祝福された居候状態―桜小路かのこ『ラストノーツ』について

 少し間が空きました。前から書こうと思っていた作品についての感想文です。また連載のような形になるかもしれません。 

 全3巻完結

 

 ネタバレあらすじを書いておくと、「唯一の親族である祖父の死により天涯孤独になった主人公が、遺産の香木を線香の会社に持っていき、その子息であるイケメン金持ち兄弟の家に居候することになり、片方と恋人になって同居が終わる話」です。

 身寄りのない他人を引き取り、引き取った側と引き取られた側に恋愛関係が生まれる話というのはそれこそ数限りなくあると思います。この物語も、まさにそうしたご都合主義的な展開で幕を開けます。しかしながらこの作品は、ご都合主義的な展開ではしばしば省略される「人間一人を養う重さ」を正面から引き受け、じっくりと時間をかけて描いています。

 なぜこの作品にそうした重さがあるのかというと、それは生活にかかる金、費用、コストというものをはっきり登場させているからだと考えられます。

 

二つの経済的取引

 生活の中に他人を招き入れるというとき、まず必要となるのは物質的な給付にほかなりません。普通の人間は霞を食べ、木の葉をまとっているのではないのですから。

 作品に登場する「コスト」という言葉が指すのは、第一には人が暮らすために使う物品の購入費用です。たとえば作中でえみるは服、携帯電話、洗髪料等を買ってもらっています。当然ながら例に挙がっているのは人との共有が難しい物品です(シャンプーは共用できますが)。第二には、何かを使わせてもらったり、自分の代わりにやってもらったりすることの負担です。例えば風呂を用意してもらう、洗濯されたタオルや着替えを与えてもらう、部屋や寝床を使わせてもらう等々。

 このようなコストは、「~してもらう」という形で表現されることからもわかるように、自分は受け取りすぎ、相手は差し出しすぎているという不公平の感覚をえみるに与えていました。それは「なぜこの人はここまで自分に親切にしてくれるのだろう」という疑問を抱いている状態でもあります。

 その疑問の答えを彼女が見つけるのは、3話の冒頭で「反魂香」について何か知らないかとアキから尋ねられたときです。アキとハルが経営する仁藤香堂分店にえみるの祖父は反魂香を卸していたのですが、その入手ルートや在庫について二人は知らされていなかったため、その情報をえみるに尋ねたのでした。

アキ「えみるちゃん 何か少しでもじいさんから聞いてない?」

(略)

えみる(アキさんたちは〔反魂香について〕知りたがってる

   私に親切にしてくれるのはそのためで…

   知らないなんて言ったら
   私はここにはいられないんだ…)

(1/pp. 110-111、〔〕は引用者補足)

 ここで反魂香について正直に知らないと言うか、知っていると嘘をつくかをえみるが逡巡する数コマは、この作品最大の緊張感を伴っています。

 もう一つ具体的な例を挙げるなら、次のやりとりを耳にしたえみるの反応があります。

アキ「服 誰かに選んでもらったの?

  あ 彼女か」

ハル「今年 入ってからできたあいつのことなら もう別れたよ」

アキ「…… また金がかかるとかそういう理由なわけ」

ハル「コストに見合うものが得られなきゃ 付き合う意味なんてないだろ!

(1/p. 117、傍線引用者)

えみるは、ハルの最後の発言をすぐに次のような類比で考えます。自分の場合は「二人に買ってもらった服など」がすなわちコストであり、それに見合うものとは、自分がもつ(と嘘をついた)反魂香の情報なのだと。居候生活をさせてもらう代わりに、反魂香について知っていることを教えてもらう。これは一つの経済的取引です。この取引の仮構によって、ひとまずは他人を生活に招き入れるということの説明が行われます。「人が人を養うということというのも、一つの経済的取引である」とするのが、この作品のリアリズムなのです。

 えみるは料理、店番、買い物などの手伝いを率先して行いますが、それは未だに自分の受けている恩恵の対価を差し出せていない(嘘なのだから差し出せる情報もないのですが)ことに対する負い目もあったのでしょう。そして、かつては実質一人で家事や雪の掃除をしていた彼女だからこそ、そうした生活環境を整えることの苦労を軽視せず、それをしてもらうことがどれだけの負担かということを理解もでき、少しでもその負担軽減に努めなければならないとも思ったのでしょう。

 とはいえ、アキとハルにしてみれば、この「居候生活をさせてもらう代わりに、反魂香について知っていることを教えてもらう」という取引をしていたつもりは全くなく、これはえみるの早合点にすぎなかったのですが。

えみる「私 反魂香のこと何も知りません

   嘘ついてごめんなさい
   ごめんなさい…!」

アキ「それが何?

  そんなん目当てで引き止めてるワケないじゃん」

(1/pp. 168-169)

 アキにとっては、えみるが反魂香の情報を持っていればラッキー程度のものであり、たとえ彼女がそれを持っていなくとも、彼女を居候させることに変わりはなかったでしょう。なぜなら作中で言われているように(1/p. 177)、えみるを居候させることは、彼女の祖父から受けた恩義に報いることでもあるからです。

 生活のコストと情報とを交換すること、故人から受けた恩をその相続者に返すこと、この二つの経済的取引を背景にしながら人物たちは行動しているのでした。

 ただ、何が何でもえみるを一人にさせたくないアキの必死さというのは、単に恩返しという域を超えた偏執的なものですらあります(cf. 1/p. 166)。これについては後に語られる彼の過去を参照しなければならないのですが、それはまた別の機会にします。

 

共同生活の近さにおける快と不快

 上では、居候と家主の間にあるものを経済的取引としてきました。しかし、えみるの祖父の退職金を彼女に受け取らせた上に居候までさせるのは、与えすぎて取引にすらなっていないのではないでしょうか。

 困った人に金をあげることと、困った人を家に受け入れ生活させてあげることは、目指すところは同じであっても、その困難さは全く違います。私は被災地に募金をすることはできても、被災者を自分の家に受け入れて食事を作り、着替えを与えて古い服を洗濯し、その人の寝床を用意するのは難しいと感じます。というよりそうするのはかなり嫌です。

…もっともレヴィナスは、マルティン・ブーバーとは逆に、財布を開くことはやはり容易であり、反対に、他者のために何かを行い、他者を養い、服を着せ、住まわせ、他者と「日々の生活」を共有し、他者を一人で苦しませず死なせぬことは、財布を開くよりもはるかに大きな対価を要すると考えているのだが。

 このことは、次のような事実によって説明される。すなわち、交換の経済的手段としての貨幣(後述)が、より客観的で距離を置くのに対し、住居や所有物は、自分自身の地上的な自同性と、自分自身の存在への固執に対する愛着をより直接的に表現しているのである。

 

ロジェ・ビュルグヒュラーヴ「貨幣とつねに改善される正義―エマニュエル・レヴィナスの視点」(エマニュエル・レヴィナス著, ロジェ・ビュルグヒュラーヴ編, 合田正人+三浦直希訳『貨幣の哲学』, 2003, p. 27.)

 ビュルグヒュラーヴが述べるように、金を与えるだけなら、その与えられた人は、金を使ってまた遠い誰かの労働の結果を享受しそこで生活するので、自分の生活が直接的に脅かされることはなく、少し家計が苦しくなるという結果があるだけです。しかしながら、誰かを自分の家で生活させるとなればそうはいかない。だからそれは難しいことなのです。

 ですが、今回の『ラストノーツ』を含めた少女漫画の想像力は、こうした洞察が見落としていることにいつも焦点を当ててきました。それは、必然的にゼロ距離で生活に割り込んでくることになる居候の近さが、家主の好みによってはそのまま快感になるような奇跡的な状況がありうるということです。

 この作品で、えみるの居候に伴って自分の生活空間が侵食されていることを快と感じているのは、ほかでもないアキでしょう。彼は彼女の体臭を愉しみ(1/p. 69, 81, 134)、彼女を「美少女」「すげぇかわいい」と絶賛する。これは、彼らの同居が成立するにあたって決して些細な要素などではありません。もしもえみるが、アキにとって(たとえ不潔な状態でも)快いと思える体臭であり、ナチュラルボーン美少女でなかったならば、共同生活の近さによって少なからず疎まれただろうからです*1

 人間が生活する中での不快さとは、清潔で衛生的でない状態のものを見ることが避けられない不快さです。洗っていない皿、掃除していない便所や浴室、洗濯前の汚れた服が耐えがたいものであるように、同居人が一日の汚れを抱えたときの臭いや、くつろいだ時の見た目が耐えがたいということは、その者と共に生活することが耐え難いということなのです。5日風呂に入っていないというえみるを即座に風呂に入らせたハル、彼女の普段着の選択にも神経を尖らせるアキ、ハルの様子は、どんな共同生活の描写よりも正直な実感だといえます。しかし、ちゃんと風呂に入り、年相応の普段着を調達してしまえば、えみるは二人に(特にアキに)とって驚くほど五感に障ることのない、それどころかむしろ愛玩動物的に快い存在だったのです。そうした問答無用の快さは、人を養うことへの深刻な抵抗感をたしかに軽くするだろうと思います。余計なことながら、その快さは人がどんな大変な思いをしてもペットを飼おうとする理由、「ヒモ」と呼ばれる男が存在できる理由を考えさせてくれる気もするのです。

 

世間の目にどう対応するか

 若い男と若い女が、他人同士ながらも一つ屋根の下で暮らす。恋愛ものによく見られるこうした条件はしかし、現実にはそこまで頻繁にみられるものではありません。

 この作品の正直なところは、そうした標準的な家族ではない同居について「いかがわしい関係があるのではないか」と勘ぐる人々がいるのを描いていること、そしてその噂好きな人々によって不快な気分にさせられながらも、そういった人との関係を維持する状況を描いていることです。

 作品の舞台である仁藤香堂分店があるのは東京都心から離れた下町とされています(1/p. 96)。こうした地域ではへたな地方よりも、商店街と近所づきあいという前時代からの仕組みが生き残っているようです。実際この作品では、ちょっとおせっかいなくらいのおじさんおばさんに囲まれ、アキとハルが暮らしてきた様子が描写されます(1/p. 123)。しかし、そういった距離の近さはときに下世話な噂話を生成することにもなります。私が彼らに近い環境にいるといえばいるのでこれは実感なのですが、人のプライバシーを侵害する噂話ほど上質の暇つぶしになるようで、まことによく伝わるのです。

 まあそれはともかく、1巻の140ページで分店を訪れるおばさんが、そういった噂を作中に持ち込む代表人物として描かれています。こうした噂を楽しむ人によくあるように、おばさんには明確な悪意はなく、ただ思ったことをそのまま繰り出しているだけなのです。いわゆる「魔性の女」の娘だったえみるにとって「男好きしそう」などといった言葉はかなり致命的な暴力なのですが、噂でものを言っているだけの彼女がそんな事情を知っているはずもありません。おばさんは生活圏にもたらされる新鮮なゴシップに飢えているだけで、決して性根の腐った人間ではない。そしてハルやアキのほうも、彼女にちょっと不快な気分にさせられるからと言って、自分たちや向こうが街から出ていったり生活圏を変えることは叶わない。そんな場合必要になるのは、アキが1巻のpp. 142-143でやってみせているような「やんわりと相手に不快であることを伝える技術」なのです。

 具体的には、表情、声のトーンなど非言語的な情報を用いて、「これは真剣な怒りや不快感の表明である」というメタメッセージを送ることです。しかしそれだけに終わるのではなく、そこで中断されてしまった無邪気なおしゃべりをすかさず回復させることにより、そうした怒りや不快感が永久的な絶交を表すものでないことも伝えます。このような高度なコミュニケーションは私が最も苦手とするもので、19という若さでこの技術を使いこなすアキを私は尊敬して止むことがありません。

 なぜこうした技術がアキに身についていたのか。それはえみるを迎えるまでもなくアキ達がそもそも典型的な世帯ではないため、様々なうわさ話と偏見に曝されてきたからではないでしょうか。有名企業の御曹司とその兄弟である養子が、2人で怪しげな線香店を営んでいるというところからしてかなり異常です。しかし、それでも二人は親元を離れ、近所づきあい濃厚な下町で住み続けてきたのです。

アキ「俺たちはいいよ 言われるのが嫌ならこんなとこいない」
(1/p. 168) 

年齢に比して彼らは大人すぎると私が感じたのは、他人たちの中で上手く振舞うことを空手で学び生きてきた二人だからなのかもしれません。

 すると二人のほうにはえみるを迎え入れる準備ができていたのであり、逆にこうした世間の目への対応ができない人であるなら、えみるを迎え入れることは社会的に厳しい立場に置かれることを意味します。そうなればそのホスト志望者は、結局えみるを保護するという目的も十分に達成できないままになるでしょう。まさにそうした例が作中の岳志なのですが、いずれは彼の苦悩についても語ることになるかと思います。

 

 

 結論として、人が人を養うときに発生しうる困難について、ここまで周到な弁明を用意してある作品を私はほかに知りません。この作品は人を養うということの重さを真摯に描きながら、諸々の偶然が重なった結果として、それをいとも簡単に背負い上げるのです。作品の前半は、まさにこの祝福された居候状態が成立するまでを丁寧に描いているといえます。しかしこの作品はそれで満足することなく、さらに先まで進むのですが、それはまた後の機会に。

 

貨幣の哲学 〈新装版〉 (叢書・ウニベルシタス)

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*1:たとえ彼女がどんな人物であっても、アキはまた別の事情から、彼女に金だけ与えて見放すことをよしとはしないでしょうけれど。