高校時代の自虐論まとめ―自虐と他者

 高校時代にツイートしていた理屈を分類しつつ供養しようと思う。一度まとめようと思って放置していたが再開した。
 どうやら前提となる考え方が大きく分けて2つあり、そこから自虐という振る舞いがある種の自己救済の試み(?)として掲げられるようだった。

 

前提1:苦しみは自分だけのもの

すべては何が問題かといえば、自分とは立場が違う者への無理解、無寛容、無知、これに尽きる。当事者意識が持てない奴等の増殖、他者を思いやれない慮れない奴等の増殖、全てはこれ。これで全てが説明できると思う。人間の劣化だ。機械は発達しデータは増えたが、それを扱う人間自身が劣化しまくってる

 という人のツイートに対して、当時の私は次のようなことを言っていた。

たしかに、色々な境遇の人の苦しみを知ることは十分に可能です。でも、所詮「他人」が知ったところでその苦しみを減らすことも、自分のことのように苦しむこともできないのです。

それで辛気臭い気分になるだけなら知らなくて良い、という気持ちがあるのではないでしょうか。

私は苦しんでいる人を見ると、私と他人との果てしない断絶を感じるのです。どうせ私に他人の苦しみなど理解できない。自分の苦しみは自分だけのもので、他人の苦しみは他人だけのものであるという思いがあります。だから他人の生き様を貶めたり、憧れたりといったことが等しく無意味に思えるのです。

幸せが人それぞれであるように、苦しみも人それぞれ、自分だけのものだと思いたいですね。大きい小さいに関係なく、誰にも理解されなくても、「私はこれが苦しい」と自信を持って言いたいものですね。

他人の苦しみは情報として知ることはできますが、同情を向けたり、相手の苦しさを勝手に想像する必要は無いのではないかと思います。

同じ悩みを持っている人となら、本当に理解し合えるのではないかと思った時期もありましたが、そもそも自分と全く同じ悩みを持っている人など見つからないことに気づきました。

 共通するものもあるが、多くは自分に固有のものだという。それはなぜか? ……個々の人生経験に由来するからだと考えているらしい。「自分が自分であることが苦しい」という表現も他のツイートに見られる。

 苦しみがこのようなものだと考えるならば、他人のそれを知った気になっても(情報は得ることができるが)、軽減することも同様に体験することも不可能だという。

 どうしても、他人について分かった気になることは罪だという考えがあるらしい。

他人の前で落ち込んだ時点で負けだということでしょうか。どうせ自分の苦しみに他人は手を出せないのですから。

だから、上手くやれる人はつらいときでもヘラヘラ笑っているのでしょう。私は無理でした。

 同様に、自分自身が他人の前でつらいつらいと落ち込むことにも意味がないと考えている。そんなことをしても苦しみは変わらない。適切な応答などけっして為されないからである。 
 
・それでも鬱々と語ることをやめられない
 

前提2:コントロールできない他者

私は、他人をハリボテのように見てはいけないと思っています。それは相手を思いやるという意味からではありません。他人は絶対に自分の思い通りにならない。私の望むところを決して実現してくれず、望まないところを積極的に為してくる。まるで荒神のような、無限に恐ろしい存在であるからです。

他人は、私にとって神にも等しい存在なのです。私は荒ぶる神を鎮めることはできず、じりじりと身を引きながら、供物を捧げ、懸命に祈り、災いが通り過ぎるのを待つほかないのです。地震や雷や暴風を起こす天地自然に対して、泣いても喚いても無駄なのです。

私にとって、全ての他人は神なのです。付き合うにも七面倒な儀式が要り、私の声が本当に届いているのかは決して分からない。対等に話し合い了解し合えるヒトなど、どこにもいない(もしくは私にその能力がない)。まして、形式なしに付き合えて、何でも聞き届けてくれる奴隷は尚更いないでしょう。

なんとも極端な他者観で、中途半端な私には相応しくないようにも思われますが、常に他者を私のコントロール外のものとして畏れることは、他人への攻撃性を解除し、人間として歩み寄る努力を放棄する言い訳にもなる、忍従的クズの必死の知恵なのです。

よく親に「他人は自分の思い通りにならないよ」と言われていたんですが、私は「じゃあ他人に私の話を聞いてもらおうとか、分かってもらおうとかいうのは無駄なんだな」と曲解して、実際その通りだったので、いつの間にかこういう考え方になっていました。

親の意図は単に「傲慢になりすぎるな」ということだったのだと思いますけど。それが屈折して虚無主義的に解釈されてしまったのでしょうか。 なるほど、たしかに私は親の思い通りには育ちませんでしたね。「他人は自分の思い通りにはならない」ええ、まさにその通りなのです。

  自分でも言っているが、極端な、恐るべき他者という考え方が出ている。その源泉を親の口癖に帰しているが、それだけではないだろうと思う。

 コントロールできない他者とは言っても、当時の自分が「攻撃性を解除」と言っているように、暴力によって服従させることもいつも可能ではあった(「他者とは私が殺したいと意欲しうる唯一の存在者なのである」)。しかし多くの場面でそうした行動は選ぶことがなかった(自分が暴力をふるったときというのは、多くの場合それを暴力だと自覚せずに行っていた)。なぜあからさまに力に訴えなかったのかは明らかではない。
 
 
 これらの前提を通過した後、ツイートの内容は自虐そのもの、もしくは自虐する際の態度について語るものが増える。
 
・自虐の弊害

そうなんですよね。自虐の弊害は、それを見た人が「自分のこと言われてるみたい」と感じてしまうことです。

 でもやめないらしい。

ごめんなさい。私は俗物ですから、残念ながら私の同類もたくさんいることと思います。ですが、自虐はやめられません。

 

・なぜ自虐するのか?

私は自分の負の感情を、自虐や小説の内容として戯画化して、常にそれに酔っているようなところがあったんですけど、それがいつまで保つかなと恐れてもいます。

自分がクズであることをアイデンティティに据えるとは、そういう行為を言うのです。悲劇の主人公でも、哀れな道化でもいいから、何者かになりたい。大好きな自分が消滅してしまうのが嫌なんですね。

自虐も、自分語りには違いないですから。

でも、そういう自分語りが他人にとっては塵ほどの価値もないことも分かっていて、 周りからしたら「ぐだぐだ自分のクズさを語ってないで変える努力をしたらどうなんだ」という感じだと思うんですけど、それができたら苦労しませんよね。

「自分の無能さ、愚図さを弁解するな」と言われたら、「さっさと死ね」「自殺しろ」ってことだと解釈します。言い訳は私の生命線なのです。

立派な自分を誇っていたら、叩かれたとき余計につらい。ただ、それでも私の臆病な自尊心は誇れる自分を要求する。そこで「クズな自分を誇る」という、苦しまぎれの、姑息な、矛盾した自己愛が生まれたのです。

幼児期に根拠のない全能感を膨らませ、後にその伸びすぎた鼻をへし折られた経験が、トラウマになるほど恐ろしかったのです。
クズを名乗り、あらかじめ自分にマイナス評価をつけておく。誰かに貶されるくらいなら自分で貶す。結局、私は一番可愛い自分自身を、他人の非難から守りたいだけなのだと思います。

私がよく使う「クズ」というのは、意志が弱いとか、ネガティブ思考だとか、行動力がないといった「様々なマイナス評価のついた私」を示しています。たいてい他の人のことは想定していません。
「自分を変えろ」とか「考え方を変えろ」という言葉は、私にとっては「赤ん坊からやり直せ」という罵倒にしか聴こえないのです。今の自分を殺して生まれ変われ、と。

  自己愛と自虐は切り離せないもので、これは以下の中でも言及したことです。

dismal-dusk.hatenablog.com

 

・自虐は自己完結すべき

色々なツイートの中に自虐的なツイートを混ぜておくと、見事にそのツイートだけ反応がゼロになります。 いい感じですね。自虐は無視されてこそ成功です。ウケてしまってはいけません。

自分ばかり見ていて他人が見えていない、そのくらい徹底した自分語りが自虐なのです。 他人を視野に入れ、社交の心を持って自分を下げる言葉は、全て「謙遜」と呼ぶべきでしょう。

私は、いわゆる「自虐ネタ」「自虐風自慢」は、本当の自虐ではないと思っています。 本来、自虐とは一人でも完結するものなのです。部屋の壁に向かって、延々語りかけるような心持ちで行うのが正しい。当然、壁は何も応えてくれません。私の Twitterもそんな感じでやっています。

あと、「自虐ネタ」ってなんでしょう。自虐することで笑いを取れるというんでしょうか。もしそうなら私はとっくに人気者じゃないですか。自虐は惨めでウザくて、人の笑顔を凍り付かせてナンボだと思いますが。

承認を目的とせずに行えること、つまり、どんなに頑張っても絶対に他人から無視される (ちやほやされない)行為といえば、やはり自虐や、役に立たない哲学的思索が挙げられると思います。

 

・批判・誹謗中傷に比べ非社交的な行為

自分がクズなのはその通りですが、他人の足を引っ張ろうとしてはいけませんね。「私はクズだ」で止めるのが自虐の必須要件です。「私はクズだ、その点他人は……」と、自分と他人を並べた瞬間に、嫉妬の心が現れる。
自分はクズだ、持たざる者だという思いが他人に向かうと、僻みや嫉妬の言葉になって現れるのです。

でもまあ、批判的・攻撃的な言葉にRTが集中するあたり、やはり批判や誹謗中傷は「受けがいい」んですよね。みんなで悪口を言うのは、どこの世界でもコミュニケーションの基本なのだろうと思います。

対して、自虐は全く非社交的な行為です。自ら発して自分に帰る、私もそれを意図しているので、本来は他人の入り込む必要性もないのです。それでも私が自虐を公開しているのは、ただの自己満足です。露出狂みたいなものでしょうか。放っておいていただけるのが誰にとっても良いと思います。

 なぜ「部屋の壁に向かう『ような』気持ち」であって、実際に壁に向かってしゃべるだけでは飽きたらないのか。インターネットもメールも携帯も人間との接触がなくても自虐は可能か。誰も見物人がいない場合に露出狂は露出狂でありうるか。

 また、「無視される」というのも誰かの視線を前提しているのだから、応答ではないのだろうか。

 それはともかく。

 

・自虐は、「苦しみ競争」からの逃走手段

天才には凡人の苦悩が分からないだとか、天才には天才なりの苦悩があるというのは、よく言われますよね。「みんな固有の苦しみを抱えていて、それらは互いに比べられない」ということではないかと、私は想像するのです。

でも「おまえより私の方がずっとつらい。おまえの苦しみは軽い(だから私はおまえを憎んでよい)」とか「こいつの苦しみに比べたら、自分はまだ恵まれてるほうだな」といった、苦しみに優劣をつけて何とか自分の精神的利益をせしめたいという気持ちも、私の中に確実にあるのです。たぶん、他の人にも。

私はクズなので「苦しみの相互尊重」なんていう立派な理想を本気で信じることができませんし、それを実践できているとも思いません。いつでも私は、勝手な想像と比較による「苦しみ競争」に参加しているのです。無駄なことだと思っていても、いつの間にか。

私は、なるべく他人との苦しみ競争からは距離を取っていたい(不毛なので)。しかし同時に、自分の苦しみを吐き出したくもある。そんなときは、社交を控えて自分の苦しみを語ることに専念しようと思うのです。自虐するときと同じく、部屋に引きこもり、壁に向かって延々と語るような気持ちで。

苦しみを語ることも、自虐も、競争ではないのです。他人の事情は二の次三の次です。それを公開する場合にも、自分の恥部を見せるということに意味があるのです。露出狂は、露出したらそれで満足しなければならない。たとえ無視されようと、「おまえ、小さいな」とか言われようと、関係ないんです。

  これは前提1が強く意識されていると思われる。

 

・なぜ自虐の語り口を工夫するのか?

 ただ、苦しみを語るときの語り口というのは考える余地がありますね。自分だけが分かる言葉で語るなら、一言「つらい」でも十分なわけです。「もし別の誰かに伝えたとき、伝わるような言葉で」語ろうとすると、自分の矛盾や、理屈では説明がつかない部分がはっきりし、苦しみがクリアに見えるのです。

 苦しみを語るために工夫をこらすのは、あくまで自分のためだと思うようにしたいですね。その巧みさで他人にチヤホヤされようとか思うと、そのためにいくらでも苦しさを演出するようになり、鬱陶しい不幸自慢しかできなくなる。苦しみを語るというのは本当に難しいものです。

 

 不思議なのは、なぜここまで、承認を目的としないことや非社交性を強調するのかということだ。自虐から他人を締め出そうと苦闘しているのはなぜか?

 それは先の記事にも書いたが、承認欲求に素直であることへの軽蔑、出る杭は打たれるという規範の内面化があるだろう。それはもうどこまでもルサンチマンなのだけども。

 また、結局は人は誰かに助けられることはできず、自分で勝手に助かるしかないという信念も理由の一つだろう。その人にしか手を出せない苦しみというのは確かにある(これらの信念は、付け加える点はあるにしろ今でも大して変わらない)。その種の苦しみを分かった気になられたり逆に説教を受けたりすることは、救いどころか傷口に塩を塗りこまれることだ。そのリスクを回避しようとするあまり、自虐する態度について必死に但し書きをつけることになった。

 

 ただそもそもの話になるが、どうしてそこまで注意しつつ自虐を公開せねばならなかったのか。もし、自虐が他人から分離できるのならば、なぜ一連のツイートをチラシの裏に書き留めて終わりにしなかったのか(もっと言えば、頭のなかで唱えて満足しなかったのか)……この問いにかつての私は結局答えなかった。自分が凡人だからとか、クズだからとか、露出狂というレトリックは答えになっていない。「凡人」や「クズ」や「露出狂」が、なぜ他人に自虐を公開したいという欲求を持つのかを説明していないからである。

 自虐をチラシの裏に書き留めて終わりにすることが不可能であるとしたら、それはどのような種類の不可能性だろうか。それは、ある思想家が述べる、他者に対する責任から逃れられないという不可能性とパラレルなものだろうか。

 ↑違うと思う。

 

 疲れたので続きはまた後で。

 

「自分の恥部を見せるということに意味がある」という言い方はある意味当たっている。近代の私小説とは自分の性愛の遍歴を晒すものであった。自己を語ることとは自己のセクシュアリティを語ることだった。今でもそういう側面あるだろうか。

 他人を自分の姿を映し出すための鏡とみるのと、自己をこえた何かとみるのでは全然違う。行動としては前者を前提しており、主張内容としては後者だった?

 

 子どもを産み続ける(生物学的な意味には限らず)かぎりで、主体である。★散種?

「大好きな自分が消滅してしまうのが嫌」