『「ハネムーン サラダ」の隠し味』に関する重大な補足

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 上記の本に、諸事情により盛り込むことができなかった点を2つほど付け加えておきたい。

1.「ハネムーン サラダ」には同性愛嫌悪の肯定が含まれる

 これは解釈による問題では全くない。「ハネムーン サラダ」には少なくとも3か所、同性愛を茶化す、もしくは異性に性的な興味がない=同性に性的な興味があると短絡するホモフォビックな言動が描かれている(1巻91頁、3巻94-95頁、4巻14頁)。

 ただし注意しなければならないのは、こうした「差別的な価値観を描くこと」それ自体では、その作品が差別的な価値観に賛成しているとも反対しているとも言えないということだ。例えば、フェミニズムの追い風となる作品にひどく女性蔑視的な人物や振る舞いが描かれることはよくある。批判のためにはその対象をむしろ克明に描くことが有効なこともあるからだ。

 だから差別的な価値観(を表す人物の振る舞い)が物語の中で描かれたときに見るべきは、その人物やその人物が主導する組織がストーリー上どう扱われていくかだ。誰かに痛烈な批判を受けるのか、勝手に破滅していくのか、あるいは差別的な価値観について省察したり態度を改めたりしたうえで何らか上向いていくのか。それが重要である。

 「ハネムーン サラダ」に戻れば、当然のように同性愛嫌悪を発露する人物たちは誰一人それを顧みないし、そのことによって困ったり苦しんだりすることもない。つまり作品世界では差別が差別として認識されることはない。掲載誌(大衆的な青年漫画雑誌)や時代の制約と言ってしまってはそれまでだが、そのような作品であることは念頭に置いていただきたい。また、筆者がこの点について甘く見て、「『ハネムーン サラダ』はいつでも誰にでも胸を張って勧められる作品である」と考えてはいないことも付け加えておきたい。

 

2.女性による二宮ひかる作品の評価

 『「ハネムーン サラダ」の隠し味』第0章では、男性によって語られた「ハネムーン サラダ」についての言説を批判的に紹介してきた(→第0章を読む)。また書き手の情報が不明の、匿名掲示板(現5ch)の各発言も適宜参照してきた。それでは、女性によるものとはっきりしている当作品への言及は皆無だったのだろうか。

 「ハネムーン サラダ」についてではないが、二宮ひかる作品について女性が語った記録は現状2件見つかっている。

 一つ目は、少女マンガの評論で名を馳せた藤本由香里によるもの。藤本は、二宮が女性誌フィールヤング』に発表した「二番目の男」という短編をレビューしている*1。といっても台詞を引用しつつ筋をなぞっていくもので藤本自身の著述はごく短い。
 藤本がこの作品を取り上げたのは、「二番目の男」が、はじめて性行為をした(そして後日あっさり別れた)男にまつわる曰く言いがたい情感をしみじみと感じさせる作品だったからであるらしい。筆者にはあまり身に沁みてわかると言える情感ではないが、二宮の「過去を語る手腕」を称賛したと捉えれば、納得できる着眼点ではある。

 二つ目は、漫画家・シギサワカヤによるもの。ミニコミ誌『PLANETS』のインタビューで、シギサワは二宮の作品からの影響を語っている。シギサワは、二宮が恋愛の「普通の部分」を描いていることに衝撃を受けたという。

社会人になって数年してから二宮ひかるさんを読んで、普通の恋愛の部分て描いて良いんだと思いました。それまで読んだ恋愛マンガって現実になさそうなのが基本だと思ってたのでものすごく衝撃でした。

(中略)二宮さんの作品を読んで、こういう実際の生活であってもおかしくないギリギリの部分を描くのもアリなんだなあと思って。知ってる感情がちゃんと描かれてる感じがしました。

「2010年代の想像力 シギサワカヤインタビュー」*2

 二宮の作品には、マンガらしからぬ「普通」さ、「実際の生活であってもおかしくないギリギリ」の部分があるとシギサワは感じ取っていた。

 「『ハネムーン サラダ』の隠し味」でもたびたび指摘していることだが、二宮の作品は共同生活や当時の社会に対する透徹した認識のもとに描かれている。だからこそ、読者は人物のなかに「知ってる感情」を見つけることができるのである。

 

 二人の女性による二宮の作品評は、やはり「恋愛」という二宮の描き続けたテーマに照準を合わせつつも、キャラクターへの愛を語ったり物語の展開がもつ意味を考えたりすることはない。むしろ両者は、二宮の作品を、結局のところ自分自身の実際の生活や経験に引きつけて語らざるを得ない作品として*3言葉を紡いでいる。ほとんどキャラクターや物語の考察に終始していた、同時代の男性の言説とは好対照を成している。

 「『ハネムーン サラダ』の隠し味」では、もちろん人物のイメージや物語の展開を考えることもしているが、二宮の描いた「ハネムーン サラダ」の、マンガらしからぬ「普通さ」、大げさでも奇をてらってもいない、地に足の着いた*4味わいの秘密を探ろうと試みたつもりである(そして、それは共同生活や当時の社会に対する透徹した認識のもとに醸し出されているというのが差し当っての見解である)。しかしはるかに先行して、少なくとも二人の女性が、二宮の作品の普通さ、その随想的側面を指摘していたのだということを記しておきたい。

*1:藤本由香里『少女まんが魂』, 2000, 白泉社, pp. 40-41.

*2:宇野常寛編『PLANETS』4, 2008, 第二次惑星開発委員会, p. 149.

*3:つまりは一種のエッセイのようなものとして捉えて?

*4:「地に足がついている」ということは、決して現状を肯定しているということではなく、人に自らの現在地を考えさせるということである。私はほとんどこの一年「ハネムーン サラダ」を読み続けたが、それに伴ってこれほど自分や自分の生活や社会の現状について考えたことは今までにない。同じことが誰についても起こるかどうかは知らないが。