関係の信仰――染よだか『溺れる繭』の感想

当ブログではこれまで、文学フリマ等で頒布されている自主流通の冊子の感想を書いてきましたが、一人の文章のみで構成された冊子をとりあげることは稀でした。

一人で制作した何かへの言及は、その制作者への言及と紙一重になります。賞賛も批判もその人だけのものと捉えられがちになります。したがって、集団で制作されたものへの感想よりも一層の慎重さが必要であることを意識しつつ、以下書き進めていきます。



経緯

私も世の人の例に洩れず、いわゆる作者買いを行います。染先生の文章を初めて読んだのは次の文芸誌に収録されている「さなぎの女たち」でした。記事には当時の感想も書いています。

dismal-dusk.hatenablog.com

もっと同じ作者の小説を読みたいと思ったので、今回記事名とした短編集も購入しました。

 

装丁

装丁がとても綺麗でよかったです。表紙に使われているのはいわゆるパール紙というやつで、表面に真珠のような淡い煌めきがあります。すべての文字とイラストは青から紫の色を混ぜたような色合いに染まっていて、こだわりが見て取れました。

表紙のイラストは、収録されている短編6本のモチーフを混合したものにになっているのかなと想像しました。庭の草、魔女の手、さなぎ、リボン、水泡?(絵に対してこういうことを書いてしまうと野暮だなとはいつも思うのですが)

 

「かわいい」に込められた屈託

全編を通して、世の中が期待する「女の子らしさ」に対しての、愛憎というか、葛藤というか、内側から発する軋みのようなものを感じた気がしました。

「かわいい」といわれると、「おまえが悪いって言われてるような気がする」という台詞(「春に嵐」、32頁)にはギクリとしました。「かわいい」と言うことは一見好意の伝達のようで、宛先となる人の所作に勝手に誘いを認めることであったり、期待をかけることでもあったりするのかもしれないと(我が身を振り返っても)思うからです。でも先の台詞を言った当人であるミユナは、同時に「(かわいいと言われると)これでよかったんだ、これが正解なんだって思う」(同頁)とも言っていて、この感覚は、私の中にはうまく再現することができないものだとも感じます。

 

年齢とさみしさ、関係の信仰

私が読んでいて身に引き付けて思うのは、年齢と「さみしさ」のことでした。この短編集の中の主人公たちは、最後の作品を除いて20代後半、つまり「アラサー」です。その辺りの年齢は、現代の本邦では婚姻数がピークとなる時期だと言われていて(特に女性は)、結婚や出産をする人やしない人のグラデーションが顕著に生じ始める年齢です。また、仕事を続けてきた人ならば、自分の仕事上の振る舞いに嫌でも責任を負わされていく年頃でもあり、キャリア上の変化も多くなります。

しかし、そのような年齢になったからといって、急にシャキッと決断し前進していく人なんてそういるのだろうか、と私は常々思ってもいました。それぞれの短編に出てくる人たちのように、仕事に行けなくなる人もいるし、仕事も結婚も前向きになれない人もいるし、服を買いまくって破産しそうになっている人もいるし、どうでもいい相手となんとなくメッセージを続けてしまう人も、結婚する以前の交際相手のことを忘れることができない人もいる。結婚式への出席をすべて断り、自分を置いて結婚した知人を呪う人も。

彼女たちには、それぞれのさみしさがあります。そして、さみしさを生きる中で、彼女たちは各々の信仰を持ちます。それは、自分がすでに何かと関係している、あるいはいずれ必ず関係するだろうという信仰です。関係する相手、伴侶となるものは、必ずしも異性でも血縁上の子どもでもなく、人間ですらない、水の動きや到来する季節や、自らを包囲する心象風景であったりします*1。ただ心象風景といっても、自分を宥めすかすための現実逃避というだけではありません。べつにそれがあれば以後さみしくなくなる、というわけでもなさそうです。彼女たちは、そして(色々状況やジェンダー的立ち位置も異なりますが、あえて言えば同世代の)私も、色々なものの過渡期にあります。過渡期には信仰が生まれるものであり、誰もそれを止めることはできないし、止めてどうなるものでもない気がします。

染先生の小説は、主人公の心象風景を描く工夫が随所に凝らされています。人魚姫の童話、魔女についての歴史、衣服、遊園地など様々なイメージを配置することが、作家の手腕を発揮する部分の一つだったと思います。

このイメージに何を用いるかというのは人それぞれの生活と経験に密着しているようで、今回は私には馴染みがないと思うものも多かったのですが、どのようにそれを用いているかの面白さを見ることはできます。短編の中で、描写とは異質な知識や文章が割り込み、小説が小説以外のテキストを取り込んでいく動きは、小説の自由さを再確認するところでもありました。

 

当の短編集は、現在次のリンクで通販を行っているようです。

store.retro-biz.com

 

染先生のプロフィールに掲げられているのは、「生きるための小説を書いています」という言葉です。この短編集はまさにその言葉に即したものです。公私共に変化を急かされる年齢において立ちすくむ/しゃがみ込む人の隣に少し離れて立つような、生きることを待たせてくれるような作品群が、この短編集だと思います。

*1:近年、「推す」と語られることがある、アイドルやそれに類する事物への愛好も、関係の信仰や自らの心象風景と結びつけられるのではないかと私は考えています。もちろん、推される側を動作させている機構や推す人がどのような行動へ社会的に水路づけられるかを見る必要はあると思っていますが、自分の内にイメージをもつこと、そのイメージと一対一で瞑想的に係わることという側面から、キャラクターへの愛好文化が語られることを私は望んでいます。