ジョン・ロック『人間知性論』要約・訳と内容①

 今年度、次の文献を少しだけ扱ったので訳と内容を振り返りがてら書いていく。

Abstract of the Essay, pp. 365-398が要約となっている。

 なお、参考の訳としてはフランス語からの重訳 ジョン・ロック『人間の知性に関するエッセイ・仏訳摘要』抜粋(福鎌忠恕)を用いた。こちらはググっても出てこなかった。

 

 

 

 

 書籍で言うとどこに当たるのかわからないが、Lib. III.のChap.3.から始まった。ものの名前にについての部分。

 

Chap. 3. Words are of two sorts, general terms, or names of particular things: all things that exist being particular, what need of general terms? and what are those general natures they stand for, since the greatest part of words in common use are general terms? As to the first; particular things are so many, that the mind could not retain names for them, and in the next place, could the memory retain them, they would be useless, because the particular beings known to one would be utterly unknown to another, and so their names would not serve for communication where they stood not for an idea common to both speaker and hearer: besides, our progress to knowledge being by generals, we have need of general terms.

 (名詞としての)言葉には、一般的名称と特殊的事物の名称の二種類がある。存在している全ての事物は特殊的であるのに、一般的名称は何の必要性があるのだろうか。そして、人が通常の用途で用いる言葉の大部分は一般的名称であるが、これらの語が表す一般的本性とは何であるのか。最初の疑問については次のようなことが言える。すなわち心がそれらの名称を記憶することができないほど極めて多量な特殊的事物が存在するのであるから、次に記憶がそれら(の語)を保持できたとしてもそれらは使いものにならないだろう。なぜなら、ある人間に知られている特殊的存在物は他の人間にはしばしば全く知られていないからである。したがって、それらの事物の名称は、話す人と聞く人に共通の観念を表していないので、意思疎通し合うのには役立たないであろう。また、我々の知識の進歩は一般的なものによって行われるので、我々は一般的名称を必要とする。

 

内容

 この段落の最初の疑問とは、「存在しているすべての事物は特殊的であるのに、一般的名辞はなぜ必要なのか」という問いである。その解答とは、「一般的名辞があると非常に便利だから」である。
 もし一般的名辞がないとしたらかなり不便なことになる。私たちの周りには無数の特殊的事物があり、それら一つ一つの名前を記憶することにも限界がある。仮にそれらすべてを記憶できたとしても、自分が知っているのとまったく同じ事物を他の人も知っているのでなければ、他の人には伝わらない。例えば、太平洋と日本海の両方を知っている人Aが「太平洋はしょっぱいよ」と言っても、日本海は知っているが太平洋は知らない人Bにとってはその情報は役立たない。太平洋と言って何を指すのか、見当もつかないからである。
 ロックは、「知識の進歩は一般概念という手段によって行われる」とも書いている。知識の進歩とは、情報の有用性と伝達効率がより高まることだと考えられる。「海」という一般的名辞を使い、「海というものはみなしょっぱいよ」と伝えるなら、Bは今後「海だと思われる(個別的な)ものは皆しょっぱい」のだと予想ができるようになる(何が海であるか、というのを直観する力がBにあるとするなら、だが)。この場合、AはBに無数の新しい情報をたった一言で提供していることになる。一般的名辞を用いない場合より、情報の有用性と伝達効率がはるかに高くなっている。
 一般的名称があると、生きていく上で行動方針を決めるときに便利である。だから一般的名辞は必要なのだ。

 

・一般的本性(general nature)

アリストテレス、トマス→本質、質料も含意しており、人間の本質は魂+身体

プラトンイデア、人間であれば魂のこと

 両方とも実在するものと考えられたが、ロックはこうした本質とかイデアは「一般的観念」であるとする。

 

As to the second, the general natures general terms stand for, are only general ideas, and ideas become general only by being abstracted from time and place and other particularities, that make them the representatives only of individuals, by which separation of some ideas which annexed to them make them particular, they are made capable of agreeing to several particulars: thus ideas come to represent not one particular existence, but a sort of things as their names, to stand for sorts, which sorts are usually called by the Latin terms of art, genus and species, of which each is supposed to have its particular essence; and though there be much dispute and stir about genus and species, and their essences, yet in truth the essence of each genus and species, or, to speak English, of each sort of things, is nothing else but the abstract idea in the mind which the speaker makes the general term the sign of.

二番目の疑問について言えば、一般的名称が表す一般的本性は、一般的観念に他ならない。そして、観念が一般的となるのは、それらから時間、場所、及びその他の諸特殊性を捨象することによってだけである。ちなみにその諸特殊性とは、観念を個物のみを表すものにするものである。観念に付加されてそれらを特殊的にする若干の観念から切り離されることによって、観念は諸々の特殊なものに符合することが可能になるのである。このようにして、諸観念は一つの特殊的存在者を表すのではなく、種類を表す名称と同様に諸事物の種類を表すようになる。そのような種類は、ラテン語の専門用語ではふつう類や種と呼ばれており、その種類のそれぞれが、それ自身の特殊的本質を持つということになっている。類や種、またそれら類や種の本質に関しては大いに騒ぎや論争が存在するが、しかし実際それぞれの類や種、つまり英語でいう事物の各種類の本質とは、話す人が一般的名辞をその記号にするところの、心の中における抽象観念に他ならない。

 

内容

"犬"  ―― 観念「犬」 ←(抽象)― 観念「ポチ」/「クロ」等 ―― ポチ・クロ等

一般的名称 ―― 一般的観念 ←(抽象)― ideas(観念)――特殊的存在物

↑一般的名称という分類=類・種

 

It is true, every particular thing has a real constitution by which it is what it is; and this, by the genuine notion of the word, is called its essence or being; but the word essence having been transferred from its original signification, and applied to the artificial species and genera of the schools, men commonly look on essences to belong to the sorts of things, as they are ranked under different general denominations, and in this sense essences are truly nothing but the abstract ideas which those general terms are by any one made to stand for. The first of these may be called the real, the second the nominal essence, which sometimes are the same, sometimes quite different one from another.

確かに全ての特殊的事物は実在的構成を持ち、それによって事物は事物としてある。すなわちこれ〔実在的構成〕が、語の真の概念によって本質または存在と呼ばれるものである。しかし、本質という語はその最初の意味から変化して、スコラ学派の、人為的にこしらえられた種や類に適用されたので、事物の種類に属する諸々の本質は、それらが様々な一般的な名称にしたがって配列されていると一般にみなされている。この意味では、たしかに、本質とは人がそれらの一般的名称を使って表す抽象観念に他ならない。(上述の本質のうち、)第一のものは実在的、第二のものは唯名的本質と呼ばれてよいであろう。それらは同一であることもあるし、互いに全く異なっていることもある。

内容

・第一のもの=実在的構成

 これは特殊的(それぞれ1つとして同じではない)だし、物理的に存在している。

 実在的構成とは、今で言う分子や原子の組み合わせのことをいう。これは、あらゆる事物に固有の、異なった組み合わせとなっている。

・第二のもの=一般的な名称にしたがって配列されていると思われている抽象観念

 スコラ学派の本質。一般的、かつ抽象を経た観念。

 

 今回はここまで。疲れる……