Doki Doki Literature Club! (『ドキドキ文芸部!』)についての雑感 1

 私は中学時代の半分と高校時代の7割をノベルゲームに費やしたといっても言い過ぎではありません。私はノベルゲームとともに青春を過ごし、それらによって育て上げられた子どもでした。このブログに「ノベルゲーム」というカテゴリがあるのは、それが理由といえます。

 

 さて、標題のゲームですが、私は(不幸なことに)この作品についていくつかのネタバレを得てからプレイを始めました。ですが、いろいろと予想を超えた仕掛けが前情報以上に用意されていたため、あまり問題もなく楽しむことができました。

 以下でもネタバレに配慮はしませんが、私はゲーム文化全般や演出技法についても詳しくないので、そういった観点からこのゲームについて何事か語れるとは思いません。私は普段からそういう訓練をしている人間ではない、取るに足らない一労働者です。したがって今回も、単にひとつの物語として、その中に私自身の物語を見てしまうような場として、人物たちの交流の記述として、この作品を語ることになります。

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「ここ」で生きていく男、「ここ」を去る女―『ラストノーツ』2巻について

 前回に引き続き、標題の作品について気ままに書いていきます。今回は、主に2巻の内容について書いていくことになります。

 

心配することと世話をすることの違い

 前回の記事では、人一人を養うことの重大さに焦点を当てました。2巻では、この養うことは「心配すること」と対照され、ますますその特異性が強調されていきます。

 確認しておきますと、えみるは諸々の事情により、生まれ育った町では非常に肩身の狭い思いをして暮らしてきました。そんな町の中でも、彼女のことをずっと心配していた岳志という登場人物がいました。彼がえみるのことを気にかけている描写は物語の開始時点からあり(1/pp. 5-6)、ほとんど背景のような町の人々の中でも、彼はさりげない存在感を示しています。彼はえみると幼馴染であり、彼女のことを好いてはいたのですが、「遠くから様子を見守る」ことが、彼が彼女のためにできることの限界でした。祖父の外出が多く、ほとんど一人暮らしであるようなえみるの生活を岳志が助ける描写は、作中にはありません。えみるがアキとハルのもとに行っている間に、彼女の生家の屋根には雪が積もったため家ごと潰れてしまいますが、岳志はその結果を防ぐことはできなかったようでした。

アキ「でも〔えみるを〕心配してくれたんでしょ?」

岳志「そりゃ まあ…… 心配くらい

するだろ フツー」

アキ「心配って何したの?」

岳志「え…」

アキ「行方聞いたり 捜し回ったりしたの?
そもそもいないって気づいたのはいつ?

帰ってきてないか
この家 見に来たりはしてたんだろうけど

そのついでに
屋根の雪下ろしでもしてこうとは思わなかったのか?」

(2/pp. 27-28、〔〕内は引用者補足)

 アキは、岳志のするような行為の伴わない心配は欺瞞であると告発し、他人(の生活)に対する「無関心と悪意」(2/p. 29)に等しいとまで言い切ります。この厳しい批判は、前回引用した『貨幣の哲学』の精神と重なるところがあります。

顔によって表出される倫理的要請はつまるところ、非常に具体的に、私が自分の家、所有物、知識、仕事、要するに私の「住居」と「調度品」を自由に使わせることを要求する。他者への慈悲は、私の「業・慈善」(œuvre)という物質的あるいは客観的な行為を不可避的に含意しているのである。慈悲は決して、主体の何らかの恩情による「同情」(compassion)や単なる好意に満足してはならない。「応答」としての慈悲は、他者の迎接として、自身の労働の産物の提供、つまりは広義の経済とならねばならない。

(ロジェ・ビュルグヒュラーヴ「貨幣とつねに改善される正義―エマニュエル・レヴィナスの視点」(『貨幣の哲学』, 2003, p. 26)

 1巻で、生活のコストについてこれでもかというほど追求したからこそ、アキの言葉は読者を深く打ち据える威力を持つでしょう。「好意」、好きな人への想い、そしてそれを言葉にするまでをゴールとする恋愛漫画の甘酸っぱい精神主義を、この作品は豪雪の質量をもって完膚なきまでに叩き潰します。ただ遠くから心配そうに見守るだけで豪雪地帯の家が守れるかといえば、守れません。家を崩落から守るためには、雪下ろしを欠かさず行うほかにはないのです。

 

「ここで生きてくにはそうするしかない」

 アキからすれば、岳志が具体的な行動を起こさなかった以上、彼がどういう理由で行動しなかったのかを語っても、それは「言い訳」となります。ただ私は、その言い訳こそを精査しなければなりません。それは前回の記事で考えたような、誰かを養うことに内在する負担とは別に、誰かを養うことに伴う外在的な、そして根本的な困難を示しているからです。

 岳志の言い訳をまずは引用しましょう。

「だってみんな… 村中が五嶋をハブってて
俺もそうしないと叱られて…

俺だってやりたくなかったよ

でもしょーがねーだろ
ここで生きてくにはそうするしかないんだよ……!」

(2/p. 32)

これについてアキは、「勇気がない」と評しています。

「えみるが何した?
たぶらかすのがうまい?

たぶらかされてやる勇気もなかったくせに
被害者ヅラすんな!!」

「たぶらかされてやる」とは、えみるが好きであるというだけで、彼女の生活を全面的に助ける行為をすることを指すのですが、一介の高校生である岳志に、そこまで求めるのは酷ではないでしょうか。

 アキは、いろいろ偏見に晒されつつハルと二人暮らしをしていました。もし誰かと不和を起こしてその生活がパアになっても、最悪頼れる実家が残るのです。しかし、岳志はまだ自立できていないため、転居の自由はありません。本当に彼自身の町にしか生きる場所がないのです。岳志にとっては「ここで生きてくこと」が当面外すことのできない前提なのです。誰かに「たぶらかされる」のが一種の狂気であることは、岳志もアキも了解しています。ただそうして安心して狂えるのは、何らか別の場所に生活の保障があるアキの場合だけなのではないでしょうか。

 岳志はとても常識的な人間であり、ヒーローになるには冷静すぎました。つまり、自分も含めた周りの人の幸福を見失わない、視野の広さを常に保持していたとすら言えるのです。

 もし世界にえみると岳志の二人しか人間がいなかったならば、そして彼女が困っていたならば、彼は彼女が生きることを間違いなく助けたでしょう。しかしながら、実際には岳志には家族も、友人も、好きではないが常に関わらなくてはならない多くの知り合いもいます。そうした人々とえみるとがどれくらい自分にとって重要なのか、天秤にかけてみなければなりません。自分にとっての他人の値うちを計算することはどこか居心地の悪いものですが、それは必要なことです。なぜなら、だれもかれもの生活を助け、かいがいしく世話をすることなど不可能であるからです。新しく誰かの世話をすれば今まで世話していた誰かが困り、今まで世話してきた人だけをずっと世話するならば、他の困窮する誰かは死ぬでしょう。自分の身体というのは一つしかないので、誰かの世話をすることには必ず体力の限界があります。

 貨幣と経済は人間に値段をつけることを始めますが、正義をも可能にします。困った人がいるならば他の全てを投げ出して助けに走るのではなく、ある程度の貨幣を与え、自分や自分の大切な人の生活をぶち壊しにしないながらも、困った人の生活に貢献することができるようになるからです。それが『貨幣の哲学』でいわれている「貨幣の両義性」の意味なのでした*1

 私は岳志が直面した困難を、ある恐れに打ち克つ勇気が発揮できなかったという困難ではなく、比較できないものを比較し考量せねばならなかった困難として読みます。その困難は岳志個人の性格に由来するものではありません。人間関係をつくり、自らの住処をもち生活する私たち全員が日々直面している困難なのです。それは生活者であるアキにとっても同じです。岳志の「ここで生きてくこと」を放り出せないという切実さは、アキにも重々わかっていたはずなのに、いえ、分かっていたからこそ、アキは激しく岳志を責めるのです。

 2巻の初めのシーンで、えみるがやはり故郷に戻ると決めた際に、ハルはその決定を尊重しますが、彼女を一人にしたくなかったアキは不満を募らせます。そして、えみるの実家に反魂香の調査に行くとなったら「俺そのまま えみるちゃん家で暮らそっかな……」とこぼします(2/p. 18)。しかし、彼は簡単にはそれができないことを分かっています。彼はまだ高校も卒業しておらず、自分の責任で世話をする猫もおり、そう簡単に「ここ(分店)で生きてくこと」を投げ出すわけにはいきません。彼がえみるの帰郷をしぶしぶ承認したとき、「ここで生きてくには彼女とは離れるしかない」と、自らに言い聞かせていたはずです。するとアキが岳志の「言い訳」を非難するのは、アキ自身がいつでも言い訳をしうることへの自己嫌悪であるかのようなのです。

 もちろん、アキが岳志に見せた必要以上の辛辣さはそれだけが理由ではないでしょう。1巻で登場したおばさんはこれからも付き合いの続く相手だったのに対し、岳志はおそらく二度と関わらない相手であり、遠慮する必要がなかったというのも一つでしょう(アキはもっとスマートに事を収めることもできる人間だったのですから)。しかしなにより、彼は自分を捨てた親を含め、誰かが自分が世話をするべき誰かの世話をしないというケースをことごとく憎悪しているというのが実情なのだと思います。これについては次回もう一度取り上げる予定です。

 ちなみに、えみるは岳志に向かって「私が留守の間 ほんとは雪下ろししてくれてたんでしょ? でなきゃもっと積もってるはずだもん」(2/p. 37)と語りますが、本当に彼がそうした行為をしていたのか、作品内の情報からではわかりません。一人でどうやって屋根に上る手段を得たのか、雪下ろしをしていたなら、再会の際、まず家の惨状に言及するはずではないのか等……。しかし事実がどうあれ、人目につくことさえなければ、岳志もえみるの役に立つことがしたいと考えていたことはわかるのです。えみるが最後にそれを分かってくれただけでも、彼は救われているといえるかもしれません。

「いつも気にかけてくれてたの気づいてたよ
遠くからだったから 私の勘違いかもしれないけど

それでも岳ちゃんだけだったから
うれしかったよ」

(2/p. 37)

 この、事実を宙づりのままにしておき、登場人物の誰もがどこかで肯定される解釈の余地が残されるという締めくくり方、これは芦原妃名子の諸作品にも頻繁に見いだされる特徴だと私は考えています。小学館の雑誌で主に活躍してきた桜小路かのこ芦原妃名子の近さは、少女漫画にある共通のヒューマンドラマの作法を生み出してきたようにも感じられます。また両者の遠さについても、いずれ機会があれば検討していきたいと思っていますが。

 

関係を切り捨てることの喜び

 少女漫画というのは基本的に、関係をスッパリ断つということを肯定的に描くことは少ないのではないかと、私はこの作品を読むまでぼんやりと考えていました。例えば恋人との関係が最近うまくいかないとなれば、反発するなり、和解するなり、誰かを味方につけて力関係を変化させるなり、何らかの関係維持は全く関わりをなくしてしまうより良い、という信念が基礎にある気がするのです。あるいは、別の誰かとの新しい関係が芽生えて初めて、現行の人間関係との別れが肯定されるというか。ここだけ抽象的で自分でも納得がいかないのですが、そんなことを考えていました。しかしながら、この作品の2巻でえみるが故郷を捨てるシーンを読み、それは私の勘違いだったとわかりました。作品始まって以来のえみるの満面の笑み(2/pp. 43-44)には「関係を切り捨てることの喜び」そのものが横溢していると感じられました。

 「関係を切り捨てることの喜び」とは、関係する価値を見出せない人とは物理的に離れ、音信を絶つということができる喜びです。言い換えると、自分の生きたいところで生き、関係したい人と関係しようと決められる喜びでもあります。これはえみるが、唯一の家族といえた祖父を亡くし、幼少期の思い出が詰まった生家という心残りも消えたため、関係し気遣うべき人やものが何もなくなったからこそ享受できた喜びです。

体が軽い 私 どこへでも行けるんだ――――………

どこへでも 好きなところに

(2/p. 43, 45)

 生きていく「ここ」を失うこと、それは「ここで生きてくこと」の重さと対になる軽さをもっています。その都度「ここ」を定めなければもちろん生きてはいけないけれども、それは必ず仮住まいであり、自分がそこを出ていきたいときに出ていき、しばらく留まりたいときは留まるという身軽さ、それは農耕民に対する遊牧民生活様式に喩えてもよいかもしれません。

 

捨てるという経験は悪の経験である

 しかし誤解しないでいただきたいのです。この作品にはたしかに過去の人間関係や思い出を切り捨てることへの強力な肯定がありますが、だからといってこの作品はかつてあったような「断捨離」「ミニマリスト」ブームに与するようなものではない、ということを付け加えておきます。

 アキは、未だえみるを忌み嫌っている町の人だけではなく、彼女を祖父に任せていなくなったえみるの母親についても、「切り捨てりゃいいんだ」と一蹴します。しかしその直後のコマには次のような台詞があります。

「……たださ

切り捨てるほうだって痛いからさ……」

 (2/pp. 41-42)*2

 自分が所有し、気にかけてきたものを手放すことは、それが自分にとってよりよい未来に繋がることだと思うからそうするのですが、そこに痛みがあるというのはなぜなのでしょうか。この言葉はさりげなくも非常に謎めいていて、私はどう読んだものかずいぶん悩みました。そして不意に、まったく別の作品にあった次の場面を思い出しました。

優子「全部大事なものだから 全部手放したくないのですね」

紘「ああ そんなところかな」

優子「けれどいつかどれかを諦めないといけない…
いちばん大事なものを手放さないために」

紘「だから 全部大事なんだよ!」

優子「でも決めないと 全部失うことになりますよ」

紘「だからって 一度関わったことをなかったことにして
捨てられねーんだよ!」

優子「捨てるのではありません」

紘「…?」

優子「あなたが捨ててもらうんです
――だから痛いのですよ」

(アニメ『ef - a tale of memories.』 ep.10 "I'm here" より)

それは、何かを捨てるときは必ず、事実それを世話してきたことによって何か立派なものだと思えていた自分をも捨てることになるからではないでしょうか。もはや誰も何も自分に世話されることを期待もしなければ、捨てないでくれと泣いて縋っても来なくなる、自分が単にどうでもよい存在になることに耐えなければならない、つまり「捨ててもらわなければならない」。自分には相手がもう必要ないが、それが相手にとってもそうであるような状態を物理的に無理やり作り上げること、それが捨てるということなのです。

 えみるがもう岳志のことを気にかけるのをやめるように、彼女の名を悲痛に呼び続ける彼(2/pp. 38-39)を置き去りにすることによって、彼にもえみるのことを気にかけるのをやめてもらう。そしてもう岳志から気遣われることもなくなるのだろうということを彼女自身が受け入れる、それで始めて、彼女は岳志含む村の人々を捨てることになるのです。これは、「村を追い出されること」と「村を捨てること」が全く同じことだという結論にはなりませんが、受け入れ難いところがある状態を受け入れざるを得なくなる、つまり関係の切断はどうしても「悪」として自分に降りかかるほかないという点では、「追い出される」も「捨てる」も変わらないのです。

 しかしこの作品の順番としては、「切り捨てるほうだって痛い」という言葉の後に、先述のえみるの満面の笑みが続きます。そして、悲しみに暮れるどころか笑い出す彼女の様子に男二人のほうが唖然とする(2/ p. 44)。これをどうとったものでしょうか。「結局、捨てるほうの痛みなど大したものではないということだ」としましょうか。ただ私は、p. 38のほうの「ありがとう 元気でね」と岳志に言う彼女の、疼痛に耐えるとも微笑んでいるともとれる曖昧な表情も無視できないように思えます。彼女の切り替えの早さはたしかに驚くべきことですが、むしろ「捨ててもらう」ためにこそ、その切り替えの早さを発揮する必要があったのかもしれません。……何か、卵が先か鶏が先かという議論になりそうな予感もするので、この辺りでやめましょう。

 

「うれしさ」を信じる

 この作品は人間関係を切り捨てることの喜びについてのみ語っているわけではない、私がそう考えた理由はもう一つあります。えみるが故郷を去り、アキと同じ高校に入学したときの二人のやりとりを参照しましょう。

アキ「えみるちゃんは いらない人間関係切り捨てたよね」

えみる「……はい」

アキ「俺 それはアリだと思うんだ
あんな奴らにえみるちゃんが囚われてる必要はないよ

でもね
そしたら代わりに新しい人間関係を築かなきゃ

俺も手伝うけどやるのはえみるちゃんだよ
いい?」

(2/pp. 59-60)

 えみるはここで頷き、アキはそれについて意外に思います。

「あれ 思ったより素直だ

一人でいいですって突っぱねられるかと思ったよー」

(2/p. 61)

 ちょっとでも面倒くさいことがあれば切り捨てて次へ行く、という形でしか人と関わることができなくなった場合、(生活の基盤を整えてくれる保護者はしっかり確保しておきながら)「一人でいいです」と居直りたくなる気持ちは私にもしみじみ覚えがあるところです。アキの言葉は別に邪推ではなくて、関係切断の中毒になった人間の典型的な心理をよく捉えています(なぜそのような居直りに行き着くのかといえば、他人に要求するところが非常に高い人間にとって、関わるにあたり面倒くさいと思うところのない他人など存在しないからです)。しかし、ここでえみるはそのように大雑把な「人間ぎらい」に走るのではなく、例外や偶然を想定しつつ何が自分にとって本当によいことかを考える精神を失っていません。

アキ「一人でいいですって突っぱねられるかと思ったよー」

えみる「…………
ずっと そう思ってたんですけど…

アキさんとハルさんと知り合えて
すごく助けられたし
うれしかったし…

こんな…… こんなやさしい人もいるんだって思ったら
誰かと知り合うのも悪くないなって……

これだけ沢山人がいたら
私なんかとも仲良くしてくれる人がいるかもしれないし

頑張ってみようと思います
……できるだけ」

(2/pp. 61-62、強調は引用者)

 彼女がかつて岳志に気にかけられていた時と同じ、「うれしかった」という言葉がここに出てきていることを重く見るべきだと思います。そのうれしさを記憶し続けていることが、彼女が「人間ぎらい」には与しない理由なのです。誰かと知り合い、時間をかけて関係を育み、簡単には捨てられないようなしがらみに入ること、そのほとんどは息苦しいものであっても、稀には「うれしさ」があるということ。そのうれしさは、何らかの苦痛と差し引きされるものではなく、うれしさはうれしさであるということ。それを強く信じる彼女は、自らの手で幸せを獲得できる女性の理想形であるようにも思えてきます。このように、自分のことは自分自身で吟味し注意深く考える彼女は、まさにこの物語の主人公を張るにふさわしい人物でしょう。何を隠そう、この物語は後半につれ、自律(自立)とは何かというテーマを露骨に浮かび上がらせていくのですから。

 

 毎度のことながらまとまっておらず結論も何もないのですが、 雑に言うと、関係を維持すること(「ここで生きてくこと」の重さ、経済から出てきた答えとしての心配)、関係を切り捨てること(えみるの笑顔、切り捨てるほうの痛み)、新たに結ぶこと(人と知り合うことにあるうれしさへの信頼)についてそれぞれ描き、深めていったのがこの作品の2巻だといえるでしょう。この巻には他にも、野崎ななこという私は少なくとも初めて見るようなタイプの主人公の親友キャラクターだとか、彼女によってえみるのまた特殊な面が炙り出されてくるとか、語るべきことはいろいろ残ってはいます。しかし、やはり次はいよいよ3巻のほうに軸足を移していくことになるかと思います。かなりこみいった話になると予想しているので、書きあがるまでにまたしばらく時間がかかりそうです。

 

 

*1:この点からすると、前回検討した「他人から浮くと同時に他人に迎合する」というアキの態度は、感情を通貨のように用いて悪意の流通を制御する、一種の経済的操作とも考えることができます。

*2:この台詞の一行目のほうのコマには口を開きかけたアキの顔の下半分が描かれたため、私は最初、これは勢いに任せて「切り捨てりゃいい」と言ってしまったアキが、えみるの心情に寄せて反省した上で出たセリフなのだと思っていました。しかしながら、私は別の可能性も考えるようになっていました。これは前のコマからしゃべっているハルが、白熱するアキを宥める形でかけた言葉ではないのか、と。判断が難しいので誰の発した言葉かはぼかしましたが、どちらだとしても読み進めるにあたってはあまり影響はありません。