「フィトフィリア」とは何でないか――序にかえて (『フィトフィリア;α』収録)

以下は、文学フリマ京都8で頒布予定の『フィトフィリア;α』の序文です。

頒布については以下の記事を御覧ください。

dismal-dusk.hatenablog.com

 

「フィトフィリア」とは何でないか――序にかえて 

 「フィトフィリア」(phytophilia)*1。これは造語というほどオリジナルな言葉ではないけれども、あまり使われない語の並びだ。だいたい「植物愛好」のような意味になる。

 「フィト」は、古典ギリシア語の“phyton”「植物」の意味だ。森の中の独特な香りの原因物質は「フィトンチッド」(phytoncide)と呼ばれているが、その「フィトン」も同じ語から来ている。

 「フィリア」(philia)も古典ギリシア語で、「愛」を意味する一般的な語である。ただ、この“-philia”という語尾は英語だと「通常は性的に求められないものにどうしても性的に惹かれる」というイメージがついてしまっている。「小児性愛」(pedophilia)、「動物性愛」(zoophilia)などがよく聞くところだ。すると、フィトフィリアとは植物と性的に関わることや、そう望むことを特に意味するのか。

 その可能性も排除はしない。ただ、どのような事柄が植物への「愛」と呼ぶにふさわしいのかは開かれた問いだ。ちなみに、phytophiliaの形容詞に相当する“phytophilous”という語は、特に微生物や無脊椎動物について植物と共生する性質があることを指すらしい*2。ここではいわゆる性的な惹かれではなく、相手と何らかの形で共に生きるように動くことが「愛」という言葉から連想されたわけだ。良い話だが、これも一つの解釈にすぎない。

 目下探求中であるという意味合いも込めて、本書の題の「フィトフィリア」の後には「;」(セミコロン)を付すことにした。これは古典ギリシア語でクエスチョンマークとして使われた記号に似ているからである。

 


 植物に関心がある人は多いのだろう。植物にかかわる本は、近年でも多く出版されている。植物図鑑や植物の雑学を扱う新書・文庫本は無数に出ているし、人文書でも『植物考』*3や『WORKSIGHT 植物/倫理』*4が刊行され、『そもそも植物とは何か』*5、『植物は〈未来〉を知っている』*6など海外の翻訳も多い。植物生理学・農学・造園学の専門書や、アロマセラピー関連、野菜やハーブについての実用書なども加えれば、もはや一人の人間が全貌を把握することは不可能に思えるほどだ。これらの書物を読む人や書く人の中には、植物好きを自負する人たちが一定数いるに違いない。

 そのように意識的に植物のことを考えている人は、植物を愛しているといえるかもしれない。少なくとも、普段目にしたり食べたりしている植物についてほとんど知らず、かつ知ろうとしない人たちよりは。しかし、植物についての雑学や、植物を世話する経験を開陳しつつ「植物はすごい」と褒め称える書物に行き当たるうちに、私は何か嫌な気分を覚えるようになっていた。

 そういう書物を立て続けに刊行する方をここでは「植物すごい論者」と呼ばせていただくが、彼らは、すごいすごいと言い募ることによってすごさを評価する側に立つことが目的であるかのように思えることがある。たとえば彼らは、植物は人間にできないことをやってのけているからすごい、とする。しかし、それは結局人間の視点から見た場合の話である。すごさの基準は、あくまでわれら人間にあり、というわけだ。これはつまり、そう評価する自分自身が、自分たちの常識から出る気はないということではないのか? 田舎町の景色は良いと言いながら、絶対そこに住む気はないみたいな人の言い草だ。

 もちろん、学ぶことのはじまりには、小学校の理科で覚えるような内容と「すごい」という感動が必要であるとは思う。しかし、理解はそこで止まらないはずだ。植物たちの営みについて知っていくと、植物は神秘的な力を湛えたすごい存在ではなくて、できることをできる範囲でコツコツとやっている、人間と同じ程度に退屈な者たちだとわかる。何かを理解することとは、他者が他者自身の論理に沿って動いているらしいことを、他者の立場において当然だと思えることだ。驚いたり崇高な気持ちになることは、何かを理解しようと努める入り口にすぎない。

 ただ難しいのは、人間は例外なく、植物と利害関係を持ってしまっていることだ。植物たちから一方的に栄養や大気を受け取り、養われっぱなしでいる人間たちが、つい後ろめたくなって植物のすごさを言い募ったり、あるいは植物なんて考えるテーマにもならないと思考の外においてしまう気持ちは分からなくもない。

 ステファノ・マンクーゾは、植物に対する人間の賞賛や軽視のうちに、依存の否認を見ている。人間は植物に依存しなければ生きていくことができない、自立などしていない存在である。そのことを十分承知しつつも、人間たちは自らの無力さを認めたくないがために、植物のことを軽視したり持ち上げたりするのである、と。

 けれど、すべての宗教が、植物を下に見ているわけではない。たとえば、ネイティブ・アメリカンや世界各地のさまざまな先住民のように、植物を神聖なものとみなしている人々もいる。
 人間は植物を見くだしてみたり、もち上げてみたり……。両者の関係はまったく複雑なものといえる。たとえば、キリスト教と同じく『旧約聖書』を聖典とするユダヤ教では、理由もなく木を切ることが禁止され、「樹木の新年」(トゥ・ビ・シュバット)〔春の到来を祝い、樹木に感謝を捧げるユダヤ教の祭日〕が祝われている。どうして、 このような人間と植物の相反する関係性が生まれたのだろう? それは、地球上で生物が生きていけるのは植物のおかげであるという事実を、表面的には頑固に認めていないにもかかわらず、心の奥底では、植物なしでは生きていけないとわかっているからなのだ。*7

 依存する相手を憎むのは、依存関係のせいで完全な自由を感じられないからだ。ようするに、 私たちは植物に依存していながら、その事実をできるかぎり忘れようとしている。それは、自分たちの弱さをまざまざと思い知らされるのがいやだからではないだろうか。*8

 マンクーゾの指摘は植物の軽視のほうにウエイトがあるが、私は植物をへんに持ち上げることも見下すことも同根だと考えている。どちらも、植物を実態以上に強大なもの、恐るべきものと見なし、その内実に分け入ることを避けているからだ。

 植物すごい論者やマンクーゾが持ち出すのは、地球の99.7%は植物であるからこの世の支配者は人間ではなく植物だというものだが、これは詭弁と言わざるを得ない。数が多ければ影響力は大きいのは確かだが、植物のすべての種類がなにか特別にお互い結託しあっているわけではないからだ。それぞれの株がそれぞれの環境で数の競争に邁進しているだけであり、人間のいう地球の主導権などに興味があるとは思えない。

 「植物はすごい」でも、「植物なんて大したものじゃない」でもない。植物への愛好がもしあるとすれば、この2種の「フィトフォビア」(植物への恐れ)のどちらにも滑落しないよう、か細い稜線を進んでいくことだろう。そのためには、植物それ自体にある論理をよく調べ、それまで自らが持っていた印象に反しても、興醒めする実験結果であっても、起きている事実を信じることが必要になってくる。その訓練の末に、植物に人間がより近づけるような新たな共生関係が可能となるはずだ。

 

*1:英語の発音に近いのは「ファイトフィリア」だが、ファイトという表記はfightなど別の語を連想させてしまうため避けた。ちなみにyとローマ字表記される古典ギリシア語の“υ”(ユプシロン)は、現代のフランス語の u (luneなど)やドイツ語の üに近い音(円唇前舌狭母音)を表したとされる。

*2:Oxford English Dictionary “phytophilous”(https://www.oed.com/search/dictionary/?scope=Entries&q=phytophilous

*3:藤原辰史『植物考』、生きのびるブックス、2022年。

*4:WORKSIGHT編集部 編『WORKSIGHT [ワークサイト]17号: 植物倫理 Plants/Ethics』学芸出版社、2022年。

*5:フロランス・ビュルガ、田中裕子訳『そもそも植物とは何か』、河出書房新社、2021年。

*6:ステファノ・マンクーゾ、久保耕司訳『植物は〈未来〉を知っている 9つの能力から芽生えるテクノロジー革命』、NHK出版、2018年。

*7:ステファノ・マンクーゾ/アレッサンドラ・ヴィオラ、久保耕司訳『植物は〈知性〉をもっている:20の感覚で思考する生命システム』、NHK出版、2015年、24頁。

*8:同書、61頁。