極限状態と「ほんとうの自分」――『Myself;Yourself』星野あさみについて (2)

随分と時間が空いてしまいました。『Myself;Yourself』(以下MY)というアニメ11話についての文章の続きです。

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前回は、あさみが朱里とその家族に悪行を働いてしまった事件の背景にあった事情について見てきました。同時に、なかったことにされやすい恋愛関係の苦しみを当事者として保持し続けていた彼女の心理を確認しました。

視聴者が一連の事件について知ることができたのは、あさみが、物語全体の主人公である佐奈に対して、「事件の犯人(スキャンダルをもたらした嘘の手紙の作成者)は自分である」と明かし、その手口まで詳細に解説したからです。

注意していただきたいのは、この場面で、佐奈は彼女が手紙を出した犯人だと疑うことなど一切なかったという点です。それは基本的に佐奈の視点で物語を追ってきた視聴者も同様で、彼女が犯人だと疑う視聴者はほとんどいなかったようです*1。彼女は誰にも疑われていなかったのだから、事件について自分が犯人だとわざわざ明かすことには、人に悪印象を与え批判の的になりに行くような自爆行為に思えます。なぜ彼女はそんなことをしたのでしょうか? 悪行を働いてしまった動機ではなく、その事件を引き起こしたとわざわざ明かす理由は何なのでしょうか。

 

印象管理という罪悪

前回の記事で触れられなかった話の流れがあります。なぜ、11話の開始時点であさみは入院しているのかということです。それは、彼女が通っていた老人ホームの入居者の一人が、錯乱して朱里をナイフで刺そうとしたところ、咄嗟にあさみが間に入って代わりに刺されてしまったからです。そして治療、入院となったところを、佐奈が見舞いに訪れるという流れです。

あさみは、自分が怪我を負ったことを「バチが当たったのかな」と、佐奈がいる前で独り言ちます。これは彼女が何らかの罪悪を負っていることをほのめかす表現です。すると、彼女は自分がどのような罪悪を負っていると考えているのでしょうか。それは次の台詞に明らかです。

自分が犯人のくせに 素知らぬ顔で慰めたりしてたんだから
バチが当たって当然よね

補足が必要でしょう。彼女は、自分が学校宛に匿名で送った手紙やその他の計略で、朱里と修輔の名誉を大きく傷つけることに成功します。同時に、彼女はそのことで気を落とす朱里に対して慰めの言葉をかけたり、気分転換に出かけようと声をかけたりもしていたのです。あさみが罪悪と考えているのは、ただ嘘の手紙で人の名誉を傷つけることだけではありません。自分の実情とは異なった印象を努めて他人に与え続けていること、自らの印象を管理する生活を送っていることです。

この罪悪は、嘘手紙の事件で先鋭化したのは確かでも、あさみ自身が語るところでは、彼女に古くからついて回る罪悪だったようです。彼女は、「いい子」としての印象を周囲に与えてきた自分自身を、「いやな女」と呼び、朱里と対比させながら次のように描写しました。

わたしは子どもの頃から ずっといい子のふりしてた
いつも親や先生の顔色ばかり窺って
どんなふうにすれば周囲に気に入られるか
そんなことばかり考えてた いやな子どもだった

ううん、今でもいやな女よね

作中では誰も、彼女のことを「いやな」人物として語ってはいません。そう思っているのは彼女自身です。果たして、頼まれもしないのに自分をこうも悪し様に言い立てる彼女は何をしようとしているのでしょうか?

 

自虐によって、自分を語る権利を得る

はじめに思いつくのは、こう自虐することによって彼女は慰めの言葉を相手から引き出そうとしているということでしょうか。しかし彼女は、先の引用に続けて佐奈が慰めの言葉をかけると、次のように返します。

(承前)

佐奈「そんなこと……」

あさみ「いいの 慰めてくれなくても
   自分のことは 自分が一番よーくわかってるから」

あさみは佐奈の慰めの言葉を軽く受け流しますが、その次の言葉に、彼女が一連の長大な告白を始めた理由が現れています。「自分のことは自分が一番よくわかっている」という自負をまさに作り出すために、彼女は自分の現状に至るまでの物語を佐奈がいる前で語ったのです。

意地の悪い言い方をすると、「自分はいい子を演じている」ということを誰かに言うとき、その人は、自分自身が「いい子」以上の何かであることを他人に示しています。自分はいい子の役割を演じることもあるが、その役割に飲み込まれることなく、ちゃんと役割から距離を取ることもできる存在だと、その冷静な語りによって言外にアピールしています。

そういう語りが他人に聞き届けられることによって、役割ではない「ほんとうの自分」を語る権利が自分にあると、自己の語り部は自信を持つことができます。たとえ、「ほんとうの自分」が具体的にどのような内容をもつかは不明であるとしても。次の台詞にみるように、彼女は今や「ほんとうの自分」について考え続ける者となっています。

(承前)

でもね やっぱりそういうのって疲れちゃって

いい子の仮面が息苦しくて

「ほんとうの自分ってなんだろう」なんて 考えるようになっちゃって

私は高校生のころ、星野あさみの一連の語りを聞いて非常に心動かされたことを覚えています。それはもしかすると、彼女の語りのうちに「ほんとうの自分」を追求できる、追求しなければならない、そんな衝動と誇りのようなものを感じ取ったからなのかもしれないと思います。またその裏面である、印象管理の罪悪を負っている自分に感じる「いやな気持ち」も。

彼女の「自虐のうちの誇り」というのは、私の個人的な直感ではないと思うのです。実際、彼女が自分が行った悪行のからくりを探偵小説の種明かしよろしく仔細に語っていくパートでは、彼女自身の声音や語末表現に独特の得意げな調子が現れることがあります。またそこに時々交じる場違いな笑みは、「いい子」の役割外の自分を語ることができるという高揚によって説明され得ると思います。

しかし、露悪の度合いを増していく彼女の語りは、それ自体が新しい演技ではないでしょうか。病室で語られる彼女自身は、周囲の思う「いい子」ではなく、れっきとした悪い子ですが、自分の過去を語る彼女自身は、その悪い子をさらに超えたものです。自分について語ることは、その語られる自分を演出する自分へといくらでも話をずらすことができます。このようにして、「語る自分」が背後に退き、語られ誇示される自分のイメージが残されるとしたら、演技ではない自分などというのは一体どうやって現れることになるのでしょうか。

 

極限状態に現れる「ほんとうの自分」

その答えは一つです。精神的に追い詰められたとき、余裕がないときに、「ほんとうの自分」は現れます。なぜなら、演技は自分の行っていることに対して距離をとれることが条件だからです。距離をとれるほどの余裕がないならば演技もなく、つまりそのときの自分がほんとうである、ということになります。

すると、星野あさみについて「ほんとうの自分」とは、嫌いな人間に害を与えるために自分の知的能力を総動員する狡猾な人物です。前回の記事でみたように、彼女は朱里に対する恨みがましさと自己憐憫を募らせ、朱里と修輔を貶める計略を実行に移していきます。彼女は当時、苦悩する中で自分の感情をコントロールするのが難しくなったことを告白していました。

そう思ったら 急に我慢できなくなって
今まで抑えていたものが 一気に吹き出してきて

また、彼女は計略を実行に移したとき、これが「現実とは感じられなかった」という、解離めいた状態に言及もしています。

でも ほんとうに実行したのはあれが初めて
なんか不思議な感じだったわ

パソコンで手紙を書いているときも
それをポストに入れるときも

「これはいつもみたいに 頭の中だけでしてることなんだ
現実じゃないんだ」 って

すべてを行ってしまったあと、彼女は自分のしたことの結果を眺め、自分がしたという実感を持ち始めますが、そのとき彼女は「後悔なんてしなかった」「このまま〔朱里が〕もっと苦しめばいい」と思ったと、当時を振り返ります。つまり彼女は、魔が差して自分にそぐわないことを行ってしまったのではなく、苦悩の中で余裕を失ったことで、むしろ自分の本性に忠実に行動することができたようです。悪への回心とも言えそうな筋立てがここにはあります。


あさみはようやく「ほんとうの自分」を見出すことができたのですが、物語はここでは終わりませんでした。彼女は別の極限状態において、また別の「ほんとうの自分」を見出すことになるからです。

この記事の冒頭で述べたように、あさみは、ナイフで刺される寸前の朱里をかばって負傷します。これは、あさみが朱里を陥れる諸策を実行したわずか数日後のことです。彼女は自分の悪行の全てを佐奈に対して語り終えたあと、憎んでいたはずの朱里のことをなぜ庇ってしまったのかと自問します。

それなのにあのとき
朱里が危ない目にあってるのを見たら私 とっさに飛び出してて
なぜなんだろう…  朱里のこと憎んでたはずなのに

が、佐奈はその問いを引き取って、次のように答えました。

そんなの 決まってるじゃないか
それがほんとうの星野さんだからだよ

彼女が経験したのは、友人である朱里が、自分と面識があり、さっきまでにこやかだった高齢女性にまさに今刺されようとしている状況です。意味がわからない、悪夢のような光景です。このような一刻の猶予がない極限状態で現れたのもまた、「ほんとうの自分」である、この物語はそう伝えようとしています。

ここであさみにとって現れる「ほんとうの自分」は、友人のことを、自らを犠牲にしてまで助けなければならないと思う、自分がするべきことを即座に行う人間です。その姿は、逡巡することなく悪事を行った、先に見た「ほんとうの自分」と、その平板さ、奥行きの無さにおいて共通しています。

しかし違う点もあって、後者の「ほんとうの自分」は、前者と、他人を傷つける/庇うという道徳性で真逆となります。また、後者を認めてしまうと、今まで彼女が語ってきた、「『いい子』とは演じる役割にすぎない」という彼女の物語の前提が揺らぐことになります。もはや、「いい子」の演技はたんなる演技ではなく、彼女の無私の心の発露であるからです。

 

彼女は、演技をする余裕を失ったら「ほんとうの自分」が見えたが、その「ほんとうの自分」が複数化しているという混乱に至ります。そんな彼女が次に何をしたかを手短にまとめましょう。佐奈が先のセリフを告げたあと、まもなく病室に朱里と修輔が見舞いにやってきます。あさみは、何事もなかったかのような快活な調子で彼女らを迎え、話に花を咲かせます。そして、見舞いの一行が帰ろうとした際、あさみは「2人だけで話したいことがある」と、深刻な様子で切り出し、朱里を引き止めます。そして、ある程度の時間の後、涙を浮かべながら病院の棟から駆け出してきた朱里は修輔にすがりつき、それ以上は何の説明も行われないまま場面が変わります。

おそらく、あさみは朱里に、佐奈にすでに話したような全ての事情を打ち明けたのだと思われます。これは彼女にとって、第三者の佐奈に対して話すよりも難しい決断だったはずです。それを彼女が行ったならば、彼女はいまや、陰にも陽にも相手に与える印象を管理することを放棄し、その罪悪を清算しようとしたということです。そして、自分も相手も追い詰めるような事情を話していく中で、互いの「ほんとうの自分」を見出そうとしたということです。その過程で何が現れ、どの程度の演技の余地が残されていたのかは、一切手がかりがないため、想像するほかはありませんが。

 

時間経過により変わった点

私がMYのようなアニメに求めていたのは、まさに今回見てきたような手続きでした。

演技を罪悪と考えており、「ほんとうの自分」を追求したい。他人の前で終わりなく演技し続ける自分から脱出したい。それは、非日常的な極限状態の中でこそ可能になる。ただ、私は精神的にも肉体的にも明らかに辛い経験などしたくはないので、実際に極限状態には追い込まれたくない。そこで、人が極限状態に追い込まれ、その中である種の回心に至るアニメを見ることでその代わりとしたのです。それは大分私の助けになってくれたと思います(アニメキャラクターからしたらたまったものではないと思いますが)。

 

しかし、今回見てきたような「ほんとうの自分」のダイナミズムは、昨今ではほとんど理解不能になったとしても不思議ではないと思います。その理由は2つあります。

1つ目は、もはや印象管理を罪悪と考える必要性が薄れたからです。むしろその管理に努めることは自分も他人も愉快でいさせる美徳として推奨されているかのようです。平成の中期から比べれば、異なる人に異なる印象を適切に与えるための仕組みは広く普及し、若者にも手が届きやすくなりました。少し調べれば、複数の電話番号やアカウントを登録することができ、手頃の値段で多様な服や化粧品が入手でき、3Dアバターや仮想の集会場を生成できます。こうしたツールが山ほど存在するのに、印象を管理するなんて不純だ、良くないことだと文句を垂れていれば、やれ怠惰の言い訳だの自己責任だのという事柄に論点は移行し、世界中を敵に回すかもしれません。

また、「いい子」がなにか不穏なもののように取り扱われていたのは、かつて管理教育下で暴発していた時代の若者たちや「キレる少年」に戦々恐々としていた教育者たちの影響があったのではと思います。いい子は単にいい子なだけであり、そこに反社会的な何かを読み取ることは杞憂だと多くの人は気づいたでしょう*2

演技することが必要なのは、それを求める人がいるからです。演技は「これは演技です、本当は何とも思っていません」という態度をある程度は隠さなければ成立しないため、それがつらいところなのですが、現代ではその感情労働のダルさをポップに共有する体制も整備されつつあるのかもしれません*3

演技を、なにか原罪や苦役のように重苦しく考えるのではなく、たんなる日常の気分転換として肯定的にも捉える感性が発達しつつあるのでしょうか。

演技をすることが罪悪と考える人は、なぜそう考えるようになるのか。推測ですが、そんなつもりがなく行為しているだけの人に、「いい子ぶりやがって」などと幻の意図を見て揶揄してくる輩がいるから、揶揄された彼/彼女もそう考えるようになってしまうのでしょう。どう行動しても何かを間違えているかのような気がしてしまうのでしょう。星野あさみが、自分のことを演技者であり罪悪を抱えたものと自虐するようになってしまったのは、彼女が特別マイナス思考だからでも、生来思い込みが激しいからでもありません。かなりの部分は彼女の周りの人間のせいです。もし現在、そのような揶揄を加える輩が数を減らしているのだとすれば、それは大変喜ばしいことです*4

 

2つ目は、極限状態で現れる人間の行動パターンはそれほど多様になり得ず、すぐに陳腐化して飽きられたからです。極限状態の人間はたいてい大脳辺縁系っぽい行動、つまり生命維持に直結する行動を取ることになります。もしくは今回見たような、他人を思わず助けてしまう行動を取ることになります。あまり実際に見たことはないですが、例えばホロコーストの中のコルベ神父のような場合です。他のパターンは稀ではないでしょうか。

「良き市民」的ではない、獣的でインモラルな言動こそが人間の本性だとする露悪趣味が90年代頃には強かったらしいですが、MYが放映されていた2006年頃も、まだその名残があったのだろうかと想像します。キレイなものには必ず裏があるんだ、それこそが真実なんだ、と穿った見方をすることに対応して、汚い真実を必死で探り合うような空気もあったのかもしれません。「腹黒キャラ」「ヤンレズ」としての星野あさみのイメージが活発に流通していた背景には、そのような2ch風の嗤いの心性があったのかもしれません*5

また、これは本当に注意するべきことですが、「極限状態で現れる行動こそ、その人の真実である」とするならば、虐待家庭に何度も戻っていく人や、性的暴行に対して抵抗できなかった人や、ブラック企業を辞められない人は、暴力をすすんで受け入れたと見なされることになります。つまりこの主張は二次加害に根拠を与えるかのようなのです。だからこそ近年のフィクションには、明確にこの主張に反対する作品も登場しています。

「追い詰められた時に出るのは
追い詰められた姿だ

人を追い詰め弱さを引き出し
挙げ句それを本性と断ずるなんて

何様のつもりだ ベルゼブル


有馬あるま/フカヤマますく『エクソシストを堕とせない』27話

こうした批判はもっと早く出ているべきだったと私も思います。すでに見たように、極限状態で見出された「ほんとうの自分」というのは、どこか平板で奥行きがない、不気味に淡々と動作する存在なのです。もしそればかりが人間の本性なのだと言われたら、私も少しがっかりして、つまらないなと感じます。生きるためだけに生きるような状況を脱して余裕を持ち、日々の生活に余計な飾りつけを加え、好きな装いを取り入れてこそ私たちはそれぞれ異なった人間たちになることができる、そういった考えには喜んで同意します。もちろん、今は私自身が「生きるために生きる」ような気分を脱して余裕のある生活に落ち着いたからこそ、そういう考えに共感できているのではないかとも疑いながら。

喜劇の連鎖

このような論争的な部分も認めた上で、今なお私にとって、MYはとりわけ重要な自分のルーツであり続けています。自分を語る中で自分自身に演技性を見出してしまうような気分は、外部の状況がどう変わろうとも完全には厄介払いできないように思うからです。この主題を数名の高校生の人間関係と結びつけ、最低限の人物と台詞だけで執拗に表現した11話前半は、全話の中でも奇妙に浮いた存在感を放っています(8分もサブキャラが自分語りをし続けるアニメがありましたか?)

自分の印象を管理することを罪悪と信じてしまい、蜃気楼のような「ほんとうの自分」を把握できると思ってしまい、そのために無用の困難に自分を囲い込んでいく星野あさみの姿は自縄自縛としか言いようがなく、喜劇的と見えるかもしれません*6。しかし、演技を行う当の言葉でもって自分のすべてを語ろうとし、演技の外に出ようとするような無茶な試み、自分の影を踏むような不可能な挑戦は、だからこそそれを目指す人は特別で高貴な人間なのではないかと思わせることがあります*7。その姿は、他人を感化し同じ苦闘に巻き込んでしまうような、危険な魅力も備えています。

先ほど述べたように、当初私は星野あさみのことを、単に自分の叶えられない事態を代行する存在として利用していたつもりでした。しかし私はその後の人生で、人との関係に苦悩し、彼女のしたように「すべてを語る」しかないと確信し、言わなければ関係を続けられたことを全部言ってしまったことがあります。結果大変なことになりましたが、言おうと決意したときの自分はほんとうだったと感じました(ちなみにこれは2010年代初頭のことでした)。私は実際にこの喜劇の連鎖に巻き込まれてしまった当事者なので、他人事として彼女の人生を面白がっていただけではないのです。彼女は自分の先達であり、不本意ですが、ロールモデルです。

どれほど時代が進んでも、技術が進歩しても、人間観や置かれた状況が変化しようとも、そのときにはそのときの、人によって様々な極限状態が訪れるだろうと思います。そんな状況は無いに越したことはないのですが、たぶんしばらくはあるでしょう。個人間のいざこざに限らず自然災害とかも。そのとき「ほんとう」という古びた理念が、各々のうちに再び首をもたげるでしょう。

 

*1:当時リアルタイムで視聴していた人々のブログには、彼女が事件を引き起こしたことへの驚きの声が記されていました。

*2:まあ、2016年にはこういう本も出てはいますが。

*3:

例えば以下。

note.com

感情労働で擦り切れていく自意識や推しへの依存や金銭の不安、「素直になれないこのご時世」でアイドルに託されるような様々な心情が軽快な曲調に乗せて述べられていく。しかし「誰にも愛されてない/自分が好きじゃないけれども」の前半と後半をミクとウナが歌い分け、続けて「私メンヘラじゃないもん」を二者が合唱するサビが象徴するように、ここでは、心情の吐露を素直に分かちあう集まりが意識されている。考えてみればそもそも、ここまでのMVはどれも孤独な〈裏〉を明るみに出して歌うことで、それを視聴者たちが分かちあうという契機をもたらしていたのだった。

*4:もちろん、私も様々な人物やキャラクターに対して幻の意図を読み取り、公開の場で揶揄する輩の一人であることは自覚していますが、だからといって多くの人が私の真似をしなくともいいのだという話をしています。

*5:私はここで、北田暁大が当時の2ちゃんねるについて述べていた論を思い出します。北田によれば、2ちゃんねるの住民は当初マスメディアに対する屈折した愛情からニュース内容などを嗤っていたのが、いつしかネット上の友人間でコミュニケーションを継続するため、内容に頓着せず何でもかんでもアイロニカルに見る態度に傾いていったそうです。したがって、彼らがマスメディアの語りに対して「本音」として提示するような「嫌韓」や「反サヨ」なるものは、「内輪コミュニケーションの中で本音として構築された記号的対象と考えるべきである」(強調は原文傍点)(p. 210)と北田は論じます。

「偽悪を装う2ちゃんねらーたちは、身も蓋もない本音を語るリアリストというよりは、『建前に隠された本音を語る』というロマン的な自己像を求めてやまないイデアリストであるように思われる」(同)。星野あさみの途絶した冒険に感動してしまう人は「ロマン的な自己像を求めてやまないイデアリスト」でしょうか? この話を高く評価していた当時のアニメブロガーは? 高校生の頃の私は? この論点と、北田のいうロマン主義シニシズム、シニシストの実存主義、その政治的な含意については、別の機会に検討しましょう。

引用した文献:

*6:もちろん先に断っておいたように、彼女の苦境は彼女だけの責任ではなく、彼女に対してくだらない揶揄を行う周囲の人間のせいでもあると現在の私は考えています。

*7:

すべての他者を拒否しようではないか。そして、自分ひとりで得られる次の方法で自尊心を守ろうとすることがあるだろう。どのような人にも決して達成できない目標を立て、それに失敗し続けることで、いかに自分が優れた人間であるかを証明する、という方法だ。ほかの者は成功している、それはあの程度の低い目標を立てているからだ。私はそれよりはるかに高い目標を、自分だけで設定した自律的な目標を追求しているのだ。そしてそれに彼は失敗する(あるいは失敗し続けなければならない)。その失敗が、自分のような優れた人間でも失敗するような偉大な目標を自分が追求していることを証明する。彼は「ひっくり返すには重すぎる岩」を探し続け、挫折と障害こそが自分の価値の証明となる。この「マゾヒスト」の論理は、「自尊心」が他者をすべて排するとき、必然的にとらざるをえないものだ。

奥村隆『反コミュニケーション』p. 119、ルネ・ジラールの語り。強調引用者