フェアプレーより蝶を選ぶ――『ロックマンエグゼ』(漫画版)のセレナードはなぜ魅力的なのか

今回は、小学館の漫画・ホビー情報雑誌『コロコロコミック』上で20年ほど前に連載された、とある漫画のキャラクターについての話をします。ファンの叫び的な性質が強い文章であるため、こちらのブログに掲載することにします。

鷹岬諒ロックマンエグゼ』は、携帯ゲーム機用RPGロックマンエグゼ」シリーズの世界設定とキャラクターを元に、オリジナルのストーリーを展開した漫画です。当時小学生だった私も、連載を一時期まで追っていたことがあります。

そして20数年後の先日、久しぶりに読みました。原作シリーズの移植版発売記念として、この漫画作品も全話が無料公開されたからです。当記事に示す巻数とページ数は、無料公開中の新装版に対応するものです。

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 「ロックマンエグゼ」の舞台は、インターネットと情報技術が進歩した近未来である。人々は個人の持つ携帯情報端末「PET」に「ネットナビ」という対話可能なプログラムを入れて、家電やインフラの中に送り込んで指令を与えるなどして、生活に役立てている。

 物語は、主人公の小学生・光熱斗(ひかりねっと)が、ナビ・ロックマンとともに、現実世界と電脳世界の両面で敵と戦い、サイバー犯罪に立ち向かうというのがよくある展開になっている。

 

 今回、記事名に挙げた「セレナード」は、ロックマン熱斗が戦うネットナビの一人で、「真の最強ナビ」と呼ばれる圧倒的な強さを持っている。それにも関わらず、彼は力比べをすることそれ自体には興味を持っていないように描写されている。私はそこにセレナードの魅力を感じる。強さとは何か、何のために戦うのかを立ち止まって考えさせ、少年誌のバトル漫画で暗黙に想定されている価値判断を無視するような、別の強さを示すキャラクターであるように感じるからだ。

 

目的のための戦いから、純粋な力比べへ

 そもそも、戦いには①純粋に力比べをする戦いと、②目的のための戦いがあると思う。

 ①は作中では、熱斗と、デカオや炎山のする「ネットバトル」が典型である。これは、戦い自体が目的ともいえるし、戦いの中で相手や自分の力を測ったりすることが目的だといえる。
 ②の戦いは、日常を脅かす事件や事故の原因を排除するためであったり、何かを獲得するためであったり、戦いや相手の力とは別個の目的を達成するために行われる。

 しかし②の戦いは、しばしば①の戦いに近づいていく。例えば熱斗ロックマンは、事件を解決するために強敵と戦い、その度に少しずつ息を合わせることを学び、強さを身に着けていく。すると、戦いの中で自分の力を感じたり、相手と力比べをすること自体の快感も知っていくのである。例えば、熱斗と炎山は、強敵を倒したり修行をしたりした後には、恒例のようにネットバトルの中で新たな力を試すことをしている(3巻2話など)。熱斗ロックマンも、自身でたびたび口にするとおり「最強」になることに情熱を燃やすのだ。

 ロックマンと何度も対決することになる強敵・フォルテもまた、②の戦いのうちに①の戦いを経験する。彼は作品の時間が開始する十年以上前から、自分を見捨てた人間たちに復讐する力を手に入れるため、インターネット上の強者に戦いを挑んで回っていた*1。しかし、彼はいつしか目的と手段を混同するようになった。彼は人間への復讐よりも、単に、自分以上に強い敵と戦うことへの欲求を優先させるようにしばしば見えるのである。

 実際、たんに人間に復讐するためだけなら、フォルテ自身がそれほど強い力を手に入れる必要はない。最強の相手を探して戦いを挑まなくとも、人間社会にとってそこそこ迷惑な陣営(WWWとか、ゴスペルとか)を上手く動かしてやるだけの力を持てば十分だ。しかし彼は自分以外の誰も頼らず信用せず、彼だけの手で人間社会を壊滅させることを目指すから、電脳世界最強の力を求めることになる。そしてその力の希求は、力比べそれ自体への没頭に代わっていくのである。彼は自分と互角以上に渡り合うロックマンと戦ううちに、戦いそれ自体を楽しみ始めているような描写も多くなっていく(笑みを見せるなど)。

 

純粋な力比べとフェアプレーの精神

 なぜそんなに力比べをしたいのか? それは力比べが楽しいからだ。自分の力や相手の力の程度が分かることがうれしいと思うからだ。ただ、力の程度を正確に測るためにはいくつかの条件が必要になる。

 ①の戦い――純粋な力比べは、ルールの中で行われるから楽しいのである。たとえば卓球の試合中に観客が乱入してきたり、相手のラケットを奪い取ったり故意に損傷するようなことがあれば、まともに勝負するどころではなく、互いの実力もわからなくなってしまう。つまり、①の戦いには「フェアプレーの精神」が伴うべきだとされている。邪魔者を介入させずに、互いのベストなコンディションで、タイマンで全力でぶつかり合うべきだということだ。

 実はフォルテとロックマンの戦いも、フェアプレーの精神のもとで行われている。例えば3巻6話の戦いでは、戦いの隙をついてロックマンを捉えた電脳獣ゴスペル(壊れかけ)をフォルテが完全に消し飛ばす(3/p. 202)。彼は、ロックマンとの力比べに乱入する者を排除し、フェアな戦いができる会場を作ろうとするのである。

 また5巻3話の戦いでは、フォルテはロックマンを弱体化させる機会を得ながらも、それを不意にしている。この戦いでは、ロックマンは仲間のブルースの力を借りて大幅に強化されたのだが、無防備なブルースの本体を狙えば強化は解けてしまう。フォルテは戦いの中で追い詰められ、地面に叩きつけられた際にブルースの本体を目前にするが、それを攻撃しなかった(5/p. 101)。これも、互いのベストコンディションで力比べをするためである。

 

 このような精神がある意味高尚であることに異論はないのだが、私たちの現実に引き戻してみると、そんな純粋な力比べはかなり特殊な状況でしか行われないような気がしてくる。そして、その状況を作るとき、強くない者たちがしばしば邪魔者扱いされることにも気が付く。例えば②のような戦いでは、戦う主人公とは別に、敵に脅かされている一般人、弱きものたちがいるはずだ。しかし①のような戦い(純粋な力比べ)が始まる段になると、弱きものたちはしばしば表舞台から退場させられてしまう。むしろ、それらは真剣勝負を不純にする存在とだけ見なされるのである。

鷹岬諒『新装版 ロックマンエグゼ』3巻, 204-205頁。

 純粋な力比べは、弱きものたちを柵の向こうに排除することで成立する。柵の向こうを気にすること、戦いそれ自体とは別個の目的を気にかけることは、力比べにおいてネガティブな枷でしかないのである。

 

会場ごと試合を打ち切る

 ロックマンやフォルテやその他のキャラクターと比較したとき、セレナードの戦いに対する態度は特異なものがある。彼は「裏世界を支配する者」「真の最強ナビ」と他称されながらも、純粋な力比べに熱くなる素振りを作中ではほとんど見せないからだ。むしろ彼は、戦いの中で「フェアプレーの精神」を無視するかのような振る舞いを見せている。つまり、彼は戦っている時も、常にほかの何か、相手や自分の力や存在以外のことを気にかけるのを止めない。

 それが最も顕著に表れたのが、4巻6話のロックマン熱斗とセレナードが結界の中で戦う場面である。セレナードはこの戦いの最中に、結界の中に閉じ込められてしまった蝶を守るために、ロックマン熱斗に背を向ける。そして蝶を保護してから、衝撃波でロックマンたちの攻撃ごと辺り一帯を吹き飛ばしている(4/p. 195)。それで戦いは終わり、セレナードは倒れたロックマンたちを残してその場を去る。

 一度立ち止まって考えないと間違えそうになるが、セレナードは、純粋な力比べの条件を整えるために蝶を逃がすのではない。蝶を逃がさなければならないから、会場ごとぶち壊して力比べ自体を終わらせるのである。

 セレナードはその特殊能力のために、相手と向き合っていればほぼすべての攻撃を無効化できる。もし彼が背を向けずにロックマンの相手をしていたら、傷一つ負わない完璧な勝利を見せたかもしれない。しかし、純粋に力比べをするよりも重要なことが彼にはあるのだ。蝶が無事であることはフェアプレーの精神よりも重いのである。だから試合を放棄していいし、不格好で無茶苦茶な決着でもいいわけだ。

 もちろん、セレナードも「弱い者は事態に介入するな」と、生物の戦闘力を序列化し扱いを分けていることは確かだ。しかし彼がそうするのは、強者同士の戦いの興奮に水を差さないようにするためではなくて、無用な犠牲を出さないためである。

鷹岬諒『新装版 ロックマンエグゼ』4巻, 170-171頁。「闇の力」の発生現場に向かおうとするロックマン熱斗の前に立ち塞がるセレナード。

 

 

 セレナードはたびたび「最強」と呼ばれるが、勝負を挑まれたからといって、その力を愚直に見せつけることはない。彼が、相手の攻撃を跳ね返すのではなく、険しい表情を見せて積極的に攻撃を放ったのは、作中では蝶を保護する場面だけである。

 一方には、色々な調整とルールのもとに作り出した会場の中で、全力を出し切り、証明される強さがある。小学生男子はともかく「最強」に憧れるという少年マンガ業界の見立ては合っていただろうし、そこに一種のロマンがあることは私も体感としてわかる。しかし、真剣な試合の中で示される「最強」とは、両選手の自己理解と相互理解以外の何のための強さなのだろうか*2? 他方に、観客席に身を置こうとするような、手加減やよそ見を含むような強さが、フェアプレーよりも蝶を死なせないような強さも存在する。セレナードは私にそのことを教えてくれたように思う。

 

 

追伸・セレナードのキャラクターデザインについて

 以下は深読みが過ぎる与太話も含まれるが、気になる方は読み進めてほしい。「蝶を殺したくない」という4巻6話のセレナードの行動原理には、現実世界のジャイナ教の教義に通じるものがあると感じる。ジャイナ教は、目に見えないほどの小さな虫も殺さないようにする、厳格な「不殺生」の教えをもつ宗教として知られている。

 もちろん蝶のくだりは、漫画版を製作した鷹岬諒の独創であるが、鷹岬はどのようにしてこの場面の構想に至ったのだろう? それは、セレナードのキャラクターデザインが、ジャイナ教を生み出したアジア世界を連想させることが1つある*3と思っている。セレナードのデザインソースは、アジア世界、少なくとも非ヨーロッパ文化にあるように私には見える。具体的に言えば次の3つの要素からそう感じる。

 1つ目は、セレナードの下衣のように見える部分。ここは現代でいうサルエルパンツ風になっているが、この手のパンツはもともとムスリムの民族衣装として各地に広まったといわれるものだ*4。2つ目は、上衣部分がほとんどない風貌と、常にスクリーントーンで表現される褐色の*5肌。これは、温暖な地域の修行僧を思わせるものである。

 3つ目は、作中で「羽衣」と呼ばれている背後の付属品。これはたしかに絹でできた装飾布のように見え、天女にまつわる伝承に登場する「羽衣」との共通性を見出せなくもない。ただこのような布の表現は最近のイラストで多く使われているようで、アジア世界の絵画表現として正統なものかは分からなかった*6

 こうしたデザインを解釈することによって、漫画版のセレナードのキャラクターが形作られ、彼の行動原理が場を持つことになったとしたら、それは漫画版製作者たちの豊かな達成だと私は思っている。

*1:フォルテには「ゲットアビリティプログラム」という特性があり、戦った相手の能力を取り入れることができる。

*2:ちなみに作品が続いていく中では、ロックマンの「最強」を求める闘争心が闇の力と融合し「ダークロックマン」を生み出すことになるという展開があり、強さを求めることの暗黒面も示唆されている。

*3:原作ゲームでは、セレナードが、自分の力の源は「ジヒのこころ」だと語る場面があるため、もちろんその言葉からの連想も効いているだろうと思う。

*4:ジャイナ教が伝えられているインドは現在ムスリムは少数派であるが、分離独立した隣国のパキスタンではサルエルパンツ風の衣服が着用されることがあるという)

*5:ただしインドの話をするなら、別にみな肌の色が暗いというわけではなく地域によってかなり差があるという。ただし、より白い方が好ましいとされる価値観がある。肌の色を「黒い」(カーラー/カーリー)と言うと、侮辱になる場合すらあるという。肌の色 – FILMSAAGAR

*6:芸術の源泉 三保松原 - 三保松原