『息あるかぎり私は書く』という本を読んだ感想(あるいは執筆を終えての反省)

先日、このような本を作りました。

今この世に生きている他人たちがこの本について何事か書く可能性はかぎりなく低いと思ったので、自分で自分の書いた本の感想を書くことにしました。

 

 第一章

全体の中で、この章だけかなり短く論証というよりも雰囲気重視だった印象がある。
要は、なんらかの創作をする人が自分の作品に対してもつ感情というのは親が子に対して抱く愛着と似ているということだ。それ以上のことも以下のことも言っていない。
しかし、「批評は創作者にとって根本的に耐え難い」とか、創作者と受容者の間に決定的に線を引く態度は、第十章から振り返ってみるとずいぶんな立場の転換に見える。

第二章

文体が前の章と全く違う。第一章よりもだいぶ後に書かれたのではないか?
第一章で突っ込みたいと思ったところがだいたい書かれていたが、一つ心配に思ったことがある。水子供養という風習がいまどれほど人口に膾炙しているかということである。当然のことだが、知っている人が極端に少ない事例に訴えた比喩は効果を発揮しないだろう。

第三章

内容に関して特に思うことはなかった。しかし、「なぜ人は自分の作品を公開しようとするのか」という問いについての解答は章の途中で出ているのであって、「演技と看過」以降の記述は本題から逸れていたような気もする。
とはいえ、コミュニケーションの基礎には演技と看過がある、という着想はこの本にとって重要だったように思う。その着想は第7章や10章にも引き継がれているもので、どこかでもう少し理論的に詰めたほうが良いと思われる。

第四章、第五章

ひとつ疑問なのだが、筆者は「人格」という言葉でいったい何を指し示しているのだろうか。オルポートは「パーソナリティ」について「人間に特徴的な行動と考えとを決定する精神身体的体系の力動的組織」「性格、気質、興味、態度、価値観などを含む、個人の統合体」と述べるが、これを当てはめて差し支えないだろうか。ではこれが「生活様式」をどのように生み出すのだろうか。このあたりの規定がなんとなくで流されている気がしてならない。

第六章

第五章でも思ったことだが、「そこに留まること」つまり、ある人のもとを絶対に離れずにケアすることに関しては、フィクションの描写をただ受け入れるのは相当に危険である。
筆者も指摘してはいるのだが、現実そんなケア労働は美しくもないしきれいなオチがつくものでもない。それにしても、「ある人のもとを絶対に離れずにケアすること」の本当の意味について、典拠がシシリー・ソンダースの言葉だけというのは心許ない。例えば最近読んだ『ひと相手の仕事はなぜ疲れるのか 感情労働の時代』という本では、医療現場で看護に従事し燃え尽きてしまった人々の実情が報告されているが、このような事情を知ってしまえば、現場を無視して無邪気にソンダースの言葉をありがたがるのがどれほど愚かなことか理解するだろう。「『真の愛』を求められるのは高くつく」という前掲書の言葉はまことそのとおりである。

ひと相手の仕事はなぜ疲れるのか―感情労働の時代

ひと相手の仕事はなぜ疲れるのか―感情労働の時代

  • 作者:武井 麻子
  • 発売日: 2006/12/01
  • メディア: 単行本
 
第七章

前半、ルネサンスの時代の職人たちについて、ブルース・コールに信を置き過ぎではないかというきらいはある。他の文献(たとえば岩波新書の『芸術のパトロンたち』)には、当時の職人たちが必ずしも依頼者に対してフェアではなかったり、美術品以外を作る職人に対する優越意識を持っていたとも言われている(あるときに突然ではなく、徐々にそうした作家の割合が変化していった)。筆者の考える、ルネサンス時代の職人たちの芸術理解が正当なものであるかは後ほど検討せねばなるまい。

とはいえ、学者ではないらしい筆者に、専門家から一切の文句がつかない厳密な記述を求めても無駄というものだろう。文学者・作家の小谷野敦は、批評とアカデミックな実証性は伝統的に微妙な距離を保ってきたと指摘している(『評論家入門』第一章)。

彼によれば、特に日本文学研究においては論理に飛躍が見られる文章や、そもそも論証の手続きを踏んでいない文章が多いという。彼の意見では、一般の読者も想定されている文芸評論には論理の飛躍や専門家から疑問符がつく記述があっても当然ではあるが、ともあれ例えば二割の飛躍があっても八割はきちんと裏付けをとり自らの説を論証するべきだ、ということである。私もこれに賛成だ。

今回の筆者の論では、ルネサンス時代の職人たちの思考は彼のいう「自己表現的創作者」との対比で論じられている。ただ彼が提示したいのは別にルネサンス時代の職人の心意気そのものではなく、現代の商業作家たちの心性らしい。するとここはやはり、『うそつきラブレター』の読み解き方を批判の俎上に載せるのが王道となるだろう。私としては、あらゆる人間関係には権力の働きがある、という部分に怪しさを感じる。このような殺伐とした人間観はどうにかならないものだろうか。その権力の作用がなぜ消失しないのかということをもう少し説明するべきではないだろうか。

第八章

前半の威勢のいい「反批評家」批判は読んでいて爽快なものがあるが、その割には「推し」という概念の規定が曖昧だと言わざるを得ない。たとえば、青土社の批評誌『ユリイカ』では近年、アイドルや女性に人気の高いジャンルの特集において「推し」をめぐる様々な論が展開されてきている。電通の記事に限らず、そのような批評も踏まえて推しの暫定的定義を試みておくべきだったろう。

もう一点重要なのは、推しへの感情と恋愛感情の差異である。そもそも恋愛を恋愛たらしめるものが、相手との全人的なコミュニケーションの希望にあるというのは本当だろうか。それはたんに筆者の恋愛観の披瀝にほかならないのではないか? 考えてみれば、『君がどこでも恋は恋』と『ルポルタージュ-追悼記事‐』でも、推しへの感情を恋愛と同一視するかは異なっていた。前者はそれを「恋」と名指して憚らないが、後者はそれが恋愛という既存の文脈に回収されることを認めず、多様な愛の形の一つとして提示していく。筆者はこの点どう考えるのか、気になるところではある。

 もう一点、些細だが気になったのは、「ジャニオタエゴイズム」の提唱者として紹介されるスズキアイコの呼称についてである。筆者は、一貫して「スズキ」という呼称を用いているが、この不自然は意図的だろうか。私は以下のように推測してみた。
ある人が、インターネット上でのみ文章を書いている面識のない人間に言及する場合、その人間の3人称はどうすればよいのかという問題に突き当たるのだ。ネット上の書き手が性別をうかがえる発言をしているからといって、その人のセクシュアリティまでは知る由もないから、「彼」「彼女」の2通りに振り分けていいのかという疑義が生じる。しかし筆者は見ず知らずの他人にそんな質問などしたくないし、だからといって適当に決めつけるのも気が引ける。彼(女)という表記も不格好で使うのを躊躇う(どうして代名詞に括弧をつけなければならないのか?)。苦肉の策として、代名詞を用いず常にハンドルネームで表記するという手段が考え出されたのだろう。

(2021.5.1追記)

この問題の一つの解決方法が英語話者の間で現れている。SNSのプロフィールにおいて、自分が呼ばれたい代名詞を記載する動きが広がっているという。最近は日本語のアカウントでもこの慣習が取り入れられてきているのを認識している。

front-row.jp

こうした動きが出現するのは、インターネット上のアカウントの多くも現実の人間が運営しているのだという当然のことを考慮すれば至極まっとうな流れである。広がるか広がらないかはともかく、インターネット上で他人の文章に言及するにあたって非常に望ましいことだと私は感じている。私自身も、もしインターネット上の他人から言及されるような事態が頻繁に生じてきたなら導入を考えるだろう。

第九章

この章で弱いところといえば、小説家が自分の書いている小説の登場人物の声を聞いている、という研究結果が持ち出されるところである。これは当然、漫画家が幻覚を見ることがあるのかという問題とは別に扱わねばならないし、小説を書く体験にその人物の声を聞く体験がどのように作用するのかは謎のままだからだ。

この章はどちらかといえば論旨が明快なほうに分類され、作品の解釈にも無理なところはないと思うが、作中の親子関係についてはもう少しその描写を批判的に検討しても良かったのではないだろうか。親子のステレオタイプについての考察が必要である。

第十章

サークルに所属して同人活動をしている人々に対する、筆者のルサンチマンが炸裂している文章である。しかし、サークルに所属している人たちがどのような心持ちで活動するかなど一括りにできるはずもなく、結局は自分で一度そこに所属して目一杯活動してみなければわからないのだから、筆者は自分自身の想像に対して恨みつらみをぶつけているように見えなくもない。

誰もがゆるく褒められる空間(〈社交場〉)で名誉というのがどのように可能なのか、という点は考察に値する。片山善博『差異と承認―共生理念の構築を目指して』という本の第八章では、他人に承認してもらうために努力するだけではなく、自分のうちに他人を認めるという自己否定の契機がなければ、A・ホネットなどの「承認をめぐる闘争」は他者排除に向かうだけだと指摘されていたことを思い出す。
「自分のうちに他人を認めるという自己否定の契機」を批評において追求するならどうなるか。その一つの形が、この章の末尾で言われている「自己批評」なのかもしれない。