『タビと道づれ』総論―ヤンキー的リアリズムとタビの旅(仮)

 とりあえず、無理にでも今回は話をまとめていこうと思います。どんな切り口にすればよいのかかなり迷ったのですが、最終的には、斎藤環『世界が土曜の夜の夢なら』(以下『土曜の夜』)の「ヤンキー的美学」の記述を手掛かりに進めていこうと思いました。

 『タビと道づれ』という作品は、明らかにヤンキーと見える人物を登場させてはいないものの、斎藤のいうヤンキー的な美意識を全面的に取り入れています。ただ、その美学で語ろうとするとどうしてもうまくいかない部分もありました。それはこの作品が、ヤンキー的な美意識を完璧に体現するばかりではなく、それを突き放して眺めるような視座すら提供しているのだと考えることにします(後述)。

 

タビと道づれ』のポエムにみるヤンキー的リアリズム

 まずこの「ヤンキー的リアリズム」について、斎藤の記述を確認しておきましょう。

…「ヤンキー的リアリズム」が、ロマンティシズムとプラグマティズムの奇妙な混交物になってしまうという謎については、さらなる検討が……

(『土曜の夜』p. 74)

ヤンキーはきわめて現実主義的な発想をする反面、しきりに「夢」を語る。こうした、日常に根ざしたリアリズムと日常と乖離したロマンティシズムの奇妙な混交振りは、前章でも指摘したヤンキー文化の女性性を連想させる。

(前掲書, p. 162)

  「ロマンティシズムとプラグマティズムの奇妙な混交物」、これだけでは何のことやらピンときませんが、『タビと道づれ』においては作品全体を彩る「ポエム」が、まさにそうだと言えるでしょう。作中で呼び出されるポエムは、ヤンキー的音楽、相田みつおやキムタク語録のように、「使用目的がはっきりしている」(前掲書, p. 72)。その使用目的とは、少年時代にありがちな苦境を「さかさまにする」ことです。小学生時代のタビが航一のポエムに宛てる次のセリフは、はっきりとその効果を言い当てています。

「それにね くるっと

わたしの嫌だったことさかさまにしてくれるから」(3/p. 19)

その「嫌だったこと」とは、学校で「劣っている」と評価をつけられること、クラスの中での立ち回りに失敗しいじめられること、親から自分の努力を認めてもらえないこと等です。さかさまにするといっても、そこには革命への志向も社会批判への志向もなく、あくまで現状肯定的で「自分の捉え方を変える」ことだけを志向している*1のも特徴です。

 この作品に登場するセキモリ達は、程度の差はあれみなこのようなポエムの使い手であるといえます。その中でも「最強のポエマー」と言えるのが、今回の記事の主役、タビと航一なのです。

 

天文×郊外的感性のポエム

 彼らの使うポエムは、基本的には星座、星、神話といった天体に関する知識を背景とするものです。これだけ見れば、持っている知識を逐一ひけらかしたがる高学歴くずれのオタクの喋り方をイメージしますけれども、それと重なりつつも若干異なる、まさにヤンキー美学に通じる形式の表現が彼らのポエムでは登場します。それは「擬-伝統の語源論」とでもいうべきものです。複数個所で登場する代表例を挙げるなら次のようなものがあります。

航一「これは僕の勝手な考えなのですが
「星」の元になった言葉は「欲しい」だと思うんです(略)

遠く手の届かない光輝くものを見て僕達人間は思います
「あれ欲し あれ欲し」

「あれ星」と」

(3/pp. 81-82)

ほとんど駄洒落じゃねーかという感じで、調べた限りでは星の語源はまったくそんなところにはないようなのですが、この「とりあえずそれっぽければOK」ということが重要です。ポエムの由来が文献上(?)正しかろうとそうでなかろうと、役に立つもの、気分が上向くものが真理であるということ、それが彼らの「プラグマティズム」なのです(もっと具体的なヤンキー文化と結び付けてほしいという人は、『土曜の夜』の特攻服のくだりを読んでみてください)。ここには、古い時代のおたくがしていたように、名無しからの「ソースは?」という審問に備えてあらゆる正確なデータを用意し、枝葉末節に至るまで早口で解説するという冗長さがありません。そんな糞の役にも立たない正統性など必要ないのです。ヤンキー文化においてはその場でこしらえたものこそが正統なのであり、パロディが本家になりうるのですから。

 しかし、なぜ天体なのでしょうか。ここに、彼らのポエムが郊外的である理由があります。星空というのは、摩天楼にさえ遮られなければ日本全国どこでも見ることができます。人も物も十分な歴史をもつ街(むしろ「歴史を持たない町」とはどんなものか考えてみたくなりますが)を舞台としながら、その歴史には踏み入ることなく空を見上げること。それは、昔ながらの相互扶助の共同体から締め出された者たちが必ず取る仕草なのかもしれません。例えば『ケータイ小説的。』を著した速水健朗によれば、ケータイ小説『恋空』もそうです。すがるべき歴史も共同体もなく、それでも小さな関係性を元手に生き抜いた主人公は、最後に「空」に想いを託したといいます。また私事中の私事ですが、このブログの名前の由来もそうです。やはり田舎町において思春期以降の人間関係に多大な苦痛を覚えていた私は、しばしば一人で空を見ていました。そのときにこびりついた「夕暮れ時(hesperos)」のイメージが、そのままこのブログの名前となりました。

 そしてこれは単なる私の主観ですが、ほとんど無意味である星屑と暗闇を地として、等級の高い星がポツポツと輝く星空は、顔も知らない人の家や田畑を地として、目的がはっきりしたチェーン店が無数の幹線道路に沿って立ち並ぶ郊外の風景を思わせます。この抽象化しやすさ、奥行きのなさ、平面地図に展開することの容易さにおいて、星空と郊外の風景は共通してはいないでしょうか。

 阿部真大『地方にこもる若者たち』の調査から導かれた仮説によれば、「地元が好きだ」と言う若者たちの多くは、地元にいる家族や友人が好きなのであって、地域住民にも地域の活動にもさして興味を持っていません*2。すると彼らは、地域に根づいた伝統にもそこまで興味を持っていないということになるのではないでしょうか。実際『タビと道づれ』という作品は、実在の尾道の風景をふんだんに描きながら、その歴史や伝統には大して踏み込みません。そのような浅さは、私たち若者が描きうる括弧付きの伝統が表面的でしかないことを十分に承知しているからこそではないでしょうか。例えば、日常の言葉のほとんどの割合をいわゆる標準語で話すセキモリ(=若者)たちにとって、ごてごての方言は芝居がかった無力なポーズでしかありません。

ニシムラ「何ていうか… 方言って勢いだけだよね」

(5/p. 66)

 徹底して表層的であること。歴史の深みに対してきわめて限定的な関心しかないこと。その荒涼とした郊外的精神から生み出される言語使用は、標準語のポエム、しかも空を見上げたポエムを措いて他にありえないのです。由来にこだわらず、本質を突き詰めず、星空にある雰囲気を感じ取り日々の暮らしに活用する。それが、「ロマンティシズムとプラグマティズムの奇妙な混交物」たる彼らのポエムなのです。

 

捻れた家族主義―親元にとどまる子どもたち

 ヤンキーはしばしば家族主義を標榜すると『土曜の夜』には書かれており、その事例もいくつか挙がっています(e.g. p. 134-)。その点、『タビと道づれ』においては、(今までの記事で何度か言及したように)家族の存在感は薄いか、その抑圧的な面のみが描かれています。すると、この作品はその見た目通り、全くヤンキー的な美意識など見いだせないことになるのでしょうか。私の考えではそうではありません。なぜなら、セキモリたち(特に女性たち)は家族を窮屈に思っていながらも家族の庇護のもとにあり、依存しながら憎んでいるからです。

 重要なことですが、家族といっても作中にはほぼ「母親」しか登場しません。この作品に登場する母親というのは、当然のように子の身の回りの世話を行う一方、子の自立性は尊重せず、子どもを自分の思い通りにしようとする存在です。こうした母親について「依存しながら憎んでいる」のがセキモリたちなのです。彼らは生活の多くを実家の家族に依存しており、親元暮らしのおかげで金にも時間にも困っていない。しかしながら、彼らは母の事情に振り回され、一人の人間として認められずにいます。例えば、舞台俳優という夢を一蹴するユキタの母、「この子は将来大学進学とか考えてませんから」と断定するカノコの母、タビが再婚の障害になると口にするタビの母と祖母。姉妹を常に比較し、出来の良い姉ばかり優遇するツキコの母など。そんな状況下にあって、親元を離れようという決意を固め、実行したのはユキタだけでした*3。一体これはどうしてなのでしょうか。なぜ彼女たちは、こんなひどい親の元から出ていかないのでしょうか。

 カノコが街を出ようと思わなかった理由については、それだけの才能も情熱もなかったということを先の記事では解説しました。しかしもう一つ彼女の事情としては、母の愛情を無碍にすることができなかったのではないかとも思えるのです。彼女は母親がどれだけ自分のことを配慮してくれているか、無償でどれだけの世話をしてくれているかということを、ほとんど身体的に分かっていたのではないでしょうか。母が自分のことを高く評価してくれないからといって、家出したり(あからさまに)非行に走ったりしてそうした善意を無碍にするのは、さすがに申し訳ないと思ったのではないでしょうか。ここでは奇妙なことに、カノコが母を見捨てようとすることは、母から見捨てられるのを望むことになってしまうのです*4

 生活が唯一無二である実家において可能になっていること、その重さを娘は母の姿を通じて実感してしまう。だから彼女は母を否定出来ず、簡単には離れられないのです。母には恩があることを深く了解してしまっている限り、母親の否定は自分が生活できることの否定であるからです。一方で息子は母親の気遣いをまるで空気のごとく当然とみなし、その負担を意識すらしていないことが多いため、親元を離れて初めて、心地よい空気が享受できなくなったことに愚かにも愕然とする(そして後に反動として、母親の偉大さをやたらと強調する)わけですが。

 話がそれましたが、どれだけ家族を憎んでいるような心境を描いたとしても、彼らがそれでも親元に暮らすという選択をしている限りにおいて、単純には否定できない家族の恩恵あるいは呪縛の容認があるのです。彼らの孤独、彼らの寂寞は、決して彼らの世話をやめない家族(母)の愛情に支えられている(いた)。これを捨象して話を進めるわけにはいきません。この作品では同世代(セキモリたち)の関わりにおいては「逃げるな」という言葉が頻出するというのに、家族との正面切っての対決が先送りにされるのは、上のような事情なしには理解できないからです。

 

「クソッタレの世の中」を生きること

 斎藤は、キムタクや相田みつを義家弘介といった人物の発言から「広義の保守性」を描きだそうとしていました。これは次のようなものであるとされます。

 徹底して現状肯定的であるということ。彼らは個人が社会を変えられるとは夢想だにしていない。わずかでも変えられるのは自分だけであり、社会が変わりうるとしても、それは結果論でしかない。

(『土曜の夜』p. 86)

この広義の保守性と相関するのは、世の中は常に「クソッタレ」なものだ、という認識です。

「クソッタレの世の中」という言葉に注意しよう。この言葉には、後にふれるヤンキーの社会に対する関心の希薄さにも通ずるような、曖昧な汎用性がある。つまりいつの時代でも通用する言葉、ということだ。

(前掲書, p. 153)

さきにも述べたとおり、義家にとっての社会は常に「クソッタレ」なもの、辛く厳しいもの、という認識で止まってしまう。それゆえ変えるべきは個人であって、社会の方ではないということになる。

(前掲書, pp. 158-159)

 『タビと道づれ』に話を戻しますと、まさにこの作品の基調は、この「社会は厳しい、人生はつらい」ということにあります。そしてこの「つらい」の中には、自分が生まれる前以前のことでどうにもすることができない「田舎町に生まれてしまったということ」「この家族のもとに生まれてしまったということ」の苦しみも含まれるのでしょう。そしてそれを織り込み済みで、あなたとしてはどう生きるか、ということが問題になるのです。それは5巻27話、6巻34話などに顕著に現れています。

 ここではヤンキー的リアリズムとは、「世の中楽しくなければ間違いだ」という急進的な快楽主義ではなくて、「クソッタレな世の中だけど、せめて自分のココロだけはポジティブに保っていこう」というものであることを確認しておきましょう*5

 

ポエムは無敵ではない

 先述のように、そのようなつらい現実に直面した際に自分を奮い立たせ、気分を楽にしてくれるのが様々なポエムなのでした。しかしややこしいのは、この作品でポエムを使用する人々自身、結局のところポエムが「気休め」でしかないことを十分に承知しているということにあります。

悲しいことはさかさまにする
地面を空にして
空を地面にして
でも いつも苦しいことがあったから
いつも くるくる くるくる…

わたしの天と地は 中空で定まらない

(6/p. 26)

 タビは転校→いじめという窮地に対して、ポエムだけでは為す術がありませんでした(だからこそ冒頭で学校をサボって緒道に行くのです)。あるいはもっと直截的に、航一のポエムに対して「…気休めですね」と切り返す(5/p. 20)中学時代のツキコもそうです。彼女たちは、状況がいつまでも好転しないのに、いつまでもポエムに浸り続けるなど不可能であることを知っています。また、ポエムによって気分が上向いただけで、何もかもうまくいくとは限らないことも知っています。ひとたび熱が冷めてみれば、ポエムは気休め、自己陶酔に過ぎないのです。「捉え方を変えなさい」という自己啓発には限界があるのです。この作品はポエムをふんだんに取り入れつつもそれが決して魔法の杖ではないと指摘することで、自らが依るヤンキー的美意識への批評的視野も備えていることになります。

 私は先の記事で、「航一のポエムは反論不可能である」と述べましたが、これには注釈を付ける必要がありました。作中のポエムは、それを受け取った人物によってしばしば投げ返されています(例えば「空を飛ぶ(夢を叶えることの詩的な言い換え)」→「誰とも手を繋げなくなるので、空を飛ぶなんてつまらない」)。なぜそんな事が可能なのかといえば、作中のポエムの多くは隠喩を用いているからです。隠喩に対しては、次のような仕方でやり返すことができるのです。

 これも詩人ハイネの語る機知の一つで、彼がパリのサロンで友人のスーリエと一緒に話をしていたときのことである。

 スーリエはそのとき、サロンに入ってきたパリの大金持ちが取り巻き連中に囲まれるのを見て、「見たまえ、十九世紀が金の子牛を拝んでいる」とハイネに言ったところ、ハイネはこう返答する。「子牛にしては大分、老けているね」。スーリエはこの金持ちを旧約聖書のなかの金銭崇拝を意味する黄金の子牛に譬えて皮肉っている。これは一種の隠喩であり、それによって一種の機知的効果をかもし出している。しかし、ハイネの一言によってこの隠喩的効果は潰されてしまう。ハイネは金の子牛の、子牛の部分を隠喩と考えずに、字面上の解釈で機知を投げ返すのだ。こちらは一つの換喩的機知である。

向井雅明『ラカン入門』, 筑摩書房, 2016, p. 72

 ポエムと同時に画面上の構成が作り出す感情の揺さぶりは受け入れるほかになくても、ポエムも言葉であるかぎり、こうしてつねに再解釈することが可能になってしまっているのかもしれません。それは、最近流行りの曲からメロディを切り離し、歌詞だけを取り出して真面目に解釈し、評論に結実させるという試みがなされていることかもわかります。

 結局、彼女らが苦境を乗り切るために必要なのは、ポエムの言葉それ自体や比喩の巧みさというよりも、それを味わうときに伴う余裕や高揚感なのです。それらの感覚を肯定する限りで、ポエムは彼女たちに支持されるのです*6。ポエムは余裕や高揚感を効率よく伝達するかぎりの形式に過ぎません。実はポエムより強く、絶対的にそれらを備給する仕組みが他に存在するのです。それは「甘えられる人間関係」です。

 

外部のない世界で仲間に甘える(そして戦う)

カノコ「誰かに甘えてもいいんよ
何かに迷惑をかけてもいいんよ

みっともない自分をさらしてでも…
石にかじりついてでも
世界の中で戦うんよ」

(5/p. 89)

 「つらいときには甘えていい」。一人でポエムを噛み締めていてもどうにもならないし、それはやせ我慢でしかない。それならば他の人に手を伸ばし、仲間となり、より効率的に、疑ったり立ち止まったりする余地もないほどに「アゲて」いこうではないか、ややヤンキー的に誇張して言えばそういうことです。

 ただし、その甘える先であるところの「誰か」は、「物理的に触れることのできる人間」に限定されるということに注意しておく必要があります。この作品では「手を伸ばすこと」「つないだ手の温度」が関与することを表すという、素朴な身体論があることは指摘されてきました*7。ほかにも、殴る、はたく、といった動作も、つながることの拒絶すらも関与になるという「人間関係=星座論」に則っています。(あるいは「叫ぶこと」もここに加わるでしょうか)これらから、甘えられる人間、先の記事では「居場所」としたものには二つの制限が課されます。

 第一に、それは実体としてあり、触ることができなければならないということ。逆に言えば、亡霊、神話、抽象概念への耽溺は、最終的には否定されます。また、この作品にはインターネットが影も形もないことにも注意しておきましょう。地方であぶれた若者の逃避先として現代では比肩するもののない、インターネットが一切登場しないのです。「居場所」は「夏に伸びる植物(の陰)」と喩えられるように、それはある特定の場所でなくてはならないのです。自らの足で空間を踏破し、たどり着かなくてはならないものです。すると居場所としては、インターネットは遠すぎ、家にいる家族は逆に近すぎる(故に迂闊なことはできない)のです。彼らが地元の擬似家族的なつながりに最終的な回答を見出したのは、偶然ではないように思います。

 第二に、それはいつ失われるとも知れない、永遠ではない存在だということ。これは航介の死に象徴されるでしょう。5/p. 104 の「そしたら航ちゃんは…/わたしのこと ずっと ずっと 忘れない?」というタビの問いから、航一の「うん…」という返答までには一瞬の間があります。物理的に離れてしまっていても永続する居場所など存在しないということを、この場面は控えめに宣告していると私には思えます。

 この作品でいう「世界」(たとえば先ほどの5/p. 89でカノコが言う世界)とは、星座の如き人間関係のネットワークであり、それには外部はないのです。たとえどこか遠い場所に思い馳せても、逆に自分を無化して世界を外部から傍観するという夢を抱いても、私たちにはこの地上の世界しかないのですし、一足飛びに居場所にたどり着けるわけでもなく、徒歩で向かわなければならない(5/p. 171, 173)のですから。

 そしてこのネットワークは常に、配慮することの失敗と自分と他人の混同といった、予期せぬ破綻にも脅かされており、しかもそれは取り返しがつきません。居場所であるのに安心できないという矛盾した空間でもあります。しかし、そうした「決定的に新しいもの」の迎え入れこそが時間の時間性であるということを、ループする街は示していたのでした。

 

若者は旅をする

 私たちがこのネットワークにつねにすでに繋がれているというのが本当だとして、若い頃からその酸いも甘いもうまく楽しみながら乗り切っていけるかどうか、自覚的に人に甘える技術をもち、「無垢なる情動」を信じて行動していけるかどうか、それはその人の性質によるとしか言えません。誰と関わっても気分はアガらず、自分がしていることは一体何なのかと自問自答し、自分でも気休めだと思いながらフィクションの世界にひとり没頭し、親に依存していながらもそんな認識はなく、自覚的に誰かに甘える方法すら身につけることがない……*8そういう若者が確かにいるということも忘れてほしくないのです。作中ではニシムラがそうでした。その上空飛行的な姿が愚かだとしても、一時的には認めているということが、この作品の懐の深さだと思ってください。

 「旅は、いつか帰るところに向かう行為だよ」とは航一の言です。星座としての人間関係の中断、そして再開までが「旅」なのです。最終話では、この作品全体が(2005年のタビからしたら)ヨウコさんのプラネタリウムの中で展開された夢であること、一度も経験したことのない過去への「旅」であることが判明します。言ってしまえばこれはタビの逃避でした。ただしタビはこの逃避先で、今まで見てきたように「逃げても無駄である、なぜなら世界に外部はないから」というメッセージを受け取るのです。

ユキタ「だけど生憎だなタビ…

みんな
お前からわけてもらったテガタがあるから
独りぼっちになんてなれないんだよ!!」

(6/p. 90)

この意地悪いほど母性的な言葉に、タビは観念するのです。たとえ最初は不本意に関わってしまったのであっても、一度手を握られたら振りほどこうと握り返そうと、もうそれ以前には戻れない*9こと、その宿命的な遅れに彼女は音を上げたのです。これが、「常にすでに」つながれている人間関係たる星座の逃れがたさなのです。タビは逃げようとしていた地点から、実のところ片時も逃げられていなかったことに気づくでしょう。旅の出発が帰宅に先立たれていたことに気づくでしょう。そして日常の再肯定へと、ほとんど強制的に促されるのです。どんな旅からもいつかは帰るのです。私たちは「何もない(けれど人間関係の残骸がある)」あの街に戻っていくのです。実際に半分夢破れて、最終話ではUターンすることを選んだユキタのように。

 そもそもすべての将来の夢や娯楽や趣味というものはそのように逃避ではないかとも思います。だから、タビとこの漫画を読む私とは、ごく大雑把に見れば同じことをしているのでした。私が彼女の感性から遠く離れてしまったことはもはや関係ありません。彼女は作中のほとんどの時間を「クソッタレな」日常生活から逃避し続けていたという一点で、日常生活の合間にこの漫画を読む私と同じだったのです。

 大人になるということは、誰しもそうした「流れ星に願う」ような、上空飛行的な時期があると認めることができ、それは一時的なものだと*10思いながらも見守ることなのではないのでしょうか。大人の役割とは、子どもがいつかの自分のように上空飛行的な旅に出かけるのを許すこと、できるだけ安全にそれが可能になるような環境を整備することではないのでしょうか。だからニシムラは、それがタビの妄想に貢献するだけであることを知っていながら、五年間タビに宛てて手紙を書き続けました(6/p. 130)。そしてプラネタリウムの運営に携わるツキコ(ヨウコ)は、サボり学生であるタビが建物内に駆け込むのを許すのです(6/p. 136)。それは二人が、一部の若者は常に根本的に逃げ出したがっている、ものすごく旅に出たがっているという切実さをちゃんと覚えているからです。もちろんそのようなケアはものすごく面倒なことで、見返りもほぼ期待できないため、よほどの聖人ではない限りルーティンワークの中に解消されてしまうこともしばしばだと思います。そして、この子はいつかどうでも良くなるはずのことにこだわって馬鹿みたいだ、とも思うはずです。それでも、年長者ぶって色々と説教したいことを飲み込み、黙って奉仕するのが大人なのです(この定義だと大人がほとんどいなくなってしまうかもしれませんが)。

 そうした大人たちの生温いサービスが、旅から戻った若者たちに、しぶしぶ手を貸したり貸されたりすること、せめてその振りくらいはすることの馬鹿にできなさを時間差で提示することになるのです。そうして、巷では地方が消滅するとか言われようとなんだろうと、田舎町は気怠く存続していくのだと私は思います。

 

 

 総論と言いながらもいつもと同じように前から順に書きたいことを書いただけであり、まとまっていません。もしかしたらもう一記事必要なのかも知れませんが、とりあえずここまでです。混乱しているところは、あとでタイムスタンプをいじりつつ更新していけばいいのです。それでは寝ます。

 

ケータイ小説的。――“再ヤンキー化”時代の少女たち

ケータイ小説的。――“再ヤンキー化”時代の少女たち

 

 

 

*1:齋藤はこのあたりを指して「自己啓発的な印象」もあると述べているようです。自己啓発の隆盛とヤンキー的リアリズムの関係というのも、なにやら興味をそそられます。

*2:阿部真大『地方にこもる若者たち―都会と田舎の間に出現した新しい社会』, 朝日新聞出版, 2013, pp. 47-48.

*3:ただし物語の最後においてはツキコも緒道を出て隣町で就職しています。

*4:付け加えると、ツキコも一人の人間として、つまり「和泉(?)陽子」として親から可愛がられたことは殆どなかったにもかかわらず、姉を失ったことを受け入れられない両親(ここでは母だけではないようです)に合わせて、姉として振る舞うという茶番に付き合っています。

 このエピソードに類似したものがある作品としては、ふみふみこぼくらのへんたい』がありますが、こちらはそうした共依存的関係が限界を迎えた瞬間を恐ろしいほど克明に捉えており、また別の機会に十分な時間をかけて論じる価値があります。

*5:ヤンキー的な文化が、こうした内省、回想による物事の捉え直しと非常に相性が良いことは前述の『ケータイ小説的。』でも指摘されていました。社会への無関心と内面への向き直りということだけで見れば、ゼロ年代にかけて言われるようになった「セカイ系」(をめぐる一連のサブカル批評)にもヤンキー的リアリズムの浸透を指摘できるかもしれません。セカイ系という言葉で括られる作品群をそうした自閉的なイメージで語って終わらせてしまうことの是非はとりあえず置くとしても。

*6:すると余裕や高揚感を伴わない詩は、彼女たちにとって「ポエム」ではないということになります。「殺伐としたポエム」がほとんど見られない理由はこれでしょう。

*7:「タビと道づれ」が終了したと思うと胸が熱くなるんだ…:ヤマカムセカンド
タビと道づれ4~6巻 感想 - 漫画

*8:これは作中では見られないことですが、インターネットの不特定多数との交流に嵌りこんだり。

*9:作中の重要な設定である「テガタ」とは、この不可逆性の刻印でもあるのかもしれません。

*10:しかし、あらゆる痛みは一時的だと痛がっている当人に説くことは何にもまして非倫理的なことだと私は思っています。この記事を読んでください。