第33回文学フリマ東京で購入した本の感想①(北出栞編『ferne』)

毎回思うのですが、本を読んだ時の感想は、書くと同時にそれを読む自分にとって役に立つように書きたいと思っています。

よくSNSで上がるように「~を買いました」というだけではなく、買って読んで自分にどういう変化が起きたのか(あるいは起きなかったのか)を記述したいと思っています。あるいは、その文章は自分の読んできた他の文章の中でどのような位置づけになるのかを書き留めておきたいと思っています。

ただ、「買いました」とSNSに投稿しただけでも、その文章を書いた人とお近づきになれる可能性があるという点で役に立つからいいのかもしれません。特にアマチュア物書きが集まるイベントはそのような交流をこそ促進するために開催されているのかもしれません。ただ私はその社交にはあんまり魅力を感じません。ある人が書いたものにお金を出したからといって、そしてそのことをSNSで報告したからといって、その書いた人と友達になるとは限らないからです。

書かれたものと書いた人の関係、そして、一方への態度表明が他方へのそれになりうるのかという問題は私がいつも悩んでいるところではあります。私は二つを切り離すことは不可能だろうと思いつつも、できるだけ分けておきたいと考えるタイプではあると思います。私が愛好する作家はプロアマ問わずたくさんいますが、だからといってその人たちと友達のように日々関わりたいとはあまり思いません。

私が二つの乖離を信じてしまうのは、私が書いているものと、日々仕事をする私や友人たちと話す私が実際に乖離しているからでもあると思います。私が書くものに全く興味がなかったり、むしろ嫌いだったりする人とも、仕事の仲間や友達として付き合うことはきっとできるでしょう。「買いました。」「ありがとうございます。」という会話はいつでもできるでしょう。でも私はその一方で、私が書くものを本当に真剣に読んでくれる人との交流をどこかで求めてもいます。それがどのような性質の交流になるのかはその時になってみないとわかりませんが、きっと過酷なものになるだろうと予感しています。そういうしんどい交流は、したいけど、したくないことです。それは「あんまり魅力を感じない」社交とは私にとって区別されます。

前置きが長くなりすぎました。では本の感想です。

北出栞編『ferne』

批評界隈で色々言われてきた「セカイ系」という言葉を、これまでになかった文脈へ置き直してみたいという野心を感じる本でした。内容が広範すぎるのですが自分にとって思うところがあった部分のみ以下に書き留めます。

 

「青空と神話——ドイツ・ロマン派の芸術観から探る「セカイ系」のアクチュアリティ」(北出 栞)

セカイ系とされる作品によく出てくる「青空」は現実の中にも虚構の中にも位置を持たず、しかし単に理念的なのではない、鑑賞や創作の経験の繰り返し(あるいは反省意識)によって追及される「世界の起源」である……。私はそのように理解しました。

面白かったのは、セカイ系というムーブメントは「世界の起源」の追求が作者と需要者の両面で行われていたために、昨今の作家と受容者の非対称性への異議申し立てになると示唆されていたことです。これは批評をやっている人に勇気を与える見方ではないでしょうか。

 

「『セカイ系文化論』は可能か?——音楽・映像の交点からたどり直す20年史」(柴那典+渡邉大輔+北出 栞)

私は音楽というジャンル自体に疎いので、ほとんど初めて知る情報しかありませんでした。

座談会の中で柴氏が語るのは、BUMP OF CHICKENが打ち立てた音楽と物語のリンクから、現代につながる様々な新世代の音楽(や、小説やアニメ、イラストの枠を超えたメディアミックス的な作品群)が生まれたということでした。具体的には、2007年以降続くボーカロイドシーンは若い人々にJ-POPや洋楽以上の影響を与えて、新しい表現者を輩出するようになっているとのことです。

思い返してみると、私がかつて所属していたよくあるオタクサークルの中でも、小説や漫画をつくる習慣があり、同時にボカロ曲にもとても詳しい人は多かった気がします。しかし私は不真面目なメンバーだったので、彼らとおしゃべりする中でそのようなボカロの基礎教養を身に着けることはなく、90年代の仄暗いアニメを見ながらエロゲーの移植版*1をプレイし、RPGツクールで完成することのないゲームを制作していました(いちおう小説も書いていました)。自分が思う創作とボカロの世界はどこか相容れないのだと私は当時感じていた気がしますが、それは同級生に対する軽侮を同級生たちの文化に投影していただけなのではないかと今では思います。

ただ、私がとても気になったのは北出氏の指摘でした。

(略)いま10代のクリエイターたちはソーシャルメディアにどっぷりな世代でもあるわけですよね。いかにバズるかというか、いい絵師さんを見つけて依頼するということも含めて、セルフプロデュース的なセンスも必要になる。かつてのセカイ系にあった内省的な要素と、ソーシャル的にうまく立ち回ることのバランスをとるのは、人によってはすごく難しいことなんじゃないか。

(p. 38 北出)

かつてのオタクサークルの仲間たちは、詳細はわかりませんが、ほとんどの人がとても立派な職業に就いて日々働いているようです。中にはまさに「セルフプロデュース」を行って個人事業主となった人もいると風の噂に聞いています。そういう、社会の中の人間としてちゃんと人付き合いをしてやっていくことと、フィクションを作ったり受け取ったりしつつ人に言えないようなことを考えたり、誰にも会いたくなくてボケっと空を見ながら考え事をするなどの折り合いを、彼らはどのようにしてつけているのでしょうか。折り合いをつけること自体が苦しくなったりは、もはやしないのでしょうか。そう彼らに問うてみたいような気もします。

ボカロ曲に全く詳しくない私が言うのもなんですが、ボカロ曲を作る人にもある種の切実さや自意識過剰、自閉的な側面は十分見られるのではないかと感じています。エヴァのアニメを歌詞化するとボカロ曲に近くなるのではないか。言葉を明朝体で画面に次々張り付けていくみたいなところも含めて。

 

セカイ系とは、哲学そのものである」(山内志朗

まず、自分はセカイ系について、人間の成長過程として……セカイ系の先に、成長して世間に入っていって大人になっていく、というモデルの中で考えていないんです。

(p. 68 山内)

この発言から続く一連の流れが印象的でした。セカイ系はしばしば、社会のことがわからない人の幼稚な思考様式だと言われてきたので、私もそんな印象にいつの間にか同意していたことに気づかされました。しかし、所与の「社会」なしというのは哲学にも童話にも言えることで、つまりセカイ系現状追認ではなく普遍を求める思考の一つなのだと説得されました。

(アニメ版や旧劇の)「エヴァンゲリオン」が描いていたとされる天使主義的誤謬(肉体嫌悪や絶対的な禁欲がむしろ非常に性的なものを呼び込む)については『天使の記号学』を再読しつつ改めて考えたいです。天使主義のような肉体嫌悪や完全な禁欲主義はもはや古く、問題にならないのでしょうか。私は、天使主義は一部の「草食系男子」や、自らを理性的と自負している男性の性欲観と全く同じではないかと思いました。今でもこの潔癖さに囚われている人は決して少なくはないはずです。そしてその囚われが、特に親密圏での男性の振る舞いの問題に結びついていると私は考えています。

虚構と現実を鋭く区別しない作品が話題をさらっても、性的な事柄を過度に拒否したり耽溺したりしない若者が増えてきても、虚構(というより、一個人の妄想)の世界と現実の世界を区別することは、つねに一部の人間の課題であり続けると私は思います。その区別ができるだけうまくいく環境が整えられていくのは、無論望ましいことであるとして。

 

「実存と救済——男性主人公の「僕」と戦闘美少女の「君」からなる物語の構造」(高橋 幸)・「セカイ系を再定義する——あるいは、『イリヤの空、UFOの夏』をもう一度考える」(平野遥人)

重要なのは、両者とも、セカイ系作品は「人格そのものが持つそれ自体の価値の認識」を描いていると主張することです。高橋氏は、『新世紀エヴァンゲリオン』のシンジが「具体的な諸々の社会的役割をはぎ取っていっても残ると感じられる自分の存在意義」「自分の能力や社会的役割によって評価されるのではない自己存在そのものの価値」を確信しようと奮闘した様子を整理します。平野氏は「新しいセカイ系作品の定義」を試みる中で、セカイ系作品の主人公(ぼく)が、ヒロイン(きみ)に「非道具的価値」(何らかの目的のための手段となるというのでもなく、他との比較の尺度を持たない価値)を見出していることを指摘します。

親密な関係の中でその成員たちが互いの代替不可能性を実感するというだけなら、恋愛を描いた物語の大半には言えそうなことです。セカイ系作品はその代替不可能性の実感を、特殊な条件の追加によって強めています。その条件とは、ヒロインが世界の存亡の危機と結びついてしまっており、主人公はヒロインが世界の危機によって傷ついていくのをほとんどどうすることもできないということです。平野氏は、このような舞台設定によって生じる「主人公の手が届かないところでヒロインが損なわれている」という挫折こそが、主人公にヒロインの非道具的価値を意識させると述べています。

平野氏の論考は非常に説得的で、かつこの本の中で一番自分の関心と重なっていたと感じました。なぜセカイ系作品は社会を描かないのか、なぜヒロインは世界の危機と接続されなければならないのかが納得できました。

セカイ系とされる作品の主人公は、少女のために何かをしようとするが、大した助けにはならず「ただ何があっても(精神的に)離れない」という形で少女の味方になろうとします。このような構図が見られる物語に私は長らく執着してきた気がしています。巻末のリストにはありませんが、Fate/stay nightのセイバールートの序盤もそうだと言えるかもしれません。また、主人公がどうすることもできないという意味では、「世界の危機」は別の問題にも置き換えられます。例えばそれは、ヒロインがいじめ、親との死別、難病などの過酷な状況にあったり(『CROSS☨CHANNEL』、アニメ版『SHUFFLE!』、ステージ☆なな『narcissu』)、あるいは創作者として本人にしか解決できない課題に苦悩していたりする(『かたわ少女』の琳、『DDLC』のユリとナツキ)等です。こうした手当てしようのない傷*2をもつヒロインに対して主人公が行う、何の根本的解決ももたらさない、精神だけの「臣従」。これが主人公にとって、またその様子を眺める私にとって無意味ではないのはなぜでしょうか。

それはおそらく、平野氏が述べるように、そこには他人それ自体の価値が見える(妄想ではない、本当の他人との出会いの契機*3がある)からなのだと思います。自分の力が及ばない事柄が他人を傷つけ、自分がどんなに望んでもそれをもはや止めることができないという経験は、自らの妄想とは区別される他人が確かに存在することの証拠になるからです(自己がその外側の他者と出会うためには、(自己の内部では)他者が破壊されなければならない)。

「主人公の手が届かないところでヒロインが損なわれている」とき、主人公は二つの意欲を持ちます。まずは、他人の遠さにうんざりし、結局他人に対して自分は何もできないのだと結論し「きみ」の前からとっとと去りたくなる(実際にそうする主人公もいますし、このような無力感は幾分かは健全なものです)。または、そういう遠さを感じながらも自分がいくらかでも影響を与えることがあると信じて関わっていこうと思う、つまり「愛する人のすべてにアクセスできないという挫折の上でなお自らにできることを求める(それによって非道具的価値にたどり着く)」(平野、p. 112)。

「私をまったく受け付けないわけではないが、完全には思い通りにならない他人」は、相手(と不可分である世界)の運命自体を変えてあげようとする(そして挫折を感じたり相手からの承認を得たりする)という、不可能なおせっかい(臣従)を行う中で見出されます。私は臣従の中にいる人間がその後たどりうる運命は何なのかというところに興味があります。その問題はもはやセカイ系とされる作品にとどまらず、セカイ系作品とは時間的にも空間的にも無関係とされる作品や、私たちの行う人間関係からでも考えることができます。

両氏が着目している「非道具的価値」については、相手を相手自身として扱うことを推奨する理念として、または自分自身に価値があると思える根拠として重要なものです。ただ、代替不可能性は実存の問題に解決を与える一方、実際には親密な関係を息苦しくする当のものでもあります。だからセカイ系作品の多くは、「きみ」と「ぼく」との邂逅を束の間、断続的に保ち、「日常生活に着地する恋愛(いわゆるハッピーエンド)を必要としなかった」(高橋、p. 92)のだろうと思います。セカイ系作品がうまく回避していた代替不可能性のめんどくささも、最近では私の関心に入っています(このあたりは『「ハネムーン サラダ」の隠し味』11、12章で少し述べました)。

 

「不可能性としてのセカイ系——杉井光の忘却の否定神学について」(王 琼海)

ゼロ年代批評とセカイ系作品が大陸でどのように受容されたのかについて、当事者の記述はとても興味深いところでした。印象的だったのは、批評がないところにセカイ系は存在しないという王氏の実感でした。彼によれば、批評不在のところにガワだけ真似たコンテンツを増やしたところで、あるまとまりをもった作品の系譜は生まれてこないらしいのです。このあたりは北出氏の論とも響き合うところで、セカイ系がつねに批評とともにあったことを再度意識させられます。

また王氏は、中国ではラノベやギャルゲー、少女マンガを読んでいた人がコンテンツ批評に接近した一方、アニメや少年漫画から入った人は作画やアニメ史を受容する傾向にあるといいます(p. 136)。私はおおよそ少年漫画→ギャルゲー→アニメ/ラノベ→少女マンガという順序で受容していきましたが、作品について何かしら文章を書き始めたのはほぼ少女マンガを読むようになってからでした(そして作画やアニメ史には疎く、あまり深掘りしようという気にもなりません)。ここには単なる偶然を超えた何らかの断絶があるのか、気になるところではあります。

 

【座談会】セカイ系・日常系・感傷マゾ——フィクションと私たちの関係、20年間のグラデーションを探る(サカウヱ+ヒグチ+わく+北出栞)

色々ありますが、各参加者が「異界」「ここではないどこか」について何らかの直観を得ているのが印象的でした。

わく氏は「『ここではないどこか』に対する憧れは、異界に対する理解よりもむしろ無理解から生じる自身の妄想に基づいている」(p. 166)と述べています。つまり、「異界」は、自己の認識能力の限界を前提にしています。インターネットであらゆる情報に簡単にアクセスすることができるようになった結果、そのような限界は取り外されて、「異界という外部を失って内部しかない状態」になるようなのです。

セカイ系作品の中には、「愛する人のすべてにアクセスできないという挫折」があるのだと、平野氏は述べていました。「異界」「ここではないどこか」に憧れることができないというのは、どこかにアクセスしたいと思ったとき挫折することができないということです。例えば観光名所やよく知られた街については、大抵の情報は調べれば手に入れられるし、ストリートビューで散歩もできます。生き残りをかけて必死で観光資源を喧伝する各自治体の施策のもとでは「どこか」というのは存在せず、具体的な名前をもった場所で地図は埋め尽くされています。「異界」「ここではないどこか」を語るわく氏が、観光地として売り出されてもいない鄙びた地を訪れることを続けているというのは、とても興味を惹かれます。

セカイ系作品に描かれるのが非観光地的な風景であり、抽象的な〈風景〉の描写は近代的自我の「内面」発見と対になっていたというのは、一つ目の座談会の渡邊氏が指摘していたことでした(p. 27)。非観光地、抽象的な風景は、具体的で十全な理解を諦め一人で妄想することと結びつく。この連関から見えてくるものについて考えたくなります。「妄想としての心象風景は、他者と隔絶した状態でないと生まれない」というわく氏の実感は、私としては経験に照らして支持できるものでした。「何もない」と周囲の人間が口を揃えて言うような土地に生まれ、かつ常につるんでいるような友人もいない中高生は、一人で「妄想」を始める、あるいは夕暮れを眺めながら何も無かった一日を虚しく振り返るくらいしかできることがありません。ひどく抽象的で、ランドマークになるようなものが何もなく、あらかじめ全ての哺乳類が滅んでいたような原野と空。その中に、理想的にふるまいたかった自分と、理想的にあって欲しかった他人たちの幻が明滅しています。それが私の心象風景でした。こうした風景は、具体的なものに具体的に接触する可能性を拒否したときに生まれますが、他方ではこの風景こそが、具体的な他人、「ここではないどこか」の妄想の他人ではなく「ここ=日常生活」の中の他人との出会いが可能になった証でもあります。なぜなら、このような「終わっている」「空虚な」心象風景、つまり自分の理想が妄想として遠くなり消えかかっていく世界を持ったということは、その他方で日々関わる他人たちを、自分の望みを完全には叶えてくれない存在として、つまり他人自身の意志や欲求を持っている存在として見なし始めたということだからです*4。雑に言うなら、自分のいる世界のほかの世界(決して自分の行けない世界)を何らか想定しなければある種の全能感を捨てることはできず、他人を自分の延長とみなしがちになるということです。

ただし「他人は思い通りにならない」ことを意識しすぎて完全に日常生活を諦め、他人に対して我が儘を言うことが全くなくなってしまえば、それはそれで問題含みです(おそらくストレスで心身を壊すか、支配的な人の言いなりになるでしょう)。私は悟ったようなことを考えつつも人並みにゼータクであったので、空虚な心象風景をもちながらもなんだかんだ現実の他人に何らかの要求を通そうとし続けていました。とはいえ、思春期はとくに意地になって自分の要求を諦めた後で恨みを募らせたことも多く、これは空虚な心象風景を強く持っている人にはありがちな危機だなと思ってもいます。

 

【年表】セカイ系作品クロニクル 1995-2021

作品リストの中に、たなかのかタビと道づれ』が挙がっていることに面喰らい、続いて納得もしました。当の作品ではたしかに「社会」が稀薄であり、数名の人物たちの親密な関係が世界の謎と直接つながっているからです。そして登場人物の多くが「ここではないどこか」を強烈に求めている物語でもあります。

ただ『タビと道づれ』の結末には、セカイ系作品の後日談とも呼べるものが付属しています。全力で否定してきたはずの「ここ=日常生活」へ、各人物たちが帰っていくのです。セカイ系作品の各要素を十分に備えつつ、そこから半歩先へ進む(戻る?)ことを試みる当作品はもっと精読されるべきであるとともに、より多くの若い読者を獲得するべきだと私は思います*5

 

他にも文学フリマで購入した本はあるのですが、思いのほか長くなったのでいったん切ります。

生きていることがインターネットで確認できる人の文章について何ごとかを述べるのは毎回本当に緊張します。著者の方々がもしこれを読み、非礼があると思われましたら(できればSNS以外で)指摘してください。

*1:これらの作品は「セカイ系」的なものもあればそうでないものもありました。

*2:一応付け加えておきますが、実存的な悩み、形而上学的な悩みを除いて、大抵の場合適切な手当というものはあります。現実にはいじめや悲嘆といった問題を一個人がどうにかしようとするより、専門家のサービス、福祉、公的扶助に繋げるべきだというのは尤もなことです。しかしこれらのフィクションが目指したのは、現行の世界と同じ条件下で主人公に最適を探らせるのではなく、ごく思弁的で非現実的な舞台を設定してでも主人公を(他人の苦しみのために)苦しませることです。セカイ系作品の「世界の危機」という素っ頓狂な舞台は「いや、専門家のサービス/福祉/公的扶助に頼れよ」という突っ込みが入らないように設定されたとも言えます。

専門家のサービス、福祉、公的扶助の意義を強調し、適切にそれに頼れと広報するのは無論重要なことです。作家だってそんなことはわかっているでしょう(わかっていてほしいです)。しかしその一方で、そうしたものが存在しない、あっても頼ることが思いつかれない状況を、作家があえて(あるいは無意識に)設定し創作した可能性についても忘れたくはないものです。その場合必要なのは注釈であって、物語のディテールが現実に沿わないから変えるべきだと主張することではありません。それに現実に沿う沿わないで争うならば、作家や受容者が(公的扶助の存在を)意識しなかったということもまた、その作家や受容者の主観的な「現実」だと言えてしまいます。

*3:あくまで契機であって、すぐに妄想に戻っていったり、他人を自分の奴隷のように扱う――相手の権利を否定する――に至ったりする可能性も十分あります。

*4:その変化は一体のものであって、一方だけを礼賛したりあげつらったりすることはできないと私は考えています。

*5:当ブログでも昔『タビと道づれ』について書いたことがあります。気になる方はカテゴリー「漫画を読む」の中から、該当の記事をご笑覧ください。