批評集『息あるかぎり私は書く』発行予定について

2冊目の個人誌がほぼ書き上がりつつあります。

現在、表紙に手こずっています。
私の技量では、この本のアイデアに一致した表紙を作ることができないのではないかと諦めそうになります。まあできるだけやります。

現段階での序文・目次をここに掲載します。

 

 本書は、田原がブログに投稿したいくつかの記事をもとにして執筆された批評エッセイ集である。各章の元となった記事は、2020年8月現在もインターネット上で引き続き閲覧することができる。ただし、本書ではそのすべてが大幅に改稿されたうえ、新規に書き下ろされた章も半分以上あるため、重複している分量は僅かである。

 副題を「フィクションの中の創作について」としたとおり、本書では、登場人物のうちの誰かが創作活動に従事する漫画、アニメ、ノベルゲームなどの娯楽作品がいくつか言及される。しかしながら、本書の目的はそのようなジャンルに特化した作品紹介ではない。この作品はこんな人に「刺さる」はずだ、このような要素が好きな人にはおすすめだ、という推薦はほとんど含まれていない。期待をもたせるようなあらすじの紹介も不十分である。むしろ本書の大半は、私を含む現代人が好き好んでものを書いたり絵を描いたりする動機や条件に光を当てることに費やされている。言及される作品は、その目的を促進するために用いられるにすぎない。ただし、それは作品やそれを巡る言説を微に入り細に入り検討しなくてよいということではない。これについては、第十章を参照してほしい。

 もう一度確認するが、本書では、私は主に私がしていること(書くこと)について書こうとしている。その際、他人が書くことについて書いたもの(書くことを書いたもの=創作行為を描いた創作)を参照している。この二つの自己言及を受け入れたところから始まっているために、本書は必然的に、言及する作品の内容よりも、それが作られてあること自体に注意を向けることになる。同時に、私にとって本書は私が書く内容よりも「私の生活の中で書くことがどんな位置を占めるか」を意識させる。あなたにとっても、本書は本書自体よりもあなた自身が普段していることに多く注意を向かわせることだろう。もしあなたが、自分の普段していることが何なのかを理解したくないとか、すでに自分はそれについて十分理解していると自負しているとか、そもそもそれを理解することに興味がないとかいうのであれば、ここで速やかに本書を閉じたほうが安楽でいられるはずである。

 本書の構成は次のようになっている。第一章から第三章までは、漫画や小説を作る者が作品にかける並々ならぬ思い入れについて、また、作者が作品を世に公開せずにはいられない理由について考察される。そして第四章から第六章では、作品を作者と深く結びつけるような思想がもたらす帰結は、究極の読者とのロマンティックな幻想と、そこからかけ離れた他人との拷問めいた生活共同体制であることが判明する。最後に第七章以降では、生活と創作との二項対立を懸命にかわそうとする創作者たちの姿を捉えつつ、私たちが書くことを妨げ、また続けさせるものについて考察される。一見これはストーリー仕立てに見えるが、何らか興味関心を引く部分があれば、そこから読み始めても問題はないはずである。

 最後に、この本につけられた標題について注釈を加えておきたい。
「息あるかぎり私は書く」というのは、ラテン語の格言"Dum spiro spero”(生きているかぎり希望はある)という格言をまねて"Dum spiro scribo"としたものの訳である。

 "Dum spiro scribo"(息あるかぎり私は書く)というと、何やら書くことというのはずっと続くと言っているように聞こえる。しかし、この「ずっと続く」というのは、私には何も書いていない時があるということを含んでいる。実際その文を"spiro"(私は息をする)という語の原義とおりに取れば、息が切れるような疲労の中にあっては私は書かない(書けない)、息をしているかが原理的にわからないような状況では私は書いていない(眠りながら書くということはできない)という示唆を読み取るのも不可能ではない。そして、その示唆はまったく荒唐無稽なものではない。私たちは身体的な存在であり、食べたり休息したりという生命維持の行為に中断されなければ、創作行為を続けることはできないからである。まさしく"Dum"(~する間)という語は私が書くこと(scribo)を限定しているのであり、今からこの本の標題を「書くことと有限性」という直截なものに変えてもよかったかと思うくらいだ。
 私たちの行うことには必ず規模の限界があり、断続的なものにしかならない。もちろんその限界は創作行為にも存在する。だから「息あるかぎり私は書く」という題を、「少なくとも人生という視野の中では、書くことが途切れずに続く」という単純な誤謬あるいは誇張表現に結び付けてほしくはない。死ぬ前だろうと死んだ後だろうと、私たちの行為に途切れず続くものなど何もないのだ。書くことは眠りや息切れに寸断されており、「書き続ける」という言い回しは常にその寸断を無視したひとつの比喩でしかないのだから。

 

目次(仮)

第一章 「卵の比喩」について
 親と卵の比喩
 卵の比喩から「特殊な思い入れ」へ

第二章 「卵の比喩」補論
 「思い入れ」は愛着に限らない
 「産みの苦しみ」は身体の痛みに限らない
 「思い入れ」には程度がない
 創作物の聖別

第三章 作品の公開と不可能な廃棄
 「承認欲求」だけでは答えにならない
 芦原妃名子「月と湖」
 原稿を捨てていればよかったのか
 演技と看過
 暴力の必要性

第四章 物書きたちの泣きどころ
 自分の心の最も深いところ
 承認の断念
 屈折させられたコミュニケーションの要請
 執筆の動機

第五章 部活、文体、人格 ——「そこにいること」について
 安らぎの場所
 文体の人格化
 彼女たちの詩がわかりやすくない理由
 主人公、読まない読者
 「私とともに目を覚ましていなさい」

第六章 自己表現的創作の隘路
 自己の認識と「謎」
 絵画において「自分そのもの」を表現すること
 自己の背後
 名づけの不可避と画家の独我論
 関係を続ける理由はあるのか?
 恥じらいと支援者
 生活は何も解決しない

第七章 「わたし/あなた」から「彼」へ ——仕事としての執筆
 他人のために作る人
 市場の要請
 物質を操る必要性
 公私混同への警戒
 100%でないことの寂しさ
 ドラマみたいな言動
 第三者への開け

第八章 ファンカルチャーと生活の創作術
 ヒューマニストの誤謬
 拝金主義的アイデンティティ戦略
 「責任を取らない愛」
 ファンカルチャーの極限1 都市のエンパワメント
 ファンカルチャーの極限2 清貧の瞑想
 ファンたちは政治的になりうるか
 「推し」の死と喪に服すること

第九章 また執るために筆を置く——創作の中断について
 創作活動をやめる事情
 莫大な作業量と有限な労働資源
 状況の変化
 描かなくなることは喪失なのか?
 描き続けるための隠遁
 ビョーキとしての創作
 中断される狂気

第十章 書いていない本について傲慢に語る方法
 書いたことを忘れる
 意図せずに傷つく
 議論を中断する
 〈社交場〉の作法を観察する
 驕りを持ち、他人に期待する
 論争のテーマを限定しない
 レトリックを研究=実践する

参考文献

あとがき

言及される小説・漫画・ゲームなど

  • 香魚子「もう卵は殺さない」
  • 芦原妃名子「月と湖」
  • Team Salvato『Doki Doki Literature Club!』
  • Four Leaf Studios『かたわ少女』
  • 大久保圭『アルテ』
  • やまがたさとみ『うそつきラブレター』
  • 沙嶋カタナ『君がどこでも恋は恋』
  • 売野機子ルポルタージュ-追悼記事-』
  • 山名沢湖『結んで放して』
  • ピエール・バイヤール『読んでいない本について堂々と語る方法』

 他

 

以上です。

9月ごろには通販を始められればいいなと思っています。