反-償いの物語——アニメ版『SHUFFLE!』19-21話について

弁明あるいはキャラクターのイメージを語ることの正当性

今回は、同名の18禁美少女ゲームを原作として、2005年から06年にかけて放映された*1SHUFFLE!』というアニメについて語ろうと思います。

はじめに断っておきますが、私は『SHUFFLE!』シリーズの原作を移植版も含め一つもプレイしたことがありません。だから今回アニメ版だけを参照して語ることが、同シリーズの全版に当てはまるわけではありません。

かつてこの作品については、原作とアニメ版の断絶によって並々ならぬ議論が起きていたことも承知しています。主に火種となったのは、原作の重要なシーンが省かれたり、アニメ独自の設定や表現が加えられたことで、一部のキャラクターのイメージが全く異なってしまったことであるようです。ただ私は今回、アニメ擁護派・アンチアニメ派のどちらの肩をも持つつもりはありません。私は私に見えたものを語ることしかできません。

キャラクターは多くの人間とは違って、自らに持たれるイメージが不当であるという訴えを自ら起こすことができません。他の人(作品の受容者)に、不当であるとか不当でないとかを語ってもらわなければなりません。でもそうやって、私たちがキャラクターのイメージをめぐって語り合うということ自体、倫理的に正当化できるものなのか疑わしいと最近は思っています。ここでいう「キャラクター」を、自分で自分のイメージについて語る主導権を持たないマイノリティと置き換えてみれば、彼ら彼女らについて、多数派たる私たちが(当事者の代弁をしつつ)論争をするのは、何かを間違えているのではないかと思ってしまいます。

それならば、最終的にはその個別のキャラクターへの興味から離れ、一人相撲を突き詰めていったほうがまだマシなのではないかと思います。つまりキャラクターのイメージをめぐって義憤に満ちた闘争を行うよりも、私がキャラクターに持つイメージが、視聴者である私自身の耐え難い側面や、捨てることのできない拘りの影で(も)あることに自覚的でありつつ、自分語りに帰着するほうが。以下の文章は、そのような筋書きをなぞっているつもりです。

*1:1期はWOWOWで、2007年に1期を再構成した2期が独立UHF局で放送されたとのことです。

SHUFFLE! (アニメ) - Wikipedia

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第33回文学フリマ東京で購入した本の感想②(『よそおい』)

前回は北出栞編『ferne』でした。

今回もまた一冊のみになってしまいました。例によって、すべての収録されているものに言及できているわけではありませんが、できるかぎり書いています。

全体的に

こちらのサイトを見ればわかると思いますが、非常に凝った作りの本で手に取った時は面くらいました。

yoso-oi.com

i+medi/eaというZINEもそうでしたが、赤を基調にした本づくりというのが最近はトレンドだったりするのでしょうか。

 

永良新「マンガエスク・ノートーー鉛・インク・静電気の匂い」

「描く」という経験は物質を操ること・五感をもつことと切り離せないことがよくわかる文章です。また、描くためには道具が必要ですが、その道具の性質の違いも様々に言及されます。具体性を離れまいとする意志を感じます。

文字を「書く」ことの多い自分は、しばしば触覚や聴覚、嗅覚を軽視しています。また、文字を発生させるそれぞれのシステムの多様性も忘れています。キーボードでWordやメモ帳に入力を行うことだけではなく、筆で書き初めをすることも、節をつけながら歌や詩を吟ずることも言語使用です。私はしばしばそのあたりへの注意が抜けています。だから例えば、ワープロで小説を書くという経験を、「創作」一般の経験として語ってしまったりします。本来それは不当な一般化ではないか、小説をつくる、マンガをつくる、書画をつくる、歌をつくる、写真をつくる、本当に自分のした経験がそれぞれの経験と通約できる部分があるのか、いったん落ち着いて考えてみるべきだったのでしょう。

 

しましま「嘘でしか言えない」

将棋だとかチェスだとかの駒を進めるかのように注意深くありつつも華麗で流暢、一見大上段に構えているように見えて、読み終わってみると、確かにある一人の人が生きてきた道筋に基づいているような気がする不思議な文章です。

Ⅳ~Ⅴについて、柄谷が実際にどのようなことを書いているのかとても興味がわいてきたので、『意味という病』を読んでみたいと思いました。意味-無意味の対立そのものから距離をとり、「やってしまった」ことから考えるというのは、この後感想を書いている 田丸まひる「笑っているのは」にも関わる気がします。

そして筆者の考えているところは、人生のうちの色々な問いから道化として距離をとろうと努める中で「どれだけ距離をとろうとしてもへばりついてくるもの、どうしてもウソがつけないもの」(20)、「これだけは笑い飛ばせないというなにか」(同)を、「本当の余剰」「肉体」として身に着けてしまうという事態です。

いきなり私の話をしますが、私はインターネットで何かを書くというときは常に下手な芝居をしているような、どこにもいない自分を作っているかのような気がしてしまいます。そもそもなぜこうやって敬体で書くのか(特定の誰かに宛てているわけでもないのに?)自分でも分かっていません。

私的な文章を書き始めるときは、自分は本当にこんなことを思っているのか? と疑いながら書き進めます。そうして進んでいくうちに、感触が変わります。距離を取れなくなるときがやってきます。でも一晩寝て読み返してみると「本当にこんなことを思ったんだっけ?」と再び思うこともあります。それを繰り返しています。

 

Tofu on fire「きみ以外には何もいらない――パンナコッタ・フーゴについて」

「キャラクターは生きていないからこそ尊い」という力強い断言はどこかで聞いたな、と思ったら同趣旨のことを自分でも書いていました。

dismal-dusk.hatenablog.com

ただ、筆者の書くように「キャラクターの感情を自分の感情のように思うこと」は、キャラクターを(「本当は」生きていないけど)生きているものとして扱うことでもあるのではないか。それはキャラクターへの一方的な感情の投げ込みというよりは、何かすでに「大切に扱われることを要求するキャラクター自身の人格」のようなものを生じさせてはいないか。キャラクターは客観的にどのような存在かであるかは私にとって最終的にはどうでもよく、私たちとキャラクターの関係にある割り切れなさにこだわる必要がある気がしています。

ジョジョ」、巨大な作品ですが人生のどっかで手を出したいとは思っています。

 

mewmo「わたしがメイクをする理由」

「よそおい」という言葉から私が単純に思いつくのが衣服や化粧の経験についてです。
たぶん、服を着ることやメイクをするということは、なんとか周りに紛れるための、つまり同質化の必死の努力でもありうるし、他の人とたとえ違っても(というより、必ず誰かと異なっている)「自分」を作り上げる努力でもあります。こちらのエッセイはその同質化と差異化の側面を実感に即して記述した、とても明晰な文章だと思いました。

もし、筆者の経験について共感的に語ることが許されるなら、小学生というのは人の外見に対してなんと無邪気に酷いことを言えるのだろうとびっくりしました。悪気はあったのか、なかったのか、そんなことは知ったことではないけれど、ただ酷いとしか言えない発言がなされることが小学校の中では起こります。自分ももしかするとそれを言う側だったかもしれない、すでに言ってしまったかもしれないと思うと怖くなります。

「よそおい」なんて馬鹿らしいじゃないか、という意見も一方にあると思います。なんでそんなに努力しなければならないのか、という人もあるかと思います。しかし、その裏には何か、自分も知らないその人の歴史があるのかもしれません。

思い出した作品:

オルグジンメル「流行」(『文化の哲学』所収)

 

太田栄作「呪詛と告白」

自分はあの手のアプリやサービスを利用した経験もその予定もないため、ある種の主観視点小説として読みました。男性が語る赤裸々な恋愛経験についての話でいつも私が思うのは、「失敗」として語られる事態の多さです。ほとんどの場合その失敗の語りは、男性の「こうすべき」という信念を示しているものだと私は思っています。ただ、恋愛関係をやっていく中の種々の事態を、なぜ男性一人の側だけから「失敗」と呼ぶことができるのかと不思議にも思います。自分が「失敗した」と感じていても、相手はそれを失敗と思わない場合があるからです(こちらのエッセイの中にも、そういう場面は多々あったように見受けられます)。

だから「相手側の視点がないな」と思いつつも、私はこのようなタイプの物語もべつに嫌いではありません。「かっこつけたい」という自分の中にある気持ちを目の前で形にしてくれて有難いと感じるからです。そういう「よそおい」の真剣さと空回りを抜きにしたら、恋愛経験の語りに何が残るのでしょうか(もちろん残るものはあり、それについても考えなければなりません)。

思い出した作品:

 

橋迫瑞穂「〈よそおい〉としてのリストカット論」

精神医学的ではないリストカットについての文章を始めて読みました。ただ、言及されているドラマを自分が未視聴なこともあり、よく理解できたとは言えません。

最近触れたコンテンツとの関係でなんとか整理してみると、ヴァイオレットのするリストカットは、つらい現実を「連続的に、線的に」表面的には変化がないように処理していくためのやり方で、テイトの殺戮と仮装は、「一挙に、点的に」別世界と別の自分に飛んで行ってしまうやり方だと言えるのでしょうか。ただ、リストカットにはほとんどの場合解離症状が伴うことを考えると、こういう整理も適切ではないような気がします。他の人から見たときに連続性を保っているように見えるのが前者、くらいの感じでしょうか。

「最近触れたコンテンツ」:哲学対話 PARA SHIF 「翌日の医者」:松本卓也 - YouTube

 

田丸まひる「笑っているのは」

思春期の日々にあったたくさんの嫌なことをここまで覚えているのがすごいと思いました。そういう嫌な思春期を過ぎた人が、まさに今思春期の学生に対して何かできることがあるのかどうか、これは私もここのところよく考えていることです。

そんな中で効いてくるのがこのZINEのテーマ「よそおい」です。筆者は一つの態度を示しました。

「大丈夫、大丈夫って何度も繰り返して、分かったようなことを言うなって睨まれながら、全部をわかることなんて無理だけど、それでもなんとかなるよって顔をまとって」(53)

本当はこの後に続く文章まで引用しなければならないのですが、長くなってしまうので控えます(買って読んでください)。要するに、思春期の彼らの問題を引き取ってどうにかするとか、本当に心から共感する(これも現実に何を指しているのかはわかりませんが)とかは不可能だけども、できるだけそうしようってつもりはありますよ、味方としてどっしり構えてますよっていう様子を、服装とか表情とかメイクとかで表現しますって話です。

大人がそのような様子でいて事態がなんか良くなるのかはわかりません。実際、私が思春期のときに一番ムカついたのは「そのうち大丈夫になる」と繰り返していた大人たちに対してだからです。ただし同じことを言うにしても、訳知り顔で言われたら余計ムカつくし、「万に一つくらいは信じてもいいか」と思えることもあるので、言う大人の様子は大事かもしれません。しかし「どんな顔を装っても取りこぼすものたち」(53)はある、という筆者の日々の実感は重いです。

「味方としてどっしり構えてますよ」というよそおいは(思春期の中にいる人にとって)多少意味があったり、まったく無意味であったりします。でもその一方で、大人にとってその「よそおい」は、ある程度そうするしかないものでもあるような気がしています。思春期を生きる人が「どいつもこいつもアテになりゃしない」という経験を持つための仮想敵にな(り、かつその孤独を通り抜けるための物質的な条件を整え)ることが、大人の使命の一部ではないかとすら考えたりします。勿論、日々行われる具体的な実践(書類仕事や人の相談に乗ることや他諸々)についてはできることを行ったうえで。

思い出した作品: