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高校時代の自虐論まとめ――自虐と他者

自虐について
 高校時代にツイートしていた理屈を分類しつつ供養しようと思う。一度まとめようと思って放置していたが再開した。
 どうやら前提となる考え方が大きく分けて2つあり、そこから自虐という振る舞いがある種の自己救済の試み(?)として掲げられるようだった。

 

前提1:苦しみは自分だけのもの

すべては何が問題かといえば、自分とは立場が違う者への無理解、無寛容、無知、これに尽きる。当事者意識が持てない奴等の増殖、他者を思いやれない慮れない奴等の増殖、全てはこれ。これで全てが説明できると思う。人間の劣化だ。機械は発達しデータは増えたが、それを扱う人間自身が劣化しまくってる

 という人のツイートに対して、当時の私は次のようなことを言っていた。

たしかに、色々な境遇の人の苦しみを知ることは十分に可能です。でも、所詮「他人」が知ったところでその苦しみを減らすことも、自分のことのように苦しむこともできないのです。
それで辛気臭い気分になるだけなら知らなくて良い、という気持ちがあるのではないでしょうか。
私は苦しんでいる人を見ると、私と他人との果てしない断絶を感じるのです。どうせ私に他人の苦しみなど理解できない。自分の苦しみは自分だけのもので、他人の苦しみは他人だけのものであるという思いがあります。
だから他人の生き様を貶めたり、憧れたりといったことが等しく無意味に思えるのです。

幸せが人それぞれであるように、苦しみも人それぞれ、自分だけのものだと思いたいですね。
大きい小さいに関係なく、誰にも理解されなくても、「私はこれが苦しい」と自信を持って言いたいものですね。

他人の苦しみは情報として知ることはできますが、同情を向けたり、相手の苦しさを勝手に想像する必要は無いのではないかと思います。

 同じ悩みを持っている人となら、本当に理解し合えるのではないかと思った時期もありましたが、そもそも自分と全く同じ悩みを持っている人など見つからないことに気づきました。

 共通するものもあるが、多くは自分に固有のものだという。それはなぜか? ……個々の人生経験に由来するからだと考えているらしい。「自分が自分であることが苦しい」という表現も他のツイートに見られる。

 苦しみがこのようなものだと考えるならば、他人のそれを知った気になっても(情報は得ることができるが)、軽減することも同様に体験することも不可能だという。

 どうしても、他人について分かった気になることは罪だという考えがあるらしい。

他人の前で落ち込んだ時点で負けだということでしょうか。どうせ自分の苦しみに他人は手を出せないのですから。
だから、上手くやれる人はつらいときでもヘラヘラ笑っているのでしょう。私は無理でした。

 同様に、自分自身が他人の前でつらいつらいと落ち込むことにも意味がないと考えている。そんなことをしても苦しみは変わらない。適切な応答などけっして為されないからである。 
 
・それでも鬱々と語ることをやめられない
 

前提2:コントロールできない他者

 私は、他人をハリボテのように見てはいけないと思っています。それは相手を思いやるという意味からではありません。他人は絶対に自分の思い通りにならない。私の望むところを決して実現してくれず、望まないところを積極的に為してくる。まるで荒神のような、無限に恐ろしい存在であるからです。
 他人は、私にとって神にも等しい存在なのです。私は荒ぶる神を鎮めることはできず、じりじりと身を引きながら、供物を捧げ、懸命に祈り、災いが通り過ぎるのを待つほかないのです。地震や雷や暴風を起こす天地自然に対して、泣いても喚いても無駄なのです。
 私にとって、全ての他人は神なのです。付き合うにも七面倒な儀式が要り、私の声が本当に届いているのかは決して分からない。対等に話し合い了解し合えるヒトなど、どこにもいない(もしくは私にその能力がない)。まして、形式なしに付き合えて、何でも聞き届けてくれる奴隷は尚更いないでしょう。
 なんとも極端な他者観で、中途半端な私には相応しくないようにも思われますが、常に他者を私のコントロール外のものとして畏れることは、他人への攻撃性を解除し、人間として歩み寄る努力を放棄する言い訳にもなる、忍従的クズの必死の知恵なのです。
 よく親に「他人は自分の思い通りにならないよ」と言われていたんですが、私は「じゃあ他人に私の話を聞いてもらおうとか、分かってもらおうとかいうのは無駄なんだな」と曲解して、実際その通りだったので、いつの間にかこういう考え方になっていました。
 親の意図は単に「傲慢になりすぎるな」ということだったのだと思いますけど。それが屈折して虚無主義的に解釈されてしまったのでしょうか。 なるほど、たしかに私は親の思い通りには育ちませんでしたね。「他人は自分の思い通りにはならない」ええ、まさにその通りなのです。

  自分でも言っているが、極端な、恐るべき他者という考え方が出ている。その源泉を親の口癖に帰しているが、それだけではないだろうと思う。

 コントロールできない他者とは言っても、当時の自分が「攻撃性を解除」と言っているように、暴力によって服従させることもいつも可能ではあった(「他者とは私が殺したいと意欲しうる唯一の存在者なのである」)。しかし多くの場面でそうした行動は選ぶことがなかった(自分が暴力をふるったときというのは、多くの場合それを暴力だと自覚せずに行っていた)。なぜあからさまに力に訴えなかったのかは明らかではない。
 
 
 これらの前提を通過した後、ツイートの内容は自虐そのもの、もしくは自虐する際の態度について語るものが増える。
 
・自虐の弊害

そうなんですよね。自虐の弊害は、それを見た人が「自分のこと言われてるみたい」と感じてしまうことです。

 でもやめないらしい。

ごめんなさい。私は俗物ですから、残念ながら私の同類もたくさんいることと思います。ですが、自虐はやめられません。

 

・なぜ自虐するのか?

私は自分の負の感情を、自虐や小説の内容として戯画化して、常にそれに酔っているようなところがあったんですけど、それがいつまで保つかなと恐れてもいます。

自分がクズであることをアイデンティティに据えるとは、そういう行為を言うのです。悲劇の主人公でも、哀れな道化でもいいから、何者かになりたい。大好きな自分が消滅してしまうのが嫌なんですね。

自虐も、自分語りには違いないですから。

でも、そういう自分語りが他人にとっては塵ほどの価値もないことも分かっていて、 周りからしたら「ぐだぐだ自分のクズさを語ってないで変える努力をしたらどうなんだ」という感じだと思うんですけど、それができたら苦労しませんよね。

「自分の無能さ、愚図さを弁解するな」と言われたら、「さっさと死ね」「自殺しろ」ってことだと解釈します。言い訳は私の生命線なのです。

立派な自分を誇っていたら、叩かれたとき余計につらい。ただ、それでも私の臆病な自尊心は誇れる自分を要求する。そこで「クズな自分を誇る」という、苦しまぎれの、姑息な、矛盾した自己愛が生まれたのです。

幼児期に根拠のない全能感を膨らませ、後にその伸びすぎた鼻をへし折られた経験が、トラウマになるほど恐ろしかったのです。
クズを名乗り、あらかじめ自分にマイナス評価をつけておく。誰かに貶されるくらいなら自分で貶す。結局、私は一番可愛い自分自身を、他人の非難から守りたいだけなのだと思います。

私がよく使う「クズ」というのは、意志が弱いとか、ネガティブ思考だとか、行動力がないといった「様々なマイナス評価のついた私」を示しています。たいてい他の人のことは想定していません。
「自分を変えろ」とか「考え方を変えろ」という言葉は、私にとっては「赤ん坊からやり直せ」という罵倒にしか聴こえないのです。今の自分を殺して生まれ変われ、と。

  自己愛と自虐は切り離せないもので、これは以下の中でも言及したことです。

dismal-dusk.hatenablog.com

 

・自虐は自己完結すべき

色々なツイートの中に自虐的なツイートを混ぜておくと、見事にそのツイートだけ反応がゼロになります。 いい感じですね。自虐は無視されてこそ成功です。ウケてしまってはいけません。

自分ばかり見ていて他人が見えていない、そのくらい徹底した自分語りが自虐なのです。 他人を視野に入れ、社交の心を持って自分を下げる言葉は、全て「謙遜」と呼ぶべきでしょう。

私は、いわゆる「自虐ネタ」「自虐風自慢」は、本当の自虐ではないと思っています。 本来、自虐とは一人でも完結するものなのです。部屋の壁に向かって、延々語りかけるような心持ちで行うのが正しい。当然、壁は何も応えてくれません。私の Twitterもそんな感じでやっています。

あと、「自虐ネタ」ってなんでしょう。自虐することで笑いを取れるというんでしょうか。もしそうなら私はとっくに人気者じゃないですか。自虐は惨めでウザくて、人の笑顔を凍り付かせてナンボだと思いますが。

承認を目的とせずに行えること、つまり、どんなに頑張っても絶対に他人から無視される (ちやほやされない)行為といえば、やはり自虐や、役に立たない哲学的思索が挙げられると思います。

 

・批判・誹謗中傷に比べ非社交的な行為

自分がクズなのはその通りですが、他人の足を引っ張ろうとしてはいけませんね。「私はクズだ」で止めるのが自虐の必須要件です。「私はクズだ、その点他人は……」と、自分と他人を並べた瞬間に、嫉妬の心が現れる。
自分はクズだ、持たざる者だという思いが他人に向かうと、僻みや嫉妬の言葉になって現れるのです。

でもまあ、批判的・攻撃的な言葉にRTが集中するあたり、やはり批判や誹謗中傷は「受けがいい」んですよね。みんなで悪口を言うのは、どこの世界でもコミュニケーションの基本なのだろうと思います。

対して、自虐は全く非社交的な行為です。自ら発して自分に帰る、私もそれを意図しているので、本来は他人の入り込む必要性もないのです。
それでも私が自虐を公開しているのは、ただの自己満足です。露出狂みたいなものでしょうか。放っておいていただけるのが誰にとっても良いと思います。

 なぜ「部屋の壁に向かう『ような』気持ち」であって、実際に壁に向かってしゃべるだけでは飽きたらないのか。インターネットもメールも携帯も人間との接触がなくても自虐は可能か。誰も見物人がいない場合に露出狂は露出狂でありうるか。

 また、「無視される」というのも誰かの視線を前提しているのだから、応答ではないのだろうか。

 それはともかく。

 

・自虐は、「苦しみ競争」からの逃走手段

天才には凡人の苦悩が分からないだとか、天才には天才なりの苦悩があるというのは、よく言われますよね。「みんな固有の苦しみを抱えていて、それらは互いに比べられない」ということではないかと、私は想像するのです。
 でも「おまえより私の方がずっとつらい。おまえの苦しみは軽い(だから私はおまえを憎んでよい)」とか「こいつの苦しみに比べたら、自分はまだ恵まれてるほうだな」といった、苦しみに優劣をつけて何とか自分の精神的利益をせしめたいという気持ちも、私の中に確実にあるのです。たぶん、他の人にも。
 私はクズなので「苦しみの相互尊重」なんていう立派な理想を本気で信じることができませんし、それを実践できているとも思いません。いつでも私は、勝手な想像と比較による「苦しみ競争」に参加しているのです。無駄なことだと思っていても、いつの間にか。
 私は、なるべく他人との苦しみ競争からは距離を取っていたい(不毛なので)。しかし同時に、自分の苦しみを吐き出したくもある。そんなときは、社交を控えて自分の苦しみを語ることに専念しようと思うのです。自虐するときと同じく、部屋に引きこもり、壁に向かって延々と語るような気持ちで。
 苦しみを語ることも、自虐も、競争ではないのです。他人の事情は二の次三の次です。それを公開する場合にも、自分の恥部を見せるということに意味があるのです。露出狂は、露出したらそれで満足しなければならない。たとえ無視されようと、「おまえ、小さいな」とか言われようと、関係ないんです。

  これは前提1が強く意識されていると思われる。

 

・なぜ自虐の語り口を工夫するのか?

 ただ、苦しみを語るときの語り口というのは考える余地がありますね。自分だけが分かる言葉で語るなら、一言「つらい」でも十分なわけです。「もし別の誰かに伝えたとき、伝わるような言葉で」語ろうとすると、自分の矛盾や、理屈では説明がつかない部分がはっきりし、苦しみがクリアに見えるのです。
 苦しみを語るために工夫をこらすのは、あくまで自分のためだと思うようにしたいですね。その巧みさで他人にチヤホヤされようとか思うと、そのためにいくらでも苦しさを演出するようになり、鬱陶しい不幸自慢しかできなくなる。苦しみを語るというのは本当に難しいものです。

 

 不思議なのは、なぜここまで、承認を目的としないことや非社交性を強調するのかということだ。自虐から他人を締め出そうと苦闘しているのはなぜか?

 それは先の記事にも書いたが、承認欲求に素直であることへの軽蔑、出る杭は打たれるという規範の内面化があるだろう。それはもうどこまでもルサンチマンなのだけども。

 また、結局は人は誰かに助けられることはできず、自分で勝手に助かるしかないという信念も理由の一つだろう。その人にしか手を出せない苦しみというのは確かにある(これらの信念は、付け加える点はあるにしろ今でも大して変わらない)。その種の苦しみを分かった気になられたり逆に説教を受けたりすることは、救いどころか傷口に塩を塗りこまれることだ。そのリスクを回避しようとするあまり、自虐する態度について必死に但し書きをつけることになった。

 

 ただそもそもの話になるが、どうしてそこまで注意しつつ自虐を公開せねばならなかったのか。もし、自虐が他人から分離できるのならば、なぜ一連のツイートをチラシの裏に書き留めて終わりにしなかったのか(もっと言えば、頭のなかで唱えて満足しなかったのか)……この問いにかつての私は結局答えなかった。自分が凡人だからとか、クズだからとか、露出狂というレトリックは答えになっていない。「凡人」や「クズ」や「露出狂」が、なぜ他人に自虐を公開したいという欲求を持つのかを説明していないからである。

 自虐をチラシの裏に書き留めて終わりにすることが不可能であるとしたら、それはどのような種類の不可能性だろうか。それは、ある思想家が述べる、他者に対する責任から逃れられないという不可能性とパラレルなものだろうか。

 ↑違うと思う。

 

 疲れたので続きはまた後で。

 

 「自分の恥部を見せるということに意味がある」という言い方はある意味当たっている。近代の私小説とは自分の性愛の遍歴を晒すものであった。自己を語ることとは自己のセクシュアリティを語ることだった。今でもそういう側面あるだろうか。

 他人を自分の姿を映し出すための鏡とみるのと、自己をこえた何かとみるのでは全然違う。行動としては前者を前提しており、主張内容としては後者だった?

 

 子どもを産み続ける(生物学的な意味には限らず)かぎりで、主体である。★散種?

大好きな自分が消滅してしまうのが嫌

「自傷的自己愛」の表出としての自虐

自虐について

 最初の記事で載せたものをほぼそのまま再掲する。


 「自傷的自己愛」という概念がある。ひきこもりや自傷行為の経験者はしばしば「自分が嫌い」「死にたい」といった言葉を口にする。「自分がダメなことは自分自身が誰よりもよく知っている」、この「知っている」ことが自己愛の担保となることがあると精神科医の斎藤環(2005)は論じる。しかし、このような心の動きが、ひきこもりや自傷行為の経験者特有のものだとは思えない。普通に学校に通っている人も、一度も自傷行為に及んだことがない人も、自傷的自己愛の仕組みに絡めとられることがある。必ずしも目に見える行動を伴わない自傷的自己愛の形がある。それはおそらく、自虐(的言明)である。

●私の自虐体験から見た自虐の背景

 私は今、「自傷的自己愛」の仕組みが自分にも働いていたのではないかと疑っている。私は自虐的な言葉をよく書く人間であるからだ。例えば私は、自ら書いた小説や、Twitterの投稿に意図的に自虐を含ませていた時期があった。
 私の自虐的言明の背景にあったものは、次の5つであるようだ。
1. 内省的な態度、またそれを誇る意識
2. 承認不安あるいは負け組意識
3. 「本当の自分」への憧れ
4. 承認欲求の露骨な表現を避ける傾向
5. 社交による自己満足の否認
これらの背景は、私のTwitter上での投稿ログから読み取ることができる。

 6月11日
学校に行くと、自分が勉強も運動も人間性も劣った社会の底辺であることを実感するから嫌なんですよね。
学費を払い、往復3時間もかけて自分がクズだと実感しに行っていると思うと、笑いがこみ上げてくるんですね。
まあ、身の程をわきまえるというのは大切だと思うからいいのかな。無数の出来事のうちマイナスのものだけが目に付く自分の性質も理解してる。思い出に残る学校生活を送るだけの活力と積極性が、自分には致命的に欠けている。

1.内省的な態度、またそれを誇る意識
 私はここで、しばしば「クズ」という自称を使っていた。この言葉は、意志が弱い、ネガティブ思考、行動力がないといった、「様々なマイナス評価のついた私」を象徴するものである。私の自虐は、内省と自己分析の延長上にある。「自分のことがよく分かっている」ということが、何よりの誇りなのである。「たとえ自分がクズであっても、そのことを自覚している分だけ自分は賢明だ」という論理である。これはある意味、「無知の知」にも通じるところがある。自分に対するメタ認知を高級な思考だとみなすのである。

2.承認不安あるいは負け組意識
3.「本当の自分」への憧れ
 これらの投稿には承認不安と負け組意識が垣間見える。自分には特別優れた能力があるわけでもなく、理想的な生活を送る積極性に欠けているという。私は当時、自分なりの実感を根拠としてこのような表現をしたらしい。この、自分にとっての「本当らしさ」を私は追求していたのである。その「本当らしさ」の内容は何であろうと構わないのだ。単に「本当だ」と感じられる自分を見つけて確定する形式が第一である。私は先述のように内省を良しとする性質であったから、「ダメな自分」が最も実感として得やすく、しばしば「本当らしく」感じられた。たいていの状況で揺らがない「本当の自分」に憧れるあまり、「ダメな自分」を本当の自分として認定しようとする態度が、自虐として現れていると考えられる。
 これらには「心理学化する社会」の影響もあるのかもしれない。私にとって「心理テスト」や「性格判断」は、幼い頃からごく身近なものであった。自分のことを知り、その本当らしさに頷くというのは普通にされていることだった。このような状況下では、自己分析がいつしか習慣になり、「本当らしさ」への信頼が高まるのではないだろうか。

 私の投稿はその後、意識的に自虐を行うことへ傾いていく。同時に、自虐する態度そのものへの考察が始まる。

 

4.承認欲求の露骨な表現を避ける傾向
 私はここで、「自虐は承認獲得を目的としない」ことを執拗に述べている。なぜなら、露骨に承認を求める人への軽蔑があるからだ。私は、いわゆる「メンヘラ」「かまってちゃん」と呼ばれる人たちに対する差別意識を持っていた。最初から社交を目的に自己否定を行うことを軽蔑していた。しかし同時に、友人との写真を次々とSNSにアップロードし、現実が充実していることをアピールするような態度も軽蔑していた。「そのような露骨に承認を目的とした行動はみっともないことだ」という意識が根底にあった。したがって、自虐はそれらに類する行動ではないと主張するのである。実際、こうした自虐的な投稿に対するレスポンスは乏しかった。これをきっかけにネット上の人間関係が充実したということもほとんどなかった。

5. 社交による自己満足の否認
 投稿の中で私は自虐を非社交的な自己満足として捉えている。これは、社交の中で自己満足を得ようとする人への軽蔑に由来している。他人の批判によって相対的に優越感を得ることや、他人と比較して優越感に浸るのは醜いことだと私は考えていた(しかし「他人を批判することによって優越感を得ることはよくない」というのも一つの批判であり、これにより優越感を得るなら自家撞着である)。また、他人との関係の中で堂々と自己肯定することは反感を買うのではないかという恐れもあった。例えば、匿名掲示板では少しでも自己を肯定する素振りを見せた人が不特定多数から激烈に批判されるということがよくある。この状況を私は何度も見ていたからだ。一方、自虐は誰も傷つけず、鼻持ちならない気分にさせることもなく、穏便に自己愛を発散する方法だと私は主張するのである。
 4,5とも、「露骨に承認目的の行動をとったり、嫉妬や優越感を露わにしたりする者は他人から軽蔑される」という信念の現れである。「出る杭は打たれる」ならば、「ひたすらに沈み込むことで自分を差異化しよう」というアイデアとして、自虐が要請されるのだ。
 結論として、自虐の背景にある心理はそう異常なものではないと言える。1,2,3のような心理は、私の同世代の中でもそう珍しいものではない(特に3については、土井隆義『「個性」を煽られる子どもたち』に詳しい)。これらだけなら自虐に出ることはないだろう。自虐的態度の背景として特徴的なのは4,5の心理だ。日本に伝統的にある「世間の目」「恥の文化」を極端に内面化した結果、1,2,3の素直な表出が阻まれる。そして自虐という抜け道に至るのである。実際のひきこもりでもなく自傷経験者でもない人間も、この過程をたどることは十分に考えられる。

 

●「黒子のバスケ」脅迫事件の被告人意見陳述に見られる自虐

 この意見供述には、全体を通して自虐的な要素が非常に多く見受けられる。そして先に挙げた5つの自虐の背景のうち、「1」「2」「3」「5」を読み取ることができる。
 1について。「客観的に」という言葉が頻出している。また自己分析的な部分では、自分の心の動きについて断定的に述べている。(「自分自身が誰よりもよく分かっています」等)
 2について。負け組意識は全体を通して現れている。単に自分に人生の落伍者のレッテルを貼るだけでなく、「生まれた時から罰を受けている」という独特の比喩で負け組意識を表現している。
 3について。「私は『無敵の人』『厳罰に処するべき悪質な犯罪者』である」という形で、「本当の自分」を感じていることを表明している。これは推測だが、その実感を目に見える形にしたいがために、実際に罪に走り厳罰を受けることを望んだのかもしれない。
 5について。被告は「妬みを抱くことは悪である」という内面化された規律を繰り返し主張している。このような規律を強力に持っているので、被告は人との関係から自尊心を高めようとする(嫉妬に狂う)ことを自ら抑圧するだろう。故にストレートな自己肯定も、それと等価である嫉妬も自分自身で認めることができず自虐的態度に出ることになる。
 社会的制裁によっても、自傷的自己愛は一向に衰えない。被告は、自らの社会的体面は完全に地に落ちたと豪語する。しかし、内心では「自分のことがだれよりもよく分かる自分」「本当の自己像を持っている自分」「みっともないことが何かを弁えている自分」が未だ健在である。自傷的自己愛と、その表出としての自虐は自分の社会的な位置には依存しない。ひきこもりや自傷行為の経験者も、過去の私も、被告も、みな同じように自虐的言明を続ける。そうすることで、自傷的自己愛の仕組みにすがっているのだ。

 

自傷的自己愛の効用と弊害

 自虐が示す自傷的自己愛は、決して選ばれた人にのみ見られるものではない。常にひきこもりや自傷行為や犯罪を伴うものではない。つまり、自他の害悪に直結している病理だとは言い切れない。自傷的自己愛は、自己肯定が多面的に封じられた、あるいは自ら封じてしまった状況で生まれる。そのような状況で自分の軸を見出すことはむしろ良いことだと捉えることもできる。一時的な効用はあるのだ。
 しかし、同時に弊害もある。その見出した自分の軸があまりに堅固であって、一切の変化の可能性を否定してしまう点である。「ダメな自分はダメなままである」という意識が強くなり、他者との出会いや行動に消極的になる。したがって、他の問題を抱え込んだ場合、改善の意志を持つことが難しくなるのだ。自傷的自己愛はひきこもり状態の回復を困難にするだろうし、自傷行為から脱することを困難にするだろう。また「黒子のバスケ」脅迫事件の被告のような例もある。被告は罪を犯してもあまり罪悪感を覚えてはいないと述べ、社会復帰も完全に否定していることから、改善の意志を持つつもりがないことが分かる。
 自傷的自己愛は、一時的には自分の軸を見出すという効用を持つ。しかし自分の意志を方向転換しなければならないときには、むしろ妨げになるものである。

 

「負けた」教の信者たちに対して

 『「負けた」教の信者たち』にもあるように、「負けた」教自傷的自己愛の病理)の信仰は強力である。その信仰を持つ人に対して「あなたはまだ負けていない」「それはナルシシズムだ」という説教をしても効果は薄い。かといって、放っておけば前述のような弊害もある。
 同書の中で、彼らをただ愛すというアイデアがあった。愛に関わる問題は、愛によって対処するほかはないのではないか、というものだ。しかし、それもなかなか困難なことである。このような「負けた」教の信者たちは、自らへの愛を徹底して疑い、試すと考えられるからだ。

 浦光博(2009)の研究によれば、人が高い評価や好意を求めることと、それらを受け入れることは別である。自己評価に関わる動機は2つあり、一つは、自分が高い評価や好意を得られると思いたいという自己高揚動機、二つ目は自分の考え方や価値観が間違っていないと思いたいという自己確証動機である。ネガティブな自己像を持っている人の場合、他人からの高評価や好意を得たときに2つの動機の間に矛盾が生じる。彼らには「自分は他人から評価されるような人間ではない」という自己像が前提にある。自分を評価してくれる人がいるということは嬉しい(自己高揚動機は満たされる)が、なぜ自分のような者が評価されたのかが分からない(自己確証動機は満たされない)と思ってしまう。したがって、彼らは他人の高評価や好意を受け入れることを躊躇い、それが偽りではないかという疑念を抱く。そして自らに好意を持ってくれた他人を疑い続けることで、結果的に彼らはその人からも拒絶されてしまう。この一連の過程は「下方螺旋過程」と呼ばれ、実証されているものである。
 ネガティブな自己像を持っている人は、自らに向けられた好意や評価を徹底的に疑う。その繰り返される疑念に拮抗して、相手を愛することを続けられる人が果たしているのだろうか。彼らには、どのような接し方が適切なのだろうか。

 

● 結びに

 私は自虐をしていたとき、それが自己愛の一種であるとは思いもしなかった。「自傷的自己愛」という発想は、ほとんど意識の内に無かった。振り返ってみると「自分の考えていることは自分がいちばんよく分かっている」とは限らないこと思える。しかし、自傷的自己愛というものを踏まえて自分の体験を振り返ってみても、正しい心の動きが分かるとは言い切れないのかもしれない。それもまた私の内省であり、自虐についての自虐なのではないかという思いがある。できれば自傷的自己愛についての資料を参照して細かく検証したくはあったが、あまり関連のある資料を見つけることができなかった。
 また、「負けた」教の信者たちに対して何をするべきか、明確な答えを出すことはできていない。しかし、自傷的自己愛を緩和していくための糸口はおそらくある。例えば、自傷的自己愛の担保である「自分がダメなことは自分自身が誰よりもよく知っている」という意識である。これは「無意識」の存在を想定すればもはや成立しなくなるのではないか。少し話が逸れるが、近代までの哲学は内省を重視し、内省によって真理を見出すことを目指した。しかし現代思想では、「無意識」という概念が登場した。それによって、もはや内省は完全に信頼できるとは限らないものになった。同様に「自分の考えていることは自分が誰よりもよく分かっているとは限らない」と念頭に置いてみることで、「自分がダメなことは自分自身が誰よりもよく知っている」という意識が徐々に溶けていくこともあるかもしれない。
 しかしその場合も、「私は『自分の考えていることは自分が誰よりもよく分かっているとは限らない』ことを知っている」という、よりメタレベルの高い認知が新たに自己愛の担保となってしまうのかもしれない。このようなメタ認知は無限に続き終わりが無いのだろうか。だとすれば、私たちは自己愛の担保を無限に備えていることになるのだろうか。

 

● 参考文献

斎藤環, (2005), 「負けた」教の信者たち ニート・ひきこもり社会論, 中央公論新社
浦光博, (2009), セレクション社会心理学―25 排斥と受容の行動科学, サイエンス社

 

「自分に厳しく、他人に優しく」から始まる思考実験

 「自分に厳しく、他人に優しく」。どこかしらで耳にするひとつの道徳的な教えかと思います。私たち若者の中にはスレた輩も多く、そんなことを大っぴらに口にするのはどこか憚られる雰囲気もありますけれども、周りによく話を聞いてみればそれを格率としていると主張する人はいるようでした。今回はそういった人と話した事柄について少しばかり考えてみたいと思います。

 先にことわっておきますと、明快な結論や「私が特に言いたいこと」というのは書かれてないです。

 

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イキイキとした活動と躊躇いと俯きがちな人

思うこと

 

 記事の内容や敬体の末尾表現にすらロクに統一性がないこのブログ、初めてブログっぽく日々思ったことを適当に書きます。

 最初に思いついたのは、何に関してでも、躊躇いが無くなった瞬間というのが一番狂ってて物騒なのだろうということです。感情任せにそうなるにしても、理屈に従った結果そうなるにしても。選択は一つの狂気であるとかいう言葉を誰かが言ってたのもあり(誰だったかは完全に忘れてしまった)そういう方向に思考が向きました。

 また、なんでそんなに躊躇いなく行動できるのだろう、またどうして私はいつまでもそういう反射神経が身につかずためらってばかりなのだろう、と思った事例をつらつら書いたのが以下です。

 

デモ参加の思い出

 去年の夏、国会前で件の法案に関するデモが行われていたのはまだ記憶に新しいと思います。私は、とある成り行きからそのデモに行くことになり、9月18日の夜2時間ほど一通り見て回ってきました。私も何か書かれた厚紙を持ち、周りのコールを一応そのまま復唱し、立派ないち参加者に見えたかもしれませんが、なぜこれほどイキイキとしなければならないのかと常に困惑していたような気がします。外国のお祭りに混じってしまったような心地でした。あとSHIELDsって実は数人しかいなかったのだなと知りました。

 なぜ私がこのお祭り騒ぎに乗れなかったのかというと、政治について僅かな知識しかなく自分の支持層とかを特に決めて行ったわけではないというのも大きいですが、躊躇いがないということの怖さを感じたからでした。警官に掴みかかる人とか示威行動に出る人は、その多くが躊躇っていないように見えました。イキイキしていました。座り込んでぼそぼそと話し合いをしている人もいるんじゃないかな、と思いましたが私が見た限りでは見つかりませんでした。中心部は特にスピーカーから聞こえる演説やコールで静かに話なんてできる状態じゃなかったですし、腰を落ち着けられるような空間的余裕もほぼなかったです。
 なぜそんなに躊躇いがないのだろう、ふと座り込んだり、これでいいのか……と思ったりしないのだろう、というのが最後まで疑問でした。

 

たとえばの話、クラスで

 例えば中学とか高校のクラスで「いじめを根絶しましょう」とかそれに類する活動がおこったとします。
 そういう状況に直面したとき、私は「そうだ、その通りだ」と思おうが、「いや、別にあってもいいじゃん」と思おうが、一瞬ののち「本当に?」という躊躇が生まれるので、いじめの根絶に向けてせっせと活動に勤しむこともできず、かといって喜々としていじめっ子の取り巻きになることもできず下向いて俯くしかないというような感じになります。*1
 「俯いて何もしないのではいじめに加担しているのと変わらない」というフレーズがよく聞かれますが、確かにそうです。傍観することも一つの選択には違いないので。でもその選択に納得できているわけではない。脊髄反射的に納得したほうが楽なのは分かっている*2し、そうすれば、堂々と傍観していじめの片棒を担げると思います。なかなかそうできないから困っているのです。

 (堂々と傍観していじめの片棒を担ぐというのと、納得はしてないがそうするという区別をここでは前提しています。「」の中みたいなのはそれを認めず最も単純な主知主義をとる場合(「人はよいと思うことしかしない」*3のタイプ)で、私は最近そっちにあんまり興味が持てないのですが、ここは今回の主旨じゃないので保留しておきます。)

 

俯きがちな人

 どちらかと言えば私は、躊躇いなくせっせと行動に移すイキイキした人ではなくて、双方俯いたままぼそぼそと意思疎通し合えるような人がそばに居てほしかったのです。先の法案が出てきた時もいじめ問題が提起された時も。でも実際はそうならなくて、いつも最後は「おまえは同志か、それとも敵か」みたいな感じになりました。黙っていてもどちらかに振り分けられるので(先の「俯いて何もしないのではいじめに加担しているのと変わらない」なんてその典型ですが)、仕方がなく一時的にイキイキ活動することも多いです。デモで厚紙持った時とか。しかしそういう場合であっても表情筋は依然として死んでたのではないかと思います。狂っていると思いました。

 

 こういう俯きがちな人って、政治活動でも人付き合いでも、すぐ中断して逃げられるように軸足を残しています。だからどこか不格好で、完全燃焼という言葉に縁がなく、パッとしないという評価が集まることが多いだろうと予測できます。でもその中途半端というところに居直れるわけでもなく、何かに熱狂しようと夢見ており気まぐれで行動に出たりします。どうせ長くは続きませんが。

 逆に、なんらか人から支持を集める人は、必要なときに躊躇を捨ててイキイキとなれる人、あるいはそうした切り替えが狂気に取り憑かれることだはと思っていない人なのだと思います。支持を集めると言っても別に肯定的な反応だけを言っているのではなくて、あの黒バス事件の人(無敵の人)とか「日本死ね」の人とかの様子にも当てはまります。とてもイキイキしていなければできないことです。

 

 長々と書きましたが「俯きがちな人」「イキイキとなれる人」というのはわかりやすくするための粗雑この上ない図式です。万が一を考え予防線を張るなら、後者だけが狂ってるなんて言ってません。誰もが何かを選ぶ時は躊躇いを殺していわば方法的に狂っているのだけれども、どうすれば一回殺した躊躇いが完全には復活しないようにし、同じしかたで狂い続けられるのか私にはわからない、というのが今回の文章でいいたかったことです。

本当に困っている。だれか教えてください。

 

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 私が思いつくキーワードなんてたいてい誰かのパクリです。今回の「イキイキ」というのは以下の本から。 

デリダの遺言―「生き生き」とした思想を語る死者へ

デリダの遺言―「生き生き」とした思想を語る死者へ

 

 あと、Amazonみてたらこんなタイトルの本がありました。読んでません。

ためらいの倫理学―戦争・性・物語 (角川文庫)

ためらいの倫理学―戦争・性・物語 (角川文庫)

 

 

おわりです。

 

*1:これは、マイノリティ差別をなくそうとする活動だとか平和運動とか容姿や学歴を鑑みることへの攻撃とか、過激派が存在する大体の領域で言えます。あと田舎に帰ると必ずある将来こうしたほうがいいとかの話も。挙げればキリがない。

*2:特にクラスという場所も最初から党派だったりキャラだったりでくっきり色分けされているので、そうしたものにはかれば自分の敵と味方は自ずと決まります。

*3:有名なのは『プロタゴラス』の中です

名状しがたい人間関係を描く作品リスト(漫画・小説)

読書

最終更新:2016/7/16

 

 今回は、名状しがたい人間関係に触れている作品を挙げていきます。

 そうしたものに何か共通性を見出して一括りにするのは困難なのですが、おおまかに次のような事柄を想起していただければと思います。

 個々の作品にいちいちこれらを当てはめても見方が狭まるだけだろうと思うので、18禁シーンありかなしかだけ分けて(だいたいレーベルで察しがつきましょうが)ランダムに列挙します。

  新しいものが見つかり次第、順次追加していく予定です。

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