文学フリマで買った本の感想(『文芸同人誌ロゼット』第2号 特集 夏の恋)

今更ですが、5月末に第34回文学フリマ東京に行き色々と購入しました。今回は今までと違って評論ジャンル以外の本も探しました。その理由と当日思ったことについてはまた別の記事で書きます。

 

標題の同人誌はさまざまなジャンルの作品を集めたアンソロジーで、8名の作家が短歌や小説を寄せています。テーマは自由題のほか「夏の恋」ということです。

 

私が久しぶりに文芸同人誌を読んでまず驚いたのは、小説や短歌はこれほどに情景描写を盛り込むものだったろうかということです。このアンソロジーに収められた作品群の情景描写によって、夏とは水分に意識的になる時期だと私は感じました。

例えば夏になると、海や水辺で活動する人が増えます。私はあまり夏に積極的に出かけたくはないですが、水の近くは単純に涼しく、冷たい水に触れると気持ちいいのは確かです。こういう爽やかな水の経験が夏にはあります。このアンソロジーの中では、茜音沙耶「海に映る空」を読んでいて感じたことです。他方で、この国の多くの地域では誰もが湿度の高さに悩まされます。今時期外に出ると、常に息が詰まるような、生温かいゼリーの中を動いているような感覚があります。もしくは汗が蒸発せずに肌と服の間でぬるぬると滑っているような感覚もあります。こういった不快な水の経験も夏にはあります。

後者の不快感は、染よだか「さなぎの女たち」・大山ささら「青い午睡」の中で効果的に使われています。親密な関係の相手との間でふと感じられる、自分の境界を侵されているかのような不快な近さは、不快な水の経験とどこか似たものがあるからです。気づいたら肌の表面にまとわりついている。振りほどこうと動くと、ぬるりと滑って怖気が走る。親密な関係つまり恋と、夏の季節の組み合わせは、まったく爽やかではない印象を私に与えもしました。

 

これは多分に私の来歴に依っているのだと思いますが、「さなぎの女たち」のストーリーを貫く価値観に私はとても共感を覚えます。私も、この物語の登場人物たちも、親密な関係を求め、その関係の中では普段は許さないことを互いに許します。「小さな子どもみたいなこと」を言ったりやったりします。つまり、わがままをいったり、首尾よく出来ないことを受け入れてほしいと思ったり、事細かに説明しなくても察してほしいと思ったり、いろんな世話をしてほしいと望みます。少なくとも私は、そういう甘えを許す/許される関係が(性愛や血縁の関係に限らず*1)何かあってほしいと思いますし、現代に限らず、どの時代も人間はそういう関係を確保しようとしてきたはずだと信じています。

ただし、その関係の中にも、先に述べたような不快感が現れるときがあります。それは関係する人たちの間で相互の観察がなくなったときです。この物語で登場した男のように、「相手は自分の想定した通りの感情になっているはずだ(だって今までそうだったのだから)」という傲慢さが見られたときです。主人公の小春はそういう舐めた態度を許すことはありません。その拒絶は、今は無力に見えるひと*2の様子を伺いつつ依存を許すこととは別の事柄であって両立します。つまり、ある人が小さな子どものように甘えているということは、その人が相手を舐めているということとは違います。この違いをいま私がうまく説明できているとは思えませんが、「さなぎの女たち」はこの違いをはっきり見据えてストーリーに組み込み、読む人がその違いを感知できるようにしています。

ところでtwitterというSNSでは「愛は暴力」とかそういった箴言風のことばが好まれるようです。たしかに、そのことばも歴史的な文脈を踏まえればもちろん正当な主張になると思います。ただ、小説はもっと小銭でものを考えます。小説は、twitterの人たちが愛と名指すだろう関係の中に、許容できるものと許容できないものの絡み合いを見つけて、それらを腑分けして、ある態度を示します。こういう「小説の理性」を発揮することを、私は時代に抗う重要な試みだと思っていますし、それに従事している人には尊敬の念を抱きます*3。たとえ、いま小説を書いている人にそんな自覚がなかったとしても。

私はもっと小説を読みたいし、読んだ方がいいと感じました。そう感じられるようなアンソロジーを作っていただき、ありがとうございました。

 

7月現在、『文芸同人誌ロゼット』第2号は、通販とイベントでの頒布によって手に取ることができるようです。以下にリンクを張っておきます。

store.retro-biz.com

 

※(アンソロジー関係者の皆様へ)小説ジャンルにおいて感想を書く際の作法が全く分からないので、以上の文章に何かまずい部分があったらtwitter等でこっそりご指摘ください。

*1:このアンソロジーで私が感銘を受けたページの一つは、p. 81の「『ロゼット』刊行によせて」です。
 このアンソロジーは「特集 夏の恋」と題されていますが、主宰の伴美砂都さんの姿勢は以下のようなものだといいます。「なお、第二号のテーマ設定にあたり、主宰の姿勢として『恋をすることもしないことも等しく肯定されるべき』とりわけ、『恋をしない人を否定するものではない』ことを申し添えます。」(p. 81)
 私は今までの狭い見識から、創作小説界では非常に素朴な恋愛至上主義を奉じている人が多いと思い込んでいましたが、それは数名の知人を例にとっただけの偏見だと思い知らされました。この付記は「恋愛の現在」を意識する物書きたちの存在を示す重要なものだと感じます。
 以上のように思うのはおそらく私だけではなくて、寄稿者の一人である泡野瑤子さんもまた、現代で「恋」をテーマにすることのやっかいさについて言及されています。次のリンクを参照ください。同人誌の感想:伴美砂都(主宰)『文芸同人誌ロゼット』第2号|泡野瑤子(阿波/シネマ芋先輩)|note

*2:ここで無力と言ってしまっていますが、派遣労働ができないのはその人の無力を意味するのかという反問は常に念頭にあるべきです。世間一般的な意味で働くことができない人は私の周りにもたくさんいますが、大抵は彼ら彼女らを適切な配置に置けず勝手に排除してしまった雇用慣行が悪いのだと思っています。そして私はいま偶然、履歴書に書ける仕事が行えていますが、私も企業で働くことから明日にでもリタイアする可能性は十分あります。ただしそうなったとしても、高すぎる基準を課してそれに満たなければ無能と見なす雇用慣行が正しいことにはなりません。そもそものところを言えば、世間一般的な意味で(何らかの組織団体に属し、決まった賃金や出来高で)働くことが人間としてデフォルトであるという主張を私は認めません。

*3:これはどういう小説を書いている人でも人として尊敬するということではありません。私も好みや信念があるので、受け入れ難い作品を作っている人を尊敬するのは難しいです。というよりも、尊敬は全面肯定を意味しません。その人が小銭でものを考えようとしているのであれば、少なくともそれだけはすごいと思うというだけです。