なかったことにされた告白――『Myself;Yourself』星野あさみについて (1)

当記事は、同名の全年齢向けノベルゲームを原作として、2005年から06年にかけて放映された『Myself;Yourself』(以下、MY)というアニメについて語るものです。

なお、このアニメはキャラクター名とビジュアルこそ原作ゲームと共通であるものの、ストーリーやキャラクターの設定・性格は大きく変更されています。まったく別作品と捉えてもらって問題ないかと思います。私は原作ゲームは未プレイであり、この記事で言及することもありません。

 

たとえそれがアニメキャラクターだったとしても、キャラクターの性的指向について知った風なことを書きたくないというのが正直な気持ちです。キャラクターは反復・分解可能な図像や声の引用集にすぎなかったとしても、私がそこに投げ込んだり、そこに生成されるように私が感じたりする人格は、私が普段接する三次元の人間のそれとあまり変わりがないように思えることもあるからです。しかし今回は言及せざるを得ません。作品の中で女性を好きになる女性である、星野あさみについて。

別に、キャラクターとして女性を好きになる女性が描かれたことが珍しいから言及するのではありません。まあ男性向けのジャンルでは比較的珍しいかもしれませんが、MY以前のアニメでも『ヤミと帽子と本の旅人』だの『舞-HiME』だの『神無月の巫女』だの、描写に軽重はあるにせよ、探せばいくらでも出てくることでしょう。

だから、私はMYに今でも価値があると思うのは、レズビアンをたんに登場させたからではありません。そうではなくて、MYには、キャラクターが自身のセクシュアリティについて考え、それを(異性愛者とみられる)他人に表現し、その応答を引き受けていく場面が一瞬でもあったからです。彼女の姿は、同性愛者が恋愛の場で感じる特有の感情経験を描き出すとともに、告白を成就させられなかった人一般(どういう性的指向であれ)の心理も同時に正直にえぐり出していると思ったからです。

ただし、作品全体を見れば以下の話はどちらかというと枝葉の部分であって、星野あさみの経験を描くことがこの作品の主眼であるとは思えません。テーマはもう少し抽象的なところだと感じたので、総体としてジェンダーセンシティブな作品だと強弁するつもりはありませんし、あくまで一場面についての特集と受け取っていただくのが望みです。

11話「告白」の内容

当のアニメの11話「告白」は、作品全体の主人公である日高佐奈が、事件に巻き込まれ負傷して入院した星野あさみを訪れる場面から始まります。佐奈はその病室で、彼女から次のような長大な打ち明け話を聞かされることになります。この8分にもわたる独白を途中まで整理すると、次のようになります。

星野あさみは、中学入学時に若月朱里(佐奈の幼馴染の一人)と知り合い、憧れと思慕が入り混じった感情を彼女に対して抱くようになります。そして、彼女と深い信頼関係を築いたと思ったあさみは、高1の頃、自分の感情を朱里に伝えます。対して朱里は、あさみの好意を(性的な欲望を含むものとして)受け取ることはできないが、これまで通り友達を続けたいと伝えます。

そして、朱里は宣言通りあさみと友人として接し、あさみもそれに合わせて友人関係を続けます。あさみは友人を続けてくれた朱里の優しさを感じると同時に、自分の告白や好意がなかったことにされたようにも感じ、朱里に憎しみを抱くようにもなります。しかし彼女はその憎しみを心の内に隠し、そんな感情はないかのように一年近く過ごします。そのうちに、彼女は何のわだかまりもなく、仲のいい友人として朱里に対して接することができるようになっていました。

しかしあるとき、あさみは、朱里が彼女の双子の弟である修輔に涙を見せている光景を目撃します。その光景を見たとき、彼女は、一番の友人であった朱里にも、自分には決して見せないような一面があること、朱里と修輔には、自分と朱里の間にはないような、何でも開示できる強い絆があることを理解します。すると彼女には、単なる一友人でしかなかったのに、かつて勝手に勘違いをして朱里に告白した自分が、救いようもなく愚かに思われてきます。可能性のない賭けに挑んで自滅した惨めな自分を意識させられた彼女は、今までは抑えていた朱里に対する憎しみを御しきれなくなります。朱里と修輔、二人を二度と人前では仲良くできないようにしようと彼女は決意し、「彼らがラブホテルに行ったのを見た」と報じる嘘の手紙を学校に匿名で送り、あらぬ噂を立てようと画策したのでした。

 

典型的なフラれ方、傷つき続ける告白者

私がこのアニメを改めて見て衝撃を受けたのは、あさみの告白と朱里の断り方が、次の事例を引き写したかのようだったからです。

2016年、1人の大学院生が校舎から飛び降りて命を絶ちました。彼の自殺の原因は、元友人によって、自らがゲイであることを知人間にバラされてしまったことだといわれています。世にいう「一橋大学アウティング事件」です。

報道によれば、自殺した大学院生Aは、アウティングを行った同級生Zにかつて好意を持ち、スマートフォンのメッセージアプリで告白したことがあったのだといいます。告白を受けたZは、次のようにAに応えていました。

「おう。マジか。正直言うと、びっくりしたわ。Aのことはいい奴だと思うけど、そういう対象としては見れない。付き合うことはできないけど、これからもよき友達でいて欲しい。これがおれの返事だわ」

一橋大ロースクール生「ゲイだ」とバラされ転落死 なぜ同級生は暴露したのか(2016年9月3日 Buzzfeed News)

これを念頭に、あさみが朱里に告白し、何と言われたのかを確認してみます。彼女は次のように語りました。

最初は「冗談よね?」って〔朱里から〕言われた

けど 私が本気だってわかると
真剣な顔になって「ごめんなさい」って
そして 「あさみの気持ちは受け取れないけど
これからも 今まで通り友達でいようね」って……

典型的なフラれ方よね?

             〔 〕…引用者補足

結局、Aもあさみも、告白を経て友人と恋愛関係に変わることは叶わなかった。そして、今まで通り友達でいよう、という提案を受けた。このような返答はたしかに「典型的」で、異性愛者の間でも起こると思いますが、よく考えてみるとかなり無理のある希望であることが分かります。告白の前後では、決定的に違ってしまったことがあるからです。それは、いまや「告白者は相手のことを恋愛の対象にできる」という情報を二人で共有しているということです。

また、現代社会は異性愛者がデフォルトとして設計されていますから、こういう情報を伝えられたら(異性の友人とそうなる場合よりも)一層意表を突かれ、どう反応すればいいのかわからない人も多いでしょう。そのためにあさみは、朱里と友達を続けることは無理だろうといったん考えます。

(承前)

そのときは そんなことできるわけないって思った

友達どころか 気持ち悪がって
明日から口もきいてくれなくなる
そう思ってた

でもね
朱里は次の日も 普通に声をかけてきてくれたの
まるで 何事もなかったかのように
それが朱里の優しさなんだってわかってたけど

でも… 

あさみの恐れに反して、「気持ち悪い」と冷たくするような対応を朱里がとらなかったことは、彼女にとって救いになったはずだと私は思います。ただ、この作品が難しいのは「そして二人は良き友人であり続けた」とはならないところです。もちろん、現実には、友人が好意を伝えてきた後も、依然良き友人として付き合い続けた人たちも星の数ほどいると思います*1。しかし、あさみと朱里の場合は最終的にはそうならなかった。また、一橋大学のAとZの場合にもそうならなかった。何が「今まで通り」を阻むのか? 彼女の独白にはその一つの洞察があります。

結局のところ、告白した側にとって、それを受け入れてくれなかった人との関係は、半分の拒絶が継続することだからです。自分は自分の愛しい人から(友人としては肯定されているが)、性的な対象として欲望されることはないと確認し続けることだからです。それは告白者の自尊心を一面で傷つけずにはおかないでしょう。それは、次のあさみの台詞にも明らかです。

(承前)

でも なにか私の 朱里への想いもなかったことにされたような気がして
あの時からわたし ずっと朱里を憎んでた
普通に接してくれるたびに なぜか傷つけられているような気がして
ずっと…
ずっと憎んでた

彼女も、朱里が受け入れられないものは受け入れられないのであって、仕方のないことなのだとは理解していたでしょう。そもそも、「気持ち悪いと思われるかもしれない」と予想していたのだから、彼女が自分の好意に同じものを返してくれるはずだとは、彼女自身そこまで信じていなかったのではないかと思います。

しかし、自分の好意に報いてほしいとまったく望まずに告白する者など普通はいません。その希望が強くなければなぜ告白するのでしょうか? 多くの告白者にとって、友人としての肯定がついてきたとしても、自分の好意に同じものが返ってこないと知ることは大きな挫折です。そして相手と友人として付き合い続けるということは、その挫折を意識し続けることなのです*2

 

特有の困難

では、朱里は先のような「典型的な」フリ方をするべきではなかったのでしょうか? あるいは、 あさみに「いつも通りに」接するべきではなかったのでしょうか? 私はそうは考えません。というより「いつも通り」を維持しなければ、それはそれで悪い未来が訪れていただろうと私は思います。彼女たちは「いつも通り」を維持しなければならない事情がありました。それこそが、この社会で同性を好きになってしまった場合の独特の困難だと思います。

まず、朱里が「いつも通り」を維持しなければならなかった事情です。もしも、彼女が昨日まで友人だったあさみにいきなり冷たくしたり、もう関わるなと告げたなら、共通の知人には何かあったのかと思われてしまいます。そうしたら、あさみから受けた告白について、つまり彼女が同性愛者だと周囲にばらすきっかけを作ってしまうことになります。もちろん、あさみがそこまで覚悟して告白をしたなら話は別ですが、彼女が自分の気持ちを分かってほしかったのは朱里であって、他の同級生のことなど考慮に入れてはいないでしょう。だから、あさみを憎からず思っているならば、朱里には「いつも通り」にするしか選択肢はなかったのです。

これはまさに、先に言及した一橋大学アウティング事件で、Aに告白されたZが経験した状況でした。Zは、結果的にAの性的指向を明かすことになってしまうために、ほとんど誰にもその告白やAとの今後のことを相談できなかったといいます。

次に、朱里に合わせてあさみが「いつも通り」を維持した事情です。それは朱里がそうしたのと同様、もし陰に陽に朱里に対して急に接し方を変え、なにかあったことを仄めかしたなら、共通の知人に不審に思われ、自分のセクシュアリティについて説明を求められる*3危険があるからです。

仮にあさみが好きになったのが異性の相手だったら、告白が受け入れられなかったということを、折を見て第三者にも比較的気楽に説明することができたはずです。しかし、同性に告白したという告白は結果的にカミングアウトと同じであって、同性愛者への攻撃がまだまだ止まない世の中で容易にできることではありません。

 

異性愛者同士の場合ならば、告白という出来事は、それが相手に断られた場合であっても、第三者に語られれば「受け容れられなかった告白」としては残ります。そして告白した者は自分が失恋したことを認め、一連の出来事を自分の経験とすることができます。しかし、あさみと朱里の場合は、告白という出来事自体、受け容れられたとかそうでなかったとかいう以前に、最初からなかったことにせざるを得ませんでした。しかもその根源的な否定を、当事者である二人だけの間で継続的に行わなければならなかった。

このような状況で、自分がフラれたことを誰にも明かすことができず、失恋を経験すらできなかった彼女は、ともに告白をなかったことにしようとしている朱里への憎しみを募らせていきました。

 

他の選択肢:憎しみを率直に伝えること

ただ、このときあさみは、一つだけ自分の取り得た他の選択肢に思い当たっていました。それは、自分が朱里に対して感じる憎しみとその理由を、朱里その人に率直に伝えることです。

しかし彼女は結局、思い当たっていた選択肢をとらずに「友達のふり」を続けることになりました。

(承前)

本当はそのとき その気持ちを正直に言えばよかったんだと思う
そうすれば きっとこんなことにはならなかったのに

でも…… でも できなかった……

朱里のこと憎んでたけど それでも 友達でいてほしかった
本当に口もきいてもらえなくなるのが 怖かった
上辺だけでもいいから 友達のふり していたかった

二人の間でもう終わったことになっている話を蒸し返し、しまいに憎しみなど表現すれば、さすがの朱里も困惑したことでしょう。そして、自分は自分にできる最善のことをしたのに、どうして憎まれなければならないのだと憤るでしょう。最悪の場合、朱里は容赦なくあさみを切り捨て、告白のことを広めたりするかもしれません(まさに一橋大学のZがアウティングを行ってしまったように)。

ただ、あさみの伝え方と朱里の受け止め方次第では、別の結果が生じたかもしれません。もしあさみが自分の憎しみについて率直に語り、そのことによって朱里が困惑と苛立ちを感じることになったのなら、それも負の感情による一つのつながりであり、無意識の情報伝達になりうるからです。そのような告白は、あさみ自身の心のうちに打ち消しがたくある無力感と苛立ちを、朱里にも結果的に体験させることになるからです。あさみが自分の憎しみを伝えたからといって、朱里が口もきかなくなり、冷たく拒絶するだけであるとは限りません(それはあさみの持っていた想像にすぎません)。その言葉によって、見ないふりをしていたが実際には起こっている混乱を二人が認識することができ、その混乱がどうすれば解けるかについて、「いつも通りにする」こと以外にも、対処の仕方を相談できたかもしれません*4

もちろん、実際にはあさみは自分の憎しみをギリギリまで朱里に隠していました。他人に自分のマイナス感情を見せる強さが、あるいは他人にそれを反撃せずに受け止めてもらえるという信念が、当時の彼女にはなかったからです。

ただ、この告白の後に、彼女は、朱里にこれまでの経緯を意を決して明かすことになります。結果的には、彼女は一度捨てた選択肢を拾い直すわけです。もちろん、それはあさみが朱里を決定的に傷つけてしまった後のことであって、和解の可能性は限りなく低くなっていましたが。それでも、なかったことした告白をよみがえらせ、今度は決定的に拒絶されることで、彼女は漸く、心の内の全てを言う*5告白者になれたのかもしれません。

 

キャラクターの隣人になるために

私はここで星野あさみの独白を検討することによって、彼女の行った悪行にも情状酌量の余地があると主張したいのではありません(そのような効果も多少は意識しますが、主ではありません)。そうではなくて、彼女のような「告白がなかったことにされる」という経験は、私や私の周りの人々の経験と地続きではないかと思うから、考えてみたかったのです。

たとえば彼女の経験を追った後では、私が知らないだけで、もしかすると私の知人の間でも、あさみと朱里の間のような「最初からなかったことにされた告白」があったのかもしれないと考えることができます。そう心構えを持っておけば、後々そのような話を伝え聞いたときにも、狼狽えたり奇異の視線を向けたりせずに済むでしょう。

そして、まさに自分自身がそのようなむずかしい告白者や被告白者になってしまったときに、この作品は心の拠り所の一つとなってくれるでしょう。誰にも事情を話せない、救いようのない孤独の中で、似た苦しみを生きた人が二次元の中にでもいたことは、決して小さくない慰めになるでしょう。

(この段落は自分語りなので読まなくとも構いません)私もまた、この作品のエピソードに慰められた一人でした。私は、おそらく性的指向からして私を好きにならないだろう友人に好意を持ったことがあります。私は自分なりの仕方で好意を伝えましたが、もちろん、その関係は自分の望んだようにはいかず、わずかな悶着の後は互いに友人に復帰することで決着しました。ただ、私とその人の間に何があったのかを第三者に詳細に話せば他人の性的指向を決めつけたり勝手に明かしたりすることになるために、誰にも説明せず、私とその人との間であえて振り返ることもないので、必然的に私の好意はなかったことになりました。本人の許可を取ってから第三者に語ればいいじゃないか、それならアウティングじゃないだろう、という向きもあるでしょうが、「あなたと私の間の色恋沙汰未満のことを(私やあなたがどういう人を好きになる人なのかも含めて)第三者にも言おうと思うんだけどいかが?」などと提案できますか? それ自体が嫌がらせっぽくないですか? 今では少しマシにはなりましたが、当時その状態はなかなかのストレスでした。自分が自分の好きな相手から、どうあっても(人格とか接し方とかそれ以前に)恋愛対象外であることの無力感と苛立ちは相当なものでしたが、それを誰にも、もちろん相手にも伝えることがまったくできなかった。私はやはりその人に「友達でいてほしかった」からです。「口もきいてもらえなくなるのが怖かった」からです。まあ、友人として話ができてもその時間が楽しくなくなってしまったのでは、結局友人を続ける意味もないのかもしれませんが……
こういう話はもしブログで書くにしても以上のように大幅にぼかすか、紙の小説にでもして棺桶まで持っていくべきことでしょう。時間があれば小説を書きたい気分です。

 

星野あさみのようなキャラクターは、インターネット上の冷静ぶりたい人たちによって些かオモチャにされすぎてきたのではないかと感じています。この手のキャラクターは、やったことの悪辣さ過激さばかりが注目され、笑いの種にされながら愛され語り継がれてきました。

同性を愛するキャラクターが、恋愛のために何か過激なことを言ったりやったりする*6と、ネット上の一部界隈では「ヤンレズ」「クレイジーサイコレズ」というラベルが貼られることがあります。というより、「ヤンレズ」という言葉の浸透を促したのが星野あさみその人だとも言われています。たしかに彼女も、朱里への恋愛感情がきっかけで、名誉棄損にあたるような重大な悪事を働いてしまうからです。

また同性を愛するキャラクターではなくとも、恋愛がうまくいかず、悪行を働いたり非常識なことをしてしまったり、人々を怒らせてしまったキャラクターも同様に、「ヤンデレ」という語で括られて語られてきました。

こういうタグ付けや話題性がなければ知ることもなかった人も多いと思うので完全に否定はできませんが、そのタグ付けによって何が行われることになるのか、メタに語る人がもう少し多くいてもいいのではないかと思っています。このようなタグ付けの欲望の中には、非合理性や愚かさを他者に押し付けることで(特に、異性に——多くの場合は作品評価者の男性が女性キャラクターに――押し付けることで)、自分の中にそんな要素はないのだと思いたい気持ちがなかったでしょうか。自分はまともで冷静な人間だと信じ込むための犠牲の羊として、そのキャラクターを取り上げてはこなかったでしょうか。

まあその手の自問が真実を突いているか的外れなものかはさて措いて、そのように考えが及ぶならば、タグ付けとは違う語り方、キャラクターへの接し方もまた思いつくのではないでしょうか。キャラクターたちに、私と部分的には同じでありうる人間として近づくにはどうすればよいのか。キャラクターたちについて、嗤うためではなく共感するために、彼らの隣人になるために紹介を行うにはどうすればいいのか。そういう方向で語ることができるのではないでしょうか。

彼らが何に悩み、何に傷つき、何を信じようとしたのかを感じ取るように努めれば、ほとんどの場合、彼らの問題は、彼らと彼らの生きた時代や社会、あるいは彼らの知人との関係の問題でもあることがわかります。そして、彼らの問題は、ある部分で私の問題でもあることがわかります。

もちろん今回は、目下同性を好きになったことのない自分が星野あさみと同一の経験を持ったと言うことは絶対にできませんが、重なり合うところは確実にあると信じるために、私はこの文章を書いたのです。

 

 

この記事で検討できたのは、8分以上ある彼女の独白部分のうち、前半の4分程度の内容に過ぎません。残りの部分は、朱里との関係の来歴ではなくて、あさみが行った悪行を自ら詳細に解説する、懺悔とも種明かしともいえるような内容になります。私はこちらにも思うところが多々あります。その後半部分は彼女の陰湿さを顕示する語りであることは否定すべくもありませんが、なぜそんな露悪的な語りを彼女が行うのかも含めて、稿を改めて検討したいと考えています。

 

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*1:『あいつゲイだって アウティングはなぜ問題なのか?』(柏書房、2021年)の著者・松岡宗嗣は、自らの学生時代の経験を例にとって紹介しています(ただし事実の提示の域を出ないものですから、細かいニュアンスまで求めるものではありません。cf. p. 21)

*2:もちろん人の好きになり方は人それぞれですから、恋人としての好意が返ってこなくても自己完結して楽しめる、というタイプの方もいるでしょう。ブロガー/作家のメレ山メレ子は、エッセイ集『こいわずらわしい』の中で、それはある種の理想ではないかと語っています。

*3:もちろんそこでは、マイノリティ側にだけ説明が課される非対称性が指摘され、説明責任は投げ返されるべきなのですが。

*4:しかしそれでも取りうる対処法は多くはなくて、大抵は、しばらく会ったり連絡したりしないようにする、という方法で合意することになるとは思いますが。

*5:どうでもいいのですが、「告白する」を意味するconfessは、con(すっかり、すべて)+ fess(言う)という語源を持っています。

*6:しかし、同性が恋愛対象だからといって皆がアグレッシブに恋愛する人たちばかりではないのは自明であって、激しい恋愛をする同性愛者のキャラクターばかりという状況自体が、一種の偏見を示すのではないかとも考えられます。