『生き延びるための自虐』試し読み(6章, 9章)

この記事は、個人誌の『生き延びるための自虐』試し読みです。

予告なく削除されることがあります。

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第6章 自虐の攻撃性について

 大概の自虐について、それを目にした人が良い気分になることはありません。自虐者は自分以外の誰も非難したくはないと考えているにもかかわらず、自虐はそれを聞く人を傷つけることがあります。なぜそんなことが起こってしまうのかを、この章では考えます。

自虐は自虐者と似通った人を暗に否定する

 自虐は、特に、自虐する人と似通った属性を持つ人を嫌な気分にさせます。自虐はまず「私は価値がない」という確信から出発し、なぜ価値がないかというと、私は○○だから……というように自分に価値がない理由を挙げていきます。ただ、すでに確認しましたが、その確信と理由との間には「○○であることは価値がない」という価値判断が想定されていなければならないのです。この価値判断は、自虐する人がそう宣言しなくとも、そう判断している自覚が無くとも、ある人が一連の自虐を読むならば必ず想定することです。

 例えば、「私は価値がない人間だ。私にはおよそ取り柄になるものが何もないから」という自虐があったとします。普段から「何も取り柄がない」と自分について感じている人がこの自虐に接すると、自分に対して言われたわけでもないのに、なにか自分の存在を否定されたような気分になるはずです。というのも、この自虐の1文目と2文目の間に「取り柄になるものが何もない人間は無価値だ」という価値判断を読み取ることが、誰にでもできてしまうからです。

 このように、自虐者はあくまで主語を「私」にしており、一般的な話をしているつもりはないのに、実質的には「私」だけの話に留まってはいません。実際のところ、当てはまる人が大勢いるような価値判断を行っていることになるのです。

自虐者は自虐の攻撃性を意識できない

 どうして、前章の自虐者はこんな単純なことにも注意できず、自虐が自己完結しているように感じたのでしょうか。おそらく、一部の自虐者は「自虐を目にする他人はつねに自分よりも優れている、劣った自分とは決定的に違う」と思っているからです。

 唐突ですが、図1・2をご覧ください。

図1

図2

 これは、2000年から2001年にかけて連載された「ハネムーン サラダ」という漫画作品の一場面です。この場面で「一(いち)花(か)」と呼ばれている女性は、まさに自己卑下によって自分を語っています。そして、叫びを上げる男のほうは実(みのり)といいます。彼は一花の自己卑下を聞くことに耐えられず、それを中断させます。

 このページだけ見るとわからないのですが、この二人は、「人々とうまく社交できない」という点について似通っていました。2度目に会った夜から、二人は「信頼できる知人がいない」、「人とうまく話ができない」というところから自分を語り始めていました。気質的にはそこそこ似たところが多かったのです。

 「私には何もない…」と一花が粛々と語り始めたとき、実(みのり)は、「何もないひとは価値がない」という価値判断を彼女の言葉に見ます。そして彼には、その価値判断が自分に関係ないとは思えません。彼がこのページのすぐ後で「だったら オレも同じだ」と独白するように、彼もまた「自分には何もない」と思っていたからです。彼は一花が言ったわけでもない、自分が見出したに過ぎないその価値判断に対して、感情的に声を上げることになります。

      だったら オレも同じだ

実 「…そんなに 悪いことか!?」

      オレだって…

実 「何の取り柄もない人間は そんなに遠慮しなきゃ

       ならないのか!?

       楽しいことも しあわせになることも…」(22)

 一花はただ自分の話をしただけで、とくに彼の気持ちを逆撫でするつもりなどありません。「何もないひとは価値がない」と彼女が思っているとしても、彼女にとって実(みのり)は「何もない人」ではないので、彼の話をしていることには(彼女の中では)ならないのです。だから彼女は、自らの卑下の言葉が実への攻撃になってしまう可能性を考えることすら難しいのです。

 このように、自虐は自虐者と客観的に近しい性質の人を否定することになってしまい、さらに自虐者はその自虐の攻撃性を正しく見積もることもできません。とくに、自虐者が他人のことを「自分とは全く違う優れた存在だ」と感じている場合は。

 自虐する人が孤立せざるを得ない理由、あるいは同質性の高い人々の中で自虐が嫌悪される理由の一端は、この攻撃性にあります。自虐は見かけ上一捻り加えているだけで、ある人々を価値がないとする主張と同じ効果を持つからです。

自虐は居心地の悪さを感じさせる

 自虐は自虐者と客観的に近しい人への脅威であることはわかりました。では、べつに自虐者と近しい性質を持たない人にとってはどうでしょうか。「○○な私は価値がない」という自虐の「○○」に当てはまらない人は、自虐を聞いたからといって「自分のことが否定されている」とは思わないから、特に嫌な気分にはならないのでしょうか。

 そうとも言い切れません。目の前で自虐をされれば、どんな性質の人でも居心地が悪く、どうしようもないような気分にさせられます。なぜなら、自虐に対して適切な対応というのが存在しないためです。自虐を聞いた人は、自虐者に対して適切な応答ができないという無力感を嫌でも意識させられることになります。

 先の「ハネムーン サラダ」のシーンで考えてみましょう。一花は謙遜のつもりでも泣き言でもなく平然と「本当のことよ?」と言いながら真摯に自己卑下を行います。こうした過酷な内心の描写は、それに対して肯定的な反応をしようと否定的な反応をしようと無駄なことなのだと思わせます。例えば、もし実が一花の卑下に対して「そんなことないよ……」と慰めのつもりで言うならば、彼女は自分にとっての現実を否定されたことに失望し、何も分かってくれないという虚しさを強めるでしょう。かといって「そうだね、おまえはダメなやつだ」と言ってしまえば、彼女のしばしば誇張された自己認識に保証を与えてしまうことになります。否定しても肯定しても良い方向には向かわず、相手の感じる虚しさと無力感は維持されてしまいます。

「逆にいいと思う」も通じない

 また、「○○な私は価値がない」という自虐の場合に、その「○○」に「逆にいいと思う」などと高評価を与えようとしても、自虐に対する適切な応答になるとは限りません。自虐者はそうした応答を「優れた他人が、劣った自分に対して見せる余裕」だと解釈することがあるからです。

 まさにそのようなやり取りを含む作品があります。ティーンズラブ漫画を手掛ける日生(ひなせ)佑稀(ゆう き)による、「かわいいひと」という短い物語です。

 この作品に登場する「柴」という人物は、男性にしては小柄で、「どんくさい」ところがあり、「シャイ」です(自分の感情をそつなく表現したり、ノリの良いジョークについていくことが苦手)。所属するサークル内でも、彼はなんとなく「いじられキャラ」の立ち位置におり、彼はそれを快く思っていませんでした。

 物語では、柴は同じサークルの甲斐千早(か い ち はや)という(とても魅力的とされる)女性と交際することになるのですが、彼には、甲斐が自分の何を気に入ったのかが皆目わからなかったのです。彼は、つい彼女の前で自虐的になり、次のように口にします。

 

柴「俺はこんな… …だせーし とろいし…

      千早より 背も低くて

      …全然 いいとこなくて…

 

      つ… つり合って ねーって 分かっ…」(23)

 すると、そこに甲斐はこう切り返します。

甲斐「だからぁ

      先輩は そこがいいんじゃないですか

      へたれなところが」(24)

 こう答えられて、彼は屈辱感を覚えます。

柴「………そっ

 

      それって じゃあ何か

      ゆ…優越感にひたれるから

      …って事?」

 

甲斐「え…?」

 

柴「ヘタレ からかって 楽しいー…

      面白いから「好き」って言うならソレは

 

      俺をいじって喜んでる奴らと一緒じゃねぇの?」(25)

 自信が持てなかったり、要領よく振る舞えなかったりするのは少なからず誰にでもあることです。だから、そういう姿を見せてくれるのも人間らしくて好感がもてるというのであれば、誰が優れているとか優れていないとかいう問題ではないはずです。実際、甲斐は柴の不器用さこそが魅力だと感じていました。

不器用なところだって可愛くて好きだよって

本当はそう言いたかったのに(26)

 しかし、「不器用なところだって可愛くて好きだよ」と柴に言ったところで、おそらくそれもまた優越感の表明と彼には聞こえてしまいます。甲斐にとって「可愛いと感じる」ことは「優越感をもつ」ことと同じではないのですが、柴には前者と後者とを区別することができない(27)からです。

 自虐に関して「見方を変えればそれも美点」と言おうとしたのに、自虐者が「馬鹿にされた」と訴えるとき、つまり自分の言ったことをことごとく悪く取られてしまうとき、人が感じるのは独特の苛立ちと徒労感です。先の諍いの後、甲斐はたしかに「へたれ」という自分の言葉の選択について反省しますが、柴のほうも自意識過剰ではないのか、とも感じます。そして極めつけには「なんかもう ちょっと 面倒くさいなぁ」(28)と独り自室のベッドの上で思います。このように、自虐的な構えは自虐者を肯定的に見ようとする人をも疲労させ、居心地の悪さの中に突き落とすのです。

 

 これで、自虐が持っている攻撃性についてはご理解いただけたかと思います。自虐は、自虐者と似ている人も似ていない人も、自虐者に美点を見ようとする人さえも、不快にさせるものなのです。

 

 ここで終わりにしてもいいのですが、私は、自虐に対して適切な応答ができない、ということに一つ注釈を加えたいと思います。厳密にはそうではないはずだとも私は信じているからです。考え方を変えてみましょう。自虐者は、目の前の人を「どう応答しても適切ではない」という居心地の悪い気分にさせるのですが、もしかすると、この居心地の悪さこそは、自虐者が普段から感じている気分なのではないでしょうか。「おまえは劣っている」「おまえは何もできない」と暗に言われているような、そして実際それを否定する証拠も見当たらないような、「逃げ場の無さ」。自虐者は、自虐という行為を通じて、自分について感じる無力感を、聞く人に結果的に体験させます。この無力感を通じて、自虐者は自分の感じている世界の一部を伝達しようと試みているのではないでしょうか。

 もちろんこの想定を「そういうわけだから、いい迷惑なんだよ」と、自虐者への非難に使うこともできるでしょう。しかし他方で、自虐を聞いた人が「適切に応答できない無力感」を白状し、それが自虐者の感じる無力感に通ずるかもしれないと述べ、両者それぞれが無力感を抱えた状態に実際になったと確かめ合うことで、自虐者への応答とすることはできるでしょう。私は後者の姿勢に少なからず希望をかけています。それは自虐に対して、肯定的にも否定的にもジャッジすることなく、自虐者の内心に巻き込まれながら応答していく方法です(29)。まあ、そういう苦しい体験をしてまで自虐者の精神に迫りたい人がどれだけいるのかは、甚だ疑問ではありますが。

 

22.     二宮ひかる『ハネムーン サラダ』2、白泉社、2000年(Kindle:2015年)、pp. 189-190。

23.     日生佑稀「かわいいひと」(『デイライト』、笠倉出版社、2016年)、p. 27。

24.     同書、p. 28。

25.    同書、pp. 30-32。

26.     同書、p. 34。

27.     自分への「かわいい」という評価の受取れなさは、彼が生きてきた男性の共同体にも関係しているのだろうと思います。男性の共同体では、誰がどれだけ男らしい行動ができるかでマウントを取り合い、その中で設定された「男らしさ」基準でしか物事を測れなくなることが往々にして起こります。そこでは、男らしさからはみ出た要素に理解を示し自らそれを備えることは「女々しい」とされ軽蔑されます。「かわいいもの」は「他者」でなければならないわけです。

     ただ、もし柴がそのような共同体にかかわったのなら、それ自体は彼自身の替えがきかない経験であって、その「男らしさ」基準をもとに彼は他人に接し始めるしかないのです。もちろん、死ぬまでそのままとは限りませんが。

28.     日生前掲書、p. 35。

29.     本章で引用した「ハネムーン サラダ」は、まさにこの方法の可能性を描いている作品でもあります。決して自虐の攻撃性だけを示した物語ではありません。

     手前味噌で恐縮ですが、次の個人誌に当の作品の射程の長さについて書いていますので、興味のある方は参照してください。

      田原夕『「ハネムーン サラダ」の隠し味』、hesperas、2021年。

【図版引用元】

図1    二宮前掲書、p. 187。

図2    二宮前掲書、p. 188。

 

第9章 自虐の物語と自己を語ることの不可能性

 この章では、ある程度長い自虐が必然的に「物語」としての特徴を備えることを述べたいと思います。その過程で、これまでなかなか明確にならなかった「自虐が公開されなければならない理由」について解明されるはずです。

 また、自虐が物語としての特徴をもつと考えると、自虐の根本的な困難というか不可能性も明らかになります。それは「自己を語る不可能性」です。その不可能性は、自虐にしばしば投げかけられる「メタ批判A」が、すでに示唆していたものです。

 自虐する人が忘れようと試みるこの不可能性は、自虐者が「私」を主語にするかぎり消滅させることはできません。この不可能性から逃れられないことを認め、しかし黙らず、歯切れ悪く、面白みも無く自分について語る仕草をすること、そしてその仕草の無理をも嘆いて前言撤回すること、自虐の不可能性について自虐的になること、それが自虐論的自虐の到達点であり限界です。

 

 私がこの章で持ち出す「物語」という概念については、もちろん説明が必要です。物語はさまざまな研究領域でそれぞれ違った重みをつけて使用される概念ですが、今回は、社会学者の浅野智彦が、諸々の研究領域から最大公約数的に整理した「物語」概念に沿って論を進めていきます。なぜなら、浅野は物語を扱う研究の中で、「自分について語る」という行為に着目したことがある(32)からです。自虐も、自分について語ることの一種であるのは確かですから、浅野の研究は自虐について考える際に大きな示唆を与えてくれるのです。

物語の3つの特徴

 浅野が論じる「物語」は、次の3つの特徴を持った語りです。その特徴は「視点の二重性」「時間軸に沿った出来事の構造化」「他者への志向」です。以下では、浅野の行った考察(33)をざっくりと紹介します。 

 「視点の二重性」とは、物語が「語り手の視点」と「語り手の語る世界の中の登場人物の視点」という2つの視点を生じさせることを意味します。

 「時間軸に沿った出来事の構造化」とは、物語の内容は、無数の出来事の中から、並べて意味が分かるような出来事だけを取り出して並べなければ作れないということです。通常この選択と配列は、物語の結末から見て語る必要があるかどうかという視点から行われます。

 最後に、「他者への志向」とは、物語はそれを聞く人が納得するかどうかを考慮して構成される、ということです。なぜなら、それを聞いた人が納得するかどうかを考慮しないなら、物語の結末だけ語るのと、それに至るまで色々語って結末を語ることに何の違いもないからです(どちらにしても語り手は、結末に至るまでの出来事をわかっているのですから)。また、通常の会話というのは、誰かひとりが長時間語り続けるという形を取りませんが、物語というのは基本的に語り手ひとりがずっと発言し続ける異常な事態です。その点でも、物語は、長時間語り続けることを聞き手に対して正当化するような、語る甲斐のある内容を持たなくてはならないのです。

 物語の3つの特徴はわかりました。次に、自虐もまたこの特徴を持っていることを確認してみます。

自虐は物語となる

 「視点の二重性」について。これは、自虐の場合にも当てはまります。自虐する人は、自分について否定的な価値づけをしながら語るわけですが、そのとき、否定的な価値づけをされる私の視点と否定的な価値づけをする私の視点は分かれています。通常の物語と異なるのは、どちらの視点も「私」だということです。この状況は、浅野の言葉で「私の二重化」と呼ばれています。

 「時間軸に沿った出来事の構造化」はどうでしょうか。私が高校のときに行った自虐を例にとると、それは一見時間軸に沿っていません。数時間前にあった出来事、一ヶ月前の出来事、数年前の出来事が、バラバラに語り出されています。しかし、それぞれの出来事の語りを見てみると、その内部には時系列のようなものがあることがわかります。例えば次のツイートを見てみましょう。

自分は異常なのだと思っていました。自分の醜さやそれによる苦しみは、自分だけのものだと思っていました。しかしそれは間違っていました。世間にありふれているつまらない懊悩煩悶でした。それくらいしかアイデンティティとするものがなかっただけでした。(34)

 これは、①自分は異常で、特別だと思う ②そうではない(自分の苦しみがありふれている)と気づく ③それくらいしかアイデンティティとするものがなかった、と結論する という思考の流れを記述したものです。出来事を順に並べたというほどではありませんが、順序だてて文章を作っていることがわかります。②①③でも、③②①でもなく、私は①②③の順序を選んだのです。

 「他者への志向」はどうか。本書第5章「自虐論的自虐の実例Ⅰ」で述べたように、ある程度言葉の尽くされた自虐は、任意の他人に受け取られる想定で行われます(実際に受け取る他人がいるかどうかは問題としませんが)。自分だけがわかればいいのなら、一言「私はダメ人間です」と述べて終わりです。それ以上の言葉を使うのは、自分ひとりの視点から離れて、想定された他人にとってもそれが納得できるように語る必要があると、自虐者が思うからです。

 そして、その自虐は長時間語り続ける事態を正当化するような、それだけの聞く甲斐があるような、何らか人々の間で共有可能な認識が含まれる語りでなければなりません。例えば、これまで私がやってきたように、自虐の物語の中で倫理的な問題を提起したり(e.g. 「苦しみ競争」)、人文学的な術語(e.g. 「アイデンティティ」)を散りばめたりすることで、たんに一般人の身の上話には興味のない他人に対しても、その物語は何か真実が含まれており、聞く価値があるのではないかと印象付けることができます。また、さらにテクニカルな実践が、第3章で触れた「感マゾ研」の活動には見られました。すなわち彼らは、自らの陰のある学生生活を語るとともに、新型コロナウイルス感染症が蔓延する社会状況やSNSの隆盛を観察し、それらの絡み合いを分析してきました。

 自虐者は自虐を洗練する過程で、不可避的に「他者への志向」を持つようです。実際の他人と対話をしながら物語を作っていくというわけではないにしても、想像上の聞き手がどうにか説得されるようにと。

 以上のことから、ある程度長い自虐は必然的に物語の特徴を備えるらしいことがわかりました。

物語が自己を生み出す?

 自虐は物語となるのですが、自虐の物語を語る人は、何を目指してそうするのでしょうか。その目的は物語る行為それ自体にあります。自虐者は、自分のダメなところを表すエピソードを効果的に配置していくことによって「ダメな私」の姿を描き出し、それを聞く他人に納得してもらいます。つまり自虐は物語となることによって、他人が彼について持つ(と思われる)イメージと、彼自身が自分について持つイメージとの一致をはかります。言い換えると、彼は自虐によってアイデンティティを構成します。これが自虐を公開する目的なのです。

 浅野が、「自分自身について物語ることを通して自己が生み出される」と述べているのはそういう意味だと、私は理解しています。

 しかし、このアイデンティティの構成は、ある根本的な不可能性について見ないふりをすることで成立しています。その不可能性を、浅野は「自己を語ることの不可能性」と呼びます。

 自己を語ることの不可能性とは、自分のことを自分で語っても、その語りは必ず無根拠にならざるを得ないということです。浅野が持ち出す例は、アルコール依存症から回復した人の語りです。その人が「私はアルコール依存症だった」と語るとき、もしその話を信じるのなら、そんな状態に陥っていた人が、いまアルコール依存症ではないと言い切れるのだろうかという疑いが生じます。あるいは、現在アルコール依存症から回復しているのが本当なら、そんな過去があったということもいまいち信じがたい話に思えてきます。どちらにしても、物語の信憑性は宙づりになります。

 これを自虐者の物語に当てはめてみれば、「私はこういうダメな人間なんです」という自虐の物語は、そもそも物語の帰結である「ダメさ」によって成立したのではないかという疑いが常に残ります。つまり、現在そう語る「私」が、そう語られる「私」のようにダメな人間であるならば、そんなダメ人間が語る物語も、自分自身についての認識も、歪んでいるに決まっています。しかし、現在の語る「私」が語られる「私」のようなダメ人間ではないならば、その物語は現在の彼とは関係のない架空の人物についての話になってしまいます。どちらにしても、彼は自分についての話がまさに自分についての話だと、「語る私」は「語られる私」と一致していると示すことができないのです。

不可能性を暴露するメタ批判A

 この「自己を語ることの不可能性」の指摘は、第2章から何回か言及している「メタ批判A」に通ずるところがあります。メタ批判Aは、語られた内容を、語った人の立場との関係から批判するものでした。自虐にメタ批判Aがぶつけられたとき、それはしばしば、自虐する人の現状と、自虐的に語られる内容が矛盾しているという批判になります。例えば、第3章で言及した、大阪大学感傷マゾ研究会の活動に対して寄せられた「メタ批判A」は、サークルを運営できるほどのリーダーシップを現に持っている人が「明るい青春を送れなかった」という語りに信憑性を与えることなどできないだろう、というものでした。もし、感マゾ研のメンバーが本当に明るい青春を送れなかったような人たちであるなら、そんな人たちがサークルを作って、協力して冊子を作るほど活発なはずがない。他方、彼らが過去にも本当はちゃんと社交的で活発な人間だったなら、彼ら自身が一生懸命に語る感傷と無為はいったい誰についての話になるのでしょうか。自らを語る者にとって、このようなメタ批判Aは先の「不可能性」を暴露する非常に危険な言葉なのです。

 第3章で引用した「メタ批判Aを受け入れるなら、何も作れず何もできない」という主旨の、わく氏の指摘は当を得ていました。自虐の内容をどのように変えても、どれだけ詳細に厳密に、矛盾なく出来事や思考を並べても、「メタ批判A」は可能であり、「自己を語ることの不可能性」は原理的について回ります。なぜなら、私が私に言及するという構造自体に不可能性があるからです。この不可能性は自虐のみならず、自己評価、自己紹介、自己批判、自己肯定……およそ自己○○といわれる発言全般に伴う胡散臭さの由来なのです。

 メタ批判Aが示唆する「自己を語ることの不可能性」を真面目に受け止めるとすれば、自分については何も説得的に語れない、つまり自分についてのイメージを他人に共有させることなどできない、アイデンティティなど構成できない、ということになります。自虐は「メタ的な語り」であると言われることがありますが、よく考えてみればそんなはずはありません。誰も、自分自身に対してメタな立場で語ることなどできないはずだからです。

自虐の手軽さと不可能性の隠蔽

 逆に言うと、「メタ批判A」さえ提出されなければ、自虐する人はアイデンティティの構成に成功したような気分になれます。自虐の物語があまり整然と並べられていなくとも、自虐する人のキャラクターがブレていても問題ありません。物語への納得どころか、反発であってもいいのです。誰かがその物語を聞いてくれさえするならば。

 そもそも自虐の物語の多くは、「納得」とは程遠いものです。自虐の物語は、世に氾濫する娯楽作品のストーリーと比べれば矛盾だらけで、断片的なことが往々にしてあります。というのも、自分自身の経験した無数の出来事を無理なく物語にまとめ上げることが、片手間にできるはずがないからです。娯楽としての物語を作るプロの人々でさえ、意図的にかうっかりか、矛盾を残した物語を作ることが稀ではないのですから。一介のアマチュアにそんな芸当ができるのであれば、その人は自虐などやめて素直に作家を目指したほうがいいでしょう。

 また、娯楽性を追求して自虐の物語を作ることは難しいものです。自分の経験を他人にとって面白く語るには、その経験から十分な距離をとっていなければなりません。しかし、本人にとって非常に苦しい経験は、容易にそこから距離を取ることを許しません。自分の苦しみの語りに、ユーモアや多数の解釈の余地を盛り込むことは本来難しいのです。すると、自虐者の物語には娯楽性が絶妙に欠如することになります。

 こうした、とりとめもなく面白くない物語に辟易する聞き手も多いでしょう。「主人公(=自虐者)の言動が一貫していない」とか、「説明不足で、どうしてそういう結論になったのかわからない」とか、「似たような話ばかりでつまらない」「どうでもいいエピソード多すぎ」などの感想が持たれるでしょう。

 しかし、このように登場人物の性格のブレ、説明不足やつまらなさを聞き手が指摘しても、その人は、自虐する人が自己を語る権利は疑っていないわけです。その指摘は「語るな」ではなく「別のように語れ」ということを意味しています。他人から物語の内容に反発が寄せられたとしても、自虐者が自己の物語を語りうること自体は自明視され、むしろ「自己を語ることの不可能性」が首尾よく隠蔽されることになります。

 物語の内容に関する批判は、自虐する人のアイデンティティの構成になんら影響を及ぼしません。メタ批判Aさえ目の前に提出されなければ、「自己を語ることの不可能性」を他人と共犯的に忘れていられる間は、自虐者はつねに確かな自分を感じられます。その意味では自虐はお手軽で、手を伸ばしやすい薬だったのです。

「語る私」を隠せない(隠さない)

 自虐の信憑性を根本から疑わせる「メタ批判A」だけは、なんとか回避しなければならない。そこで意識的にか無意識的にか、かつての自虐者たちは、なるべく「語る私」を聞く人に意識させないように努めてきました。まず彼らは、容姿や声色を隠せるインターネット上の空間を語りの場所として選びました。そして名前や年齢、居住地は当然のこと、仕事/学業、普段関わる親族、友人関係などに言及することを避け、あるいは偽りました。

 しかし、自虐がどうしても自分を話題にする以上、自分自身の情報は言葉の端々に滲み出てしまいます。また、自虐が行えるということ自体、自らを客観視する余裕と余暇を持っていることを示すものです。「語る私」を透明にすることは、ほとんど無理なことなのです。

 SNSがより日常的なインフラとなった今では、「語る私」を透明にすることはますます難しくなりました。昨今、SNSを利用する若い人の中には、学生の身分、居住地、家族・友人関係をまったく隠さない(35)人も多くいます。まあ若い人に限ったことではなくて、SNSで日常生活の便をよくしたいと願う人は、自身のプロフィールをSNS上で露出することをすすんで受け容れます。

 このような状況下で、メタ批判Aを行うことは非常に簡単です。ある人がある場所で大いに自分語りをしたとします。それを聞いた人はすぐにスマートフォンを取り出してSNSでその人の名前を検索し、彼のプロフィールを調べます。その調べたプロフィール上の彼と、さっき語られたかぎりでの彼を突き合わせれば、メタ批判Aの出来上がりというわけです。

物語ることへの衝動

 このような状況も手伝って、現代の自虐する人は「自己を語ることの不可能性」に直面せざるを得ません。自虐はそもそも聞き手に対して信憑性を作り出せない、胡散臭いものであって、自分を見出したという喜びは錯覚に過ぎない。自虐を考える人は、そのように感じて虚しくなります。

 だとしたら、彼はどうするのでしょう。「私」を主語にするのはやめて、他人様の事情や世界中のニュースや、最新の流行のフィクション作品について語りましょうか。

 ……無益な提案は程々にしておきます。そんなことができるなら、あなたを含む自虐者はそもそも自虐などしなかったでしょう。自虐者が縛り付けられているのは、あくまで「私」の苦しみ、「私」に価値がないとしか思えない苦しみです。それにもかかわらず、この世界の誰も、私を苦しむ人として見ていないという状況に一石を投じたいのです。それは、私を主語にした語り(自虐の物語)が、誰かに聞き届けられることを通してしか実現できません。それは自虐者にとって、後回しにするには切実すぎる課題であり、ほとんど病的な衝動です。

 実際その「物語ることへの衝動」に突き動かされているのは、自虐者だけではないようです。「自分の物語」特有の胡散臭さを発しながら、数々の物語が世の中に流通しているからです。たとえば近年「純猥談」という、多くの異性愛中心主義者の支持は得ているけれども、一部の人からは蛇蝎のごとく嫌われている投稿型のコンテンツ群が現れました。その内容が倫理的にいかがなものかという点は措くとして、またそれらの各エピソードが実話なのかどうかは検証不可能であるとして、自分の経験を物語としたいという欲望は現に生き延びているようなのです。

反復

 メタ批判Aは、自己を語ることの不可能性という真実に届いています。その不可能性は論理的なもので、少しでも理屈がわかる人にとって覆すことはできません。自分自身を自分の語りによって根拠づけることは究極的には不可能で、そこには必ず無理が生じます。しかし、その真実が突きつけられたのなら即座に「何も作れず何もできない」と絶望し沈黙するほかにないとは私は思いません。メタ批判Aを意識し、自分の来歴を自分で語ること自体に無理があると思いながら、言い換えれば、自虐の可能性について自虐的になりながら(=自虐論的自虐)、その無理を反復してください。自虐の物語から胡散臭さを拭えないからといって、ふてくされて誰かに語りの権利を譲り渡さないでください。

 とはいえ、無理に一貫性を追求したり面白い物語を作ったりしなくても大丈夫です。というより、先述のとおりそんなことができる人はあまりいないのです。どんなにありきたりの退屈な物語でも、一応聞き届けられる日陰の場所、あなたの文芸部を見つけてください。その中では、皆、心の底では胡散臭いと思いながらも、またあなた自身がそう思いながらも、自虐に対して目立った反応がないという反応を、あなたは得るでしょう。あなたが文芸部の中で学ぶ自虐の胡散臭さ、くだらなさにこそ、あなたの苦しみが単に否認され放置されるのではなく、実際にあなたから剥離する可能性も存します。

 

 と、まあ、畳みかけまして、次はこの「文芸部」、自虐が聞き届けられる場所について考察を進めようと思ったのですが、その前に大事なことを言っておかなければなりません。私が、自分をどんどん人前で語って自己をでっち上げていこうという自己物語のドライブについて、「自己を語ることの不可能性」だの、娯楽性を高める必要はないだの、ノリが悪い留保をつけてきたことには理由があります。

 その1つは、そういった自己物語のドライブは、自虐者を、物語で商売する人の良いカモにしてしまう可能性がある(36)からです。

 もう1つは、さらに恐ろしい危険があるからです。当然ながら、自虐的な心境で自己の物語を語ってきた人は昔からたくさんいました。その中には、過酷で救いのない物語をなぞるように実際に行動し、自分や他人を殺してしまった人たちもいました。私は、そしておそらくはあなたも、死んだり殺したりするために自虐してきたわけではないと思います。そうなると私たちは、自虐しながら死んだり殺されたりした人々とは、少しだけ違ったやり方で自虐する必要があります。

 そのためにはまず、自虐的な犯罪者や自死者たちの行った自虐を確認してみなければなりません。未来の希望あふれる文芸部を探す前に、彼らの牢獄と彼らの墓標に赴くことにしたいと思います。陳腐な言い方ではありますが、私がそこにいてもおかしくはなかったその場所に。

32. 浅野智彦『自己への物語論的接近』、勁草書房、2001年。

33. 同書、pp. 7-12。

34. 本書p. 226、「高校時代の自虐ツイートについて」。

35.     若い人だからって一切の情報の制御をしていないとは思いません。日常関わる人とやりとりするためのアカウントでは個人情報を書く人でも、それとは別の目的を持ったアカウントでは、必要な程度に自分の情報や趣味関心を隠すだろうからです。ちなみに近年の調査の中では、Twitterを使う大学生の半数強が複数のアカウントを持っているという結果も出ています。

 松田美佐「『遠征』をめぐる人間関係」(富田英典編『セカンドオフラインの世界――多重化する時間と場所』、恒星社厚生閣、2022年、pp. 215-236)、p. 220。

36.     実際、「純猥談」は一般の方の投稿をコンテンツ化し販売していますが、利用規約によると投稿者に報酬が支払われることはなく、運営会社が無償で投稿を利用できるようです。

「純猥談利用規約-株式会社ポインティ」、(https://pointy.zendesk.com/hc/ja/articles/360039047132-%E7%B4%94%E7%8C%A5%E8%AB%87%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%A6%8F%E7%B4%84)、第19条、最終閲覧2022年10月12日12日。

まあ類似の投稿サービスは過去にもありましたし、Twitterの投稿を拾って記事を作るWebメディアも無数にありますから、これだけが指弾されることではありませんが。

 

次章の試し読み

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