第34回文学フリマ東京(5/29)に行ってきました

 当初は出店するつもりでしたが、新刊を出せる目途が立たなかったため、購入者として行ってきました。以下はその記録です。

参加前

 私は自分自身もゲームやアニメや他の色々な娯楽作品について書くことがあるので、そういった作品評論? 的な文章も好んで読みますし、また自分のその時の関心に合致するなら、少し学術的な雰囲気の文章(青土社現代思想』的な)も読みます。実際、今回の文学フリマもそのようなジャンルで注目していた本は多く楽しみでした。

 しかし同時に、そうした作品評論や学術っぽい同人活動が(田原夕のTwitterのTL上で)活発になっていることに嫌気も差し始めていました。自分が労力を割いて関わりに行っていないだけなのに、「自分ひとりを置いてみんな盛り上がっている」という謎の疎外感がいまだに顔を出すことがありました。Twitterで当の方々に言及しまくって何か大きな流れに関わっている気になるといったことも考えられましたが、果たしてそれで何が残るのかという虚無感に先立たれていましたし、そもそも日銭を稼ぐための労働に一日の大半を充てている中で、常にSNSを監視する時間も捻出できそうにありませんでした。

 こうしたどうでもいい自意識のため、私はこの文学フリマでは小説やエッセイを渉猟するほうに気持ちが傾いていました。もともと、商業誌で活動してはいない人の小説を読むのは好きでしたし、かつて私自身もそういう感じでインターネットの片隅に小説を公開していました。そして私は、他人の生活記録や随想をインターネットで見つけて読むことも好きです。でも、これまでの文学フリマでは小説やエッセイのブースに赴くこと自体あまりしていませんでした。そこで行ってみると色々と気づいたことがありました。

当日

 当日会場を歩き回って私が初めて気づいたのは、ジャンルの間の見えない壁でした。大げさに言うと、ジャンル記号が違えば国が違うような感覚でした。特に驚いたのは、小説ジャンルのブースでは「誰かお知り合いの方が寄稿しているんですか」「どなたの作品を目当てに購入するのですか」と何度か訊かれたことです。私は大抵の場合「いえ、特には」と答えるほかありませんでした。それだけ、書く人同士の交流の上で、同人誌の取引がされているのだろうかと思いました。私はものを書く人との生活上の交流というのが特になく、インターネット上で相互に認知している人でも必ずその人が書いている本を買うというわけではないので、異国の問いでした。その人の文章に何か気になるところがなければ買わないですし、特に知り合いではなくても気になるところがあれば買います。本のテーマやタイトルだけざっと見て適当に買うこともあります(とくに小説なんて読んでみなければわからないのだから、初めはそうやって選ぶしかないのでは?)。でも他の人もみなそうしているというわけでもないらしいと実感しました。

 また、これははるか昔から思っていたことですが、サークルメンバーの方々の雰囲気や文章のノリを見ていると、まるで男子校女子校であるかのように、ジェンダー別に分かれがちであることに気がつきます。もちろん例外もあることはわかっていますが、サークルのジェンダー化は特に評論・研究ジャンルで顕著な気がし、逆に小説ジャンルではそこまででもない気がしました。また、エッセイジャンルでは女性の個人名を冠した出店が相対的に多く、なぜなのだろうと不思議に思いました。

 評論・研究ジャンルについてすぐに思いつくのは次のようなことです。評論・研究をする作品や文化自体がある程度ジェンダーで分けられているから、それを評論・研究する人たちも自然と同じジェンダーで固まってしまうのだと。もちろん、例えば漫画であれば男性向け雑誌作品の分析をしているが男性ジェンダー自認でない人や、女性ジェンダー自認ではないが少女漫画や女性誌連載作品を読んでいる人もたくさんいるのでしょうが、そうした人は文学フリマではあまり見かけません。後者については、私よりも人望のある人がサークルでも作りそうなものですが、'07~'11年前後を中心にsayukさんが主宰した少女漫画評論サークル「close/cross」を除いて、類似のサークルは確認できていません。

 別に分かれているからどうということもないのですが、男子校的なノリがまったく受け付けない(そして女性ジェンダー自認でもない)自分にとっては、いつもなんとなく所在ない気分になっています。

 そして、再び作品評論? 的な文章に戻ってきて思うことは、同じ書くということをしていても、どうしてこれほどまでにやり方が違うのだろうかということです。例えば自分を語るということで言えば、作品の内容やその受容の体験を媒介のようにして語る人もいれば、自分が体験したことや味わったことを散文として書く人もいます。もちろん詩や短歌として書く人もいます。私を振り返ってみれば、自分を語りたいならそのまま日々の生活を、人間関係上の悲喜こもごもを書けばよくて、どうしてそれをいちいちフィクションに託す必要があったのかと考え込んでしまいました。インターネットに赤裸々に自分をさらすことの恐れはあるので、それこそ紙媒体で挑戦すべきことなのではないかと思いました。

 

購入したもの(抜粋)

 以下に、すでに感想を書き始めた、あるいはほぼ確実に書くだろう本を挙げておきます(これが購入したもののすべてというわけではありません)。

 ただ、書いたからといってその感想を必ずしもここで公開するとは限りません。私が読む文章の中には「書くその人自身について(否定的なところも生々しく)書かれたもの」があります。そういった、書き手との距離が非常に近く見える文章について、はたして適切な応答をするなどといったことができるのでしょうか。「読みました」以上のことを、その書き手がわかるようにしておく必要があるのでしょうか。読んだことがわかるだけの、既読マークとか、★とか、アクセス数の+1とか、そういうもので十分な場合もあるのではないでしょうか。最近はそんなことも考えています。

 

(凡例)
発行者『タイトル』巻数 特集名など

ロゼット文庫『文芸同人誌ロゼット』第2号 特集 夏の恋
感想記事へ

オカワダアキナ『BALM』赤・青(掌編小説とエッセイのアンソロジー

完全に私怨『終わり』

串岡七瀬『味のない毎日』

生活の批評誌編集部『生活の批評誌』No. 4 特集 わたしたちがもちうる”まじめさ”について

生活の批評誌編集部『生活の批評誌』No. 5 特集 「そのまま書く」のよりよいこじらせ方

 

評論など

わく/かつて敗れていったツンデレ系サブヒロイン『感傷マゾ』Vol. 7 仮想感傷と未来特集号

大阪大学感傷マゾ研究会『青春ヘラ』Vol. 3 「虚構と異常」

プロジェクト・メタフィジカ『プロジェクト・メタフィジカ』Vol. 1