。相手を解釈することも相手に何も期待することもない関係、加害も負い目も赦しもない関係は関係ですらなく、無関心と区別がつかない。佐藤は「意味が読み取られうるすべてが滅びないかぎり犠牲と希望はなくならないような気もする」(p. 62)と述べるが、この予感こそがおそらく正しい。逆に言えば、人間の関係は犠牲と希望という意味で満ちているのが常である。

 結局、「意味を離れた興味」に言及しつつも、友情をそれに還元することはなかった佐藤は非常に注意深かったことになる。「意味から完全に解放されている」というのではなく、「意味があったりなかったりする」という言葉は、友情についての最も正確な表現である。このような一見して曖昧な表現を書いてあるとおりに受け取るのは、私のような全か無かの人間には大変苦労のいることだった。

 友情というものは、ときおり自分の利益にも相手の利益にも無関心であり、不意に始まったり不意に終わったりするものだということには頷ける。そうなると当然、友人とは自分の期待に必ずしも応えない人間だということも認めなくてはならない。友人の間にあるのは責任ではなく一定の遊びである。芸術的な興味からくる関係は「それ自体で価値がある」と思えることがあるのだったが、その遊びこそが友情の価値かもしれない。

 「関係それ自体に価値がある」というところだけ聞けば、私がある本*3で描写しようとした「そこに留まること」という理念と似通って聞こえるが、友人関係はこれとは全く別物である。「そこに留まること」とは「ただ相手の側にいることだけが重要だ」という精神論ではなく、相手の身体的なニーズを可能な範囲で一方的に満たし続けることを使命とした者の態度だからだ。ふつう友情はそこまでの献身を要求しない。それは基本的に手の届かない距離を隔てた関わり、ガラス越しの眼差しだ。何とはなしに成り行きを見守ること自体に価値がありうるとして、その価値が腹をすかせた相手の空腹を満たすわけではないのだ。先の定義に従えば、友人とは、ときには空腹の相手に食物を差し出すかもしれないが、ときには遠巻きにしてなんとなく眺めている存在のことである。他方「そこに留まる者」には、できるだけ速やかに相手に食物を差し出す以外の選択肢はない。食物を差し出すことが物理的にできない事情があるときに限り、彼や彼女ははただ見ていることになるのだ。それでも、相手から目をそらしたり逃げ出したりすることは許されない。

 「そこに留まること」という謎の理念を引き合いに出したからといって、私に友情一般を糾弾する意図はない。佐藤が正しく直観したように、世の多くの友人関係は「意味があったりなかったりする」し、そうでなければ悲惨である。当たり前のことだが、友人には友人自身の家があるのだ。友人と同居人には超えられない区別があるのだが、それは世の中で各々必要な状況があるからだ。友情には、じめじめした同居から解き放たれた清々しさがある。

 正直に言うと私は、「monologue(一人語り)」と題された本の中に絶望をきちんと認めながら、図々しく上がり込まず別々の家で過ごしながら、それでも相手に言葉を送るような友情が羨ましい。どうしたって自己の自己に対する批評になってしまう自分の文章に、関係があるのかないのか不明だが一定の労力を割いた言葉をそっと離して置いたり(これは「リンクをシェアする」ことではない)、その中に両立し難い言説の戦いを見たりして、純粋な一人語りにさせておかない友情が羨ましい。

 どうしたらそのような友人に出会えるのか、誰も私に教えてはくれなかったし、どんな本を繙いてもその秘訣は書かれていなかった。SNS発の「つながり」にも、紆余曲折あってつくづく幻滅している*4。こうした私の挫折もある意味当然のことで、作ろうと計画して作った友人というのは結局のところ友人などではないからだ*5。友人ができるためには、何もしなくてもいいしどこに所属しなくてもいいというわけではないが、ある程度は偶然と気まぐれと惰性にまかせるしかないのである。

 

久高春「影の共有とその乗り越え」(pp. 67-69)

 久高は、友人である水上との関係の一面を「影の共有」という河合隼雄の言葉から振り返っていく。

 この影の共有という現象には、私自身もかなり覚えがある。とくに内向的で似たような社会階層の人間たちが集まる場で何度も目にした気がする。これはおそらく私や久高の身の回りだけの話ではないのだろう。

 例えば、« Doki Doki Literature Club!(邦訳:『ドキドキ文芸部!』)» というノベルゲームに描かれる文芸部員たちは、新入部員である物語の主人公と影の共有を試みる。主人公のコウモリ的言動の中に、部員たちは自身の怒りや自己憐憫を肯定する言葉を見出す。そして、自らが落ち着ける場所となった文芸部に異分子を取り込むまいと、集団の存続自体を危うくする排外主義へと一度は傾くのである。この作品における「文芸部」が過剰な閉鎖性を有するのは偶然のことではない。

 久高は水上と同様に文章を書く人であるようだが、書くことや読むことを不用意に称揚することはなく、それらが影の共有を促進する行為でもあることを冷徹に見据えている。

文学的な畑ではしばしば、この「影の共有」が強い意味を持つように見えることがある。

(略)

文章を書く側ももちろんだが、書く側の意志と関係なく、受け取る側が「影の共有」的視点で文章を受け取る、という現象もあるだろう。その文章に書かれている内容を100として、自分の影に共鳴する5の部分のみを取り出し、本旨を、書き手を理解しようとせずにその部分だけを拡大評価してさらなる共鳴を作り出す。
(p. 69)

 たしかに、文章を書いて公開すれば、影の共有相手ではない第三者にも必然的に届くことになるだろう。それは影の共有を乗り越えるきっかけになるかもしれない。しかしそれ以上に、「書くこと」は他人との影の共有へと通じる入口でもある。かつてその名前も知らなかった第三者は、文章を通じて影の共有相手になった。これからも書くこと読むことがその共有を促すだろう*6

 久高の示唆を真面目に受け取るなら、影の共有を乗り越えようと望む人間にとっての課題は、書くことや読むことそれ自体というより「どのように書くか」(あるいは読むか)にある。

 曲解や誤読など気に病むことはないと甘く囁く読書論を真に受け、100を5に切り詰めて気持ちよくなるのではなく、たとえそれが無理だと分かっていても、100を100として受けとったり送ったりしようと、あるいは5を20回繰り返すことで100に近づこうと、血眼になって文章と向き合うべきである(久高が予想する「苦しさ」とは、この作業にかかる具体的な労苦のことだと私は思う)。「影の共有とその乗り越え」を読了した人間には、自分と他人との〈内なる書物〉の異同を看過することは許されない。全身全霊をもって書かれたと感じるものは、全身全霊をもって読まなければならない。そこには同一の人間などいないし、同一の解釈もない。あと少しで嵌まらないジグソーパズルのピースを持て余すような苛立ちが募るだけだ。それはあたかも他人たちのようでありながら、他人たちと同一ではない存在の苛立ちだ。これは個人的所感だが、誰も自分と同一ではないというのはロマンチックなことでもなんでもなく、たんに苛立たしいことなのだ。

 ただ、その苛立ちの内実を相手に向かって率直に説明して、相手と徹底した対話に入るかどうかは個人の選択である。水上が『monologue』という試みで示したように、他にもやりようはある。

 

 ところで、私はたしかにあの本*7の第四章で水上の過去の文章を引用した。それは水上の文章の「100」から自分の都合のいいような「5」を取り出して、自らの文芸部に水上を囲い込もうとしたからではない、と後付けで主張したい。私はその証拠として、『monologue』の本文を読んで釈然としなかった話題の一つである、観葉植物について書くことにした。その文章は近日公開予定である。

 

 

*1:もう一人の解説者である深海薫の文章については、他意はないが言及できなかった。

*2:的外れであったら指摘してほしい。バフチンについてほとんど何も知らないので、あまり自信はない。

*3:https://dismal-dusk.hatenablog.com/entry/2020/10/21/222318

*4:『monologue』の3人の解説者たちは、どうも水上のインターネット上の友人ではないようである。だが実際のところは部外者の私が知るわけがない。インターネットにはすべてがあるというのはもはや誰も信じない嘘だ。それぞれの人間にとって本当に重要な事情は、こんなところに流れてはいない。

*5:「友達って言うのはね… つくるとかじゃない… 気付けば できてるものなのよ…!」
 渡辺カナ『ステラとミルフイユ』1巻 p. 66.

*6:ただ、影の部分を共有することが「滋養になることもある」と久高は語る。この注釈は無視してよいことではない。主流ではないと感じている人間たちが生き延びられるシェルターがあったとして、わざわざそれを取り壊そうとしたり、そこに逃れた人たちを責めたりするのはお門違いだ。本来なら、そのようなシェルターに逃れなければならなかった事情をこそ取り除くべきだからだ。

*7:*3のリンク先を参照。