『生き延びるための自虐』試し読み(1~4章)

この記事は、個人誌の『生き延びるための自虐』試し読みです。

予告なく削除されることがあります。

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第1章 自虐の3要件

 自虐とは、なんでしょうか。字面のとおり考えてみると、「自分を虐めること」あるいは「自分で自分を虐めること」です。ただ、これだけだと漠然としているので、本書において自虐という言葉が指す範囲を少し狭めておきたいと思います。

 自虐の必須要件は、それが ①言葉によって行われていること ②「私は価値がない」と主張していること ③自分以外の人間に向けて公開されていること の3つです。順に説明したいと思います。

 第1に、自虐は言葉(1)によって行われるものです。自分を虐めるといっても、自分の身体にわざと害を与えることは意味しません。例えばリストカットやODなどの自傷行為は自虐ではないですし、宗教的な断食や肉体的試練とも違います。また、不健康な食習慣を続けたり、身体の手入れを怠ったりといった「セルフネグレクト」の状態を指すのでもありません。身体に関わるこれらの行為や状態が自虐に伴うことはありますが、それを言葉で表したりしないかぎり、自虐するという行為は成り立ちません。

 第2に、自虐は「私は価値がない」と主張するものです。また多くの場合、なぜ価値がないのかという理由も同時に説明します。例えば「私の顔と身体の造形は整っていない、だから私は価値がない」という文章を作るとすれば、それが自虐になります(2)。

 このとき、自虐の背景には、「価値がある/ない」という対立が読み取れることを覚えておいてください。先の例の場合では「顔や身体の造形が整った人=価値がある、整っていない人=価値がない」という対立です。

 ここでは容姿を例にしましたが、「私が価値がない理由」には様々なものが考えられます。例えば、「友人が少ない」だとか、「学生時代に恋愛をしたことがない」だとか、「スターバックスコーヒーの店舗に行ったことがない」だとか。この理由はほんとうに多様であり、その多様さが自虐について一般的なことを言いづらくしています。

 第3に、自虐は自虐する人以外の人間に向けて公開されています。例えば、あなたが「私の顔と身体の造形は整っていない、だから私は価値がない」と、誰もいない部屋で呟いたとしても、それは自虐ではありません。また、あなたが、誰にも見せない日記や、インターネットに公開しないテキストファイルに同じことを書いたとしても、それを誰かが容易に見られるようにしないかぎり、自虐にはなりません。

 いや、もしかすると部屋のドアの前で誰かが聞いているかもしれないし、留守中にこっそり日記やテキストファイルを読もうとする人がいるかもしれないじゃないか、という反論もありえます。ただ、ここでは客観的に可能性があるか無いかというよりも、自虐的な言葉を発した人が、「他人に受け取られてもいい」と思っているのかが境目なのです。他人が受け取ってもいいとは思えないから、人前ではなく誰もいない部屋や、鍵のかかる日記やパスワードのかかるパソコンの中にとどめておくのでしょう。

 

 以上3つの条件を満たした行為を本書では自虐と呼びます。見たところ、自虐はそこまで複雑な営みではないようです。「私は価値がない」と言える理由をなにか一つでも見つければ、言葉を使う人は誰でも自虐ができそうな予感があります。あなたも含めた世の中のかなり多くの人に、自虐をする準備があるように思えます。

 しかし、自虐というのは思ったほど世の中で幅を利かせてはいないようです。世の人たちが自虐をしない理由は、何なのでしょうか。次の章からはその理由を考えてみます。

 

第2章 自虐の構造とメタ批判

 なぜ世の賢明な方々は自虐をしないのでしょうか。思うに、自虐はその構造からして批判を招きやすい言葉だからです。本章では、自虐の構造と、自虐が招く「メタ批判」がどのようなものかについて考えます。

メタ批判A・B

 ふつう、文法的に成り立っている文章に対しては、次の3つの仕方でその意味を考えることができます。

 

  1. 文字だけを見て、「何を言っているか」を考える
  2. 文字を見て、「どんな人が言っているか」「どんなつもりで(何のために)言っているか」を考える
  3. 文字を見て、「その前提にある価値判断はどんなものか」を考える

 

 たとえば職場で内々の会議が始まる前、参加者が集まった中で「今日は暑いね」という言葉が言われたとき、その人が言いたかったのは「外気温が35℃以上だ」みたいなことでしょうか。1. の仕方で考えるならそうでしょう。しかし、2. や3. の仕方で考えるなら、その人が言いたかったことも違ったように思えてきます。

 その場にいた私は、発言したのが「暑がりで有名な人」だと思い出します。そして彼はうんざりしたように言うので、「暑いのは良くないことだと(彼は)思っているらしい」と私は予想します。そして「彼が何を言っているか」をもう一度考えてみると、彼は周りの人たちに「部屋をもっと涼しくしてくれ」と遠回しに言っているのだと私は思い当たります。それから私は、その内容について受け入れる価値があるのか考えるでしょう。

 1.~3. の区別のうち、2.と3.の仕方で誰かの発言を批判することを、本書では「メタ批判」と呼ぶことにします。2. に基づくほうは、「メタ批判A」、3. に基づくほうは、「メタ批判B」と名付けましょう。つまり「メタ批判A」とは、ある発言をする人の立場や属性を意識し、それらと当の発言との矛盾を指摘するものです。そして「メタ批判B」は、発言の背後にある価値判断を批判するものです。

 前章で確認しましたが、多くの自虐は自虐する人の属性や経験に言及しており、かつ、価値判断を暗に含んでいるのでした。すると、自虐はメタ批判A・Bを招きやすい文章なのです。

 ふつう、「四角形は4つ辺がある/正方形は四角形の一種だ/だから、正方形は4つ辺がある」という文章をメタ批判する人はあまりいません。正方形や辺の定義とその関係を確認すれば、その文章がまともなことを言っているかどうかはわかるからです。しかし、「私は容姿が整っていません/私には価値がなくてつらいです」という自虐では話が変わってきます。

 正方形や辺の定義とその関係を確認した際と同じように、前半の「私」「容姿が整っていない」の対応を確認しようとすると(ここで言われている「私」とは発言する人のことですから)、結局「どんな人がそう言っているか」(=2. の視点)を考えることになります。つまり必然的に「メタ批判A」に行き着きます。そして自虐する「私」が容姿になんらかの明らかなハンディキャップを抱えてはいないのなら、この自虐は単にウソをついていることになるわけです。

 また後半の「私には価値がない」ことが本当にそうであるためには、そもそも「容姿が整っていないのは価値がない」という価値判断が大前提として設定されていなければなりません(3)。したがって、自虐を聞いた人が後半の内容を考えようとすれば、必然的に「その前提にある価値判断はどんなものか」(=3. の視点)で考えることに行き着きます。そして当の価値判断が発言する人の単なる思い込みや偏見にすぎないのであれば、誤った前提に基づいているので「私には価値がない」という結論も誤り、つまり全体が誤りです。これが「メタ批判B」に相当します。

メタ批判の例

 もうひとつ例を考えてみましょう。例えば、Sという人が「私はいつも恋人と結婚にまで至らず、未だ子供もなく、(私は)負け犬だと感じます」(4)という自虐を行ったとします。

 この自虐に対して、「Sという人は、いったいどんな人だろう」と考え始めるのが「メタ批判A」でした。自虐の中の「いつも」という表現から推測するに、Sは今まで何人か恋人ができてきたような人であるようです。すると、恋愛をすることが人生の価値を高めると信ずる人からすれば、Sはすでに恋愛の機会に恵まれた、かなり良い人生を送っている人ということになります。

 あるいは、例えば同性と恋愛する人にとっては、そもそも恋人と結婚するための制度がこの国では未だ作られていないのですから、恋人と結婚を想定する人であるだけSは恵まれているということになります。

 したがって、Sの自虐への「メタ批判A」は次のようなものになるでしょう。「そもそも恋愛の機会に恵まれている時点でおまえは負けてなどいない」、「恋人と結婚を想定できるだけ平和でいいよねえ」と。

 あるいは、「どんなつもりで(何のために)言っているか」という視点を持って、メタ批判Aを加えることもできるでしょう。例えば、「Sはそう述べることによって自分の恋愛経験が多いことを暗に知らしめているんだ」とか、「一時の慰めの言葉を期待しているだけで本当に改善したい気持ちも考えもないのだろう」、「自立できて仕事も続けられてるなんて幸せじゃない」とか。このようなメタ批判を行う人たちからすると、自虐は非常にイヤミで欺瞞的な行為、むしろ「自慢」に近いものだということになります。

 またSの自虐に対する「メタ批判B」はどうなるでしょうか。Sの自虐には、はっきりとそう書かれてはいないけれども、「結婚していない(子供がいない)人は負け犬(のようなもの)」という価値判断が前提されています。こうした価値判断は誰にとっても自明とは言えません。私にとっても、それはさすがに偏見なのではないか、他人の事情に目が行かなすぎではないかと感じられます。こういう価値判断がいかに間違っているかを説明し、だから「負け犬」などと言うのは誤っていると述べる、それが「メタ批判B」です。

 

 以上のように、メタ批判Aからすれば、Sのする自虐は「自虐風自慢」や「無自覚な特権表明」であり、メタ批判Bからすれば「偏見に基づく言説」です。ふつうに最悪ですね。こういう最悪な言説が流行らないのは当然で、望ましいことでもあります。というわけで皆さん、自虐なんて絶対にしないようにしましょう……。

 

 と、諭すのが本書の目指すところではありません。

 繰り返しますが、本書が想定している読者は、「すでに自虐をやってしまっている」人です。私などが自虐の最悪さを説いたところで、もう手遅れです。あなたはここまで描いてきた最悪さを十分に予感しながら、それでも自虐せざるを得なかった方なのでしょうから。

 自虐の最悪さを予感し、それでも自虐するということは一体どういう試みとなるのか。それを、次章では考えてみたいと思います。

 前章で確認したように、自虐にはその構造からしばしば「メタ批判」が寄せられます。

 ただ、自虐する人の多くは愚かではありませんから、自虐すればメタ批判が行われるだろうことは理解しています。彼らは自虐ができるだけの自らの能力や立場や、自分を惨めだと思わせる当の価値判断を自覚しつつ、自虐的な発言をしています。本章ではその様子を、ある実例をもとに確認します。その例から、メタ批判が織り込まれ、自分自身に跳ね返る自虐=「自虐論的自虐」の姿がいかなるものかが見えてくると思います。

 

第3章 メタ批判と自虐論的自虐―大阪大学感傷マゾ研究会への批判から

一流大学生たちの苦悩

 あなたが自虐をしているまさにそのとき、あなたはおそらく幾分かは苦しんでいるはずです。つまり自分には価値がないと一面では思えてしまい、そのように思わざるを得なくなった事情を苦々しく思っているはずです。そのため自虐には苦しみの表現が伴うこともあります。

 しかし、その苦しみの表現を何か別の人や存在の苦しみと比較して「そんな苦しみは大したことないのでは?」とか、「食うに困ってないくせに贅沢な悩みを持っているな」などと言ってくる人が一定の確率で現れます。

 具体例を挙げましょう。2021年4月に「感傷マゾ」という言葉をきっかけに集った大学生たちが、「大学に入るまでに(フィクションのような)青春を送れなかった苦しみ」や、現在も続く喪失感を語る活動を始めました。最も有名なところでは、「大阪大学感傷マゾ研究会」(以下、「感マゾ研」)というサークルが形成され、『青春ヘラ』と題した冊子がサークル名義で刊行されました。彼らの活動はSNSを通して一定の注目を集めましたが、次のような形で評価されることもありました。

 

 「自分がいかに負けたか」を切々と語れるだけの教育環境で育った彼らの多くは、各研究会に冠された一流大学を卒業した後、名だたる企業に就職し、あるいは大学院に進み、やがて家庭を持ち、相対的に安定した生活を送れる可能性が高い。目の前の仕事に忙殺されるうちに、いつしか「ダメな僕ら」という自意識は薄れ、かつての「敗北」の記憶も遠ざかり、いやおうなく社会人としての自負と責任感が芽生えていくだろう。(5)

 

さらに言えば、「感傷マゾヒスト」たちは本質的には構造的と言うべき問題は抱えていないように思える。 実際のところ、彼らは本当の意味で傷つくことはなく、諦観で自意識の葛藤を癒し、しばしば「エアコンで室温が28℃に保たれた自室の床に寝転がって、スマホtwitter [原文ママ] や youtube [原文ママ]を見」ることのできる生活水準を保ち、新型コロナウィルスの 流行下においても「強制的に奪われた青春になら、いくらでも言い訳ができる。『もしもコロナがなければ青春できていたんじゃないか……』という希望的観測の中にこそ、僕の青春が詰まっているのである」という感想を抱く程度の余裕を享受している。(6)

 曰く、感マゾ研などを結成して何やら滔々と語り始める人たちは、本当の意味で傷ついてはいないのらしいのです。「大阪大学」と冠し、組織運営が成り立っている以上、彼らは社会的に成功を収める可能性の高い人たちであり、大したことのない苦しみを暇つぶしに理論立てて憂鬱な気分に酔っているのだというわけです。これは、「どんな人が言っているか」からその人が言っていることを評価する、典型的な「メタ批判A」といえます。

「メタ批判A」への対応――黙殺

 ただ、感マゾ研のメンバーたちは、こうしたメタ批判を受けることが活動当初から多々あったようです。次に引くのは、彼らが刊行した『青春ヘラ』初号に収められた対談の一部です。

 

ペシミ: 感傷マゾ研究会は初期の頃に同じ大学生から指摘を受けるということも結構あったんですが、大人から批判されるよりよっぽど辛かったですね。「青春を得られなくてサークルを作った大学生に噛みつく青春を得られなかった大学生」という構図が辛くて。

 わく:確かに、ルサンチマンを持っている人が本当にサークルを作れるのかという問題はありますよね。

ペシミ:それもすごく言われました。サークルを作っている時点で青春じゃないかと。

 わく: でもそれって、社会不適合者が定期的に小説を書けるのか、みたいな問題と似てますよね。サークルとして研究した内容について批判するのは全然良いと思うんです。 でも、「サークルを作れる人間に、感傷マゾがわかるのか」というメタ的な批判はどうなのかなと。それを言ったら同人誌を作っている僕はなんなんだということになりますし、何も作れず何もできないじゃないですか。そういった指摘をする人を本当に納得させるには、感傷マゾ研究会に入ったけれど結局馴染めずに脱退して、第二感傷マゾ研究会みたいなサークルを作って内輪でスマブラだけしていたら4年間終わっていた、みたいな展開にならないといけないと思うんですよ。どっちを選ぶかは本人にお任せしますという感じですね。僕は、後者はおすすめしません(笑)

(7)

 ペシミ氏が述べるところ、感マゾ研は度重なる批判に曝されたそうですが、活動を止めることはなかったようです。実際彼らは現在も協力を継続し、次々と文章を書き、公開しています。

 この引用でわく氏が述べるように、「メタ的な批判」=メタ批判Aを真摯に受け止めるなら、真に「感傷マゾ」が語られるためには、サークルが組織されるべきではなく、『青春ヘラ』の刊行は頓挫すべきだったのでしょうか? 彼らはそう考えませんでした。そもそもメタ批判Aは、「どんな人がそう言っているか」から批判を行うことであるため、批判を受けた発言者が自分の立場を変えるか、黙るか、批判を無視するかという対応しかできないのは当然です。彼らは、無視を決め込んだと言えるでしょう。

苦しみ競争の不毛さ

 もちろん、感マゾ研のメンバーたちが世界中の同世代の中でもかなり恵まれた立場におり、協力して何かを成し遂げる能力を持ち合わせていることは、ほとんどの人が、そして彼ら自身も認めるところでしょう。まさに彼らは「『自分がいかに負けたか』を切々と語れるだけの教育環境」にいたのでしょう。

 ただ彼らは、彼ら自身がそのような恵まれた人間であっても、自分の発言権をあえて捨てて黙ることはありませんでした。私はその姿勢自体は肯定的に考えています。もちろん特権を意識するのは悪いことではありませんが、少しでも恵まれた環境にいるかぎり、何らかの優れた能力があるかぎり、その人に発言は許されない(=絶対的に苦しく悲惨でなければ、苦しみを訴えてはいけない)というのは言い過ぎだからです。もしそうなら、結局誰も自分の苦しみを訴えることが許されず、誰の苦しみも大したことはないことになります。というのも、何が「恵まれている」ことになるのか、何が「優れている」とされるのかは、社会通念や比較対象に関して相対的だからです。

 例えば、この本を手に取っているあなたが現在感じている、あるいは過去に感じた苦しみは、本当にたいへんな苦しみなのでしょうか? このような本を購入するに回す資金があり、この文章を読んで理解できるだけの教育を受け、雨風をしのいで落ち着ける場所をもっているあなたの苦しみなど、現在ウクライナ-ロシア間の武力衝突で酷い目に遭っている人々の苦しみと比べれば大したことはないのでは? あるいは、ほとんど身動きのとれない劣悪な環境で、肉塊にされるためだけに育てられる鶏たちの苦痛と比べれば、ほとんどの人類が感じる苦しみなど大したことはないのでは?

 このように、勝手な想像と比較による「苦しみ競争」は不毛極まりないものです。苦しみ競争をするとき、私たちは他者の感じている苦しみを測ることができると思っています。しかし、それ自体が他者への差別的な考えではないのでしょうか。

 感マゾ研に対して向けられたメタ批判Aも、苦しみに優劣をつけて誰かを黙らせたり自分の精神的利益をせしめようとする「苦しみ競争」を内包しています。サークルを作れるからと言って、弁が立つからと言って、大学に行けたからといって、彼らはみんな万事順調で未来は明るいのでしょうか? そんなことは彼らにしかわかりません。

 私自身が学生のころ、客観的には何の問題もなく、食べるものも寝るところもあり五体満足で生まれてきて、大学に進むほどの学力も資金もあるのに、自分自身に何らかの問題がある気がしてしまって、思春期の間に本当につぶれてしまう人を何人か見てきました。その人に余裕があるのかどうか、その人にとっての問題は本当に問題であるのかどうかは、はたから見てわかるものではないように思います。

誰もが苦しみ競争の中にいる

 ただ冒頭に引いたような「メタ批判A」については、感マゾ研のメンバーたちを黙らせるためなどではなくて、別の誰かから見れば彼らもまた強者なのだ、まさしく絶対的に幸せな人などいないのだということを意識してもらうために出たのだとすれば、それも一応正当なことです。

 「もし新型コロナウイルス感染症の蔓延がなかったら、違う(フィクションみたいな)青春を送れたかもしれない」と想像して感傷的な気分になることも、一種の苦しみ競争の産物です。その感傷は、新型コロナウイルス感染症に無関係でいられた時代の人々や、フィクションに描かれるような青春を実践した人々の経験との比較がなければ生じないからです。

 新型コロナウイルス感染症がなかった時代でも、ここ十数年には数々の震災があり、また経済的、精神衛生的、性差別的な苦境にあって、青春どころか子どもである時期が丸ごと奪われている人は幾人でもいただろうと思われます。感マゾ研のメンバーたちは別の時代や別の状況にある人々の苦しみを正面切って軽いと言っているわけではありませんが、現在の自分の苦境と比べればマシだったはずだ(だから自分もそうありたかった)と思おうとしているのではないでしょうか。この社会で相対的に恵まれているらしい彼らは、これまで何度も「その程度の苦しみで……」と言われ続けてきた(そして現在も言われ続けている)と思われるのに、当の彼らもその苦しみ競争の片棒を担ぐことから逃れているわけではおそらくありません。

 今こうして他人事のように文章を書いている自分も、苦しみ競争に参加していないわけではありません。他人の人生を自分の人生を見るための比較対象として持ち出さないのは非常に難しいことです。あなたが、自分はまったく「苦しみ競争」をしたことがないと本当に自信を持って言える人なら、以下は蛇足なので、この章は飛ばすことをおすすめします。おそらくそんな人はそう多くないでしょう。

 ひとつ例を挙げてみます。2011年の東日本大震災の後、被災した人にもそうでない人にも「不幸の比較」が多く見られたと、信田さよ子は報告しました(8)。不幸の比較とは、自分より不幸な人との比較によって自分の主観的な幸福を得ようとすることや、もっと不幸な人がいることを根拠に特定の不幸は我慢すべきだとする論理です。被災したときにこそ人間の本性が現れるなどとは思いませんが、かように苦しみ競争は起こりやすいものなのです。誰かの苦しみを耳にしたとき、そして自分の苦しみを感じたとき、私たちはすでに苦しみ競争への準備ができています。

 感マゾ研が刊行した『青春ヘラ』に収められた文章の中にも、まさに他人と自分との比較に悩んだと打ち明けているものがありました(9)。自分にないものを持っている人、自分にできなかった経験をしている人はうらやましい。苦しみ競争はこのような羨望から始まります。なぜなら、誰かを羨ましいと思う人は、その羨ましい相手もまたその人なりの固有の苦しみを抱えており、必ずしも万事順調で最高の人生を送ってはいないかもしれない可能性について見ないふりをしているからです。

 しかしながら、感マゾ研のメンバーたちは、以上のことを自覚しないほど愚かではないように思われます。彼らに対し、わざわざ「あなたの苦しみは相対的には大したことないよね」と言うことにどれほどの意味があるのか、私には理解しかねます。

苦しみの相互尊重という理想

 自虐的なことを言う多くの人は、そう言っている人自身の立場を問う「メタ批判A」を十分に意識しています。そもそも、自分がどういう者であるのかを語るのが自虐なのですから、自分の立場を意識するのはごく自然なことです。ただ彼らは、彼ら自身がどのような人間であっても、自分の発言権を捨てて黙ることは選ばないし、ある違う立場の人には発言権などないとは考えません。実際、感マゾ研の活動においては、各人の主観による「感傷」を尊重するという姿勢がとられているようです。

 私はこの姿勢に、「苦しみの相互尊重」という一つの理想を見ます。どんなに些細であろうとも、他人からすればそれが苦しみと呼べるものではなくとも、その人が相対的に恵まれていても、苦しみを表現すること自体は差し止められるべきではありません。どんな人の苦しみも、優劣をつけることはなしに、いつどこで、どんな形で感受されたかにかかわらず、それぞれが同じように真面目に扱われるべきであり、あるいは誰かを黙らせるための比較対象にされるべきではないのです、理想を言えば。

 ただしこの相互尊重は、苦しむ人(の述べること)を一切批判してはならないということではありません。そうであれば、ほとんどの人が多かれ少なかれ苦しんでいることは主張できるので、誰も他人のことを批判できなくなります。ある人の語る苦しみの前提に他人の権利侵害やそれにつながる考えが含まれることはあるので、苦しみの訴えそれ自体ではなく、その前提については批判的検討が加えられて当然です。それが「真面目に扱う」ことであると思います。

 また、これは「あらゆる苦しみは平等に取り除かれるべき」という主張でもありません。もし、人間をできるだけグロテスクに殺すことがどうしようもなく好きな人がいて、その人がなかなか自分の嗜好を実現する機会がない苦しみを訴えたとしても、残念ながら彼の訴えに従ってその機会が提供される可能性はあまりないでしょう。それでも相互尊重するとは、そうやって訴えること自体を止めさせることはなるべくしないということです(街頭ではさすがに控えてほしいですが)。同様に「フィクションみたいな青春を送りたかったのに送れなかった」という、そもそも実現可能性が怪しい内容を苦しみとする吐露についても、その吐露すること自体があらゆる場合で不当だとまでは言えません。誰でも自分の苦しみについて、堂々と語ることができる場があるべきです。もちろん、語り方や語る媒体については慎重に検討を重ねた上で。

 きっと、感マゾ研メンバーたちにとっては、『青春ヘラ』という同人誌がその場なのでしょう。しかし、その場の中でさえ「苦しみ競争」が無くなることはおそらくありません。同じ国、同じ災厄の下に生きていたとしても、その程度のことで、自分の苦しみと他人の苦しみを全く同じように捉えることができるようにはならないからです。各自の苦しみはどこまでも各自のものです。「コロナ禍のせいで青春できなかった」者の中にも、友達はいた者、まったく居なかった者、いても軽蔑していた者など、様々な違いがあることでしょう。それぞれの人にはそれぞれの絶対的な苦しみがあり、他人の苦しみは他人の苦しみにすぎないのです。

 しかし、彼らが違いを抱えながらも協力して冊子を作れているということは、各自が苦しみ競争の不毛さに巻き込まれていることを意識しながら、苦しみを語る権利については互いに不干渉を貫いてきたということです。部外者の私からすると、これは単純に素晴らしいことだと思えています。

なぜ、おかしな前提にとどまるのか

 私が本章の始めで引用した、感マゾ研の活動を批評した2者について、まるで彼らが感マゾ研メンバーの立ち位置だけ見て(メタ批判A)、その活動成果の内容をそれだけで評価していないような印象を今のところお持ちであるかもしれませんが、それは私の本意ではありません。私は批評好きな人たちの心証を悪くするために書いているのではありません。彼らは『青春ヘラ』に書かれている内容を、それ自体としてきちんと受け取った上で批判を提出しています。

 例えばその批判は、感マゾ研メンバーの感傷も苦しみも「フィクションみたいな青春を過ごす=良いこと」という価値判断を前提とするものであって、この前提がそもそもおかしいのではないか、という指摘を含んでいました。

 たしかに、周りの大人に聞いてみればわかると思いますが、フィクションみたいな輝かしい青春を送った人などそういません。もし輝かしいと言っていても、現在のつらさを意識するあまり、若い頃にも不快なことや苦しいことがあったのを忘れて、思い出を美化しているだけだったりします。また輝かしいというと、友達と放課後につるんで出かけたり部活を頑張ったり、恋愛のようなことをしたりというイメージがあるらしいのですが、そもそも友達が多くて部活も頑張っていて恋愛をできる人だけが素晴らしいのでしょうか。気難しくて誰からも邪険にされ、あるいはトラブルを起こしてばかり、部活にも所属しない、そんな学生が音楽や美術や電気工事で評価を受けていたならどうでしょう。また、誰もが(実在の)誰かに恋をするというのも、全く自明なことではありません(10)。

 「フィクションみたいな青春がなかった」と自虐するような人は、幾分かは自分が価値のない側だと思っているわけで、それがつらいんですよね? そうだとしたら、つらいと思った時点で、自分の苦しみの元凶である前提(この場合、「フィクションみたいな青春を過ごす=良いこと」)に気づいて、早いところその前提を修正するべきでは?

 どうして彼らは、自分が価値のない側にいるとされる価値観にすすんで留まるのでしょうか? なぜ「おかしな前提」に基づいたまま彼らは感傷や苦しみを語るのでしょうか? そんなことはおかしな前提の追認になるから、やめたほうがいいのではないでしょうか?

 まあ批評好きな人たちは「やめたほうがいい」とまで言っているわけではありませんが、このような「メタ批判B」(主張が暗黙に前提している価値判断を批判すること)は、十分に可能であるでしょう。

逃げ場の無さ

 しかし、こういった「メタ批判B」についても、感マゾ研のメンバーの多くは当初から意識的でした。

 年長者たちから指摘されるまでもなく、彼らは当の前提がそもそもおかしいことには気づいています。たとえば次の文章を確認してみてください。

虚構と現実の区別があいまいになっていくにつれ、「フィクションのような青春しか青春とは呼べない」という謎の前提に脳を侵されはじめ、理想的な青春像と現実の自分を比べて辛くなってしまう。(11)

 このような前提が「謎」だと認識している、それに対して疑問を持っているからこそ、彼らは青春のイメージが(自分の経験の中で)作られてきた過程を『青春ヘラ』において考察していたのです。

 では、自身がもつ前提のおかしさに気づいていながら、彼らがそのおかしさについて冷徹に語ってすっきりせず、「感傷」し続けるのは一体なぜなのか。それは、そのおかしさを仮に理性的に説明できたとしても、彼ら自身が「おかしな前提」からすぐに自由になれるわけではないからです。

 そもそも自虐するような人が惨めでつらいのは、自分が価値のない側だと思えているから、だけではありません。自分が価値のない側だと思える価値観を修正したり捨てたり、別の価値観を選び取る主導権自体を奪われているからです。

 自虐に伴う価値観は、自分で自由に付け替えたりできるものではありません。世の中における少数派というのは、自分に都合のいい価値観を選択することすら困難である人間のことを指します。例えば白人優位の社会における黒人は、人間はみな平等に尊重されるべきだと考えることが難しくなります。その黒人の方がいかに自分の出自に誇りを持とうと思っていたとしても、それとは独立に、毎日「おまえは人間以下だ」という扱いを受けてしまうからです。

 現在、この国でいま高校生や大学生の年頃の人たちはそれだけで他の全ての国内人口に対して劇的な少数派です。彼らは彼ら自身をしばしば価値のない側だと指定する――「若者かくあるべし」という――おじさんおばさん達による画一的な理想を織り込んだ世界で生きることになります(これを端的に表すのが、「青春の全体主義」という言葉でしょう)。感マゾ研メンバーたちの「感傷」は、その「逃げ場の無さ」から始まらざるを得なかったのでしょう。

 私も、このような「逃げ場の無さ」を経験していたような気がしています。私は中学から高校にかけ、SNSや小説に、いかに自分が無味乾燥な毎日を送っており、誰とも心から楽しく雑談できずにいるかを、個人が特定されない程度のディテールを交えて書き綴りました。人間関係が例外なく無価値で終わらない苦しみに思え、自分の愛想の無さとマイナス思考が呪わしいと独りごちました。もちろん「とはいえ一人の時間も重要だし」とか、「友達なんて多くなくてもいいし」、「文化祭で曲弾くとか、ベタ過ぎて滑稽だ」などと思おうともしました。しかし重要なのは、そのように思おうとしたところで、休日に同級生と顔を合わせることや、同級生から避けられることがつらくなくなるわけでもなく、一言も発しない美術の時間や、「なんでここにいるの?」みたいな視線が消滅するわけでもなかったということです。学校や人付き合いが嫌なら不登校あるいは退学を選べばよかったのかもしれませんが、そうなったらなったでまた別の差別的取扱いをされるだろうと当時の私は考えており、その選択肢も取れませんでした。

 感マゾ研メンバーたちの多くは、自分が依拠している前提がおかしいことなどとっくにわかっています。しかしながら、それがおかしいと誰かに叫んでもひとり呟いても、おかしな前提に基づく現象は実際に毎日起こるのです。前提がおかしいからといって、常に視界の端にちらついている苦しみも、苦しみからの「逃げ場の無さ」も錯覚だということにはならない、だからその苦しみを語ることになるのです。

 メタ批判Bに指摘されるとおり、自虐する人が前提とする価値判断はおかしなことになっています。それに従ってものを言うのが奴隷道徳だと言うのならばそのとおりでしょう。ただ、そのおかしな前提がまかり通っている世の中と、メタ批判Bを投げかける人たちは関係が無いのでしょうか? もし本気でおかしな世の中を斬りたいのなら、大学生のサークル活動に茶々を入れるだけではなく、おかしな前提を流通させているマスメディアや話題の言論人、そして何より、そのおかしな世の中の一員である自分自身をもより苛烈に攻撃したらいかがでしょうか。私はそんな印象を持っております(これもまた、メタ批判Aの一例です)。

自虐論的自虐とは

 本章では、感マゾ研メンバーたちが「メタ批判」を織り込んだ形で活動を続けたことを確認してきました。そこから私たちが学ぶことができるのは、自分の苦しみについて「大したことない」と言われたからといって、黙る必要はないということ、自分の基づく前提がおかしかろうが、「逃げ場の無さ」が錯覚にはならないということです。

 ただし、メタ批判を織り込んだ自虐は、何でもかんでも好きなことを好きなように言えることにはなりません。自虐する人がいくつかの社会的不平等を追認し、特権を自覚していないように見えてしまう(本当に自覚が無い場合は稀でしょう)のは確かなので、それを牽制するかぎりでメタ批判は正しいのです。しかし、自虐する人に何か全く別の「逃げ場」があるならそもそも自虐などしないわけで、出口なしの苦境に留まらざるを得ないからには、可能なのは「よりマシな形での留まり方」です。そうなると、むしろ考えることは増えます。

 

  •  どのようにすれば、「苦しみ競争」から距離をとったうえで、自分の苦しみを表現することができるのか。
  •  私の基づくおかしな前提は、ではどのようにおかしいのか。私がそのおかしな前提を採用したのはいつからか、なぜなのか。
  •  「逃げ場の無さ」から自虐を行うとして、自分を価値のない側に指定する価値観が再生産され、あまりに広い範囲に拡散されてしまうのは、果たしてどうなのか。同じように価値のない側に指定される少数派への加害ではないか。
  •  なぜ黙らないのか。そこまでして私が自虐しなければならない理由とは何なのか。

 

 こうした未解決の問題を意識しながら行う自虐、つまり「自分が苦しみを語ることは(それを聞く人に対して)正当化しうるのだろうか」という懐疑を持ち続ける自虐は「自虐している自分についての自虐」であり、「自虐論的自虐」とでも言うべきものです。それが研究というより自虐であるのは、「私」を主語として、私の無能力と苦しみについて語ることだからです。「正当化できるのか?」という懐疑を解消できない無能力と苦しみは、あくまで自分自身が感じているものだからです。おかしな前提を(まだ)自分から引き剥がせない、でも自分の苦しみについて黙っていられないという無能力と苦しみは。

研究と自虐

 私はここまで、感マゾ研というサークルについて勝手なことをいろいろ言ってきましたが、彼らの多くは私のいう自虐論的自虐にほとんど興味はないだろうと思います。今後、自覚的にやっていってほしいなどとも一切思いません。今回取り上げたように、彼らの活動初期は、自分自身の「おかしな前提」の検討やその前提に基づく嫉妬を含んだ自虐的な考察が確認できましたが、直近ではむしろ「おかしな前提」に関連する作品の分析や文化批評が中心となっているようです。外部からのメタ批判に直面した結果、一時的にメタ批判を織り込む(寄稿者自身の立場や価値観を問う)文章が増えていたにすぎないのかもしれません。

 また、感マゾ研の運動は大阪大学関係者にとどまらない多くの人々に開かれているようですが、その開かれた状況は、メンバーたちを自虐から遠ざけることはあっても自虐を促すことはないでしょう。冊子の寄稿者には大阪大学の関係者が多いものの、当のサークルはもはや新たな視点や批評のテーマを分野横断的に提案する団体になりつつあるようです。そんな状況下、「私」を主語に苦しみを語り続けるのは空気として難しいでしょう。「私」を主語に(そして「大阪大学」を旗印に)価値判断を行ってしまえば、すでに見てきたように「メタ批判A」「メタ批判B」に毎度辟易することにもなるでしょう。作品や文化現象を主語にして、価値判断は保留していますよという顔で「研究」するほうが、メタ批判を受けにくいのは当然です。

 感マゾ研や他の同人サークルが「研究」と題して行うように、フィクション作品を批評したり、誰かと感想を交換し合ったり、自分でも創作したりすること、たしかに楽しいですよ。でも、おそらくあなたは、今はあまりそんな気になれないのではないですか。あるいはそういった場にすでに片足置いているけれど、なんとなく、その中には居づらかったり、楽しそうな人や批評のうまい人が妬ましかったり、本が読めなかったり、ゲームを買うお金が無かったり、話題のアニメに追いつく気力が無かったり、うまく遊べないと感じてはいませんか。

 だとしたら今すこし、あなたの行う自虐がどのような形で行われる(べき)か、どう問題含みなのかを、本書を参考にしつつ確認してみてください。そのような作業を行ったところで、おそらく「嫉妬」や「おかしな前提」から完全に解放されることはないのですが、他に急いでするべきことも特段したいこともないのならば、やったとしても損はしないでしょうから。

 

第4章 「己れの闇は己れの闇」——田中美津の戒め

 前章では、自虐に対するメタ批判Aが含意する「苦しみ競争」の不毛さと、その不毛さの認識を織り込んだ自虐の形を描いてきました。この「苦しみ競争」とは私が高校のときに思いついた造語ですが、もちろん私の思いつくようなことなど何年も前から他人がとっくに言っています。「苦しみ競争」の不毛さを明晰に言葉にし、それに抗って、あくまで自分の感じる苦しみから思考と実践を続けた人がいました。名前を、田中美津といいます。

 田中美津は、日本におけるウーマンリブ運動の先駆けとなった人として知られています。1970年、27歳の彼女は、ある集会で「便所からの解放」というビラを撒き、世間の注目を集めました。それから彼女は多くのウーマンリブ運動のグループや拠点を作り、言論活動も続けました。日本におけるウーマンリブ運動はその後下火になりますが、運動の中で培われた思考や問題設定は現在のフェミニズムに大きな影響を与えています。

 ただ今回はウーマンリブの歴史についての話ではなく、田中が「苦しみ競争」の不毛さを認識した上で、何かを行ったりやったりしようと試みた話をしたいと思います。

加害者の論理

 かつてこの国のインテリ学生たちの間では、「苦しみ競争」の中での「メタ批判A」に似た言説が非常に力を持った時期がありました。その言説は当時「加害者の論理」と呼ばれていました。1960年代後半にはベトナム戦争アメリカが露骨な軍事的介入を始めていたのですが、日本政府はそれを傍観するばかりでした。沖縄の米軍基地からもベトナムへ戦闘機が飛んでいたわけで、これは戦争への加担と言われても仕方のない状況でした。この状況を真剣に考える学生たちは、自分たちの日常そのものがベトナムの人々に対する加害としてある、自分たちは「加害者」「抑圧民族」だ、という心意気から、世の中に対して反戦を行動で訴え、生ぬるいことしか言わない同世代や大人たちを徹底して糾弾しました。

 田中は学生ではなかったのですが、この運動に共鳴していました。しかし徐々に彼女は、学生たちから広がった「加害者の論理」に違和感を抱いていきます。また運動に熱中する男たちの、女性蔑視的な傾向も目についてきます。そして彼女は「便所からの解放」のビラを配るに至ります。

 彼女の感じた違和感とは、「加害者の論理」が「抑圧を相対的にとらえていること」です。たとえば田中が女性として受けてきた理不尽を世に訴えると、次のように言う人がよくいたといいます。あなたがどういう苦しみを抱えていようと、今戦争の最中にあるベトナムの人々の苦しみからすればそれが何ほどのものか、もっと行動するべきことがあるだろう……と。こういう「加害者の論理」は、「別のもっと苦しい人」の苦しみを持ち出して、あるいは苦しみを訴える人の相対的に恵まれた立場を持ち出して、「そんな苦しみは相対的には大したことないだろ」と評するもので、前章で紹介した感マゾ研の活動に対する評言とそっくりです。本書の言葉遣いで言えば、これが「苦しみ競争」の中で頻発する「メタ批判A」なのでした。

個人にとっての痛みの絶対性――闇

 しかし、田中ははっきり次のように言います。「痛み、闇とはそれを闇と感じる個人にとっては常に絶対的なものなのだ」(12)と。田中はこのことを「己れの闇は己れの闇」というフレーズで表しています。ただ、このフレーズは、自分がある面では恵まれているこの社会をそのままにしておこうという宣言ではないし、自分は居直るから社会の価値観が変わることをまったく希望しない、絶望するほかない、という諦めでもありません。

痛み、闇とはそれを闇と感じる個人にとっては常に絶対的なものなのだ。むろん取り付いたら離れないという意味ではない。闇とは、この社会の価値観から外れてしまった事実から生み出されていくものであり、であるならばそれを闇と感じる己れを問いつめていく中で、この社会の価値観の、そのウソッパチに気づくことで、あたしたちは己れを新たな価値に向けて創造しえるはずなのだ。(13)

 自分の痛みを痛みと感じること、自分の闇を闇と知ることは、社会の価値観(=光)に違和感を感じ、光に従属しきれない私を意識することです。したがって、自分と他人との関係、ひいては社会を、自分がどう行動すれば変化させることができるかを考える端緒が、自分の痛み、自分の負っている闇なのです。

加害者の論理の欺瞞

 他人の痛みばかり語り、自分の痛みを「相対的には大したことがない」として沈黙するように努めること、またそうしている自分と同じように、他人にも他人自身の痛みに無感覚であるよう求めることは、社会を変えるという点でも間違っています。

 田中が厳しく戒めているのは、自分が抑圧者(加害者)であると同時に被抑圧者でもあるという事実を見ないで社会運動をすることです。つまり、自分の苦しみからではなく他人の苦しみから出発して社会運動をすることです。他人の苦しみにばかり雄弁で自分の苦しみに無感覚な活動は、やはりどこか欺瞞的で、「頭隠して尻隠さずの醜態」(14)に至る。田中はそう信じています。なぜなら彼女曰く、私たちは「他人の痛みなら三年でもガマンできる」(15)からです。他人の痛みを持ち出して何かを批判したり行ったりしても、本気でその他人の痛みを取り除こうという風に身が入ることはないからです。それは必ず「たてまえ」に終わるからです。

 「よりかわいそうな人々」をいつも持ち出し、「抑圧者」という名乗りや糾弾を行うだけで何か良いことをした気分になるのは、根本的に差別と抑圧の維持でしかありません。そこには、「自分はまだいい方」という含み笑いや、「あんなかわいそうな人にはなりたくない」という蔑みすら感じます(というより私自身がそのような含み笑いや蔑みをしばしば持つ人間です/でした)。このことを田中は次のように指摘します。

抑圧——被抑圧を一面的にとらえる意識下には、被抑圧者は惨めな存在という思いがとぐろをまいており、 抑圧者である自らの日常に安堵する闘争主体の醜さがほの見える。(16)

 「苦しみ競争」に自分も他人も巻き込み、「加害者」「優越者」としての自分ばかりを強調する(あるいは他人をそのような存在として罵る)人々と付き合いながら、田中は「己れの闇」から始めて、「自分の痛みで」闘うための言論やその他の活動を展開していったのです。

黙る必要はない

 田中の姿勢から、自虐する人が学ぶことができることは何でしょうか。それは「自分の苦しみなんて、もっと苦しい人と比べれば……」と考えて黙る必要はないということです。もちろん、自分の相対的には恵まれた立場、自虐できるだけの余裕を意識すること自体は間違ったことではありません。しかし「もっと苦しい人と比べれば……」と考えて黙ったところであなたの感じる苦しみは別に大して変わらないでしょうし、「もっと苦しい人」が苦しくなくなることもありません。一方では、私こそが痛いのだとみっともなくわめきつつ、他方でその痛いままに留まる自分と、自分を痛がらせているおかしな状況を冷静に見つめていくことが必要なのです。

 

 今回、田中美津に言及することには躊躇もありました。なぜなら、私なども結局、2020年代を生きているシス男性なわけで、50年以上前の女性の過酷な経験を記述した田中美津の言葉に乗っかって何か言ったりやったりすることこそ、「他人の痛みで闘う」ことの極みではないかと思ったからです。しかし、田中の言葉をちゃんと読んでみれば、彼女は他人の痛みに関心を持つなと言っているわけではありませんし、自分の立場の相対性を無視しろと言っているわけでもありません。他人の痛みや自分の相対的な優位「だけ」を口にして、自分の痛みに無感覚になるなと言っているんです。

 そういうことなら私も、田中の生きてきた苦境(とそこから出てきた思想や行動)について語ることはあくまで従として、改めて自分の痛みに固執することにしました。私は私自身の痛みについて、凡庸だとは思っても、大したことではない(なかった)などとは、今でも全く思っていません。もしそう思っているなら、時間を割いてわざわざこんな本を書いたりしません。したがって、今回は省略しましたが、私の痛みについては他の章で度々アピールさせていただきます。「隙あらば自分語り」というやつです。よろしくお願いします。

 

  1.      言葉というのはどのような形式のものを指すのか、また広く記号という意味で図像などはどうなのか、という問題があります。私は、ここでいう言葉というのは韻文でも散文でもありうると考えていますが、本書の記述はどちらかというと散文に寄っています。また図像については、私の力不足から今回あまり取り扱うことができませんでした。
  2.      実際には、自虐する人は「私は価値がない」という強い確信から出発し、その理由として「私の価値のなさ」を考えて自分に当てはめていくという順序になりそうですが、文章を作る際にはどちらが先にもなりうるでしょう。
  3.      これは単純な三段論法ですので、「三段論法」で検索してください。
  4.      この自虐は、酒井順子というエッセイストが2000年代初頭に唱えたものを元にしています(そのためSとしています)。この自虐は当時広く話題を集め、かなり批判もあったようです。
     酒井順子『負け犬の遠吠え』、講談社、2006年(単行本:2003年)。
  5.      てらまっと「敗北を抱きしめて:ゼロ年代批評と「青春ヘラ」「負けヒロイン」についての覚え書き」、『てらまっとのアニメ批評ブログ』2021年11月16日(https://teramat.hatenablog.com/entry/2021/11/16/221557)、最終閲覧2022年9月12日。
  6.      灰街令「感傷マゾから感傷サドへ 大森靖子について」(ペシミ編『青春ヘラver. 2「音楽感傷」』、大阪大学感傷マゾ研究会、2021年、pp. 166-172)、p. 169。
  7.      「わく/かつて敗れていったツンデレ系サブヒロイン巻頭インタビュー」(ペシミ+竹馬春風編『青春ヘラ ver. 1 「ぼくらの感傷マゾ」』、大阪大学感傷マゾ研究会、2021年、pp. 3-21)、pp. 16-17。
  8.      信田さよ子『家族と国家は共謀する サバイバルからレジスタンスへ』KADOKAWA、2021年p. 161。
  9.      e.g. サボテン「理想の人間像・青春像、私の今後」(ペシミ+竹馬春風前掲書、pp. 62-64)。
  10.      もし、あなたが「アセクシュアル」や「アロマンティック」という言葉を聞いてピンと来ないのであれば、次の書籍の目次だけでも見てみることをお勧めします。
     ジュリー・ソンドラ・デッカー、上田勢子訳『見えない性的指向 アセクシュアルのすべて 誰にも性的魅力を感じない私たちについて』、明石書店、2019年。
  11.      ペシミ「ぼくらに感傷マゾが必要な理由」(ペシミ+竹馬春風前掲書、pp. 22-39)、p. 29。
  12.      田中美津『新版 いのちの女たちへ――とり乱しウーマン・リブ論』、パンドラ、2016年、p. 217。
  13.      同書、pp. 217-218
  14.      同書、p. 215。
  15.      同書、p. 214。
  16.     同書、p. 216。

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