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「自傷的自己愛」の表出としての自虐

 最初の記事で載せたものをほぼそのまま再掲する。


 「自傷的自己愛」という概念がある。ひきこもりや自傷行為の経験者はしばしば「自分が嫌い」「死にたい」といった言葉を口にする。「自分がダメなことは自分自身が誰よりもよく知っている」、この「知っている」ことが自己愛の担保となることがあると精神科医の斎藤環(2005)は論じる。しかし、このような心の動きが、ひきこもりや自傷行為の経験者特有のものだとは思えない。普通に学校に通っている人も、一度も自傷行為に及んだことがない人も、自傷的自己愛の仕組みに絡めとられることがある。必ずしも目に見える行動を伴わない自傷的自己愛の形がある。それはおそらく、自虐(的言明)である。

●私の自虐体験から見た自虐の背景

 私は今、「自傷的自己愛」の仕組みが自分にも働いていたのではないかと疑っている。私は自虐的な言葉をよく書く人間であるからだ。例えば私は、自ら書いた小説や、Twitterの投稿に意図的に自虐を含ませていた時期があった。
 私の自虐的言明の背景にあったものは、次の5つであるようだ。
1. 内省的な態度、またそれを誇る意識
2. 承認不安あるいは負け組意識
3. 「本当の自分」への憧れ
4. 承認欲求の露骨な表現を避ける傾向
5. 社交による自己満足の否認
これらの背景は、私のTwitter上での投稿ログから読み取ることができる。

 6月11日
学校に行くと、自分が勉強も運動も人間性も劣った社会の底辺であることを実感するから嫌なんですよね。
学費を払い、往復3時間もかけて自分がクズだと実感しに行っていると思うと、笑いがこみ上げてくるんですね。
まあ、身の程をわきまえるというのは大切だと思うからいいのかな。無数の出来事のうちマイナスのものだけが目に付く自分の性質も理解してる。思い出に残る学校生活を送るだけの活力と積極性が、自分には致命的に欠けている。

1.内省的な態度、またそれを誇る意識
 私はここで、しばしば「クズ」という自称を使っていた。この言葉は、意志が弱い、ネガティブ思考、行動力がないといった、「様々なマイナス評価のついた私」を象徴するものである。私の自虐は、内省と自己分析の延長上にある。「自分のことがよく分かっている」ということが、何よりの誇りなのである。「たとえ自分がクズであっても、そのことを自覚している分だけ自分は賢明だ」という論理である。これはある意味、「無知の知」にも通じるところがある。自分に対するメタ認知を高級な思考だとみなすのである。

2.承認不安あるいは負け組意識
3.「本当の自分」への憧れ
 これらの投稿には承認不安と負け組意識が垣間見える。自分には特別優れた能力があるわけでもなく、理想的な生活を送る積極性に欠けているという。私は当時、自分なりの実感を根拠としてこのような表現をしたらしい。この、自分にとっての「本当らしさ」を私は追求していたのである。その「本当らしさ」の内容は何であろうと構わないのだ。単に「本当だ」と感じられる自分を見つけて確定する形式が第一である。私は先述のように内省を良しとする性質であったから、「ダメな自分」が最も実感として得やすく、しばしば「本当らしく」感じられた。たいていの状況で揺らがない「本当の自分」に憧れるあまり、「ダメな自分」を本当の自分として認定しようとする態度が、自虐として現れていると考えられる。
 これらには「心理学化する社会」の影響もあるのかもしれない。私にとって「心理テスト」や「性格判断」は、幼い頃からごく身近なものであった。自分のことを知り、その本当らしさに頷くというのは普通にされていることだった。このような状況下では、自己分析がいつしか習慣になり、「本当らしさ」への信頼が高まるのではないだろうか。

 私の投稿はその後、意識的に自虐を行うことへ傾いていく。同時に、自虐する態度そのものへの考察が始まる。

 

4.承認欲求の露骨な表現を避ける傾向
 私はここで、「自虐は承認獲得を目的としない」ことを執拗に述べている。なぜなら、露骨に承認を求める人への軽蔑があるからだ。私は、いわゆる「メンヘラ」「かまってちゃん」と呼ばれる人たちに対する差別意識を持っていた。最初から社交を目的に自己否定を行うことを軽蔑していた。しかし同時に、友人との写真を次々とSNSにアップロードし、現実が充実していることをアピールするような態度も軽蔑していた。「そのような露骨に承認を目的とした行動はみっともないことだ」という意識が根底にあった。したがって、自虐はそれらに類する行動ではないと主張するのである。実際、こうした自虐的な投稿に対するレスポンスは乏しかった。これをきっかけにネット上の人間関係が充実したということもほとんどなかった。

5. 社交による自己満足の否認
 投稿の中で私は自虐を非社交的な自己満足として捉えている。これは、社交の中で自己満足を得ようとする人への軽蔑に由来している。他人の批判によって相対的に優越感を得ることや、他人と比較して優越感に浸るのは醜いことだと私は考えていた(しかし「他人を批判することによって優越感を得ることはよくない」というのも一つの批判であり、これにより優越感を得るなら自家撞着である)。また、他人との関係の中で堂々と自己肯定することは反感を買うのではないかという恐れもあった。例えば、匿名掲示板では少しでも自己を肯定する素振りを見せた人が不特定多数から激烈に批判されるということがよくある。この状況を私は何度も見ていたからだ。一方、自虐は誰も傷つけず、鼻持ちならない気分にさせることもなく、穏便に自己愛を発散する方法だと私は主張するのである。
 4,5とも、「露骨に承認目的の行動をとったり、嫉妬や優越感を露わにしたりする者は他人から軽蔑される」という信念の現れである。「出る杭は打たれる」ならば、「ひたすらに沈み込むことで自分を差異化しよう」というアイデアとして、自虐が要請されるのだ。
 結論として、自虐の背景にある心理はそう異常なものではないと言える。1,2,3のような心理は、私の同世代の中でもそう珍しいものではない(特に3については、土井隆義『「個性」を煽られる子どもたち』に詳しい)。これらだけなら自虐に出ることはないだろう。自虐的態度の背景として特徴的なのは4,5の心理だ。日本に伝統的にある「世間の目」「恥の文化」を極端に内面化した結果、1,2,3の素直な表出が阻まれる。そして自虐という抜け道に至るのである。実際のひきこもりでもなく自傷経験者でもない人間も、この過程をたどることは十分に考えられる。

 

●「黒子のバスケ」脅迫事件の被告人意見陳述に見られる自虐

 この意見供述には、全体を通して自虐的な要素が非常に多く見受けられる。そして先に挙げた5つの自虐の背景のうち、「1」「2」「3」「5」を読み取ることができる。
 1について。「客観的に」という言葉が頻出している。また自己分析的な部分では、自分の心の動きについて断定的に述べている。(「自分自身が誰よりもよく分かっています」等)
 2について。負け組意識は全体を通して現れている。単に自分に人生の落伍者のレッテルを貼るだけでなく、「生まれた時から罰を受けている」という独特の比喩で負け組意識を表現している。
 3について。「私は『無敵の人』『厳罰に処するべき悪質な犯罪者』である」という形で、「本当の自分」を感じていることを表明している。これは推測だが、その実感を目に見える形にしたいがために、実際に罪に走り厳罰を受けることを望んだのかもしれない。
 5について。被告は「妬みを抱くことは悪である」という内面化された規律を繰り返し主張している。このような規律を強力に持っているので、被告は人との関係から自尊心を高めようとする(嫉妬に狂う)ことを自ら抑圧するだろう。故にストレートな自己肯定も、それと等価である嫉妬も自分自身で認めることができず自虐的態度に出ることになる。
 社会的制裁によっても、自傷的自己愛は一向に衰えない。被告は、自らの社会的体面は完全に地に落ちたと豪語する。しかし、内心では「自分のことがだれよりもよく分かる自分」「本当の自己像を持っている自分」「みっともないことが何かを弁えている自分」が未だ健在である。自傷的自己愛と、その表出としての自虐は自分の社会的な位置には依存しない。ひきこもりや自傷行為の経験者も、過去の私も、被告も、みな同じように自虐的言明を続ける。そうすることで、自傷的自己愛の仕組みにすがっているのだ。

 

自傷的自己愛の効用と弊害

 自虐が示す自傷的自己愛は、決して選ばれた人にのみ見られるものではない。常にひきこもりや自傷行為や犯罪を伴うものではない。つまり、自他の害悪に直結している病理だとは言い切れない。自傷的自己愛は、自己肯定が多面的に封じられた、あるいは自ら封じてしまった状況で生まれる。そのような状況で自分の軸を見出すことはむしろ良いことだと捉えることもできる。一時的な効用はあるのだ。
 しかし、同時に弊害もある。その見出した自分の軸があまりに堅固であって、一切の変化の可能性を否定してしまう点である。「ダメな自分はダメなままである」という意識が強くなり、他者との出会いや行動に消極的になる。したがって、他の問題を抱え込んだ場合、改善の意志を持つことが難しくなるのだ。自傷的自己愛はひきこもり状態の回復を困難にするだろうし、自傷行為から脱することを困難にするだろう。また「黒子のバスケ」脅迫事件の被告のような例もある。被告は罪を犯してもあまり罪悪感を覚えてはいないと述べ、社会復帰も完全に否定していることから、改善の意志を持つつもりがないことが分かる。
 自傷的自己愛は、一時的には自分の軸を見出すという効用を持つ。しかし自分の意志を方向転換しなければならないときには、むしろ妨げになるものである。

 

「負けた」教の信者たちに対して

 『「負けた」教の信者たち』にもあるように、「負けた」教自傷的自己愛の病理)の信仰は強力である。その信仰を持つ人に対して「あなたはまだ負けていない」「それはナルシシズムだ」という説教をしても効果は薄い。かといって、放っておけば前述のような弊害もある。
 同書の中で、彼らをただ愛すというアイデアがあった。愛に関わる問題は、愛によって対処するほかはないのではないか、というものだ。しかし、それもなかなか困難なことである。このような「負けた」教の信者たちは、自らへの愛を徹底して疑い、試すと考えられるからだ。

 浦光博(2009)の研究によれば、人が高い評価や好意を求めることと、それらを受け入れることは別である。自己評価に関わる動機は2つあり、一つは、自分が高い評価や好意を得られると思いたいという自己高揚動機、二つ目は自分の考え方や価値観が間違っていないと思いたいという自己確証動機である。ネガティブな自己像を持っている人の場合、他人からの高評価や好意を得たときに2つの動機の間に矛盾が生じる。彼らには「自分は他人から評価されるような人間ではない」という自己像が前提にある。自分を評価してくれる人がいるということは嬉しい(自己高揚動機は満たされる)が、なぜ自分のような者が評価されたのかが分からない(自己確証動機は満たされない)と思ってしまう。したがって、彼らは他人の高評価や好意を受け入れることを躊躇い、それが偽りではないかという疑念を抱く。そして自らに好意を持ってくれた他人を疑い続けることで、結果的に彼らはその人からも拒絶されてしまう。この一連の過程は「下方螺旋過程」と呼ばれ、実証されているものである。
 ネガティブな自己像を持っている人は、自らに向けられた好意や評価を徹底的に疑う。その繰り返される疑念に拮抗して、相手を愛することを続けられる人が果たしているのだろうか。彼らには、どのような接し方が適切なのだろうか。

 

● 結びに

 私は自虐をしていたとき、それが自己愛の一種であるとは思いもしなかった。「自傷的自己愛」という発想は、ほとんど意識の内に無かった。振り返ってみると「自分の考えていることは自分がいちばんよく分かっている」とは限らないこと思える。しかし、自傷的自己愛というものを踏まえて自分の体験を振り返ってみても、正しい心の動きが分かるとは言い切れないのかもしれない。それもまた私の内省であり、自虐についての自虐なのではないかという思いがある。できれば自傷的自己愛についての資料を参照して細かく検証したくはあったが、あまり関連のある資料を見つけることができなかった。
 また、「負けた」教の信者たちに対して何をするべきか、明確な答えを出すことはできていない。しかし、自傷的自己愛を緩和していくための糸口はおそらくある。例えば、自傷的自己愛の担保である「自分がダメなことは自分自身が誰よりもよく知っている」という意識である。これは「無意識」の存在を想定すればもはや成立しなくなるのではないか。少し話が逸れるが、近代までの哲学は内省を重視し、内省によって真理を見出すことを目指した。しかし現代思想では、「無意識」という概念が登場した。それによって、もはや内省は完全に信頼できるとは限らないものになった。同様に「自分の考えていることは自分が誰よりもよく分かっているとは限らない」と念頭に置いてみることで、「自分がダメなことは自分自身が誰よりもよく知っている」という意識が徐々に溶けていくこともあるかもしれない。
 しかしその場合も、「私は『自分の考えていることは自分が誰よりもよく分かっているとは限らない』ことを知っている」という、よりメタレベルの高い認知が新たに自己愛の担保となってしまうのかもしれない。このようなメタ認知は無限に続き終わりが無いのだろうか。だとすれば、私たちは自己愛の担保を無限に備えていることになるのだろうか。

 

● 参考文献

斎藤環, (2005), 「負けた」教の信者たち ニート・ひきこもり社会論, 中央公論新社
浦光博, (2009), セレクション社会心理学―25 排斥と受容の行動科学, サイエンス社