依存の闇と「うれしさ」の自立性―『ラストノーツ』について・3

 先の記事では、この物語のテーマが「自立」にあるということを最後に予告していました。

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 私がそう言ったのは、3巻では、「なぜ自立できないのか?」(自立していないとはどういうことか)という問いについて3つの答えが用意されているように思ったからでした。これらの答えは主要人物の思考と行動に対する批判的な考察にもなっています。そして、ではこの物語における自立というのはどういうことなのかということも、この記事の最後では考えてみたいと思います。

 

 ではまず、「なぜ自立できないのか?」について3つの可能な答えを挙げてみます。

  • A.「自分はこういう人間にはならない!」という、自分にとっての反面教師に執着しているから
  • B. 人を世話するときの高揚に中毒になっており、世話を焼きたい人になんでも合わせて行動するから
  • C. 自分だけを見てほしいあまり、他人の大切な人がいるということを赦せないから(必要な時に距離がとれないから)

これらのそれぞれについて、以下の節では考察していきます。

 

怨みに憑かれること

 まずはAからです。「自分はあんな人間にはならない」という反面教師を心に描きながら生きること、それは自立しているようでいて、そうではないという典型です。

 例えばアキについて考えてみます。彼の心には、自分の親はどうして自分を置いて去ったのかという恨み、怒りが燻っていました。その負の感情には、3巻では「闇」という名前が与えられています。

ハル「あいつ 笑うんだよな
親においてかれたことなんてなかったみたいに

でも完全にはつくろえてない
気づいてるのは俺くらいだろうけど」

ハル「えみるちゃんを無視してたやつらにキレたことあったろ
猫 拾ってくるのもそうだ

あの笑顔で隠してる
どうしても拭えない闇を」

(3/pp. 37-38)

  冷たい人間に義憤を感じることも、貰い手のいない猫を拾ってくることも、およそ「闇」という言葉の暗さに見合わないのではないかと普通は思うでしょう。しかし、これらの奉仕に与えられたネガティブな呼び方はもちろん理由があります。アキの情熱は自分が親から見捨てられた恨みの変奏であるともいえるからです。

 二回目の記事でも触れましたが、アキは誰かが自分が世話をするべき誰かの世話をしないというケースをことごとく憎悪し、「自分はそんな人間ではない」というところから行動を始めます。そのような行動は一般常識にとらわれない勇敢なもので、一見すると彼を自律的に見せます。しかし、判断を通さなかった行動は自律的であるというより反射的なのです。例えばすでに見たアキの岳志に対する糾弾は、実際は結論ありきの、アレルゲンに対するアレルギー的な反応であることは否めませんでした。アキが岳志を責めることにも一定の説得力はあったのですが、初めから情状酌量の余地を与えず、(アキ自身も、目の前の相手と同じ困難に常に巻き込まれている、というところを棚上げにしつつ)断罪するというのは本当に自律的といえるのかどうか。目の前にいる相手は両親ではないのだから、そこで両親を悪い見本として呼び出す必要性は本来ありません。それにもかかわらず目の前の相手に両親の面影を何としてでも見つけ出し攻撃しようとするならば、その行動は何よりも自分の両親を基準としたものではないでしょうか。

 しかしながら、自分の経験によって深く刻みつけられた不快さや憎しみによって、世の出来事に対してある程度反射的な行動が呼び起こされること、これは仕方のないことだとも思います(そしてそれは様々な経験をするたびに、つまり年を取るごとにますます頻繁に起こってきます)。だからこそ、何かわかりやすい命題を行動指針として掲げるのではなくて、自分が意図していたことと自分がしたことを随時照らし直し、必要なら修正し規則を再発明することが必要になってくるように思われるのです。この物語で、どのようにアキの転回が行われたかは後に見ていきます。

 

救済対象に依存する救済者

 次はBについてです。

 すでに見たように、アキは自分を捨てた両親に復讐するかのように、自分が世話をするべき誰かの世話をしない者を糾弾してきました。しかしもちろんそれだけではなく、見捨てられた者を家に招き入れ、手厚く世話をしてきました。こうした善行も含めて、「闇」と名指されなければならないのはなぜでしょうか。

 実のところ、こうした救済への奔走は思考停止と共依存の状態を表しているからです。作中の言葉を使うならばそれは、「誰かに寄っかかったまま」(3/p. 136)の状態を意味しているのです。なぜなら、自分の生活上の判断を救済相手の都合に依存させており、相手にしてあげなければならないことが常に自分のしたいこととなるからです。これは相手にとって、また自分にとって最善な行動は何かを考える必要がないという意味でとても楽でしょう。

 しかし、この態度は大事にしたい人が一人のときはいいのですが、複数になった瞬間に困難に突き当たります。例えば、12話でえみるが熱を出したとき、当然のように付き添おうとしたアキは「かまわないで」と言われてしまいます。どうしたらいいかわからず、その場でうずくまる彼はこの時初めて、自分はどう行動すべきか考えることになります。

受け入れられないくせに
優しくしたいと思うのは 卑怯だ…

(3/p. 124)

ハルへの遠慮のため、えみるを受け入れることはできない。そして何より、えみる自身が必要ないと言っていることをすべきではない。単純に「一人にしたくない」→じゃあ世話しよう、という話ではないのです。彼が「卑怯だ」と思ったのは、自分の欲していたのは「優しくする(見捨てられた誰かの世話を焼く)」ことによる一時的な高揚であって、相手の要望に耳を傾け、付き従うことではなかったのだと気づいたからです。

 もう一つのよい例は、2巻の冒頭で「やっぱり実家に帰ります」と言い出したえみるへのアキの反応です。

アキ「ちょっと待って
なんでそうなんの?
ここで暮らすんじゃないの?

(略)もしかして
母親があの家に帰ってくんのを待つってこと…⁉

えみるちゃん わかってんの
その人は えみるちゃんを―――――……」

(2/p. 13)

自分が何としても彼女の世話を焼くために、彼女に対して「おまえは見捨てられた」と宣告しそうになる*1というこの事態を倒錯と呼ばずして、何を倒錯と呼びましょう。この時点では、こうした「卑怯さ」にアキ自身が気づくことなく場面が移ってしまうのですが、直後には「本人と祖父の意志」を最優先させたハルとの鋭い対比があります*2。だからこそこのシーンでは、アキの身勝手さ、いかに彼が救済対象たるえみるに依存しているかが際立っています。

 付け加えておくならば、このようなアキの救済対象への依存はえみるの場合に始まったものではなく、同じ児童養護施設での幼馴染である美紘との関係においても起こっていたことがほのめかされます。彼は仁藤家に引き取られて以降も、施設に残った美紘の近況に気を配り、連絡をしたり会いに行くことを欠かしませんでした。こうした気遣いは美紘にとって「重い」と感じられ、彼女は一時的にアキとの音信を断とうと考えるほどでした(2/p. 177ほか)。

 

 「闇に堕ちて行く」こと、野崎ななこの友達概念

 「闇」という言葉で表されているものの暗さは、依存的なものがもたらす悪影響のことだと読むなら、次のハルのかなり抽象的な台詞も理解する余地が出てきます。これは、ハルがえみるに手を出したのはなぜかということを、美紘に向かって語る場面のものです。

似た生い立ちを持つ2人
急速に近づいていくのがわかった
俺を置いて

2人が共に
闇に堕ちて行くんじゃないかと―――

思わず
手を伸ばしてしまったんだ

(3/pp. 131-132)

「闇に堕ちる」とは、距離をとらなければならないときにもそれができないこと、ひとりの人間として相手を尊重しないこと、相手の他の大事な人間を認めないことといった、共依存の最も極端な形を示唆しているのではないかと思われます。これが、最初に挙げたC.に相当するものです。

 この極端な関係は、作中では意外なところでも登場しています。それは野崎ななこという人物が行う、非常に重い「友達」の希求です。次のやり取りを参照しましょう。

えみる「………………友達がいたら
ほかは切り捨てなくちゃいけないの?

ほかにも大切な人がいたらいけないの?
それが友達っていうことなの?」

ななこ「少なくとも 私にとってはね」

えみる(……………… そうなのか)

えみる(難しいなぁ 友達って)

(2/pp. 130-131)

不思議な掛け合いといえます。「切り捨てる」という強い言葉を使い、修辞疑問文を駆使して、ななこの「友達」の概念が極端であることを指摘しているにもかかわらず、言われた彼女のほうは「自分にとってはそうだ」と悠然と肯定するのですから。そして、えみるのほうも素直に、もしかしたらそれが友達ということなのかもしれないといったんは受け入れている。

 しかし、この友達の概念は、後に登場する無名のクラスメイト達の言葉によってあっさりと上書きされてしまいます。

えみる「私は友達だけど
ずっと一緒にいたりはできなくて
ほかにも大切な人はいるから…」

女子1「当然じゃんそんなの」

えみる「え」

女子1「みんな家族とかいるんだしー」

女子2「彼氏はどーしても優先しちゃうしね」

えみる「い…いいの?」

女子「いいよー(なんで?)」

(2/p. 161)

このクラスメイト達の感覚からすれば、野崎ななこの友達概念は重すぎると感じられます。同様に、アキとえみるが「ずっと一緒にいる」ことになる、つまり「闇に堕ちる」のではないかというハルの危惧は、滑稽なほど大袈裟に思えてきます。実際、作中でもアキはえみると同時に美紘のことを気にかけていたのだから、えみるにのめり込むあまり他を切り捨てるといった事態は考えにくいとも思うのです*3

 

もう一人の依存者

 この「闇堕ち」への恐れは、むしろハル自身の、アキの二番目三番目に降格することへの恐怖、アキから見捨てられることへの恐怖と不可分なのではないかと思います。彼は数日経ってそれを自覚するに至っています。

価値ある者に頼られる者 という価値
相互依存

アキと俺は不可分で
それでいいとすら思っていたところに
あの子が現れた

(3/p. 131)

ハル「アキは とっくに一人で生きていけるのに
気づいてないふりをしてて
俺もそれに乗っかっていたんだよ」

(3/p. 132)

分店で生活していた二人のうち、生活上必要になる事柄の指揮を執るのは主にハルのほうでした(「俺はハルに恩を返そうといろいろしたけど しっかり者のハルに俺が甘えるほうが多かった/俺たちはその関係のほうが心地よかった」(3/p. 85)というアキの言葉から推察できる限りでは)。しかし、そうやってアキの世話を焼くことが、ハルの誇りでもあったのでしょう。先の引用に「気づいてるのは俺くらいだろうけど」という言葉がありましたが、ここに現れる、「あいつのことは自分がよく知っているのだ」という自負は、ハル自身にもその周囲にも鼻につかないほどさりげなく根を張っていたのです。

 ハルは、この自覚とともに「俺たちはもう 互いに自立しなけりゃいけないんだ」(3/p. 134)と決断します。しかし、決断しただけでは何も変わりません。面倒くさいことを言うと、依存しまいとする態度に依存することもあり得るのです。今回の初めでみたように、「ああはなるまい」という頑なな思いがその反面教師の亡霊を呼び出してしまうように、単に「一人になろう」、誰かから離れようと思えば自立的になるわけではないのです。

 

「うれしさ」の追求という自立性

 ここで思い出していただきたいのは、前回の記事でこう書いたことです。

そのうれしさを記憶し続けていることが、彼女が「人間ぎらい」には与しない理由なのです。誰かと知り合い、時間をかけて関係を育み、簡単には捨てられないようなしがらみに入ること、そのほとんどは息苦しいものであっても、稀には「うれしさ」があるということ。そのうれしさは、何らかの苦痛と差し引きされるものではなく、うれしさはうれしさであるということ。それを強く信じる彼女は、自らの手で幸せを獲得できる女性の理想形であるようにも思えてきます。このように、自分のことは自分自身で吟味し注意深く考える彼女は、まさにこの物語の主人公を張るにふさわしい人物でしょう。

『ラストノーツ』2巻について - hesperas

 関係の中には、絶対に否定することのできない「うれしさ」がある、というのがえみるの揺るがない信念です。1巻時点ではまだ「一人で生きていかなければ」ということにこだわっていたのですが、彼女は一度こっそりと分店を去ったところで、結局またアキのやさしさに絆されるのです。

見すかされて

でも
うれしくて…

そっとつないでるだけの手なのに
ふりほどけなかった

この手は私を弱くする

(1/pp. 172-173、強調は引用者)

彼女がアキの手を振りほどけないのは、彼女が弱いというよりも、この「うれしさ」が「一人で生きられない=弱い」という考えとは比較できない形で強力だからです。こうしたものが生じることには理由がないので、論駁しようと思っても無駄なことです。だからえみるにできることは、その嬉しさを一度認めたうえで、それでも自分は一度実家に戻るべきだ、と考えることでした。

 このうれしさの逃れ難さは、人間がどうしても住居を定め、「ここ」で生きていくしかないということとも似ています。もちろん遊牧的な(実在の遊牧民族の、という意味ではなくて)生活をしている人もいるかもしれませんが、結局私は古い人間かつ豊かでない出自であるからか、そうした暮らしにも何らかのパトロンや強力な実家といった「隠れた不動産」を想像してしまいます。私たちは何かを所有することでその所有対象を気にかけざるを得ない、その所有するものとの関係から養分を備給され、それを喜ばざるを得ないのです。

 この、関係のうちにある「うれしさ」をしっかり記憶し、それは決してなかったことにはならないのだということも理解し、「じゃあそのうれしさを追求するにはどうすればいいのだろうか」という問題意識こそ、この作品を貫く背骨であり、自立性なのだと思います。「うれしさ」と「ここ」の逃れ難さがそのまま、どんな状況にあっても揺るがない永久機関となるのです。これは常に人間関係を改善するように自分自身を駆り立てます。たとえ人物が依存的になり、あるいは自分で考えるのをやめたときも、この「うれしさ」を振りほどくことはできず、その追求も完全には終わることがありません。作中でのどんな別離も争いも、言ってしまえばこの追求の一様態でしかないのです。「いらない人間関係を切り捨てる」のも、「友達とは何か」と問いかけるのも、「自分がいなければこの二人は穏やかな関係を続けられたのに」と思って家を出たいと思うことも。

 ただ、この追求は単に考えることだけでは独りよがりになってしまいがちなのです。祖父は自分に無関心だと思い込んでいたり、反魂香の情報と取引でなければ居候させてもらえないと考えていた1巻時点でのえみるのように。これは追求していたはずのものを見失い、忘れてしまうことなのですが、それを防ぐには何が必要なのでしょうか。

 

「関係への意志」を可視化すること

 自分が、なんらかのよい関係を人と作ろうと思っているということを忘れないために必要なのは、自分や他人の目に映ることができる物理的な実践、もしくはその結果です。実際、えみる、アキ、ハルの三者が、円満な形で別の場所での生活を選べたのは、アキは調理という実践を通して、ハルは各々への告白を通して、痛い思いや苦しい思いをしてでもよい関係を作りたいと思っていることを証明したからなのです。

 「自立しなきゃいけない」というハルの言葉を聞いた後で、アキが考えた末にとった行動が料理だったというのはとりわけ重要です。それは、自炊できることが自立の証だからとか基礎条件だから、というわけではありません。彼は、ハルとのこれからの関係をどうすべきかについての真理を語る者とならなくてはいけないからです。つまりは、その望ましい関係をただ描写するだけではなくて、目に見える形にしていくこと、自らの生のうちにその理想を組み込んでいくことが必要になるからです。分店に残る、一人で生活し高校を卒業する、その後は実家に戻る、というこれからの計画にハルが納得するのは、その計画と、アキの手の怪我(料理で負ったもの)がある種の一致をみるからです。

 もう一人である依存者であるハルは、すでにみたように美紘に対して、アキとの今までの関係が相互依存で成り立っていたことを告白します。その前には、えみるに対して望みのない愛の告白をし、断られた後で次のように語っていました。

ハル「でも
3人でいるときのあの空気
あれをなんとかしたくってさ」

(3/p. 106)

この台詞の後にハルがえみるに贈るブローチは、えみるを自分のものにしようという混乱した希望との決別の証であるとともに、彼女との関係が恋人同士であろうとそうでなかろうと、アキも含めて良好な関係を築いていきたいという友好の証なのです。彼の関係への意志も、ひとつの物体として形を持っています。物品購入のための金銭を用意し、調達の手続きを行うという実践が、ハル以外の人にとってはその意思そのものと見なされることになります。だから、皆が彼の言うことは本当だと認めるのです。

 こうした可視化が、人と相互に認め合うことの「うれしさ」を思い出し、自分と相手が、互いに嬉しいと思える関係を作っていくつもりがあると確認し合うための最も有効な手立てなのです。例えば、えみるは祖父との一つ一つの思い出を証拠に「祖父は自分のことなんてどうでもよかったのだ」と思いかけていました。しかし彼女を考え直させたもの、「行き違い」を改善したものの一つは、彼女のために遺された退職金と最上級の香木であり、それによって一千万以上の預金額が記された通帳だったのでした(1/p. 177)。

 「大切なものは目に見えない」と誰かは言いますが、確かにそうでしょう。人に優しくされるうれしさも、自分と相手が互いに嬉しいと思える関係を作っていくつもりがあるということ、すなわち関係への意志もそれ自体で目に見えるものではありません。しかし、その「大切なこと」を自分以外の誰かにわかってもらいたいがために、私たちは目に見えるものを利用するのです。うれしさを認めた上で人と関係をすることは、「素朴な気持ちを信じて行動すれば大丈夫」という態度に要約はされないことに気を付ける必要があります。そこには可視化の技術が介在するのです。

 

 

 今回は色々と詰め込みすぎて、全体的に何がしたいのか自分でもよくわからなくなってきています。ただ、前回から今回にかけて、作品の中に「関係への意志」の強靭さを確認できたことは、自分にとってよかったと思います。

 この素朴な心情を取るに足らないとみなすことは簡単ですし、正直全くコミュニカティブでない自分が、そのようなふわふわした概念を持ち出すことへの居心地悪さも未だあります。しかし、『ラストノーツ』のような少女漫画を、あるいは「女性向け漫画」というジャンルの作品を読んでいくと、嫌でもそのような関係への意志を感じるのです。不合理で、矛盾しており、限りなく愚かであるかのような人々の行動は、「誰かとやさしくし合い、相互に認め合えるようなよりよい関係を築きたい」という観点からすると、かえって筋が通っているのかもしれないと思うときがあるのです。それは既存のモラルを参照して従ったり踏みにじったりするだけではなく、個別具体的な関係にふさわしいような行動の方針を新たに発明する生き方なのではないかと考えています*4。ただ今までの記事で見たように、「(よりよい)関係への意志」といっても諍いや緊張を生まないというわけではないし、字面よりは行儀のよいものではなく、手の付けられない凶暴さでもあると思うのですが、それはまた別の作品で見ていくことになると思います。

 蛇足ですが、怪しげな自己啓発のにおいをこの作品感想の節々に感じた方もいると思います。安心してほしいのですが、私はある程度わざとやっています。作品の雰囲気に身を任せていたらそうなってしまった、というところも多くあるのですが。自己啓発系とある種の漫画の近さは、『タビと道づれ』を扱った過去の記事、そしてその元ネタである斎藤環の著作でも指摘していたところで、今回はそれに関して何か新しく自己啓発論的に語る余裕はありませんでした。ただ、こうした私の挑発に乗って、自己啓発とある種の漫画の内容について、ずっと精緻な比較研究に取り組んでくれる方が現れたらいいなと思っています(すでにいる場合は、より数が増えてほしい)。

 

*1:ネガティブな想定を自分でそうだと思うのと、他人からはっきり言われるのとでは重みがまったく違うと私は考えます。それは自虐と罵倒の差異でもありますから。

*2:>ハル「アキ!

どう生きていくかはえみるちゃんの自由だ
それがじいさんの遺言だったろ」

ハル「えみるちゃん 通帳の金額見たよね
当面どこでだって暮らせる金はある
一人暮らししたければ身元保証人をつけることもできるよ

勿論ここで暮らしてくれるなら
俺たちも嬉しいけど(虫退治してもらえるし…)

決めるのはえみるちゃんだ」(2/p. 14)

*3:「アキさんを切り捨てる日なんて来ない」

「受け入れてもらえないからって 気持ち消せるのか」といった、彼女の思いはあるにしても。

*4:「関係への意志」という言葉は、西研の著したヘーゲル入門書から着想を得ました。彼のヘーゲル論には、今回私が書こうとしたこととの興味深い符合があります。
>「第一に、ヘーゲルが、真実の良心(真実の道徳性)というものを、共同体へのルールへの忠誠でもなんらかの理念への忠誠でもなく、共同性への意志であると考えていること。〈共同的な存在であろうとする意志こそが、あらゆる正義やルールやモラルの根底にある〉。そういう思想がここにはある」西研ヘーゲル・大人のなり方』日本放送出版協会, 1995, pp. 185-186.