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『メイド諸君!』を読んで―ご主人様の憂鬱とメイドの献身

 先日『メイド諸君!』を読んでから、得体の知れない気持ちの悪さが亡霊のように回帰し胸の辺りに渦巻いています。思いの外、私はこの作品に打ちのめされた(?)ようでした。そのように、ああ面白かった、で済ませることのできない読書というのがたまにあり、物語に限れば太宰の人間失格以来かもしれないな、と思ったのでした。

メイド諸君!  【新装版】 上巻 (ガムコミックスプラス)

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  そういう気持ち悪さをどうにかしたいというところから書いているので、今回は(も)ゲロを吐き散らかすような文章となっています。しかも無駄に長いです。ご承知おきの程よろしくお願いします。

  『メイド諸君!』という作品の中で立ち止まって考えるべき点は無数にあります。先に列挙しときます。なお私が男の身体を持って生まれているので、全体的に見方がそちらに偏向していると思います。

  • 人を記号的な観点からしか評価・認識できない
  • 計算可能性への執着
  • 全知の感覚、自己の中の自己を評価するもの、鏡
  • 反省しない反省
  • 「一人ぼっちの男の子」の救済?

 今回、ほとんど同時に読んだ『男子の貞操』(坂爪真吾 著)という素晴らしい本がありますので、たびたび援用します。

男子の貞操: 僕らの性は、僕らが語る (ちくま新書 1067)

男子の貞操: 僕らの性は、僕らが語る (ちくま新書 1067)

 

  『メイド諸君!』で出てくる言葉などは、上巻=「上(ページ数)」下巻=「下(ページ数)」として示しておきます。なおネタバレになりうる部分も多数あるのでご注意ください。

人を記号的な観点からしか評価・認識できない

 これはどの論点にもつながる論点です。だいいちメイドという記号が、この物語を(とりわけ、鳥取などの人物を)一貫して支配しています。

 『男子の貞操』の中で坂爪さんは、私たちが(特に性的なニュアンスのある)記号で人を見てしまうのは国家のせいだ、といいます。私たちは禁じられたものに価値を見出します。所謂「無修正」とか「ヘアヌード」とかに価値があると思うのは、それが法律で規制されている(されていた)からです。未成年者、所謂「JK」「人妻」なども事情は同じです。それが社会的なタブーであるから、そのタブーを破ることに快楽を感じるようになっているわけです(この辺はバタイユとかが詳しいのかもしれませんが、よくわからないので後で調べます)。で、特に今の時代は二次元三次元問わず膨大な量のポルノに触れる機会があり、ここで人を記号的な観点で見る癖がついてしまうというのです。

 これは作中では、もはやそのコマだけが独り歩きしている「なんで処女じゃないんですか!?」という台詞(下143)に暴露されていると思います。まあこれが記号化だけの問題だとは思いませんが、「処女」という記号には注目できます。女性の貞潔を礼賛し、性的な経験豊富さを貶している(いた)のはいったい誰だったでしょうか?

 (しかしながら、ほんとうは全く記号化を行わないことはできません。言葉で何かを言い表すことがすでにして記号化なのであり、そこには程度の差しかありません。つねに別の仕方で記号化をすることしかできません。そういう意味では、記号化というのは国家のせいだとも言い切れません。もし国家のコントロールがなくなれば私たちは記号化を行わないようになれるのでしょうか? そんなことはないと思います)

計算可能性への執着

 記号化すると何がいいかって、分かりやすくなるのがいいのです。同じ記号と認めたものには、同じ対処が有効です。ポケモンのタイプ相性です。例えばメイド喫茶では店員はメイドとしての振る舞い以外はしません。客の方も、ご主人様然とした振る舞いをすればいいわけです。メイド喫茶は徹底して計算可能な場です。

 誰かが、店員をメイドという記号以外の仕方で見る、あるいは客が「ご主人様」として振る舞わないことで、場は白け、興が冷めます。鳥取はそのような事態を原則認めず、忌避しました(上167等)。そして、彼のスタンスは恋愛においても変わらないのです。「男はリードするもの、女はリードされるもの」なのに、千代子がリードするような振る舞いをしたことで、彼は予想した計算結果を裏切られ、激しく狼狽えるのですから(下47)。ご主人様―メイドの振る舞いの規定は、男と女の性的な役割規範とパラレルです。萌えの世界は、「男と女の性的な役割規範に従うこと」から自由な者たちが集う場所でしょうか? 全然そんなことはありません。鳥取も、なんだかんだ言って世のジェンダー秩序には親和的なのです。

 計算可能性を脅かされ、一問一答のようなコミュニケーションが通用しなくなった状態を、鳥取は作中で「地獄」と呼びました(下146他)。

「あなたがミルフィーユの魔法の人形なら いつ何を話すか どんな態度をとるか予想がつきます

でも生身の女の子に…何を話せばいいのかさっぱりわからない

どうすれば普通の女の子であるあなたが喜ぶか必死になって

後悔と起こってない失敗の心配で 地獄のように苦しむのが目に見えます」(上268-269)

 ミルフィーユ……作中のメイド喫茶の店名

地獄の中でも、彼は同じ仕方で計算を繰り返します。ただひとつの正しい解を求めて、手持ちの記号を元に何度も何度もシミュレートする(下296)。しかし、なぜか実際は計算した通りにいかない。何が悪いのか?

 計算すること自体が間違いなのではないのだ、と私は思います。私は、自分がどうすればいいか計算しないことはできません。作中であったように、相手のことをよく知らない(下296)、つまり記号としてしか見たり評価したりしていなかったというのが問題のひとつかと思います。ただ、相手のことをどれだけ知っていても、計算しないことは私にはできません。

 一方で、「あえて分かりきった解を外れることの快楽」もあります。メイドに手を出すことは「ご主人様」としてご法度ですが、そこには同時に「タブー破りの快楽」もある。坂爪さんの言葉を繰り返すなら、禁止されているからこそレアな体験になるのです。これを恋愛という形で一度味わった鳥取は暴走し、ストーカー行為に出るなどが起こっています(下99等)……。ただし、これは一過性の熱中であり、常態になってしまえばもはや快楽ではありません。坂爪さんの言う通りで、「タブー破りの快楽」は一瞬だけ燃え上がっても、すぐに鎮静化します。そして、次はより過激なものを求めるようになる。こうした禁断症状、耐性あたりはなにか薬物依存を彷彿とさせるのですが……

全知の感覚、自己の中の自己を評価するもの、鏡

 計算した予想が当たると、「私は完全である」*1という思いがします。この全知の感覚が、計算可能性の心地よさです。そして予想が外れることは、誰にとってよりもまず自分にとって恥だ、ということになります。「私は完全である」の反証が示されるので、自己愛に傷がつくのです。

 鳥取は、この全知の感覚を確保するためにあらゆる手段をとります。計算した候補の中では、最も確実性が高いものを選択する。自虐することで予防線を張る。予想していない反応にも慌てない素振りを見せる、など……

 自分がどう思われるかを気にしている、という言い方は正確ではなく、自分が「自分にとって」どう思われてくるかを気にしているのです。自分がどう思われるか、というだけなら、「他者のまなざしに敏感である」ようにも聞こえます。しかし、実のところ非人称的な、内面化された世間(恋愛経験を積むべしとか、男・女らしくあるべしとか、理不尽に対抗すべしとか*2)に敏感なのであって、それは結局は同、つまり内在なのです。他者のまなざしではなく、「自己内部の、自己を評価するもの」によって自家中毒になったり、それに隷属したりするのです。「自分の世界には自分しか存在しない(下173)/自分以外好きになったことがない(下237)」・「自分が自分の主人たることができない(下294)」「主体性*3がない(上297)」という言葉はそれぞれ別の人物に向けられていますが、ここではその意味が重なりうるのです。この場合、目の前にいる実際の人間は「鏡」になります。自己を評価するものの評価を、自己に送り返すための経由点としての鏡です。

 問題は、その非人称的な、内面化された世間と、目の前の他人を区別できないことです。その人とかけがえのない関係を築いていると思っていても、実際には鏡として参照しているだけになり続けるということです。鏡を見ている人にとっては、ある意味では「目の前にいるのが誰であろうと構わない」のです、自己の評価につきあってくれるならば。自分にとって、どんな相手も「かけがえのない存在」ではなく交換可能な鏡なのだが、「かけがえのない存在」としての評価を自己に送り返してくれる鏡はほしい。それが作中ではあるみ(野口歩)という人物でした……

反省しない反省

 誰かについて自分の立てた予想が外れるという体験を、失敗として最終的に判断するのは誰なのでしょうか? 鳥取にとっては、それはやはり自分なのです。自分の予想を超えた事柄を失敗として、自分に対する軽蔑の徴候として同定するのは彼の部屋のベッドの上においてです。彼が千代子の「意図しないところで傷ついていってしまう(下294)」のはなぜか? 千代子の言うことを罵倒と、為すことを軽蔑と、千代子本人の意見を聞かずに判断するからです。「私は完全である」を保持するほうが、他人の意図を汲みとろうとすることより大事だからです。

 誤解を招きかねない、私自身もおぞましいと思うような言い方をするならば、誰かに言われた言葉、された行為を嫌だった嫌だったと引きずり反復することは暴力的なのです。それは自己へと耽溺することです。自己愛憤怒に駆られて理性を消失することです。それは間違っても反省ではなく、逆上であり復讐です。反省する人は可能な限り冷静沈着でなければなりません。全く耐えがたいことですが、自分を罵倒したと感じる相手にすら好意的な解釈を加えなければならないのです。「ああ、ああ、どうせ僕のことを虐めるつもりなんだろう、そんなことは分かっているんだからな」と勝ち誇ることなく、別の意味を考えられること、反省に必要なのはそうした種類の冷静さなのです。

 鳥取はそこまで冷静ではいられませんでした。そして、彼は「全知の感覚」を危機にさらすような、未知の意味を自発的に求めることができませんでした。社会的ネットワークの中でなくとも、自分の能力や評価がどんなに低くても手に入る*4「全知の感覚」は彼にとっての命綱であり、アディクションの対象であり、手放したならもはや生きてはいけないものだからです。

 鳥取には、反省など必要ありませんでした。内面化した世間によって自家中毒になりつつも、全知の感覚だけ守っていけるなら、それはそれで自足し心地よかったのです。別に難病にかかって死が間近なわけでもなし、雨風を凌ぐ場所も明日のおまんまをどうにかする金もある(それどころか趣味に費やす余裕もある)。でも、こうした人はその語のごく陳腐な意味で「一人ぼっち」なのでした。ここまで書いたのに、この「一人ぼっち」のニュアンスを上手く表現することが私にはできません。

「一人ぼっちの男の子」の救済?

 こうした、「一人ぼっちの男の子(下89)」*5の救済の一つの形として、作中の店員たち(メイドたち)はメイド喫茶を捉えています。

 当然ながら、仕事や何やらの場というのは計算可能ではありません。だから、メイド喫茶を訪れる人の「全知の感覚」はいつも危機にさらされ、「私は完全ではない」思いがしています。そうした人が「全知の感覚」に安心して包まれていられる場所がメイド喫茶です。全てが既知の記号であり、気分の波ともヒステリーとも無縁な「メイド」によって作られる空間です。例えば、予想外の不手際さえ「ドジっ子」という記号に回収されますし、マニュアル化された接客―それを分析する客という構図ができています。計算可能性の夢がこの世に具現化しており、それを脅かすものは生じ得ないのです。「それでいいんだよ」「きみは完全だよ」という肯定を全身で浴びることのできる場所です。

 メイド喫茶は人間関係のおいしいところだけを提供しているサービスである、とも言うことができます。結局ここで承認という言葉を使うことになってしまいますが、人間関係から得られる利得というのは、一つには「君はそれでいいんだよ」と受容してくれるようなそういう何かです。でも、その利得が得られるような人間関係を構築するまでには、普通は果てしない時間がかかります。その手間を省略する戦略が、ご主人様とメイドという出来合いの関係を用意することなのかもしれません。ふつう、何の関わりもない赤の他人に突然ベタ褒めされたり、絶対的な受容をされたなら、何か裏があると思うか、自分にそんな筋合いがあっただろうかと違和感をもつでしょう。ご主人様とメイドという物語に乗っかるならば、そこに疑いを差し挟まずサービスに身を委ねることができるのです。

 メイドという記号が、こうしたサービスの味付けに選ばれヒットしたのは偶然でしょうか? 何か本質的な連環があったのでしょうか? 次の台詞はそれを考えさせます。

「忠実で 清楚で 身の回りの世話をやいてくれて

 自分を決して侮らず 慰め 癒す

 ただひたすらに尽くす存在

 メイド服はその象徴 優しいママのような 恋人のような

 でも気を使わなくていい 怖くない女の子という商品

 ご主人様方にはそういう夢を

 楽しんでいただく場を提供しているんだけれど ……」(上296)

  坂爪さんは、性風俗の世界には「利用者の罪悪感を消す仕組み」があるといいます。それは、風俗はエンタメである、というフィクションです。「お金を払わないと女の子と関われないのか……」という、人間関係を金で買っていることの劣等感や「仕事だからやってもらってる」罪悪感を消すために。「ドスケベ!」とか「淫乱!」というウリ文句を付け、「性欲の強い女性が望んで働いています」という物語を一緒に提供するのだと……

 「ご主人様とメイド」という物語も、同様の仕掛けと思える面もあります。メイドは「ご主人様」を慕っており、世話をしてあげたくて奉仕しているのであり、決して『仕事だからやってあげている』わけではない、といった感じに。

 ただ、ただ、これは微妙です。献身することで「献身した側が」救われているとか、一人ぼっちの男の子を助けることが、助ける側にとっての救いとなるということはありえるでしょうか? 作中では、そうなっていると読める箇所が何度かあるように思われます。私は千代子や史子などの人物に「どうしてそこまでする(していた)?」と問いたいです。だって、相手は自分を記号としてしか見ていないんですよ。自分自身には一切興味を持ってくれない相手に、何も返してくれない相手にどうして尽くすのか? 報酬としてお金がもらえるならまだ分かります。でも、尽くすだけで満足だというのは……本当に? 千代子は「人と会うた経験だけは、損とかないやろ」と言いました(下187)。失敗しても傷ついても泣いても、全部宝物だと。そう、かもしれませんが……

 こうした「純粋な献身」は、ふつうに関係するうちいつのまにか生じてしまったならまだしも、明らかな制度の中に組み込まれると危険だと思います。そこには「望んでやってる奴からは搾取していいのだし、やましく思う必要はない」という開き直りが必ず混ざってくるからです。「聖母のような、ひたすらに受容し癒す存在でありたい」というのは、女性を蔑視し記号化する「ミソジニー」に適応しているだけなのではないか、という疑問もすぐに湧いてきます。はたまた、メサイアコンプレックスという言葉も……しかし、こうした論理を聞いてもまだ私は納得できる気がしません。

 功利計算の彼方にまで逃れゆくことで求められ続ける「女性的なものle féminin」*6は、何らかの形で現れることが可能なのかどうか? それが「一人ぼっちの男の子の救済」というときに立ち塞がる問いだと思うのです。

 

 

 

 書きたいことはだいたい書きました。そういえば今回、自己肯定感という言葉を使いませんでした。理由ははっきりしませんが、あえて言うなら、性格診断で片付けることに意味が見出せなかったからかと思います。

 もっと男の下半身にフォーカスした話になるかと思いきやそうでもなかったので、次はそれで書く予定です。今回はさらっと流してしまったミソジニーとかも。

*1:コフート『自己の分析』の、「誇大自己」がはたらくときの機制を借りました。詳しくは和田秀樹『〈自己愛〉の構造』p.35-36。なお、後に出てくる「内面化された世間」は、コフートの「理想化された親イマーゴ」に対応していると読んでもいいかなと思います。そしてさらに、「鏡」となる人間は「鏡対象」もしくは「理想化対象」に対応するかもしれません。

*2:こういう内面化には世間からの「恋愛せよ」「成熟せよ」「自立せよ」等の煽りをもろに浴びて差別と排除を受けてきたのもあるとは思います。鳥取や他の人物はこれらを内面化したくて内面化したのでしょうか? それは物語で描かれる範囲を超えています。

*3:この主体性とはどのような意味でしょうか?

*4:なぜかって、全知の感覚は「自分が駄目なことは自分が一番よく知っている」という自傷的自己愛のことだからです。

*5:一応ですが、この表現に「一人ぼっち」なのは男だけ、という含意はありません。

*6:レヴィナスが初期から用いている術語です。実際の性(sex)としての女性の意味ではありません。