反-償いの物語——アニメ版『SHUFFLE!』19-21話について

弁明あるいはキャラクターのイメージを語ることの正当性

今回は、同名の18禁美少女ゲームを原作として、2005年から06年にかけて放映された*1SHUFFLE!』というアニメについて語ろうと思います。

はじめに断っておきますが、私は『SHUFFLE!』シリーズの原作を移植版も含め一つもプレイしたことがありません。だから今回アニメ版だけを参照して語ることが、同シリーズの全版に当てはまるわけではありません。

かつてこの作品については、原作とアニメ版の断絶によって並々ならぬ議論が起きていたことも承知しています。主に火種となったのは、原作の重要なシーンが省かれたり、アニメ独自の設定や表現が加えられたことで、一部のキャラクターのイメージが全く異なってしまったことであるようです。ただ私は今回、アニメ擁護派・アンチアニメ派のどちらの肩をも持つつもりはありません。私は私に見えたものを語ることしかできません。

キャラクターは多くの人間とは違って、自らに持たれるイメージが不当であるという訴えを自ら起こすことができません。他の人(作品の受容者)に、不当であるとか不当でないとかを語ってもらわなければなりません。でもそうやって、私たちがキャラクターのイメージをめぐって語り合うということ自体、倫理的に正当化できるものなのか疑わしいと最近は思っています。ここでいう「キャラクター」を、自分で自分のイメージについて語る主導権を持たないマイノリティと置き換えてみれば、彼ら彼女らについて、多数派たる私たちが(当事者の代弁をしつつ)論争をするのは、何かを間違えているのではないかと思ってしまいます。

それならば、最終的にはその個別のキャラクターへの興味から離れ、一人相撲を突き詰めていったほうがまだマシなのではないかと思います。つまりキャラクターのイメージをめぐって義憤に満ちた闘争を行うよりも、私がキャラクターに持つイメージが、視聴者である私自身の耐え難い側面や、捨てることのできない拘りの影で(も)あることに自覚的でありつつ、自分語りに帰着するほうが。以下の文章は、そのような筋書きをなぞっているつもりです。



今回主に話題とする19~21話は、主人公の土見稟とその幼馴染の芙蓉楓との関係が主題となります。この中でも「空鍋」と呼ばれる19話のシーンは、放映当時かなり話題となったと言われています。詳細な解説は別のサイトに譲ります。

ja.wikipedia.org

19話に用いられた特徴的な表現は、強い輪郭線と平板さをまだ残していた当時のアニメ画面も相まって、かつての私にも大きなインパクトを残しました。しかし、私が今回視聴して印象的だったのは、そういった心情を非言語的に描写する仕方ではありませんでした。むしろ印象に残ったのは、人物たちが人物たち自身の欲望や行っていることの意味について振り返り語っていく仕方でした。そして今回注目する稟と楓のエピソードでは、二人が明確にあるいくつかの前提に基づきながら、自己分析を実践していったと感じました。

 

美少女ゲームのお約束

この物語を知っている人ならば皆ご存じのとおり、楓は稟の身の回りの家事一切を引き受けていました。しかもその凝りようは相当なものです。例えば朝食は和食であれば煮物、魚、小鉢二つ、漬物、汁物と白米を用意しています。弁当と夕食も彼女が作ります。他にも、日中は学校にいるのに洗濯物を干す必要もあります。食材の買い出しも部屋の掃除も行い、持家なので庭の手入れもあります。こうした一連の事柄を彼女は一手に背負うことになっています*2

美少女ゲームの伝統では、男性である主人公の生活を両親ではなくヒロインの一人が支えていることがよくあります(主人公の妹や幼馴染であることが多いです)。多くの作品はそれを所与として、ひとつのお約束として特に説明もなしに流してしまいますが、『SHUFFLE!』含むいくつかの作品では、その家事という貢献が様々な意味を付与され、合理化されます。なぜならそれは本来不自然なものだからです。どうして、主人公と同じく本来保護されるべきはずの年齢であるヒロインが、保護者に代わって主人公の世話を日常的に引き受けているのか? ここで、ヒロインが女子だからだと答えるような迂闊な作品はありません。それはいくら美少女ゲームが相対的に繁栄していた時代であっても、直球の性差別であり、プレイヤー(視聴者)を納得させられる答えではありませんでした。

当の作品が設定した答えは、「楓はかつて誤解によって稟を傷つけたので、その償いとして世話を自ら引き受けた」というものでした。償いというのは傾いた秤を水平に戻すことです。かつて楓によって稟の生活は相当程度苦しいものになったので、その分だけ、彼女は現在の稟の生活を良くする義務を感じたというわけです。こうした設定は納得できるものだとまずは感じます。そしてなにより、多くの人にはほとんど使う機会もないような「罪」や「償い」という概念自体が非日常的で、いかにも物語という感じがし、どこか格好がいい*3

この手の償いの物語は別に珍しいものではありませんが、それだけでもフィクションとして格好よく崇高なものに仕上げることは十分できたでしょう。しかしながらアニメ版『SHUFFLE!』は、わざわざお約束を換骨奪胎して作ったこの物語に対して、作中でさらに踏み込んで批判的に検討を加えることに最終的になりました。かつその検討は、楓や稟の苦々しい自己分析として描かれました。彼らの自己分析は、彼らがそこに巻き込まれている償いの物語を彼ら自身がなぜ維持してきたのか、それが常に本当にいいものであるのかを厳しく疑い、自分自身の一部でもあるそれにダメ出しをすることでした。その自己分析は決して格好いいものではなく、台詞は長く繰り返しも多く、画面としても単調になり、テンポが悪くて映えません。でもかつては、そういう場面を描くことに作品の決して少なくない時間が割り当てられていたことがありました。そのためにたいへんな人の労力がかけられ、電波に乗せて不特定多数に届ける意義があると思われていました。そのことを記しておきたいと思います。

 

応答を求めないケア労働(滅私的献身)の破綻

楓の献身は第一に「償い」という意味があることはすでに述べました。そして彼女はしばしば、「わたしは稟くんのお世話をすることが生きがいですから」と発言します(1、5、19、20話)。あまりに稟に都合がよく冗談めいて聞こえるこの言葉も、稟と楓の過去の事件について、またその償いについて考えるなら、彼女は本気でそのつもりかもしれないと思われてきます。稟の身の回りの世話をして、彼の幸せを願うことで、彼女は確かに「身も心も稟くんに捧げ」(1話)ているように見えますし、その労力は実際に大変なものだと作中でも指摘されています(5、21話)。ですがそこまでする理由は本当に「それが償いだから」だけなのか。彼女が稟の身の回りの世話を「生きがい」だと言うことは、彼女がそこから何かを得ている、得たいと思っていることを意味するのではないでしょうか。

世話をするという表現から受ける印象とは違って、本来ケアとは相互的なものです。ケアする側は、ケアされる側からの反応を求め、それを喜びとしていますし、そうでなければ適切なケアは成立することがありません。だから稟が、亜沙との関係に傾倒するあまり楓の家事に歩調を合わせることを怠れば、ただちに楓のケア労働は破綻しそこに喜びを感じられなくなります(19話)。本来、楓はそのとき稟に自分のケアに適切な応答を返せと要求するべきでした。でも彼女はそれをしなかった。なぜなら、償いはそれを行う人が喜びを得るためにするものではないからです。自分の世話が無駄に終わっても、返ってくるものが何もなくても、世話される相手が悪いわけではなく、そのまま続行しなければならないものだからです。

つまり、彼女は稟に対して何も要求しない存在でありたかったということです。彼女は自分自身の望むことをできる限り後回しに、もしくは自分の意志を稟の意志と全く一致させることで消し去ろうとしました。例えば、プリムラが芙蓉家で生活したいと言い出したとき(2話)、「わたしは稟くんがいいと言うんでしたら 構いませんよ」と、まるで稟の意志が自分の意志であるかのような迂遠な言葉遣いをします。そして、各話で他のヒロインたちがそれぞれ稟への思いを語り出す中で、彼女は自分を主語にして語り出すことは中々ありませんでした*4

しかし楓が気づいたのは、人は自分を滅ぼして誰かのためだけに生きることはかなわないということです。この「他者の欲望の中で自己完結する」という理念は、そう簡単に成るものではありません。常に他人を主語にすることで自分を主語にすることを忘れても、自分の行ったことの結果を他人に認められることを諦めても、そんな状態はそう長続きするものではありません。

 

本心を言わせることの危険性

彼らは楓の「稟くんに尽くすことだけが生きがい」という言葉を本心だとは思わず、彼女に本当のことを告白させようとしました。そして後述するように、楓は彼らに促された告白こそが自分の本心だと思うようになりました。

私は…稟くんのお世話をしていられればいいんです
稟くんのためにご飯を作って
稟くんのためにお洗濯して

(21話 楓)

こういう楓に対して、稟は次のような形で問いかけます。

違うだろ

楓はそれでいいのかよ?

(21話)

ただこう問われても、償いや生きがいという言葉によって自らの望みについて考えずに済んでいた彼女は、何も答えることはできませんでした。

また、プリムラも同様のことを問うています。

楓   「わたしは 稟くんに愛されちゃいけないから
     わたしが愛しても 愛される資格がないから」

プリムラ「ほんとに? それでいいの……?」

(20話)

しかしこの一連の過程にはかなり危険なものがあります。近年は、当事者の発言を重視すべきだということがさかんに言われるようになりました。ものすごく雑に言うと、やられた当事者がいじめだと言えばそれはいじめなのです。性交してしまった人が後でも嫌だったと言えばそれは強姦なのです。こうした風潮は、これまで発言力の弱い人の被害がしばしば誤魔化され、看過されてきたことへのカウンターでした。というのも、多数派にとって都合のいいことを言えば「本当のこと」と認め、都合の悪いことを言えば「本心で話していない」とする論法がしばしばまかり通ってきたからです。このことを考えれば、当事者の発言を重視するのは当然そうあるべき変化でした。

しかし、私は「ある人が『これ(現状)が自分の望み』だといえばそれはその人の本当の望みである」という形のメタな当事者主義だけは認められません(暫定的にそう見なすべきだ、というならわかりますが*5)。もしこれが正しいなら、楓は、自分が過去の償いをしたいのか、稟とただ生活を共にしたいのか、恋人として見られたいのか、これらの望みをどうして自分自身で知らぬ間に「すり替える」(21話)ことなどができるでしょうか。その人の望みをその人自身が間違いなく感知しかつ積極的に語ることができるなら、彼女はこれほど右往左往する必要はそもそもなかったはずでした。

稟やプリムラは、楓の「稟くんに尽くすことだけが生きがい」という言葉を決してそのまま認めはしませんでした。そこには何かまだ隠されていることが、彼女自身まだ認めてはいないことがあるのではないかと予感しました。それはお節介といえばお節介であり、彼女の発言権の簒奪でもあったかもしれません。

 

自分の望みを自分だけで積極的に語ることはできない

しかしそもそも、誰のどんな考えを聞くことにも左右されずに、積極的に語ることのできる「自分の望み」が存在するとは、私には思えません。欲望を積極的に語る言葉は初めから誰かの借りもので、誰が簒奪者であり、誰が誰の言葉を奪ったのかはもはや分かりません。21話で楓が「だけど 気づいてしまったんです」に続ける言葉は、プリムラや稟の投げかけた疑念と同様に「稟くんに尽くすことだけが生きがい」という言葉は本心ではないとするものでした。そして、本心として語る「わたしは稟くんと一緒にいたかっただけ」というのは、プリムラが自分の思いを語った言葉の引き写しでした。でも語っているのはたしかに楓自身です。彼女は彼女自身の欲望を他人とともに疑い、他人に感化されながら検討し、再び語り直します。自己の真実は乗っ取られながらでしか積極的に語ることはできないのです。

そのもう一つの例が稟の自己分析でした。彼は21話で、楓との共謀的な依存生活をかつては肯定していたが、今それを変えなければならないと亜沙やシア、ネリネに語ります。このような変化にはシアとネリネからの影響があったことを語っています。彼女たちが過去に囚われつつも新しい事柄に踏み出したいと思っているのを観察したことで、彼は自己への、楓との関係への新しい解釈を用いるようになったわけです。

楓はずっと 俺に罪の意識を感じていた
俺に酷いことをしたと思い込んで それを償おうとしていた
そして俺は 昔みたいに 楓が生きる気力を失ってしまうことが怖かった
俺に尽くすことが楓の生きがいなら それでいいんだと言い聞かせていた

(21話 稟)

先の引用によれば、稟は、楓が償いをできなくなり生きる気力を失ってしまうことを恐れていました。しかしこれは考えてみると楓の人生を矮小化した見方です。彼女が稟に償いをする(身の回りの世話をする)ことは彼女にとってたしかに重要ではあるでしょうが、それが彼女の人生の全てであるというのは言い過ぎだからです。仮にそれができなくなっても、今や彼女は生きるにあたって他にも重要な事柄を持っているのではないでしょうか。クラスメイトとの関係しかり、勉学しかり料理そのものの習熟しかり(いずれもこのアニメではあまり焦点が当たりませんでしたが)。彼がかたくなに芙蓉家を出ると楓に主張できたのは、彼女はたとえ自分の世話をしなくても生きる気力を失ったりはしないと信頼できたから、そして(押しつけがましくはありますが)、彼女も過去の清算に時間を費やすのはほどほどにして、新しい一歩を踏み出すべきだと思ったからでした。

ただ、稟と楓が築いたような共依存的な関係を即座に脱するのが常に正しいとは言えません。当人たちがそれで満足しており、問題と感じていないならば。しかし自分たちはこれでいいと思うこととその構成員たちが実際にストレスを抱えていないことは違います。その違いが判らないと、振る舞いを修正すべきときに修正することもできません。

 

世界に対して健全に攻撃を与えること

その是非は上に述べた通りとして、楓は次のように「本当は…」と語ることになりました。

楓   「償いたかったのに ずっと……稟くんのために尽くしたかったのに」

プリムラ「本当?
     ほんとに 稟のため?」

楓   「ううん 嘘……
     本当は わたしがそばにいたいの……」

自分の望みをまったく廃棄しているかのように見えた楓は、実際には彼の求めに応じて世話をしたり共に生活したりするのではなく、たとえ彼が望まなくてもそれを続けたいのだと語ります。つまり彼女は自分自身が自分のために望んでいたことを語り始めます。

もし楓が稟に償いをしたいだけで他に何も望まないのであれば、彼や他の人が自分の思った通りの行動をしてくれなくても、そういうものだと受け入れて、怒りも悲しみもしないでしょう。でも楓は怒声を上げたし悲しみもした。具体的に言うと、稟の関心を占めるようになった亜沙に対して苛立ち、暴言を吐いて家から追い出そうとしたり(19話)、稟の寝床に忍び込み涙の訴えを行ったりします(20話)。そうすることで世界が自分の望み通りになるかもしれないからです(泣きわめいて状況を変える赤ん坊と同じように)。主体的であることとは、このように世界に対して健全に攻撃を与えることです。ただし、この攻撃が健全に終わるかどうかは周囲の反応次第でもあります。周りがその攻撃をより強い力で押さえつけたり、またはパニックになって何でも望みを叶えて宥めすかそうとすれば、顔を出そうとした主体性は他人への拗ねた従属か、虚しい支配欲を強化するだけに終わります。

この物語の徹底しているのは、楓がせっかく一度泣きわめいて攻撃を行ったのに、稟に(心身ともに)押さえつけられることにより、すぐにまた自分の欲望を否認してしまうところです。

わたしにできることはこれだけだから ずっとこれ〔家事〕を続けるの
わたしは 稟くんの幸せが望みだから 稟くんの望むことを 全部受け入れるんだ
亜沙先輩のことが好きでもいい 稟くんがここにいてくれさえするなら……

(20話  楓 〔〕内引用者補足)

他人が自分の思い通りになってほしいのだと認めることは、ある状況下ではそれほどに難しいことなのです。「わたしは~であってほしい」という主張が通らないとすぐに、「稟くんの望むことを 全部受け入れる」というマゾヒズムに振り切ってしまうのです(これは彼女の攻撃に適切に反応できなかった周囲にも責任があることなのですが)。しかしそんなマゾヒズムが本当に実現可能なのかどうか、楓は間もなく試されることになります。

話それるんですが、マゾヒズムにしてもなんにしても、振り切るには根気が必要じゃないですか? 報われなくても「ずっとこれを続ける」ことができる人がそんなにいるのなら、誰もがプロスポーツプレイヤーやプロの料理人やプロの演奏家やプロのダンサーになっているのではないですか? 炊事でも練習でも何でもいいですが、毎日毎日同じことをして、それでレベルが上がるみたいに劇的に何かが変わるわけでもなく、面倒くさいとか飽きたとか思わないんでしょうか?

私は、21話の楓が家事の一切にやる気をなくして、学校も休み、寝間着のまま布団を被っていじけて、それにも飽きて何をするでもなく外に出て、偶然会った知人(亜沙)の前で頼まれもしないのに自虐を始めることができるようになって、本当によかったと思います。ここでいう自虐は稟のしたような自己分析とは少し意味がずれていて、語る者の目に見える変化や行為の実行を必ずしも導くものではありません。つまり、絶望にも希望にも、忍従にも反抗にも、どの方向にも振り切れない人間のする行いです。でもそれで全く構わないのです。高校に通う歳で「生きがい」なんて持つ必要はありません。何かを続けられるうちは続ければ、熱中できるならすればいいでしょうが、厭になってきたらまず半分投げ出し、じきに半分投げ出すことすら投げ出して自虐でもしていればいいわけです(ずっと泣き続けたりずっとわめき続けることは身体的にできませんから)*6。そういう中途半端が子どもに許されないとしたら、それは周囲の大人が役立たずで狭量なだけです。楓が家事を完璧に続けなくて生活が成り立たなくなるなら、楓を子どもとして扱えなかった彼女の親族が悪いのです(居候の稟も大概とはいえ)。

 

他人の頑丈さを信じられるようになる

幸運にも、この物語で楓が攻撃して方向を変えようとした他人たちは、最終的には彼女の思い通りになることは全くありませんでした。稟は楓に家事一切を任せ続けることを含めて今まで通り彼女に尽くしてもらうことを拒み、一人暮らしを望みます。亜沙は申し訳ないと思いながらも稟との関係を続けることを望みます。でもそれらは楓と関わること自体の拒絶ではなく、彼女が怒ったり悲しんだりすること自体への非難でもありません(楓「わたしが嫌いになったんですか」——稟「そうじゃない」)。このとき、自己主張によって他人は完全に自分の思い通りになることはない(そこまで他人は脆くはない)が、自分自身の要求を持ったとしても、他人から責められたり見限られたりするわけではないと知るのです。彼女が「ひとつだけわがままを言わせてください」(21話)と言えるようになったことが、その証左です。

主人公の恋人になることが勝ちで、そうでなければ負けというラブコメのルールの下では、彼女が負けたのは今更言うまでもありません。しかし、私は楓の挫折は断固として一つの達成だと考えています。誤解しないでほしいのですが、私は関係の呼び方とそこから零れるものの話をしているのではありません。彼女が稟と悪しき共依存を抜けて、恋人とも家族ともつかないアップデートされた新たな関係に進んだから素晴らしいのではありません。彼女が他人の頑丈さを信頼できるようになったから、その分だけ自己主張しても大丈夫だと思える準備ができたから素晴らしいのです。奇妙な言い方ですが、自分のことを大切に思ってくれる人に対して自己主張するのは恐ろしいことです。自分は相手のその気持ちを利用して相手を完全に支配してしまうのではないかと、自分自身の権力が恐ろしくなるからです。でも、相手もさすがにそこまで都合よくはない、やわではないと信じられ、自由に主張できるのは得難いことです。実際、楓がそれでも自分は稟が好きだということを彼に伝え、彼に対して自分のことを好きにならないでほしいと伝えても、彼はそれとは独立の気持ちを持っており、その発言によって完全に操られることはありません。それは悲しいことだと思いますが、健全で自由な状態でもあります*7

 

「自分の望み」を自分だけで把握することはできない。「人生」を一つの「生きがい」で塗りつぶすことはできない。ケアを一方的に行い続けることはケアの破綻である。他人と支配-従属の相補的関係を築くよりも、他人に対して互いに攻撃を与え合える、かつそれでも相手は思い通りに操作できる存在ではないことを互いに信じられることのほうが素晴らしい。楓と稟のエピソードを描くにあたって強く作用していたこれらのドグマは、今こそ真剣に検討すべきものを含んでいます。

2020年代に入った今でこそ、親密な関係における継続的な献身はフィクション作品の中でもわりあい警戒されるようになりました。例えば親子関係の中でも、「私のためだけに生きてはダメ」とはっきり伝えられる作品が次々と出現しました(五郎丸えみ『奈落のふたり』2巻など)。しかし時代をさかのぼった2005年時点でも、「誰かのためだけに生きる」という美しい物語への露悪的な懐疑が、美少女ゲーム原作アニメという場ですでに表現されていました。アニメ版『SHUFFLE!』の楓と稟のエピソードは、たんに贖罪を絡めたSM的ロマンスの一例ではなくて、むしろそれら一般に対する少々いきすぎた批判でもあったのです。もしこれから先に当の物語に触れる人があれば、後者の側面をこそ重視してほしいと私は願っています。

空鍋で騒ぐのではなく、ときに暴走した彼女の想いに崇高さを感じるのでもなく、彼女と彼の苦々しい自虐と自己分析に、繰り返し耳を傾けてください。

 

www.b-ch.com

*1:1期はWOWOWで、2007年に1期を再構成した2期が独立UHF局で放送されたとのことです。

SHUFFLE! (アニメ) - Wikipedia

*2:母親とは死別、父親は作中では海外へ単身赴任中。また、プリムラが家に来てからは多少の分担あり。

*3:ちなみにこうした「償いの物語」は男性向けの物語に限ったものではありません。例えば、ティーンズラブにおいて男女を逆転して描かれることがあります(負い目を感じて従属するのが男、主人となるのが女)。具体的には、佐々江典子『可哀想な私に贖罪なさい』、天堂きりん「ツミビト」があります。

*4:漫画版の楓は、わりあい何気なく「彼が好きだ」ということを本人の前でも第三者の前でも口にしています。そこから考えると、アニメ版の楓はあえて極度に滅私的・遠慮がちに描かれていると判断できます。

*5:そしてさらに言うなら、「少なくともこれ(現状)は自分の望みではない(なかった)」というなんらかの「消極的な」表明は、疑いの余地なく支持されるべきです。これを「そんなこと言っていても本当は……」としてひっくり返そうとすることは、積極的な表明をそうする場合よりもずっと危険であり、その人の権利の侵害である場合が多くなります。なぜなら、積極的な表明をするときはそのひとに現に害が生じていないこともありますが、消極的な表明をするのは現に害が生じているときだからです。足を踏まれている人が「足を踏まれることは自分の望みではないのですが」と表明することは100%正当です。その人は「足を踏まれること」は自分の望みではないと一つ排除しただけで、ほかに自分の望みについては積極的に何も言っていないので、言ってもいないことにツッコミを入れる余地はありません。ですがこのとき「足を踏まれることも含め、現状が自分の望みです」と言う人がいたとき、その人は自分の望みについて積極的に語っています。積極的な現状肯定は、一つどころではなくあまりに多くのありえた望みの排除を含意しています。それをそのまま支持できるのかは、その人と話し合う余地があると私は思うということです。

*6:もちろん自虐も頭を働かせたり手や口を動かしているかぎり一つの行為であって、毎日毎日繰り返していればじきに飽きて、もう少し建設的な努力に向かうかもしれません。挫折の直後からそういう努力に向かうことができればそれが一番いいでしょうが、ときには自虐という準備期間を経由しなければ向かうことができない場合もあると私は思っています。

*7:ちなみに漫画版はアニメ版ほど激しい悶着もなく穏当にその状態までたどり着いています(31-32話)。おそらく原作もそうなのでしょう。