思春期にありがちな実存主義的な気分を克服しないまま大学でポストモダンに触れると両者が融合して「客観的事実というものはないんだ!俺はどうしたらいいんだ!」という実存主義的ポストモダニストになる。
— ひのえ (@hinoe_t) 2013年7月20日
最近こういう態度で生きていて、ジャック・デリダの思想をそういう風に読んでいたら当のデリダにそれを覆されました、というお話です。レポートの再利用なのでいろいろ前提がすっ飛んでいると思いますが、私に補足する気はないので本を見たほうが早いです。
メシア的構造について
デリダが「メシア的構造」と呼ぶのは、現在に予測不可能なものが紛れ込んでいる事態のことである。言い換えると、私たちが望むと望まざるとにかかわらず「来たるべきもの à-venir」に向かって開かれてあることである。
ただ「予測不可能」とは、予想が当たる確率が極限に低いという意味ではない。「来たるべきもの」は確率的に解消されるものではない不確実性、私たちの制御下に置かれることは決してない無規定性を意味する。
できるだけ建設的であろうとすること
「そのようなメシア的構造の考察は、不確実性とともに建設的に生きることに役立つのか」と問われて、デリダはまずは「いいえ」と答えた。*1それは無規定的であるからには、未来に対して何らか具体的な指針を与えているものではないと考えるほかにない。
ただし、デリダは次のようにも述べる。
「…… そして建設的に生きるために可能なことは何でもしなければなりません。これは私たちが常にやっていることです、つまり建設的であろうとしているのです。私はできるだけ建設的であろうとしています。ただし、いかなる確実性もなしに、どこかで間違えない保証などなしに、です。」
「できるだけ建設的」ということはどういうことなのか、できるだけ考えるように試みたが、これには『法の力』の3つのアポリアの箇所を合わせて考えることが効果的だった。私たちは無規定性から逃れることはできないが、倫理的・政治的に生きるならば決断を躊躇するにとどまるのではなく、やはり決断をする。
決断不可能なものによって宙づりにされる瞬間はどうかというと、そのときにも決断は正義にかなっていない。なぜなら決断のみが正義にかなっているからである。
『法の力』, pp.59-60.
メシア的構造を生きる人(つまりすべての人)の決断とは「規則に従うと同時にそれを逃れる」*2ような決断でなくてはならないだろう。そんなことを言えるための論理としては「現在という瞬間は根源的に分割されている」「けっして現在でなかった過去」と「けっして現実にはならないであろう未来」が、現在に入り込んでいる」*3という、デリダの現在についての考えが控えているように思われる。決断の瞬間も現在ではないものに分割されているように、決断が基づく既知の規則も、異なりつつ繰り返される解釈によって複数化されうる。
また、「来たるべきものà-venir」が確率的な不確実性ではないように、それに目をつぶらない決断とは知識の多寡や熟考する能力の問題ではない。
時間と慎重に構える力、知識獲得のための忍耐力と様々な条件を掌握する力とが際限なく備わっていると仮定しても、決断というものは構造上、有限であるだろう。それは、たとえ到着するのがどんなに遅れようとも、構造上は有限である。すなわちそれは、切迫されせき立てられたうえに、無知と無規則という闇の中を進まねばならない決断である。
『法の力』p.68.
ここから考えると、例えば満員電車に乗っているとき、隣で痴漢にあっているらしい人がいた場合に「証拠が十分じゃない」「考えているうちに降りる時間になってしまう」と考えて告発せずにいることは、決断ではない、少なくとも正義にかなった決断ではないのかもしれない。それは計算可能性に執着するあまり、「来たるべきもの」を前にしてたじろぐ態度になっている。コンピューターは止められないかぎり計算し続けることができるが、そこから先に進むことができない。矛盾する複数の命令をコンピューターに与えると、エラーを避けるため永遠にプログラムをループして処理し続け、結局は電源が切れることになるだろう。そのループの途中で電源が切れたことを決断とは呼ばない。もし先ほどの人があれこれ思案しているうちに満員電車を降りる時間になってしまったなら、彼はこのようなコンピューターになろうとしていたのである。*4
その態度は「できるだけ建設的」であろうとすることではなく、デリダはそういう態度を認めたいわけではない。デリダは無規定的なものの前で途方に暮れ続けることを勧めているわけでも、ひたすら思弁的であって無為であることを説いているわけでもない。
アポリアはネガティヴなものではなく、つまり私たちを事実上、立ち往生させてしまうものではなく、むしろ逆に試練や試金石であり、たとえ行き詰まってもそれを通過して行かなければならない、ある決定的な契機なのであって、決定を行なう、責任をとる、未来をもつなどのためには、私たちはこのアポリアの契機を経験しなければならないのです。(強調は引用者による)
デリダの理解において、自分自身は「アポリアの経験」に重点を置きすぎていたかもしれない。また、「不確実性に対して執拗に計算的であらねばならない」と読んでいたかもしれない。デリダが「建設的であろうとする」と述べたことはそういう意味ではなかった。その部分は、『法の力』を読むことである程度修正できたのではないかと思う。
――
「計算可能性への執着」は、この記事でも触れていたけれど自分の思考の癖のようなもので、いつの間にかハマっていてなかなか脱しがたいものかもしれないのです。決断しようね、と思いました。

- 作者: ポール・パットン,テリー・スミス,ジャック・デリダ
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