『生き延びるための自虐』試し読み(10章)

この記事は、個人誌の『生き延びるための自虐』試し読みです。

予告なく削除されることがあります。

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第10章 ひとりツッコミ、ネットミーム、夢は殺人―加藤智大

 始めに話題とするのは、2008年に「秋葉原無差別殺傷事件」(1)を起こした加藤智大についてです。

 加藤は、事件の数年前からインターネット掲示板によく書き込んでいたことが知られています。私の第一の興味は、無差別殺人へと進んだ彼がどのような性質の書き込みを行っていたのか、それは私の考える自虐とどのように似ており、どのように違っていたのかということです。そして、その類似性と差異にこそ、いま自虐する人が、加藤のように人を殺すまでに至らないためのコツがあるのではないかと考えています。

 流れとしては、まず加藤の書き込みが備えていた自虐的な性質について確認し、その後に、私が考える自虐と加藤の書き込みがどう違うのかを見ていきましょう。

加藤の書き込みは事実そのものではない

 加藤の書き込みの一部は、事件について考察したニュース記事や書籍のほか、インターネット上にも残されています(2)。内容を確認してみると、彼の投稿には様々な性質のものがあります。たとえば、散髪に行ったり食事をしたりといった日常的な生活の描写、雇用側や「イケメン」への怨嗟、職場の人々や後輩についての軽蔑的な言葉、殺人や武器への興味や仄めかし等です。初めて彼の書き込みを見た方は、彼は本当に赤裸々に自分の生活や思想について書いているように思われるかもしれませんが、それは間違いです。事件以後に、マスコミや専門家が、彼の書き込みをいくつか切り出した上で、彼の犯罪の動機を解明する手掛かりとして提示することが度々ありました。そういう人々にとっては、彼の書き込みは彼自身の置かれた状況と心情を克明に記したものであってほしかったのでしょうが、彼は当時からそれほど馬鹿正直な書き手ではありませんでした。

 加藤によって語られた彼自身の物語は、あらゆる自己物語がそうであるように、かなり編集されています。このことは、彼の足取りを取材した中島岳志の著作から推測することができます。中島の調べによれば、彼は事件直前の6月6日と6月7日に同一の性風俗店に足を運んだことが分かっています(3)が、彼はそれについては匂わせる書き込みすら行いません。また中島曰く、彼は2008年の5月に職場の同僚と旅行していたのに、あえて「一人旅」と書き込んだことがあります(4)。また同僚5人でカラオケに行った時も、一人でカラオケに行ったと書き込んでいます。後2つの書き込みについて、中島は「不細工は友達ができないと書いていたので、一人で言ったように書き換えた」という加藤の発言を引いています(5)。これらの脚色や省略は、「孤独なモテない男、性風俗サービスにも消極的」という彼の掲示板上の人物造形と矛盾しないように行われたようです。

 実際、加藤は獄中で事件を振り返った著作『解+』で、自らの掲示板への書き込み行為について2つの考え方を示しています。1つは「自分をモデルにした作品をある事ない事をおりまぜて連載していたようなもの」(6)と言われました。もう1つは「誰かと行う、『口喧嘩ごっこ』や『かみ合わない会話』を楽しむこと」(7)だというものです。つまり、彼が掲示板に描き出した自分の姿は、自分をモデルにしたフィクションの主人公であり、ごっこ遊びをするための仮想の人格だったということです。

「ひとりツッコミ」という自虐的技法

 加藤の書き込みが備えていたこの演技性は、私が最初に見出したものではありません。早くも2008年8月以前にそれを指摘した非常に鋭い書き手が存在しました。当時、『サイゾー』『m9』などの雑誌で記事を書いていたライターの鈴木ユーリです。

 鈴木が冗談か本気かわからない調子で語るところ(8)によれば、加藤の書き込みはもはや一種のネット文学として読むことも可能な、それ自体多面的な魅力を持っていました。その魅力は次の3点であるといいます。1.繰り返しや韻が作り出すリリカルさ、2.下流社会の生々しいディテール、3.「ひとりツッコミ」という自虐的な技法。この中で私の関心から着目すべきだと思うのは、最後の「ひとりツッコミ」です。鈴木が挙げたものとは違う書き込みの中に、それを具体的に見ていきましょう。

 

[2118]

06/03 16:05

若いうちは遊びで付き合う、ってことはわかった

[2119]

06/03 16:06

散々お金を使わせて、さようなら、ってわけだ

[2120]

06/03 16:09

大切にする、って、金を使うことなのかな

[2121]

06/03 16:09

1円まできっちり割り勘しろとは言ってないけど

[2122]

06/03 16:10

あ、わかった

勉強料ってことか

不細工な俺に勉強させてくれるのか

[2123]

06/03 16:10

というわけで、先生募集

 

[2183]

06/03 18:55

みんな俺を避けてる

[2184]

06/03 18:56

避けてるんじゃないのか、優先順位があとなだけなんだよね

[2185]

06/03 18:57

お前らの中で俺の順番がずっと来ないだけなんだよね

[2186]

06/03 18:58

他の人がどんどん割り込むから一生俺の順番が来ないだけなんだよね

 

[2438]

06/05 05:19

彼女がいない、ただこの一点で人生崩壊

[2439]

06/05 05:19

どんどんダメになってきた

[2440]

06/05 05:20

逆に、今はこんな状態だから彼女ができても困るんだけど

迷惑かけまくりだし

[2441]

06/05 05:21

ああ、そんな心配する必要なかった

不細工な俺には絶対彼女ができないもの

 

[2727]

06/06 03:38

だから誰も信用できない

みんなすぐに裏切るもの

[2728]

06/06 03:39

裏切ってるんじゃないのか

俺が勝手に勘違いしてるだけか

悪いのは全部俺だもんね

 

[5]

06/08 06:00

俺が騙されてるんじゃない

俺が騙してるのか

[6]

06/08 06:02

いい人を演じるのには慣れてる

みんな簡単に騙される

 

 このように、前段の書き込みについての絶えざる言い直しが加藤の書き込みには見られます。この「ひとりツッコミ」こそが彼の自虐を特徴づけています。

 ある程度長い自虐は必然的に物語の形をとると前章では述べましたが、彼の書き込みについても同じことが言えます。書き込みの一つ一つは短いですが、それがいくつか連なることにより、またその書き込み群にボケ/ツッコミというメタ的な関係を作ることにより、彼の書き込み行為の中で、物語の特徴である「語る私/語られる私」の二重化が生じます。これもまた、鈴木がすでに指摘していました。

この「卑屈な自分」と「卑屈な自分を語る語り手」の使い分けはなんか太宰的(太宰のほうがもちろん計算高いけど)。そこには我を忘れた狂人とは思えない客観性があり、加藤が一般常識と社会性を備えた人間と思われることに寄与してる。(9)

 ひとりツッコミによって、彼の書き込みはたんに「自分は不細工だ」に留まらない、他人が耳を傾ける甲斐のある自虐の物語となり得たのです。鈴木は先の論考の中で、加藤の書き込みが一定の趣を持った作品として読むことができたために、彼はその著者としてあれほど世の人々の共感を集めたのだと主張していますが、私も基本的に鈴木に同意します。加藤はワープアだったとか、派遣労働について不満だったとか、人間関係が稀薄だったとか、恋人ができなかったとか、そうしたカテゴリへの帰属だけで多くの人々の共感を集めたのではありません(それらの認識は単純に間違っており、報道によって事実だと誤解し彼に勝手に仲間意識を覚えた人も多かったでしょうが)。加藤自身が何度も主張しているとおり、掲示板への彼の書き込みの内容から、掲示板の外の彼がどんな人間だったとか、何を信じ何をする人間だったということを直接に見出すことはできません。

 ただ、彼の書き込みを見るだけでも、その内容ではなく書き込み方の特徴から、彼が掲示板で何をしていたかを言うことはできます。私が思うに、彼はときに自虐をしていたのです。彼の書き込みは、その内容や内容の信憑性にかかわらず、形式のみによって自虐的である場合がありました。

批判を恐れない過激さ

 このようにすぐれて自虐的な書き込みを行っていた加藤ですが、彼は私が本書で描写してきたような自虐者とはいくつかの点で距離があるのも確かです。

 すでに述べたように、加藤は自虐的な「ひとりツッコミ」と同じかそれ以上に、他人への罵倒や嘲笑、嫉妬を素朴に(ひとりツッコミや予防線なしで)書き込んでいました。これは私の思う自虐者からは信じられないことです。自虐者は、嫉妬心などの悪感情を持っていても無遠慮にそれを書きはしません。書くにしても、婉曲的な表現や「批判の先取り」によって、他人から批判される隙を見せないよう細心の注意を払います。なぜなら自虐者は他人からの批判を(しばしば過剰に)恐れているからです。加藤が無遠慮に他人への攻撃を書き込むことができたのは、おそらく彼が、自分の書き込みが批判されることをあまり恐れていなかったからです。

 彼は他人からわずかにでも批判されたくない、とは考えていませんでした。むしろ、批判でもいいから何らかの反応が欲しいと考えていました。たとえば彼は、荒らしが掲示板を去るときに、その荒らしにまで「去るな」と呼びかけるほどだったといいます(10)。

 加藤がたとえ批判でも荒らしでも反応(自分以外の書き込み)を求めたのは、彼の内心だけではなく、ネット掲示板という仕組みにも原因があります。ネット掲示板では、彼にとって都合の悪い書き込みであっても、書き込みがされなければ「そこに誰かがいる」という感覚を得る手段がないからです。次のような書き込みは、全く他人の書き込みがない状態の不安を端的に表したものです。

[2282]

06/04 15:50

誰もいない

[2283]

06/04 15:50

いるのかいないのか

[2284]

06/04 15:51

どうでもいいのか

 加藤は事件の一週間ほど前からほとんど一人きりで掲示板に書き込むようになりましたが、彼の掲示板でのキャリアからすると、これは例外的な事態でした。先に言及したように、彼はつねに誰か少数の掲示板を見る人たちと「口喧嘩ごっこ」や「かみ合わない会話」を楽しんでいました。批判を恐れるよりも何らかの反応を得ることが最優先なら、できるだけ過激な発言をし、できるだけ雑な罵倒や嘲笑をするほうが、短期的には人の反応(反発)を引き出すことができるでしょう。したがって、何らかの返信を引き出すために他人への雑な罵倒や挑発に流れるのは彼の常であり、それで数名から罵り返されたのならむしろ儲けものでした。

 一方、「いいね」(お気に入り)や「フォロー」システムが搭載されたSNS以後に生きる私たちの気分は少し違います。現代SNSでは、「いいね」や「フォロー」によって、そこに誰かがいるということは保証されるのだから、他人からの明示的な返信の重要性は相対的に低く、まして批判の言葉など忌まわしいだけなのです。現代の自虐者は、「いいね」や「フォロー」など何らかの反応は欲しいが、批判は絶対にやめてほしいと考えます。すると必然的に、他人への言及には慎重になります。他人に悪感情を持っていると素朴に語るような発言は以ての外です。いいねやフォローは獲得できるが、何か返信を送りつけたいとは思われない、絶妙に自己完結的な発言を心がけねばなりません。現代の自虐者は、投稿への(批判的な)反応を求めていないことを他人に理解させ、実際にそう反応させないという難しい課題に向き合うことになります。このために、一部の者は「自己完結」を標榜し、婉曲的な表現の洗練に心を砕いてきたのでした。

 加藤は現代の自虐者と違って、批判を恐れず、ノーガードで他人と罵り合ってインタ―ネットを生きてきました。そのために、むしろ安定して自虐することができなかったのです。彼は自分の発言に自分でツッコミを入れる能力がありましたが、そうするよりは、他人からの罵倒(あるいは慰め)が返ってくることを願っていました。

ネットミームと構図だけ

 他人からの反応を重視した加藤は、インターネットの匿名掲示板で当時よく使われていた特定の単語や表現を頻繁に利用しましたが、これが結果的に彼の書き込みを貧相かつ退屈にしていました(これは鈴木も指摘していたことです)。彼が用いたのはいわゆる当時の「2ちゃん用語」、今でいうネットミームでした。次にいくつかその例を挙げます。

[2951]

06/07 18:02

頭痛が痛い

 

[2858]

06/07 06:51

忘れ物

肝心なものを忘れるとこだた

 

[2778]

06/06 10:40

 

>>2777

イケメソや女性なら独り旅もかっこいいんだろうけど

 

[2745]

06/06 07:45

余裕

無能なサラリーマン涙目

 

[2714]

06/06 03:22

イケメソならそんなことないだろ

 

[2492]

06/05 07:13

不細工でもDQNなら彼女出来る不思議

 

[2124]

06/03 16:54

駅にぬこがいた

無視された

俺だけ

 これらのネットミームの中でもしつこいほどに多用されるのは、「不細工」「イケメソ」「リア充」という、人に対して使われる3つの言葉です。

 加藤が本当に自分の容姿が世間的に劣ると思っていたのなら、「不細工」の多用は必然だったのかもしれません。しかし、彼は裁判の中でも自著の中でも「自分の容姿がどうしようもないほど劣っているとは考えていなかった」と述べています。それでも彼が「不細工」の語に拘ったのは、それが掲示板でウケると思っていたからだと、中島は分析しています(11)。

 彼のいう「不細工」は、彼にとって究極的にはどんな語でもかまわなかったのです。その「不細工」とは、顔や見た目が悪い人間のことを指しているのではなく、初めから加藤智大個人のことでしかないからです。つまり自分ひとりを、世の中で絶対的に劣ったポジションに置く役割しかない言葉だからです。これと対応するように、「イケメソ」「リア充」という語も、加藤にとっては自分ではない者全般を自分より上位に位置づけるためだけの言葉です。必ずしも容姿が優れているとか、人間関係が充実している人のことを指すのではありません。

 以上のことは、加藤と匿名の書き手との、次のようなやりとりからも分かります。

[2790]

06/06 10:59

>>2788

あ それはわかるんだね

どーやったら友達できると思う?

[2791]

06/06 11:00

>>2790

絶対できない

[2792]

06/06 11:02

>>2791

いやぁ ほら例えばでいいからさ

考えてみてよ

[2795]

06/06 11:03

>>2794

生まれ変わる

[2796]

06/06 11:04

>>2795

どんな感じで?

[2798]

06/06 11:06

>>2797

俺じゃなければどんなのでも大丈夫

 彼が不細工/イケメソという言葉で問題としているのは、容姿の優劣ではなく現在の自分かそれ以外かという対立であって、決して顔や服の問題ではありません。彼に対して、こうすれば見目好くなれるなどとアドバイスする人々と彼の書き込みとがすれ違うのは当然のことですし、彼の書き込みから容姿のコンプレックスや醜形恐怖がどうのと論じる専門家は、ネットミームの字面に騙されています。

 また、もし加藤にとって「不細工」が容姿の問題だったなら、容姿の劣った人々というくくりで自助グループのように集まったり協力したりすることもできそうなものですが、彼は次のように書き込みます。

[2286]

06/04 15:52

味方は一人もいない

[2287]

06/04 15:53

この先も現れない

一生無視される

不細工だもの

[2288]

06/04 15:53

俺以外にこんな奴はいない

だから誰にも理解されない

 彼の書き込みの「不細工」とは結局「俺」の言い換えであり、「俺」が他に居ない以上、彼の書き込みの中では連帯の可能性など初めから想定されていません。

 こういった、唯一の劣った自分/高みにある他人たちという、優劣を伴った二項対立は、自虐者にとってなじみのものです。これはまさにかつての私自身が陥った認識パターンでもあります。

 しかし、自分が劣っており他人たちが優れているというのは、自虐の前提(自虐的なポジションの設定)であっても自虐そのものではありません。あるいは、枝葉を落として貧弱にした自虐の幹でしかありません。自虐の味わいは枝葉にこそあるのであって、幹だけでは「自分はダメだ」「自分はダメだ」「自分はダメだ」というコピー&ペーストにしかなりません。

 加藤がしていた、「何でもかんでも強引に不細工のせいにする」というネタは、たしかに最初は面白がられたのでしょう。しかし「自分だから」以上の理由を説明しない自虐は、よほどの工夫がない限り退屈なコピー&ペーストに陥ります。しかし、本人にとってこれほど作りやすいものはないのです。一人一人の他人を、そして自分のしていることを真面目に観察しなくても量産できてしまうのですから。

 もし彼が「不細工」という言葉を起点に自虐をより深めていこうと思うのならば、彼が見た「イケメソ」の具体的な様子を観察し、その言動にツッコミを入れたり、あるいは「不細工」である自分がどのような点で劣っていて、どのように嫌われることになるのかについて、ネットミームなしに突き詰める必要があったでしょう(それをすべて書き込むわけではなくても)。

「どのように書き込むか」への目配せの無さ

 また加藤は「ひとりツッコミ」を度々用いて自虐を行いながらも、肝心なところでそれを徹底しませんでした。具体的には、彼のひとりツッコミは、彼が(何を、ではなく)「どのように」書き込みをしているのか、ということには決して及びませんでした。

 たとえば彼は、自らがネットミームに寄りかかって自分の劣等感を示すと同時に他人を雑に持ち上げたりしていること自体については、決してツッコミを入れませんでした。そもそも自分が劣っているために諸々うまくいかないのであれば、「そんな劣った自分に他人の人生の何がわかるのか」、「相手をイケメソと呼んでわかった気になっている俺は何様なんだ」という自問(ひとりツッコミ)に行き着くはずです。あらゆる他人への言及に「俺が勝手に勘違いしてるだけか」という留保が付くはずです。すると、彼に残されるのはその「勘違いしている自分」をひたすら「ひとりツッコミ」によって提示していくことだけだったはずです。あるいは、「不細工/イケメソ」という貧しい構図しか持ち合わせのない自分自身を嘆くことに至っていたはずです。

 また、彼は『解+』で「連載していた」と語るように、「語られる私」の設定に気を遣いながら書き込みを行いましたが、それでもその設定をしばしば破綻させてしまうことがありました。しかし彼はこの破綻にも決してツッコミを入れることがありませんでした。

 彼が不意に自分の設定を忘れてしまったかのような、ベタな告白をしていたところを確認してみましょう。以下は、事件の2日前、彼がダガーナイフを買いに福井県のミリタリーショップを訪れた後の書き込みです。

[2819]

06/06 14:39

店員さん、いい人だった

[2820]

06/06 14:42

人間と話すのって、いいね

 これは、加藤が自ら作った設定から逸脱するような書き込みです。掲示板での彼は、誰のことも信用できない、人と知り合うことなど徒労だと吐き捨てるような孤独な男であったはずでした。しかし彼は、気分によってはこんなに人のいい言葉も書いてしまうのです。

 加藤はたしかに落伍者を演じることが並の人よりは上手だったのでしょうが、その日その時の気分によって当たり障りのないポジティブ思考をつい見せてしまうような、どこにでもいる凡庸な人間でした。しかし、彼はその凡庸さを見つめ自虐のテーマとすることはありませんでした。彼は自分が落伍者としても中途半端であるということに目をつぶり、本物の落伍者として演出できていると驕った結果、本当に落伍者になってしまったのです。

「アイロニカルな没入」への警戒不足

 中島がすでに示唆していたように、加藤は「アイロニカルな没入」に陥った典型例ではないかと思われます。アイロニカルな没入とは、社会学者の大澤真幸の言葉です。大澤は、2000年前後のオタクたち(そしてオウム真理教に入っていた人たち)が、フィクション作品について、それが虚構であることを十分認識していながらも、あたかもフィクション作品を現実として捉えているかのような行動を実際にしてしまえる(没入しうる)奇妙な様子をそう呼びました。その際、大澤はオクターヴ・マノーニの論文に挙がっているある逸話を引き合いに出したことがあります。大澤による要約になりますが、引用します。

カサノヴァは、例によって、田舎娘をわがものにしようとした。彼は純朴な娘を騙そうと、権威ある魔術師の振りをしてみせたのだ。彼は魔術師の格好をして、地面に、「魔法の円」と称するものを描き、訳のわからない呪文を唱え始めた。と、そのとき、思わぬことが起こる。突然、嵐になって、稲妻が轟音とともに光ったのである。これに驚いたのは、娘ではなくカサノヴァの方であった。彼は、このタイミングで嵐になったのは、ただの偶然の一致であるということをよく知っていた。が、彼の行動は、彼のこうした知を裏切っており、彼が別のことを信じているということを示している。彼は、あわてて、ほとんど反射的に、自分が描いた、嘘の「魔法の円」の中に飛び込んだのである。(12)

 大澤はこの逸話の娘とカサノヴァの反応について、次のように解釈できるといいます。魔法を信じている娘は、雷をカサノヴァが実際に呼び寄せた魔術だと意味づけて受け取るので、彼女にとって雷が落ちたのはなにも驚くことではありません。しかしカサノヴァは、神とか超自然的な力について信仰を持っていないので、純粋に偶然襲ってきた雷は、彼にとってはっきり意味づけることができない「現実」です。その衝撃に打たれたとき、彼はそこから逃れるために、自分で作った嘘を利用して行動してしまったというわけです。

 加藤もまたカサノヴァと同様ではないでしょうか。自分の顔がどうしようもないと信じ、他人を妬み、殺人を計画する人物像は、最初はたしかに彼の作った創作だったかもしれません。しかし彼は自分で創作していた人物と同じ行動を実際にとってしまいました。

 加藤は「落伍者として自分を演出できている、これは演技にすぎない」という意識が、その演技への没入と両立してしまう可能性を考えられませんでした。それは逮捕後に書かれた『解+』においてすら同様で、私は少し残念に思いました。彼は、たしかに彼自身の現実の生活の中では本物の落伍者ではなかったことを認め強調すらしました。しかし「掲示板上では演技していただけ」という認識から先に進むことはありませんでした。先述のとおり、実際にはその演技すら中途半端にしかできていなかったと私は思うのですが、とりあえず当時、彼はちゃんと「これは演技だ」と思っていたとしましょう。ただ、そうだとしたら、どうして彼は現実生活上でも落伍者になってしまったのか。それをこそ彼は自著で明らかにすべきだったのではないでしょうか。

 加藤は「アイロニカルな没入」とマノーニの逸話について知っていたでしょうか。知っていたとしても必ずしも没入しないとは言い切れないのがこの概念の難しいところですが、彼が没入しても問題ない程度の「連載」に留めていれば、たとえ彼がそれに没入しても殺人は犯さなかったでしょう。するつもりのない殺人のアイデアなど書き込まず、そこまで過激なキャラクターを造形しなければ。それでは「連載」が退屈なものになり、他人の書き込みを誘発できず無視され続けたとしても、結果的にはそのほうが、彼にとっても、事件で傷ついた大勢の人々にとってもよかったでしょう。

 

 加藤は「ひとりツッコミ」を行うだけの知的能力がありました。しかし、「不細工」にこだわり続ける自分にツッコミを入れることはありませんでした。また、掲示板に「夢は殺人」と書いてしまう自分と、「人間と話すのって、いいね」と書いてしまう自分とのブレにもツッコミを入れることはありませんでした。

 逆に言うと、加藤以後のすべての自虐者は、自分の語彙や、「自分だから」を絶対化する態度や、自分のブレについて十分に批判的でなければならないのです。

 

 

  1.      秋葉原通り魔事件とも呼ばれます。2008年6月8日、当時25歳の加藤智大がトラックで赤信号を無視して交差点に突入し、通行人5人を次々とはねた上、降車して通行人や警察官ら17人を次々とダガーナイフで刺しました。被害者数は平成時代に起きた無差別殺傷事件としては2番目です。
  2.      本章では、「閾ペディアことのは」(http://www.kotono8.com/wiki/%E7%A7%8B%E8%91%89%E5%8E%9F%E9%80%9A%E3%82%8A%E9%AD%94%E4%BA%8B%E4%BB%B6)に残っているログから加藤の書き込みを引用しました。なお、引用中の強調は全て田原によります。
  3.      中島岳志秋葉原事件 加藤智大の軌跡』、朝日新聞出版、2011年、p. 210, 213。
  4.      同書、p. 145。
  5.      同前。
  6.      加藤智大『解+――秋葉原無差別殺傷事件の意味とそこから見えてくる真の事件対策』、批評社、2013、p. 89。
  7.      同書、p. 81。
  8.      鈴木ユーリ「加藤さんの書き込みが文学的すぎる件(神認定)」(『洋泉社MOOK [アキバ通り魔事件をどう読むか!?]』, 2008年8月29日、 洋泉社、pp. 63-67)。
  9.      同書、p. 66。
  10.      中島前掲書、p. 169。
  11.      中島前掲書、p. 144。
  12.      大澤真幸「オタクという謎」(関西社会学会『フォーラム現代社会学』5、2006年、pp. 25-39)、p. 33。