ALTSLUM「CHAT! CHAT! CHAT!」#1~#3について

最近、「ALTSLUM」というウェブサイトをよく見ています。

altslum.com

このサイトでは「CHAT! CHAT! CHAT!」というカジュアルな対談企画を定期的に行っています。この企画では、時事的な話題や日常生活のことについて、(おそらくは若い)参加者の方が飾らない言葉で語りあっています。

誰かと実務的でない話をすることがほとんど絶えてしまった私の日常の中で、こういった会話のログを見ることはそれだけで社交の楽しみを思い出させてくれます。また、このような即興の対話には、個人によるエッセイとは別の知的な面白さを感じることがあります。

私が、このCCCを知的な意味で「面白い」と思ったからには、その記事に書かれていることと私が普段考えていることの間に何らかの共振があったはずです。今回はその共振がCCCの第何回のどの部分について起こり、どのような共振だったのかということを記述することとします。

私はいくら面白いと思った記事でも普段はそんなことをやりませんが、今回のような機会をとらえて「私は昨今の面白いコンテンツをただシェアして事足れりとするような作法にうんざりしています」というアピールはしておこうと思いました。自分にとって重要だと思ったなら他と区別される場所に持ってきて、腰を据えてそのコンテンツと向かい合うのが私のやるべきことだと思ってきたからです(だからこのブログや個人誌では何年も前の漫画やゲームを持ち出してきて、くだくだしく語ったりしているわけです)。私がそんなアピールをしたところでそれほど大勢の人が見ているわけでもないし、SNSではどうせ2週間で忘れられる*1のだろうとは思いますが。 

では、今回は#1~#3の各回について個人的に気になった部分を取り出して見ていきたいと思います。思いつきで書いているため、私の話にまったく脈絡はありません。

 

CHAT! CHAT! CHAT! #01「外へ/Into The Slum」

https://altslum.com/2020/11/08/c3-01/

・宣伝することの居心地悪さ

この回に参加している両氏はフリーライターとして仕事をする中での葛藤を語っておられます。仕事を得るには、SNSでわかりやすいプロフィールをこしらえ、日々の投稿によって自己主張し、「でかい企業(facebookとかTwitterとか)のために無償でコンテンツを増やしてやるような真似」をしなければならない。ただそうした「ネオリベに適合的な方法」には居心地の悪さを覚えるというのです。

私はフリーランスで仕事をした経験はありませんが、註1で述べたように宣伝や自己PRにほとんど楽しさを見いだせません。それは「でかい企業」や「ネオリベ的価値観」に何らかの不信感を覚えているということに直ちにはなりませんが、関係はあるのかなという気はしています。というか私は正直、でかい企業やネオリベ的価値観について、なんか悪いものらしいという以上のことをよく知らないのです。まあそれにしても、自分を売り出すのは一向に上達しないし好きではありません。

とりあえず別の場所で生きる手段を確保しておけば、このような場所で仕事が来るとか来ないとかは当面の間考えなくともよいのだろうとは思っています。私がここにはメールアドレスを載せていないのもそういう理由です。良いことよりかはなんか面倒くさいことが起こりそうだからです。

 

・政治的・時事的な話題の扱い

政治に関する話題はSNSのタイムラインに氾濫していますが、本当にどんな内容も等価に流れていってしまいます。そして2週間もすればもう誰も当の問題を口にしません。

まさにCCCの中で行われているように、話題を蒸し返すことが必要だと感じました。こうして私が過去記事を掘り返しているのもその蒸し返しの一回なのです。ただ向き不向きはあると思うので、自らのことを粘着質だと思われない方はやる必要ないと思います。

そして私は私なりの「戦術とか戦略とか魅せ方」を実践しようと思います。時事問題に関しては、フィクションを噛ませることが一つの戦略かと私は思っています。私はこのブログでも正面切って時事問題を語ることはそんなにないかと思いますが、だからといって世の中に許せないことがないわけではありません。多くの方のそれと同様、私が許しがたいことや不快に思っていることへの鬱屈は私の批評(?)のなかに含まれています。


・一人称の不安定さ

このブログでは、文章の性質によって敬体か常体かがなんとなく使い分けられるという感覚がありますが、そういえば何で分けているのか自分にもわからないなと気づきました。単純に考えて、常体にすると真面目くさって近づきがたい文章に見せられるという気はします。どっちにしても嫌味は書くのですが、できるだけ読者にいやな印象を与えたくないという場合は敬体にしています。

 

CHAT! CHAT! CHAT! #02「個人/Individual」

https://altslum.com/2020/11/14/c3-02/

・「かわいいと思って許してくれ」?

つい「オンナ」とか言ってしまう者(男性)は、自分が見てくれよりも幼児に近いことを自覚しなければならないのだなと思いました。

未熟な人、愚かな人が「かわいいと思って許」されることが全くない社会もそれはそれで息苦しそうですが、「その人がただその人であるというだけで許される」というのはいつでも起こりうることではありません。なんか特殊な文脈でなんか特殊な関係性があるときに起こることです。たとえば、まだ世の中のことをよく知らない子どもが軽度の失敗をしたときには、その子の親はそれを「かわいいと思って許」すこともあります。でもそのような許しが特定の人種に無条件で与えられることを前提とした社会は設計を完全に間違えています。加えて、ある人の未熟ゆえの失敗に巻き込まれた人が「大目に見てやれ」と言われるようなことがあればそれもまたクソだなと思います。

 

・「発言するフェミニストが自意識過剰にならざるを得ない状況」について

作法も何もなく、どんな取るに足らない投稿にもとりあえず難癖をつけてくる有象無象のアカウントの群れ。これはそんなに熱心にSNSをやってきたわけでもない自分でも覚えがある風景です。

それは私がSNSを初めて間もない頃でした。私は学生として、自分の興味あることや思いつきを投稿していたのですが、突然、どこぞの見知らぬアカウントにツイートがRTされ、「視野が狭い」とか「わかってない」といったことを書かれ、当時かなりショックだったことを覚えています。そんなに敵対的な内容でもなかったかもしれませんが、なにせかなり前のことなので記憶は曖昧です。もうそのツイートも消してしまい残っていません。

その奇襲が一種のトラウマになって、インターネット上の他人と言葉を交わすことがより一層恐ろしくなったのと、文章を書く際には必ず難癖をつけてくる輩がいるはずだ、という自意識過剰を避けられなくなりました。

ただ、そういう自意識過剰がまさに他人の蔑視=神的視(今作った言葉)と、この「邦キチ事件」で度々見られたような防衛的な行動に結びつくこともあるわけです。つまり、恐ろしい他人の激烈な批判を予想しているからこそ、感想や批判未満の言葉すら全力で排除しておきたくなるのです。その排除の方法は実に多様です。記事の中で指摘されているように、「読み方を知らない人の誤読だ」としたり、他人になにか言われる前に「ダメなことしてるってのは自分でもわかってます」と先手を打って自虐したり。このような戦略は、何年も前に私が「反省しない反省」と呼んだ態度に似ています。

 誤解を招きかねない、私自身もおぞましいと思うような言い方をするならば、誰かに言われた言葉、された行為を嫌だった嫌だったと引きずり反復することは暴力的なのです。それは自己へと耽溺することです。自己愛憤怒に駆られて理性を消失することです。それは間違っても反省ではなく、逆上であり復讐です。反省する人は可能な限り冷静沈着でなければなりません。全く耐えがたいことですが、自分を罵倒したと感じる相手にすら好意的な解釈を加えなければならないのです。「ああ、ああ、どうせ僕のことを虐めるつもりなんだろう、そんなことは分かっているんだからな」と勝ち誇ることなく、別の意味を考えられること、反省に必要なのはそうした種類の冷静さなのです。

『メイド諸君!』を読んで―ご主人様の憂鬱とメイドの献身 - hesperas

恐ろしい他人を想定すること、頼まれもしないのに自虐的になることは、他人に頭を垂れる謙虚さの発露のように見えながら、逆上であり復讐でもありうるのです*2

話がそれました。自意識過剰は避けられないことではあるけれど、何かを書いて公開するのも、そんなに恐ろしいだけのものじゃないと忘れないようにしたい。(ようやく)そう思えるようになってきました。

しかし世の中の人は本当に勇気がありますね、あるいは自らの言葉の影響力の無さを大変よく理解しているのですね? 自分の文章に必ず難癖をつけてくる輩がいるはずだ、とは思わずにものを書けるのですから。

 

あと私がこの#2を読んだところ、「フェミニストは何かにつけフィクション作品を否定するもの」という観念がSNS上で共有されているらしいことがわかりました。これはたぶん「個人的なことは政治的なこと」という第2波フェミニズムにおけるテーゼに関連したネットミームなのだろうと勝手に思っています(もはやそういった起源を正確に追うことが難しいというのもSNS論壇の腹立たしいところです)。

その観念とは別に、誰もが何かに感想を抱きそれを放言することはインターネット上でも基本的には許されるべきだと思っています。私としては、twitterなどはその放言の場に特化させたほうがいいのではないかとすら思います。が、放言にすら防衛的になる人たちに噛みつかれて消耗するくらいなら、撤退して別の場所(容易にコメントできないような場所)で書いたほうがいいのではないかと最近は思っています。

しかし、完全に閉じてしまえば自分にない発想を得られることもなく、フィルターバブルの中で自分の偏向性に気づかなくもなっていきます。実際私も、何らか新たな着想を得る元になったツイートはブログ記事内で引用したりしてます。玉を石と一緒に捨ててしまいたくはありません(note辞める辞めないみたいな話にも同じことが言えます)。このあたりをどうしようかというのは答えが出てません。

ただ一つ言えるのは、フェミニズムに共感するところのある人だからといって、いつでも戦おうとして発言するわけではないということです(特にSNSでは)。CCC#1でワニウエイブ氏が言っていたように、「思想の強度はその実践の厳密性によって左右されるわけじゃない」のです。

ただ、匿名SNSではなく何かしら権威のある場所で、あるいは影響力のある人間として発言するなら(現実にその対象への反感や擁護をもたらしながらも)「ただの感想だから」として逃げ切ることはできないだろうなと思います。

ある作品がもつ暴力性を明るみに出すためには、その作品がどんな観点から問題であるか、なぜ問題であるのかの調査を重ね、反論も予想しておかなければなりません。この#2で高島氏とワニウエイブ氏はそれを改めてやろうとしたのではないかなと理解しました。文章を売り買いしたり編集者とやり取りしているフリーライターの皆さんならば、このような調査の必要性はとっくに身をもって知っていることであると思いますので、私のこの解説などは単なる蛇足なのですが*3

 

・飲み会のシミュレーション

高島鈴
特にネット上だと介入が難しいケースも多いとは思うんですけど……たとえば飲み会でやばい発言をした人が同じテーブルにいたときに、「こいつまずいこと言ったけど、自分が批判すべきじゃないな」と思って黙る、みたいなことをされると、一番嫌です。

ワニウエイブ
あ~~なるほど……。

高島鈴
目の前で起きていることに、わかっているなら介入して欲しいんです、わかってる人が。

そこで「一番わかっている人が注意すべきだが、この中では誰が一番わかってるんだ!!?」みたいなお見合いをしないでほしい。

ワニウエイブ
高島さんをAとして、高島さんと喋ってる誰かBとし、自分をCとして、いま飲み屋にいます。なんかラインを越えた発言がBから高島さんに投げかけられたときCである僕が「お前何言ったかわかってる?」と反射で言えるかどうか、か……。

#2の中で最も実践的なのが、この飲み会におけるシミュレーションです。細部はぼかされているものの、自分にも無限に身に覚えのある状況であって、具体的な光景が目の前に浮かぶようでした。

私はおそらくA・B・Cどの立場にもなったことがありますが、今回焦点となっているのは、CとしてBの発言が問題だと主張できるかどうかです。

私がかつて親しくしていた人の中には、高島氏のように「問題だと思ったら黙っていない人」が一人いました。私はそれをその人の美徳だと思い、自分もその人のようになりたいと思っていましたが、日々の行動を省みると私の現状はその人とはかけ離れたものです。私は結果的に、「『こいつまずいこと言ったけど、自分が批判すべきじゃないな』と思って黙る」ことを選んでばかりいます。

Bのような人は、たいていAやCよりも立場の強い人であることが多いです。今まで皆にヨイショされるばかりで注意されなかったから、公共の場でまずい発言をしてしまうわけです。そのような人と敵対したら、そして敵対しても容易に関係を切れない相手だったら、C=自分自身もAもあとあと結構な不利益を被る可能性もあります。ではどうすればよいのか?

記事の中でも言われていたように、状況や関係性次第であって一律の答えはありません。何をしても、あるいはしなくても、「こうしたほうがより良かったかもしれない」という後悔は必ず残ります。ただ、この回で想定されているような正面切っての指摘でなくとも状況を変えられることはあると思います。

例えばユーモアをうまく使うことは、敵対心を起こさせずに状況に対するメタな認識を生むことがあります。また、それとなく話題をそらしたり、Bの注意を別のものに向けるような行動を起こせるかもしれません。こうした知恵は私の読んだことのあるマンガの中に豊富に隠されていた気がするので、今後また振り返っておきたいと思います。しかし、この手の微妙な指摘によって、Bが「今のまずかったか?」と自ら気付くことはほとんど期待できません。そうした反省ができる人は、最初からまずい発言はしないよう注意するでしょうから。Bが自分で気づけないかぎり、また別の機会で同じことが繰り返されてしまいます。

 

このシミュレーションを行ってみて改めて思うのは、とっさに何らかの行動が起こせるかどうかというのは、何が問題かを書いたり説明したりすることとは別の資質に依っているのではないかということです。飲み会のシミュレーションのような状況は突然与えられるもので、一刻の猶予もありません。哲学者のデリダが、ある本の中で決断について語っていたことを思い出します。

すなわち時間全体と、その問題にとって必要なすべての知識とを自分に与えるにしても、なんとしたことか、決断の瞬間そのものは、すなわち正義にかなっていなければならない当のものは、切迫され急き立てられることを伴う有限な一つの瞬間のままに常にとどまることが必要である。決断の瞬間とは、このような理論的ないし歴史的知識の帰結または効果、すなわち反省や熟慮の帰結または効果であってはならない。なぜなら決断とは、認識するために法的=倫理的=政治的事象について熟慮するという、決断に先立つと同時に決断に先立たねばならない行為が中断したことを、つねにはっきり知らしめるからである。

『法の力』, p. 67.(傍点を強調に置換)

たとえば飲み会の場面では、私がいろいろな要素を勘案して最適解を考えようと思っていても、黙ってそうしている限りにおいて、すでに結果的にBの言動に関して何もしなかったのと同じことになってしまいます。「ちょっと待ってくれ、今考えるから」といくら言っても決断は待ってくれません、というより、悠長にそう考えた時点でもう勝負はついてしまっています。決断の機会は、私が複雑な状況に立たされたその瞬間にしかないわけです。

「複雑な状況がある」、それは確かです。しかし「ああ複雑だ」と途方に暮れたからといって、私たちは何についても決断せず、責任を負わずに生きていくことが可能になるわけではありません。類似の状況に出くわしたときに一回一回思い切れるか、かつ、まるで自分がした決断ではないかのように自然に行動できるかが勝負になるのだと思います。

 

CHAT! CHAT! CHAT! #03「文字禍/Responsibility」

https://altslum.com/2020/11/22/c3-03/

・「文章書くこと自体めちゃくちゃ権力」

内容に関係あるのかわかりませんが「ある程度の長さの文章を読もうとする」というのは決して当たり前のことではないと感じます。そもそも、この記事だってここまで読んでくれている方が何人いるのかどうか。

私がこう感じるようになったのは、まともに仕事を始めてからです。学生のときは、どんな人でもとりあえず書いてある文章を読むのだということを信じて疑いませんでした。しかし学校を出たら全然そうではありませんでした。文字での連絡というのは本当に難しく、どんな書き方をしても、読んですらもらえないこともしばしばありました。電話が滅びない理由が非常によくわかりました。

これは読まない人が駄目だとか、私の書き方が悪かったとかいう話ではありません。「文章書く」ということ自体が決してフラットではないどころか、ある階級のようなものの中でだけ有効な手段にすぎないのかもしれないと思った、ということです。なんか批評家の東浩紀が今後は書くことよりしゃべることを頑張ります(大意)と言ってた記事をどっかで見た気がしますが、忘れました。見つけた人は教えてください。

 ありました。↓

president.jp

 

・「一度『高校時代は楽しかった』と書いたとき、そこにあったはずの痛みが消えちゃう」

これは過去について何かを書こうとすると必ずぶつかる問題です。そもそも言葉は他人たちから学ぶものであって、自分自身に固有なものではありません。最近流行りの「言語化」は、自分の経験を他人の作った鋳型にはめ込むことでもあります。それが我慢ならない創作者たちは、自分オリジナルの文体を発明するために努力を重ねてきたらしいです。

これはまさに、記事の中に言われている「自分語」という発想に近いです。しかし、本当に自分にしか理解できない言語は言語ではない、言葉は自分のものでないからこそ他人に伝わるということも依然あります。

 

・手紙を書き、送らない

高島鈴
そういう意味では私、めちゃくちゃ文通が好きです(笑)。悩んでる人がいたら毎回文通勧めてる。無意味な文章でもいいから、自分が選んだ紙に書いて、自分が選んだ相手に送るというのは、けっこう楽しいです。

ワニウエイブ
僕にとっては一人じゃできない、というのが結構大きな問題だな……。でも楽しそうですね、興味あります。

高島鈴
送らなくてもいいんですよ。私も書いた手紙の8割は送ってません。他人を想像しながら手紙を作る作業が自分にとって大事なだけで。そこはZINEと近いですね。

文章というのは、公開しなくとも書き出した時点で書いている者に影響を与えます。なぜなら書く人は書くと同時にその文章を読むからです。すると、本を読んだ人がその本の内容を引用しながら生きていくことになるのと同様に、何かを書いた人は(それを公開しなくとも)その書いたものを引用しながら生きていくことになります。

このあたりの話は、前回出した本の第3章で語ったことがあります。気になる方は以下リンクへ。でも私の本などを読むまえに、芦原妃名子の「月と湖」を読んだほうがよいかもしれません。私の本はその作品の内容を薄く繰り延べているだけなので。

dismal-dusk.hatenablog.com

また、「いるかもわからない、届くかわからない、あったこともない読者」という言葉を聞いて、いろいろなことを思い出しました。上記記事の本の第7章で考えたのは、まさにこの可能的な読者(「第三者」や「彼」と便宜的に呼んでいます)に差し出されてしまっているのが作品というものなのだ、ということです。

「わたし」や「あなた」を越えていく可能性を宿していること、それが、作品が「描かれた」ということの意味である。

『息あるかぎり私は書く』p. 140.

もちろんこれは私の独創などではなく、『うそつきラブレター』という漫画の中に含まれていたアイデアをたんに切り詰めて繰り返しているに過ぎません。そこはぜひとも勘違いしないでいただきたい。

 

・編集/対話/パフォーマンス

早川
少なくとも我々3名は「人から届けられた文章をチェックして公開する」っていう、機会さえあれば超暴力的になれる機能を持ってるわけじゃないですか(ALTSLUMにおいて)。

某メディアに関する騒動を見ていて、編集する人が暴力的にならないことはわりと難しいのだなと思いました。

これは私の体験ですが、ある文書を共同で作ることになったとき、編集作業をする人から「(私の担当したパートは)どうも他の人と力点の置き方が違う」といったことを言われて書き直しを指示されました。私は自分なりによく考えて真面目に書いたつもりだった*4ので、そのときは非常に腹が立ちました。

何のための文章かで何をどのように書くかは変わってくるのですが、そのグループの中では「これは何のための、誰が読む文書なのか」という示し合わせが特になかったのです。そこで私は書き直しとなったときに編集担当の人と対話し、文書の目的と想定読者をはっきりさせることになりました。結果的に、その共同制作の文書はよいものになったと思います。私はその体験で、編集は事前の対話と合意であると知りました。#3参加者の皆さんも「対話で編集する」という暫定的な方針を挙げていましたね。

編集担当との対話と合意は「その文書は誰のためのものなのか」「その文章が読者にどんな影響を与える(べき)なのか」をめぐって行われます。つまり編集を通すことで、書く人は自らの文章のパフォーマンスを意識することになります。

描くことと発表することは異なる。ラブレターを書くことと、それを手渡すことは異なるはずです。そして僕は、文章を発表するときには、それがだれにとってどのような文脈で必要なものなのか、いつも執拗に考えてしまう性質です。つまり、パフォーマティヴな立場を考えてしまう。そのような僕にとって、「あらゆる文章が『個人的な動機』から書かれる」と断言し、そのナルシシズムを肯定する笠井さんの姿勢はとても異質なものです。

東浩紀笠井潔動物化する世界の中で』 p. 173.

今私が書いているようなブログ記事は、特に目的を持たず「個人的な動機」から書かれるように見えます。私もそのような意識は少なからずあります。しかし、だとしたらなぜそれをwordファイルのままにしてローカルに置いておかないのか? それがインターネットで閲覧できる状態になっている以上、不特定多数の人に読まれ、陰にも陽にも影響を与えるために書かれているとみなされても文句は言えないはずです。だとしたら、その影響を別の人の目で評価することが必要になるのではないでしょうか。

「目的なんてなくただ私的に書いているだけだ」という態度で書かれた文章にも影響力があって、その影響力を適切にコントロールするような他人のチェックが入らないというのは、実はとても怖いことなのではないでしょうか。文章のパフォーマンスを意識した人は、必然的に、先に述べたような「自意識過剰」に近づきます。

編集する人は暴力的になれる、といったことを私は最初に述べましたが、「だから編集する人など不要だ」とは私は全く思いません。自意識過剰気味になり、自分の文章が与える影響に恐れを抱く人を安心させて背中を押してくれるのは、発表前に文章に目を通してくれる編集者の存在なのだと思います。

 

CCC#4以降に関しても何か言及するかは未定です。しない可能性が高いです。

そろそろある作品について腰を据えて書きたいと思っているので、しばらく更新は滞ると思われます。

 

法の力 〈新装版〉 (叢書・ウニベルシタス)

法の力 〈新装版〉 (叢書・ウニベルシタス)

 

 

*1:2週間で忘れ去られるなら2週間後に再度シェアすればいいだろう、という話があるかもしれません。その通りですが、(特に効果を実感できることもないのに)なんでそんなことを続けなければならないのでしょうか? 定期的にトイレの水を流しても私は何も楽しくありません。車内アナウンスにでもなったように、同じ調子で同じことを繰り返さなければならないのは本当に最悪です。私は基本的に、一回お披露目した後はもう読み返したくもなく、宣伝のための宣伝をしたくないのです。私の代わりにボットがRTしてくれて、かつ決してアカウントがBANされないなら任せたいものです。面倒くさいからです。

*2:ただ、私は具体的な誰かを糾弾する際にこういう論理を採用するべきではなく、自己分析に限って用いるべきだと思います。精神分析のような指摘を他人に加えることの危険性は常々言われているとおりです(北山修『幻滅論』XII参照)。

*3:これも「求めてないのになんか言ってくる」ことにあたるのかもしれません。

*4:真面目にやったり一生懸命やったからといって適切なものが仕上がるわけではないので、それはいいのですが……