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「アイデンティティ」の解釈について

 ほぼ一年ぶりの更新となります。何書いていいかわからないので大学のペーパーをコピペしたものを貼り付けます(もちろん自分で書いたものです)。

 興味を持ってくれただけで有難いことですが、疑問質問批判ありましたらよろしくお願い致します。

 

 

1.はじめに

アイデンティティという言葉がエリクソン(1950) *1により提唱され60年が過ぎた。この言葉は発達心理学のみならず広く浸透したが、この言葉がどのような概念と解釈されてきたのか、先行研究での解釈を対比してみたい。

 

2.石井(1980)*2の解釈

 石井によれば、エリクソンの用いたアイデンティティという言葉は3つの意味を含んでいる。

  • 意味①:自らが時間的・空間的に一貫する存在であるという感覚
  • 意味②:社会的な自己意識、帰属意識
  • 意味③:①と②の複合

最初の提唱者であるエリクソンは意味③を念頭に置いていたが、今日では②の意味で用いられることが多いという。
 石井によると、エリクソンアイデンティティ定義は「アイデンティティとは、自分の行動様式には独自性と一貫性があるという自覚であり、かつその行動様式が、他者が以前からまた将来においても自分に持つことを期待している行動様式と一致するものであるという自覚である」というものだ。さらに、アイデンティティは2つの感覚(アイデンティティの感覚)をも含意する。その感覚とは、第一には自分が自分のしたいことをして充実しているという主体性、自己充実感。第二に、他人に認められる行動様式を持っているということからくる自己価値感である。
 他者の承認なしには自己価値感に至ることがない。しかし、主体性や充実感がなければ独自性も生まれてこない。アイデンティティとは単に社会文化的なものや帰属意識といったものではなく、自己と他者の相互承認と各自の充実感により生まれるものだ。以上のように石井は主張する。

 

3.和田(1999) *3の解釈

 和田は、自己心理学の第一人者であるコフートの理解に沿い、アイデンティティとは社会文化的な感覚であると主張する(2.における意味②)。「自らが時間的・空間的に一貫する存在であるという感覚」には、アイデンティティではなく「自己」という別の言葉をあてている。

自己の体験(知覚)とは「われわれの身体と精神の変化、人格構造における変化、我々が生活している環境の変化にもかかわらず」「生涯を通してわれわれは同一の人物であるという感覚」である。

和田秀樹(1999), p.117より重引

 和田は、この「自己」とアイデンティティとは何が違うのかについて、コフートの言葉を引き論じている*4。自己は①野心(基礎的な自発性)②理想(自発性が向かう目標)③野心と理想の間をつなぐ才能や技倆を含む基本構造を持っている。この3つの要素が確立され均衡を作っているとき、自己の中心部は環境の変化にも耐える時間的・空間的に一貫したものとなる。その一方、アイデンティティは自己と自己の社会文化的位置の収斂点なのである。
 「自己」とアイデンティティの違いは、次のような例を考えてみるとより明確だという。まず、力強く堅固な自己をもちながら、アイデンティティのほうは拡散している人がいる。そのような人は、アイデンティティの拡散のために非常に多くのタイプの人々と共感してしまうのだが、堅固な自己のために自己の断片化から免れている。一方で、自己は弱いが、過剰に強く堅固なアイデンティティをもっている人もいる。その自己のまとまりは、社会的役割を強く体験し、民俗や宗教の所属感を強く体験することで維持されている。こういう人たちは、そのアイデンティティがとりさられたとき(たとえば、一つの文化圏から別の文化圏に移住したとき)心理学的に統合できなくなる。つまり、自分が人間でないような感覚をもち、主体性を失ってしまう。そして最後に、しっかりと確立された自己に堅固なアイデンティティが宿っている人もいる。
 和田のコフート心理学では、アイデンティティとは社会での発達の中で獲得される自己意識である。それとは別に、より根本的な、人間としての統一感をもたらすものは「自己」という言葉で表現されるのである。

 

4.西平(1993)*5の解釈

 西平は、アイデンティティという言葉が使われてきた領域を以下のように整理する。

  • 心理学において、青年の心理特性として
  • 社会科学において、人種や身分などへの帰属意識として
  • 教育学において、規範性を帯びた目的理念として

そもそも、アイデンティティという言葉は文脈次第で多様な意味をもつ言葉であるゆえに、このように様々な意味で使用されうると西平はいう。したがって彼は「アイデンティティとは何か」という本質問題ではなく、「アイデンティティはどう読まれるべきか」という解釈問題を検討していく。
 西平は、アイデンティティを「統合した状態」としてではなく、「統合していくこと」として、つまり名詞ではなく動詞として読み替えることを提案する。アイデンティティとは、常に「何かと何かのアイデンティティ」として、ズレを残している二つのものを統合しようとしていく動きなのである。そして、その「ズレている二つのもの」もまた、「アイデンティティ」と呼ばれているという。西平はこの解釈の根拠として、エリクソン自身が「二つのアイデンティのアイデンティティ」という表現をしていることを挙げる。
 その、ズレている二つのアイデンティとはなにか。一方は、自分自身の意識の中で常に自分が一貫していることである。もう一方は、他者が常に自分の一貫性を認めていることである。そして、その二つのアイデンティの「アイデンティティ」は、両者のズレをなんとかつなぎ留めていこうとする動きであり、「心理社会的アイデンティティ」と呼ぶことができる。このように西平は主張する。


5.まとめ

 石井は、アイデンティティとは自分の意識の中で一貫している自分と、他人から見て一貫している自分が一致するという自覚であるとする。また西平も、この二つの一貫性とほぼ同じことに言及している。しかし、両者の間には大きな違いがある。石井はアイデンティティを「一致した状態である」という自覚だとしたのに対し、西平は「一致を目指している(が、ズレは残っている)」姿勢だとしたのだ。統合完了の状態なのか、未完了の動作なのかという違いが、両者の解釈を決定的に異なったものにしている。
 三人に共通しているのは、アイデンティティを語る際には、自分の意識の中での自分のあり方と、社会に対する自分のあり方という二つの問題を取り扱うことになるということだ。ただし、その内的なあり方と社会的なあり方のどちらが重要なのかについては、異なった主張がされている。石井は、その二つはどちらか一方が欠けてはもう一方も成り立たず、相互補完的な関係にあるとしている。西平もまた同様の見解を持っているようである。対して和田は、まず自分の意識の中の時間的・空間的一貫性の問題があり、社会に対する自分のあり方はそれを補う副次的な問題と見ているように思われる*6
 三人の主張の中で唯一、アイデンティティとは未完の動きであるとする西平の見解は、アイデンティティをめぐる問題に新たな視点を提供する。例えば、自分は確固たる民族的自覚を持つと信じるような人がいても、西平に言わせれば、彼はアイデンティティを持っているとは言えないのではあるまいか。アイデンティティは、常に何かと何かの葛藤ともにあるのだから、迷わないアイデンティティ保持者などいないはずである。内的な自己と社会的な自己の間に葛藤がないとしたら、実はどちらかを切り捨てているのではないだろうか。アイデンティティを持つことは揺るがない何かを見つけることだという通念に、西平は異を唱えているのである。この西平のアイデンティティの読み替えは、若者の自分探しやナショナリズムなどの諸現象を考える手がかりになりうるだろう。

 

 

*1:Erikson, E.H. (1950), Childhood and Society, W. W. Norton and Company, Inc. 岩瀬庸理訳(1982), 『アイデンティティ : 青年と危機』, 金沢文庫

*2:石井仁(1980),「エリクソンアイデンティティ論の検討」『教育学研究収録(筑波大学教育研究科)』第3集, pp.97-104。

*3:和田秀樹(1999),『〈自己愛〉の構造:他者を失った若者たち』講談社, p114。

*4:和田秀樹(1999), pp.113-114。 

*5:西平直(1993),『エリクソンの人間学』, 東京大学出版会, pp.186-206。

*6:もちろん和田も、内的な自己はそれだけで独立して考えることはできず、他者が不可欠であることを主張している。しかし、内的な自己の詳細についてはアイデンティティとは全く別の理論であり、このレビューでは取り扱わなかった。