祝福された居候状態―桜小路かのこ『ラストノーツ』について

 少し間が空きました。前から書こうと思っていた作品についての感想文です。また連載のような形になるかもしれません。 

 全3巻完結

 

 ネタバレあらすじを書いておくと、「唯一の親族である祖父の死により天涯孤独になった主人公が、遺産の香木を線香の会社に持っていき、その子息であるイケメン金持ち兄弟の家に居候することになり、片方と恋人になって同居が終わる話」です。

 身寄りのない他人を引き取り、引き取った側と引き取られた側に恋愛関係が生まれる話というのはそれこそ数限りなくあると思います。この物語も、まさにそうしたご都合主義的な展開で幕を開けます。しかしながらこの作品は、ご都合主義的な展開ではしばしば省略される「人間一人を養う重さ」を正面から引き受け、じっくりと時間をかけて描いています。

 なぜこの作品にそうした重さがあるのかというと、それは生活にかかる金、費用、コストというものをはっきり登場させているからだと考えられます。

 

二つの経済的取引

 生活の中に他人を招き入れるというとき、まず必要となるのは物質的な給付にほかなりません。普通の人間は霞を食べ、木の葉をまとっているのではないのですから。

 作品に登場する「コスト」という言葉が指すのは、第一には人が暮らすために使う物品の購入費用です。たとえば作中でえみるは服、携帯電話、洗髪料等を買ってもらっています。当然ながら例に挙がっているのは人との共有が難しい物品です(シャンプーは共用できますが)。第二には、何かを使わせてもらったり、自分の代わりにやってもらったりすることの負担です。例えば風呂を用意してもらう、洗濯されたタオルや着替えを与えてもらう、部屋や寝床を使わせてもらう等々。

 このようなコストは、「~してもらう」という形で表現されることからもわかるように、自分は受け取りすぎ、相手は差し出しすぎているという不公平の感覚をえみるに与えていました。それは「なぜこの人はここまで自分に親切にしてくれるのだろう」という疑問を抱いている状態でもあります。

 その疑問の答えを彼女が見つけるのは、3話の冒頭で「反魂香」について何か知らないかとアキから尋ねられたときです。アキとハルが経営する仁藤香堂分店にえみるの祖父は反魂香を卸していたのですが、その入手ルートや在庫について二人は知らされていなかったため、その情報をえみるに尋ねたのでした。

アキ「えみるちゃん 何か少しでもじいさんから聞いてない?」

(略)

えみる(アキさんたちは〔反魂香について〕知りたがってる

   私に親切にしてくれるのはそのためで…

   知らないなんて言ったら
   私はここにはいられないんだ…)

(1/pp. 110-111、〔〕は引用者補足)

 ここで反魂香について正直に知らないと言うか、知っていると嘘をつくかをえみるが逡巡する数コマは、この作品最大の緊張感を伴っています。

 もう一つ具体的な例を挙げるなら、次のやりとりを耳にしたえみるの反応があります。

アキ「服 誰かに選んでもらったの?

  あ 彼女か」

ハル「今年 入ってからできたあいつのことなら もう別れたよ」

アキ「…… また金がかかるとかそういう理由なわけ」

ハル「コストに見合うものが得られなきゃ 付き合う意味なんてないだろ!

(1/p. 117、傍線引用者)

えみるは、ハルの最後の発言をすぐに次のような類比で考えます。自分の場合は「二人に買ってもらった服など」がすなわちコストであり、それに見合うものとは、自分がもつ(と嘘をついた)反魂香の情報なのだと。居候生活をさせてもらう代わりに、反魂香について知っていることを教えてもらう。これは一つの経済的取引です。この取引の仮構によって、ひとまずは他人を生活に招き入れるということの説明が行われます。「人が人を養うということというのも、一つの経済的取引である」とするのが、この作品のリアリズムなのです。

 えみるは料理、店番、買い物などの手伝いを率先して行いますが、それは未だに自分の受けている恩恵の対価を差し出せていない(嘘なのだから差し出せる情報もないのですが)ことに対する負い目もあったのでしょう。そして、かつては実質一人で家事や雪の掃除をしていた彼女だからこそ、そうした生活環境を整えることの苦労を軽視せず、それをしてもらうことがどれだけの負担かということを理解もでき、少しでもその負担軽減に努めなければならないとも思ったのでしょう。

 とはいえ、アキとハルにしてみれば、この「居候生活をさせてもらう代わりに、反魂香について知っていることを教えてもらう」という取引をしていたつもりは全くなく、これはえみるの早合点にすぎなかったのですが。

えみる「私 反魂香のこと何も知りません

   嘘ついてごめんなさい
   ごめんなさい…!」

アキ「それが何?

  そんなん目当てで引き止めてるワケないじゃん」

(1/pp. 168-169)

 アキにとっては、えみるが反魂香の情報を持っていればラッキー程度のものであり、たとえ彼女がそれを持っていなくとも、彼女を居候させることに変わりはなかったでしょう。なぜなら作中で言われているように(1/p. 177)、えみるを居候させることは、彼女の祖父から受けた恩義に報いることでもあるからです。

 生活のコストと情報とを交換すること、故人から受けた恩をその相続者に返すこと、この二つの経済的取引を背景にしながら人物たちは行動しているのでした。

 ただ、何が何でもえみるを一人にさせたくないアキの必死さというのは、単に恩返しという域を超えた偏執的なものですらあります(cf. 1/p. 166)。これについては後に語られる彼の過去を参照しなければならないのですが、それはまた別の機会にします。

 

共同生活の近さにおける快と不快

 上では、居候と家主の間にあるものを経済的取引としてきました。しかし、えみるの祖父の退職金を彼女に受け取らせた上に居候までさせるのは、与えすぎて取引にすらなっていないのではないでしょうか。

 困った人に金をあげることと、困った人を家に受け入れ生活させてあげることは、目指すところは同じであっても、その困難さは全く違います。私は被災地に募金をすることはできても、被災者を自分の家に受け入れて食事を作り、着替えを与えて古い服を洗濯し、その人の寝床を用意するのは難しいと感じます。というよりそうするのはかなり嫌です。

…もっともレヴィナスは、マルティン・ブーバーとは逆に、財布を開くことはやはり容易であり、反対に、他者のために何かを行い、他者を養い、服を着せ、住まわせ、他者と「日々の生活」を共有し、他者を一人で苦しませず死なせぬことは、財布を開くよりもはるかに大きな対価を要すると考えているのだが。

 このことは、次のような事実によって説明される。すなわち、交換の経済的手段としての貨幣(後述)が、より客観的で距離を置くのに対し、住居や所有物は、自分自身の地上的な自同性と、自分自身の存在への固執に対する愛着をより直接的に表現しているのである。

 

ロジェ・ビュルグヒュラーヴ「貨幣とつねに改善される正義―エマニュエル・レヴィナスの視点」(エマニュエル・レヴィナス著, ロジェ・ビュルグヒュラーヴ編, 合田正人+三浦直希訳『貨幣の哲学』, 2003, p. 27.)

 ビュルグヒュラーヴが述べるように、金を与えるだけなら、その与えられた人は、金を使ってまた遠い誰かの労働の結果を享受しそこで生活するので、自分の生活が直接的に脅かされることはなく、少し家計が苦しくなるという結果があるだけです。しかしながら、誰かを自分の家で生活させるとなればそうはいかない。だからそれは難しいことなのです。

 ですが、今回の『ラストノーツ』を含めた少女漫画の想像力は、こうした洞察が見落としていることにいつも焦点を当ててきました。それは、必然的にゼロ距離で生活に割り込んでくることになる居候の近さが、家主の好みによってはそのまま快感になるような奇跡的な状況がありうるということです。

 この作品で、えみるの居候に伴って自分の生活空間が侵食されていることを快と感じているのは、ほかでもないアキでしょう。彼は彼女の体臭を愉しみ(1/p. 69, 81, 134)、彼女を「美少女」「すげぇかわいい」と絶賛する。これは、彼らの同居が成立するにあたって決して些細な要素などではありません。もしもえみるが、アキにとって(たとえ不潔な状態でも)快いと思える体臭であり、ナチュラルボーン美少女でなかったならば、共同生活の近さによって少なからず疎まれただろうからです*1

 人間が生活する中での不快さとは、清潔で衛生的でない状態のものを見ることが避けられない不快さです。洗っていない皿、掃除していない便所や浴室、洗濯前の汚れた服が耐えがたいものであるように、同居人が一日の汚れを抱えたときの臭いや、くつろいだ時の見た目が耐えがたいということは、その者と共に生活することが耐え難いということなのです。5日風呂に入っていないというえみるを即座に風呂に入らせたハル、彼女の普段着の選択にも神経を尖らせるアキ、ハルの様子は、どんな共同生活の描写よりも正直な実感だといえます。しかし、ちゃんと風呂に入り、年相応の普段着を調達してしまえば、えみるは二人に(特にアキに)とって驚くほど五感に障ることのない、それどころかむしろ愛玩動物的に快い存在だったのです。そうした問答無用の快さは、人を養うことへの深刻な抵抗感をたしかに軽くするだろうと思います。余計なことながら、その快さは人がどんな大変な思いをしてもペットを飼おうとする理由、「ヒモ」と呼ばれる男が存在できる理由を考えさせてくれる気もするのです。

 

世間の目にどう対応するか

 若い男と若い女が、他人同士ながらも一つ屋根の下で暮らす。恋愛ものによく見られるこうした条件はしかし、現実にはそこまで頻繁にみられるものではありません。

 この作品の正直なところは、そうした標準的な家族ではない同居について「いかがわしい関係があるのではないか」と勘ぐる人々がいるのを描いていること、そしてその噂好きな人々によって不快な気分にさせられながらも、そういった人との関係を維持する状況を描いていることです。

 作品の舞台である仁藤香堂分店があるのは東京都心から離れた下町とされています(1/p. 96)。こうした地域ではへたな地方よりも、商店街と近所づきあいという前時代からの仕組みが生き残っているようです。実際この作品では、ちょっとおせっかいなくらいのおじさんおばさんに囲まれ、アキとハルが暮らしてきた様子が描写されます(1/p. 123)。しかし、そういった距離の近さはときに下世話な噂話を生成することにもなります。私が彼らに近い環境にいるといえばいるのでこれは実感なのですが、人のプライバシーを侵害する噂話ほど上質の暇つぶしになるようで、まことによく伝わるのです。

 まあそれはともかく、1巻の140ページで分店を訪れるおばさんが、そういった噂を作中に持ち込む代表人物として描かれています。こうした噂を楽しむ人によくあるように、おばさんには明確な悪意はなく、ただ思ったことをそのまま繰り出しているだけなのです。いわゆる「魔性の女」の娘だったえみるにとって「男好きしそう」などといった言葉はかなり致命的な暴力なのですが、噂でものを言っているだけの彼女がそんな事情を知っているはずもありません。おばさんは生活圏にもたらされる新鮮なゴシップに飢えているだけで、決して性根の腐った人間ではない。そしてハルやアキのほうも、彼女にちょっと不快な気分にさせられるからと言って、自分たちや向こうが街から出ていったり生活圏を変えることは叶わない。そんな場合必要になるのは、アキが1巻のpp. 142-143でやってみせているような「やんわりと相手に不快であることを伝える技術」なのです。

 具体的には、表情、声のトーンなど非言語的な情報を用いて、「これは真剣な怒りや不快感の表明である」というメタメッセージを送ることです。しかしそれだけに終わるのではなく、そこで中断されてしまった無邪気なおしゃべりをすかさず回復させることにより、そうした怒りや不快感が永久的な絶交を表すものでないことも伝えます。このような高度なコミュニケーションは私が最も苦手とするもので、19という若さでこの技術を使いこなすアキを私は尊敬して止むことがありません。

 なぜこうした技術がアキに身についていたのか。それはえみるを迎えるまでもなくアキ達がそもそも典型的な世帯ではないため、様々なうわさ話と偏見に曝されてきたからではないでしょうか。有名企業の御曹司とその兄弟である養子が、2人で怪しげな線香店を営んでいるというところからしてかなり異常です。しかし、それでも二人は親元を離れ、近所づきあい濃厚な下町で住み続けてきたのです。

「俺たちはいいよ 言われるのが嫌ならこんなとこいない」
(1/p. 168) 

年齢に比して彼らは大人すぎると私が感じたのは、他人たちの中で上手く振舞うことを空手で学び生きてきた二人だからなのかもしれません。

 すると二人のほうにはえみるを迎え入れる準備ができていたのであり、逆にこうした世間の目への対応ができない人であるなら、えみるを迎え入れることは社会的に厳しい立場に置かれることを意味します。そうなればそのホスト志望者は、結局えみるを保護するという目的も十分に達成できないままになるでしょう。まさにそうした例が作中の岳志なのですが、いずれは彼の苦悩についても語ることになるかと思います。

 

 

 結論として、人が人を養うときに発生しうる困難について、ここまで周到な弁明を用意してある作品を私はほかに知りません。この作品は人を養うということの重さを真摯に描きながら、諸々の偶然が重なった結果として、それをいとも簡単に背負い上げるのです。作品の前半は、まさにこの祝福された居候状態が成立するまでを丁寧に描いているといえます。しかしこの作品はそれで満足することなく、さらに先まで進むのですが、それはまた後の機会に。

 

貨幣の哲学 〈新装版〉 (叢書・ウニベルシタス)

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*1:たとえ彼女がどんな人物であっても、アキはまた別の事情から、彼女に金だけ与えて見放すことをよしとはしないでしょうけれど。

遺言としての自己表現―ある人のnoteについて

経緯

 今回は作品紹介の記事とは言えないかもしれません。

 数日前、ブラウザのお気に入りを整理していたらあるサイトに行き当たりました。そしてそのページを管理している方のnote(ブログのようなものです)を何とはなしに読み、衝撃を受けたのです。これは真剣に読むべきテクストだと確信し、だからこの記事を書いています。

 ただしこのように日記に近い文章というのは取扱いに注意が必要であるような気もしています。日記はその筆者との結びつきがフィクションよりもおそらく強い。そんなテクストに対して、いつものような自分勝手な濫用が果たして許されるのでしょうか。文芸作品として日記を読み解くことは可能なのでしょうか、また可能であったとして、それは正しいことでしょうか。筆者に頼んでもいないカウンセリングを仕掛け、ひとりの人間を言葉をもって打ち据えることになりはしないでしょうか。私としてできるのは、作品をあくまで作品として読むこと、氏のnoteに言及する以外に氏とは関わりを持たないことくらいです。インターネット上の人間関係は、連絡掲示板のように、断続的に間接的にするのが最も望ましく美しいと信じる私としては、そうした消極的な策しか思いつくことができませんでした。つまり、いつもの文体と読み方を変えるつもりはあまりないということです。

 さて、様々な話題が高密度で圧縮されている氏のnoteの全貌を語ることは、到底一人の力では無理なのはわかりきっています。したがって今回は、主に二つの記事に焦点を絞っています。

 

出来事

 氏は「Mona」「庚の字」等の名義でゲーム制作ほか多様な創作活動をされてきた方なのですが、あるときネット上の創作のコミュニティの第一線から退き、本名でtwitterを始めたといいます。曰く「たまたまゲーム作る趣味がある人間が本名名義で愚痴や日常、思うこと考えることを呟く場」として。

 ところが、その本名名義のほうで趣味の一つとして呟いたゲームの情報が、「庚の字」名義のものであると同定され、氏のアカウントには「以前庚の字として繋がっていた方々のフォロー通知やリプライ、リツイート」が送られたということが起こりました。

名義も違う、呟きの内容も違う、アイコンも違う。
けれど、リツイートされた画像を見て「庚の字さんだ」と気づいてくれたらしい。実は昨年末、一昨年末にも似たようなことがあり、しばらく離れていた方々と再会するような流れになったことがあるのだが、

庚の字(Mona)という存在が消えてもちゃんと生き続けていること。
わたしの作品を見てわたしだと認識してくれる人がいること。

素直に嬉しかった。

「名義の話」

  この出来事の意味は2つあります。第一に、作品とは偽造可能でなければならないということ。そして第二に、作品とはその作者が生きているうちから遺言であるということです。

 

作品の偽造可能性

 第一のほうから考えていきます。先の出来事は、なんらか同じ徴をもつ作品(の画像)が、違う名前のもとで(全く違う状況で)同定されたということです。すると、もしもの話ですが、私がものすごい時間と血の滲むような努力をして氏の作品を模倣し、その画像をネットに上げていたら、万に一つ、私のもとで氏が「庚の字」名義で残した作品とその模倣作品がなんらか同じだとみなされることもありえたのではないでしょうか。あるいはどこか別の国の創作ネットコミュニティで、氏の作品を転載しこれは自分の作品だとホラを吹いて回るような輩の出現も、ありえたのではないでしょうか。

 作品が結び付けられる名義とは、それがどんなサイトで発表されるか、どんな時代に、どんな状況(ネット上、イベント会場)で発表されるかといったことと同様に、作品を取り巻く文脈の一つでしかないのだと、氏は気づいているように思えます。

「庚の字」とは、わたしがインターネット上で創作活動をするにあたって名乗っている名義で、pixiv繋がりはもちろん、ツクール界隈、そして制作を通じて知り合ったボイスコーポレーターの方々にはこの名前で通してきた。

もっとも、古いpixiv繋がりの知人たちにとってはわたしは「Mona」という昔のハンドルネームのイメージがいまだ抜けないそうなのだけど、「あなたにとってわたしがわたしだと認識できる方の名前で呼んでくれて構わない」というスタンスでやってきた。

「名義の話」

 他に具体的な事例を語るなら、田中ロミオというゲームのシナリオライター(現在は作家・原作者)を思い起こしてもいいかもしれません。彼はかつて、山田一(やまだ はじめ)という名義で活動していました。「田中ロミオ」の登場時、業界には「「田中ロミオ=山田一」説」、「山田一とは現田中ロミオを含む幾人かの合同名義であるという説」が持ち上がったそうです(Wikipediaを参照)。やがて公式や関係者の宣言によって、田中ロミオ=山田一という事実が確定されましたが、もしその宣言がなかったらと考えると、実際は一人の人間が全く別の創作者として認識されていたということもあり得たわけです。このわたし、一人しかいないはずのわたしが作品に刻み込む署名とは、ある意味ではおまけのようなものなのです*1

 そもそも作品は、それを取り巻く状況や作者の名義すら全く変わってしまったとしても、「なんらか同じである」と見なされることがなければ意味を持ちえない(作品として成立しない)ものです。例えば私の書いた一枚の漫画があるとしましょう、それは最初は私のブログで発表され読まれるでしょうが、パクツイアカウントによって転載(あるいは改変)されたからといって、全く別の画像になってしまうことはありません。誰の下で読まれるかという状況が変わってしまったら読めなくなる、同じものかどうかすらわからなくなる、それではそもそも一つの作品として理解されえないのです。誰の下であっても関係なく「なんらか同じだ」と見なせること、それが作品の成立条件なのです。

 この、どんな名義であっても関係なく、つまり作者が姿を消しても、作品は作品として機能するという条件によって、作品はすべて遺言として価値をもつことになるのです。ここまで言っておいてなんですが、以上の記述はすべて次の話のパクリです。

「私は生きている」というパロールは、私がその場に不在であったり、私が死んでいたとしても理解可能であるのでなければ、私が現前していたり、私が生きているときにも理解可能にはならない。「私は生きている」という言表の意味は、そのうえ私が生きているのか死んでいるのかという事実とは全く無関係である。(略)したがって、「私は生きている」と言うためには、「私の死が構造的に必要である」。全ての言表は構造的に「遺言的価値」(valeur testamentaire)をもつ、と言ってもよい。

髙橋哲哉『デリダ』 p. 157


遺言と亡霊

 先の出来事では「庚の字」という名義、ひとつの文脈が失われたとしても、「庚の字」の代名詞である作品は別の名義の下で反復され、機能することができました。氏はそのことを「素直に嬉しかった」としていました(先の引用を参照)。しかし同時に、氏は「なんとも言えないもやもやした感情」が湧いたというのです。

先日の note[ 楽しみとは何なのか ] において

草間彌生の「わたしが死んでも作品は遺る」という言葉が好きなので、たまたま生きているのであれば何かしらを作ってから死にたいなあとおもう

と書いた。

その「何かしら」というのは、わたしの創作作品のことであり、制作しているゲーム、アニメーション、イラストを指す。

これらは「庚の字」もしくは「Mona」の名前で「わたし」の作品として認識されてきたものだ。庚の字もMonaも「わたし」であることに変わりはない。

けれど時折、「わたしがいくらそう考えていたのだとして、仮にわたしが死んだ時、世間に残るのは「庚の字」であり、庚の字のやったことは庚の字の記憶としてしか世に残らないのではないか」という、なんとも言えないもやもやした感情が湧いた。

「名義の話」

 「庚の字」という存在は氏にとって、たとえ活動しなくなっても勝手に死ぬことはなく、自分の作品に取り憑き、作品の唯一性を証するとともに「わたし」の唯一性を脅かす亡霊のようでもあったのです。「庚の字という存在は消えた」にもかかわらず、「庚の字」は今ここに生きる「わたし」の及びもつかないところで反復され、独り歩きし始めている。氏はもともと「わたし」が生きた証として作品を遺したかった*2はずなのに、わたしである*3がもはやわたしではない何者かが、今ここに生きる「わたし」を置き去りにして、遺産たる作品を盗み取り、せっせと配布しながら練り歩いている(まるで、今ここに生きる「わたし」がすでに死んでしまっているかのように)。その奇妙な事態への違和を、氏は見過ごさなかったのです。

 

屍あるいは生き残りとしての生

 氏の文章が非常に示唆に富んでいる点は、こうした遺言的な構造と日常の気分とを整合的に語っていることです。氏は記事「「楽しみ」とはなんなのか」において、「生きていることが普通で、当たり前だと考えている人にとっては、わたしの考え方は死んだ人間も同然でつまらない人間に映るのだろうなとおもう」と述べていました。

 本当のことだと思うのではっきり言いますが、何ごとかを語る者、「自己表現」に躍起になるすべての者は、その表現したものという自分自身の亡霊に身を蝕まれているのです。その表現したものの内容がどれだけ生き生きとして明るいものであろうと、それは構造的に遺言であり、その作者というのはすでに屍であるかのようにして生きているのです。

 この、「死んだ人間も同然」の精神、前もって自分自身の喪に服することがなければ、「生きた証」としての作品を遺すどころか、あらゆる表現をすることが不可能になるのです。自分自身が主体となって何かを作ろうとすることができるということは、つまり「自分そのもの」があらかじめ分割されているという事態に他ならないということです。

 私たちは自己表現するとき、それに先立って死を抱え込み、自分自身の喪に服しています。一体なぜ、そんなことが続かなければならないのでしょうか? そんなことをして何の甲斐があるのでしょうか? その答えは分かりませんが、ひたすら創作活動に打ち込む人の衝迫はたぶん、生き残りが「生きねばならない」と感じる責任に似ています。氏が「庚の字」の後、「わたし=ながしま(長島)という人間」として文章を綴るようになったことも、「庚の字」の生き残りとして、その遺産を相続することであるように私には思えるのです。

 そして今回私は、この場にはもういなくなってしまった、そして一度も生き生きと私の前に現れたこともない「わたし」の遺言を私(=夕)のもとで勝手に引用し、読んだのです。今回のこの記事は、その遺言にできる限り忠実であろうとする遺産相続の手続きのつもりです。私もまた「生き残り」として生きています。

 

 しばし私の話をしますが、私が学生時代に小説を書いていたのも、死んでしまった自分の骨を拾い集めるような行動だったように思います(このような回顧もまたそうなのですが)。まさにその時その場所では何が苦しいのかよく分かりもしないまま苦しみ、その混乱の「生き残り」が、散らばった骨を後から拾い集め、生前一度も聞かれることがなかった「私そのもの」の遺言を受け取るのです。受け取らなければならないと思いました。私が高校時代に書いた小説は、私にとっては今でも自分自身の遺言としての価値を保っています。

 最近は何かというとすぐ黒歴史といい、思春期の遺産を茶化して終わらせる成人がいるのですが、私は自分の書いた小説も、過去のこっ恥ずかしい文章も、全部を焼き捨てて顧みないようにしようと思ったことはありません。鬱屈していた頃の自分を肯定するでも否定するでもなく、そもそもいなかったことにしてばかりいる人が、かつての自分のような子どもの苦悩を忘れ去り追い詰める側に回るのだと思います。

 私はそのような人とは違うぞとほぼ意地になって遺産相続をし続け、現在は創作物の感想という形で、私怨を織り交ぜつつこのブログで自分語りをしてきました。そして今回、遺言としての創作物について語っている記事を偶然見つけ、私の言いたかったことをより有機的に語ってくれたように思えて、私は途方もなく嬉しかったのです(氏がそんなつもりで記事を書いていない、というのだったら気持ち悪いだけだと思いますが)。準備途中だった漫画感想の記事を保留し、急きょ今回の記事を書いたのはそういうわけです。

 

氏のnoteへのリンクについて

 このように氏のnoteに言及し結果的に紹介する形になってしまうことについて、ためらいがなかったわけではありません。私としては、自分のブログを単に見られることは構わないのですが(そうでなかったら公開しないでしょう)、見ているとされる不特定多数の中の人間から「見ているよ」ということを私がはっきりわかる形で表示してほしくはないのです。どこか恐く、居心地の悪さを感じるので。

 誰もが私のように思うとは限らないのですが、私が下手にギャラリーを気取っているのを知ることによって、氏がnoteを書くのを、あるいは公開するのをやめてしまうことを私は恐れました。なので未だ継続しているこの作品を本当はあまり紹介はしたくはなかったのです。しかしながら、私のブログに行きつくような人には、私のブログを冗長な前座として、あるいは私がこれから注釈すべき原典として、どうしても氏のnoteを読んでいただきたかった。そしてそれを真剣に読むことによって、ネット上でか別の場所でかは関係なく、この作品を自分なりに解剖(=deconstruct)し、尊敬し、讃えてもらいたい*4。ここにはジレンマがあるのですが、最終的に私が下した決定はこの記事のときと同じだったのです。

 言える時に言うことが肝心です。インターネットの世界は思いのほか儚いのです。登録者自身によるサービスの退会・非公開化。サービス自体の終了。レンタルドメイン失効と404。永遠の更新停止。待ったなしの責任に今すぐこの場で応えていくこと、それが今回の暴力です。

 というわけで、ここに氏のサイトへのリンクを置いておきます。このように末尾であれば、氏の記事に本当に興味があり、氏に迷惑をかけるつもりがない人しかリンク先には飛ばないことでしょう。

 

*1:この頼りなさを支えようとする努力が、作家の意識的な独創性の追求、技巧の複雑化、オリジナリティへの狂信的な傾向として現れることもあるのかもしれません。

*2:> なぜわたしは作品を遺したいのか。

>「生きた証」というとなんだか大層なものに聞こえるが、もう会えなくなってしまった人、遠い存在になってしまった人、会いたいけれど会う勇気がない人。連絡先もわからない人。そんな人達に、「あんな奴いたな」と思い出してもらえるような何かを遺せるんじゃないか。もしもわたしが頑張って結果を遺して、どこかで名前が届いたら忘れていても思い出してもらえるんじゃないか。

>「有名になりたい」とは少し違うのだが、とにかく、いつか誰かにわたしだとわかってもらえる何かが届くようなことをしたい。昔からずっとそんなことを考えてきた。

「名義の話」より

*3:「庚の字もわたしであることは否定しない」と氏は述べます。

*4:ここまで読んでいる方には余計な但し書きでしょうが、私がここで言いたいのは氏の作品を全肯定してほしいとか共感の声を上げるべきだということではありません。