永遠の片想い―『タビと道づれ』ニシムラについて

 この続きです。 

今回主に語るのは街の警官ニシムラについてです。この順番でいいのか分かりませんが、とりあえず進めていきましょう。

青春に参画できなかった「その他大勢」

 彼もまた、カノコに負けず劣らずいろいろと拗らせている人間です。しかし彼は地元と東京の間の板挟みに苦しんでいるのではなく、恋愛の成就というまさにロマン主義の十八番である舞台で苦しむことになります。その意味では、こちらのほうがややわかりやすく多くの人の共感を呼ぶようにも思います。

 彼の信念は次の一言に凝縮されています。

ずっと願ってきた

ずっと思ってきた

僕のいない世界は
なんてキレイなんだろうって

(4/p. 116)

彼の信念は「自分がそこに存在しない(忘れられている)世界こそが美しい」というものです。彼は、クラスでも部活でも存在感の薄い「その他大勢」として学生時代を終えました。もちろん、クラスメイトとの甘い初恋などとは無縁でした。フィクションの世界にあるような「青春」が目の前で繰り広げられているのを、観客席で眺め、時々拍手を送ったり野次を飛ばしたりするだけ、それが学生時代の彼でした*1

 親友と呼べるほどの知り合いもなく「僕はこの世界にちゃんと存在しているのだろうか」と、ユキタにも似た宙づりの感覚を覚えながらも、彼は卒業後警察官になるという目標を掲げ達成します。そのきっかけは、部活のランニング中、当時小学二年生だったツキコと出会ったことでした。ニシムラは彼女が同級生男子からいじめられているのを見かけ、それ以降、彼女がいじめられないように見張ることになったのです。

 警察官となった後、彼は高校生のツキコが航一と連れ添って歩いているところを見かけます。そこで彼は、自分はツキコを恋愛対象として見ていたこと、「守りたい」という思いがいつの間にか恋愛感情にすり替わっていたこと、そしてその恋は望みが薄いものであること、これらを一気に了解することになるのでした。

 それからのニシムラは「ただ見ること」によってツキコと航一の世界を輝かせ、その物語の鑑賞者に徹することとなります。あるいは、暗色の警官服を着た黒子として、彼らのキレイな世界を永遠に保全する守り手となることを誓うのです。ニシムラが、緒道の街の時間を進めようとするユキタ達と敵対することになるのは必然でした。時間が進んでしまえば、その晩に起こる土砂崩れによって航一は死亡し、彼の「キレイな世界」は崩壊してしまうからです。

 

 永遠の片想い

「見て タビ君
僕はこの光景を交番からいつも見ていたんだ

赤信号が大きな夕焼けになって
この世界に「止まれ」って言ってるみたいじゃない?

「ずっとここに留まれ」そう言われてる気がした…
「平凡な毎日を続けろ」それが僕の仕事だぞって」

(4/pp. 21-22)

 この赤信号の比喩が示す通り、見ることによって行動以前に留まり、決して時間を先には進めないことがニシムラの生き様と言えるのです。それは永遠の片想いに留まることであり、過酷さも甘美さも備えた場所であると言えます。

 まず過酷な点からいうと、彼は、ツキコからは恋愛の対象としてはまったく必要とされていません。すると、それは彼が世界から必要とされていないこと、存在を認められていないこととほとんどイコールになってしまうのです。それでも彼が存在してよい場合とは、自分がそこに入る余地はないキレイな世界に憧れ、それを祝福するという使命を受け持っている場合なのです。だからツキコに必要とされないことをわかっていても、彼女の美しい横顔を視界から消すことができない。見ることをやめられない。憧れなければ、本当に何もなくなってしまうからです。

 しかし、ここで突っ込みが入るかもしれません。必要とされないとは言うが、実際彼はいち警官として、街に必要な存在とは認められているじゃないか、と。けれども残念ながら、彼にとって自分の仕事は「自分が必要とされている」という実感を与えるものではないのです。彼にとって「世界から必要とされている」ということの意味は、自分が素晴らしいと思うたった一人の異性に、かけがえのない存在として必要とされること、それに尽きるのです。

あの日
君が見つけてくれた僕を

結局 僕自身が
いらないものにしてしまった

(4/p. 139)

彼はたしかに「おまわりさん」になりたかった。しかし、彼はなにも警察官一般になりたかったのではなくて、「ツキコ(だけ)の」おまわりさんになりたかったのです(このいっそ清々しいほど気持ちの悪い表現にもしばし耐えてください)。すると、彼のなりたかった「おまわりさん」というのはどう間違っても職業ではないのです。「ツキコ(だけ)の」という部分が重要だったのであれば、彼女のおまわりさんになることを望むのは、ほとんど彼女と恋人同士になることを望んでいるのと同じです。この意味では、彼は進路において挫折していると言えます。単なる就職は、彼の実存を救うことはできなかったのです。「警察官である自分」は、彼にとって単に「いらないもの」です。

 次に、この片想いの甘美な点、あけすけに言ってしまえばメリットを言ってみるなら、それは世界から必要とされている喜びもない代わりに、決定的な拒絶にも出会わないということです。

 前回の記事を読んだ方ならお気づきのように、ここには、まだオーディションの結果を突き付けられずにいるユキタとの相似がありますが、ニシムラのほうははっきり確かめるための行動(いわゆる愛の告白)を差し控えています。だから彼はまだ夢から完全には醒めていないといえるのです。すでに目覚めかけているのに、寝床から見える霞んだ視界を夢だと思い込もうとしている、醒めるか醒めないかの境界をさまようまどろみの中にいるのです。

「穏やかで幸せな同じ一日がずっと繰り返すんだ
僕の片想いも
君のオーディション結果も保留のまま

希望のあるまま…
まだ夢のままの中空に………

この場所なら
からっぽの底にたどり着く手前で…
とどまることができるんだ……」

(5/p. 150) 

これが、ループする時間、成長や発展を前提しない時間、災厄にせよ救済にせよ、決定的に新しいものは到来しない時間と同期する、彼の精神であるといえます。

 街の中でどんな破綻や抗争があろうと次の日にはリセットされるように(そして、セキモリの力で排除された存在も、死ぬことはなく街のどこかに転送されるだけであるように)、この時間のうちではすべてがゲームにすぎず、なにも決定的ではないのです。もしかしたら希望があるかもしれないと思いながら、次の瞬間にはむなしくそれを否定する。宙吊りのまま、たまに振り子運動をしてみせるニシムラは、あくまで夢にとどまることができます。それがかなわないとわかるとき、決定的な拒絶のときは訪れないからです。

「叶わないってわかるまでの時間こそが夢そのものなんだよ」

(5/p. 45)

 美しい「いつか」は自分の背後にあり、すでに通過した、美化された永遠の過去に存するのです。これは、航一に忘れられていたことに絶望するタビが「「いつか」はあの頃(過去)だったのではないか」(3/p. 20)と回想することに通じます。このループする時間、宙吊りにされた時間の中に生きる人は、誰もが絶望の淵で思い出を噛みしめ恍惚に浸っているのかもしれません。

  「叶わないってわかるまでの時間こそが夢そのもの」という、警句めいた断定的な台詞は、あるレトリックを呼び出しもします。ユキタの指摘した通り(「ニシムラさんがこだわってるのは目を瞑って見る夢のほうだよ」)、彼はそこに向かって努力すべき目標としての夢を、眠りの中で不随意に生じる幻としての夢に一息で読み替えるのです。この「夢」の多義性を最大限に活用することで、ニシムラはある意味、ユキタとは違った夢の次元を開いているのです。

 

カノコによる批判と星座の隠喩

 こうしたニシムラの片想いは、街のループを支える思想的(?)基盤と言っていいもので、これを何とか打ち砕かなければ、緒道に本当の意味で明日が来ることはありません。ニシムラの真意にいち早く気づいて打撃を与えようとしたのは、カノコその人でした。彼女は、関わりたい人に積極的に関わること(作中の言い回しを使えば「手を伸ばす(差し出す)こと」)の差し控えも不可避的に誰かを巻き込み、不調和を生み出すという批判を展開するのです。

 ニシムラの願いは、永遠に美しい世界をただ一人で見ていたいという、一見ささやかでつつましいものに思えます。しかしながら、この「永遠に美しい」を維持するためには、結局ただ見ているだけでは足りない場合があります。その世界に変化を生じさせようとする数々の脅威を退ける必要があるからです。それも、決して波風を立てないように、舞台に上がることがないように。まさにその通り、ニシムラは街のループが開始した直後から、他のセキモリたちを街の謎に近づけないように暗躍していました*2。彼は自分が入れないはずの美しい世界に、黒子として最初から踏み込んでいたのです。この場合、彼の「自分がいない世界」という前提はすでに崩れていたことになります。

「気付いとらんのかね
おまわりさん

おまわりさんは
一人でいい 一人でいい言いよるのに
結局はうちらを自分の願いに巻きこんどる…

人はこの世界で一人の力だけで生きとるんじゃない

誰かと 何かとつながることで
この世界に生かされとるんよ」

(5/p. 86)

 つまり世界というのは、関わらないでいればそのままであるような対象ではなく、関わることの差し控えや拒絶によってすらも互いに影響し合ってしまう、自分がすでにつながれているネットワークのことなのです。

「誰とも 何とも
手をつなごうとせなんだら(略)

おまわりさんが今必死に守ろうとしとる夢も
自分自身の手でからっぽにしてしまうんよ?」

 (5/p. 88)

カノコの批判は、「人間は一人で生きているわけではない」という前提に基づいています。しかし、いかにも教師が生徒に送りそうな定番の台詞、年長者が子供に語って聞かせるようなクリシェが、ここでベタに繰り返されているだけだとしたら、白々しいにもほどがあります。そのような説教は、この街ではなおさら力を持ちえないはずです。前回の記事の註で指摘した通り、この作品の大人の描写自体にセキモリたちが感ずる不信が刻み込まれており、緒道の街からは、親以上の世代からのポジティヴな影響力が徹底的に排除されてしまっているからです。

 それでもこの言葉がカノコやほかのセキモリたちに対して説得力を持ちえるのは、「人間のネットワークとしての星座」という、作品全体を貫く比喩に支えられているからです。この比喩は、航一、そしてツキコを通じてセキモリたちに共有されたものです。

「ねぇ おまわりさん
人と星座は似てるんですよ

星座は星と星を結んだ形がお話になるでしょう

人間も同じ…
人と人が手をつないで 初めて物語が始まるんです
だから この世界にはいてもいなくてもいい人なんていないんですよ」

(5/p. 123、下線は引用者)

ただ、前半はともかくとして、この「だから」の前後には無限の飛躍があります。「世界にはいてもいなくてもいい人なんていない」という言葉は航一は言っていませんし、ツキコが勝手に付け加えたのかもしれません。ニシムラは当然、この聞こえのいい言葉にすぐさま同意することなどありませんでした。彼の片想いは10年以上かけて熟成されたもので、その間に思い込まれたことというのはなかなか崩れません。この点、二言三言であっさり転向することのできたカノコとは異なっています。ニシムラは彼女よりずっと頑固なのです。

 

もてない男の切実な叫び

 物語開始からさかのぼって数年前、ツキコは上の引用の通り「いてもいなくてもいい人間なんていない」とニシムラに諭していました。しかし、もしそこで彼女が「じゃあ君が自分を必要として手を伸ばしてくれるのか」と言われたら、答えは必ずしもイエスではないわけです(恋愛的な意味では特に)*3。卑近な例で大変申し訳ないのですが、「恋人いそうなのに」「あなたならきっといい人が見つかる」と真剣に考えて言ってくれる人というのがいたとして、「そんなこと言うなら君が付き合ってほしい」と返せば色よい返事が返ってくると果たして思われるでしょうか。一般論ではなくて、誰しも自分のこととなれば話は別なのです。資源の限られた砂漠で、飢え渇いた人に同情の言葉をかけることができる人はいくらでもいても、相手のために実際に水筒の蓋を開くことができる人、食べかけの食料を口から引き剥がして差し出せる人はごく限られているのです。

 ニシムラが、「ニシムラさんはずっとわたしのおまわりさんですよ」(でも恋人になるつもりはありません)という形でツキコから「手を伸ばされた」とき(2/p. 137)、それは手を伸ばしつつも、それから紡がれる物語に禁止事項を取り付けていることなのではないかとニシムラは思ったでしょう。するとその禁止事項を破るつもりなら、伸ばした手は撥ねのけられ、それで物語は一段落ということでしょうか。そのような状況を「自分がいてほしいと思われている」というよりは「いてもいいが、場合によってはいないほうがいいと思われている」と捉えるのは、事を慎重に考えることではあったでしょう。

 手を伸ばし、つながり、物語を紡ぐということがあるとしても、それがどんな物語であるかを自由に選べるわけではない。それがニシムラにとって最大の不満だったわけです。ある物語の中で自分が必要とされていると思えるとき、その物語は「恋愛物語」でなければならない。これが、かつて青春に参画できなかった彼の拘りなのですから。

君は僕の手なんか必要としていない
そんな君と永遠に手をつなげない僕は
お話にもならない

(5/p. 127)

言い換えるなら、彼にとって「不本意なつながりは物語ですらない」のです。実は、これはニシムラに限らず作品全体に通底する但し書きでもあります。例えば緒道の街は田舎町とされているのに、そういった街にありがちな、地元の人間との不本意なつながりはそもそも描かれないか、除去さるべきノイズです。具体的には近所のよくわからない老人につかまって長話を聞かされるとか、形骸化して世間話の場と化している町内会の行事等々*4。例の星座のたとえで言い換えてみるなら、より望まれた星同士が物語を作り、それ以外の星はどれだけ近くにあっても物語の背景に溶けて見えなくなるのです。

 語るに値するような物語はなく、見渡す限り不本意なつながりだけがある。そんな不毛な毎日にうんざりしていた彼が、もう手を伸ばすことすら億劫になったとしても不思議はないと私は思います。実際、彼は最後まで手を伸ばすのではなくただ見ることに徹しました。前述の通り、ツキコが航一の死に直面し心の支えを失った瞬間でさえも。その選択により、航一は死の直前に呼び戻され、街の時間は停滞した……これはユキタが言うように「逃げること」でしょうか。永遠の片想いの苦悩を見てきた私にはそう単純に断言できないところはあります。

「…ただ 遠くから見てるのが楽だって⁉

それがどんなに苦しいか……‼

毎日毎日 自分が必要とされていないことを確認して…
それでも…いくら傷ついてもやめるわけにはいかなくて!」

(5/p. 161)

が、彼は放心状態のツキコのために時間を割き、「座る場所」*5となり、糧となるものを与え養うことをすぐに決意できる人間ではなかったのは確かです。彼はできる限り観客でいたかったのです(舞台に上がることのできない観客なりの苦悩はあったとしても)。先にみたように、極限状態では誰しも「自分のこととなれば話は別」であり、それはニシムラも例外ではありませんでした。もてない男の切実な叫びは、追い詰められたツキコの金切り声*6として自らに跳ね返ってきたのですが、ニシムラは自分が応答してほしかったようにはその声に応答しませんでした。「君にはきっと運命的な相手がいる(が、それは僕ではないので手を伸ばされても困る)」と繰り返すだけでした。

「選ぶはずない! 彼女が僕を望む訳ない!」

(5/p. 161)

「…だから 本当にそういう関係じゃないから

ツキコちゃんにはちゃんとした人がいるんだから」

(2/p. 123)

 彼はツキコの横顔は美しいと思った。しかし彼女の体重を引き受けたくはなかったのです。その意味では彼は彼女を必要としていなかった。彼が彼女に手を伸ばしたことなど一度もなかった。お互いがお互いを必要としていなかったのだから、確かにこの二人の間に恋愛物語が生まれることなどあるはずもないのでしょう。

 

不本意で居心地の悪いつながり」の威力

 では、作中でニシムラは例の星座=人間関係という図式をどうして認めることになったのでしょうか。それは、彼が特に思い入れもなく、なんとなく言ってみただけの言葉が、意図せずしてユキタの夢を強力に後押ししたと判明したからでした。ニシムラが語るに値しない物語だと思っていたものが、確かな感触をもって自分のもとに浮かび上がってきたのです。

 ニシムラは、ユキタの舞台俳優という夢など叶うわけがないと内心では思っていました(「…ユキタ君を見てるとイライラしたよ/僕と同じ…本当は暗闇の客席にいる人間なのに 自分が舞台の上で光輝ける人間だと思ってる……」(5/p. 162))。誰しもこの作品を読み返せば、ユキタから将来についての相談を受けた彼が「いいんじゃない?」と励ますシーン(3/p. 126-)の中に、「どうでもいいんじゃない」という投げやりな態度を読み取ることができます。すでに自分の夢において挫折した彼には、夢を追うことに関するどんな親身な言葉も出てくることなく、誰かの受け売りを繰り出すほかないのかもしれません。そして、カノコが「道づれ」を望むように、夢破れた人としての傷の舐め合いを期待するほかないのかもしれません。しかし、そんな同族嫌悪に先取られた励ましであっても、一つの物語を駆動することがあるのです。その物語においては、どんな白々しい言葉であろうと、欠かすことのできない台詞なのです。

「俺 あのときの言葉
嬉しかったんだよ
だから頑張ろうと思ったんだよ

ニシムラさんが
嘘だったって言っても…
たとえ嘘でも

あの時の言葉が嬉しくて
俺の力になったのは本当だから」

(5/p. 170)

 決してキレイなつながり(つまり、相思相愛や心からの協力関係)ではない、不本意で居心地の悪いつながり、ぞんざいで気怠いコミュニケーションからであっても物語は生じていたと気づいたこと、その物語の質量をユキタの拳の一撃によって思い知らされたということ、これがニシムラにとっては一つの救いでした。これは恋愛物語の成就による救いではなく、単なる友情の効果でもありません。

「僕を 本当に必要としてくれる人が
こんなにも身近にいた

僕も
星の端くれだったのか」

(5/p. 175)

仰向けに倒れ、上記の台詞とともに涙するニシムラの表情には、決定的に新しい脱力と日常(身近なもの)の再肯定があります。とはいえ、自分がその登場人物となる物語の中身が選べるようになったわけではないので、ニシムラの根本的な不満は解消されていないかもしれません。しかし、自分が思うよりもずっと多くの物語が、実はすでに生まれているのではないか、それは災厄として襲い掛かるものかもしれないが(航一を巻き込んだ土砂崩れのように)、覚えのない感謝や承認としても、無視できない質量を伴ってもたらされるのではないか。そうした淡い信念を彼に取り戻させたのです。

 この作品が後の時代の作品に引き継いだものが、恋情でも友情でもないこの脱力と贈与の可能性であることは銘記されなければなりません。私が思うに、このシーンこそ作品のクライマックスであり、ここで緒道の街の運命は決まったのです。私はそれ以降に起こることが単なる蛇足だとは思いませんが、先が読めない感じは消え、克服すべきものは克服され、伏線の整理に徹していったという印象を持っています。

 

 

 あと数名の主要人物が残っているのですが、ひとまずニシムラについてはここまでとなりそうです。今回重要と思われたのは、ニシムラのある種の(引きこもり的)脳内恋愛至上主義に対し、前述の「人間関係=星座」論が対置されたということです。後者によれば、私たちは、関わることの差し控えや拒絶によってすらも互いに影響し合ってしまうネットワークにつながれています。ともすれば古臭くなりがちなこのテーゼが、年長者の説教によってではなく、セキモリ(=若者)たちだけの街の中で気づかれていく。この作品が単に青臭い青春ものではなく、かといって地元と日常を賛美し居直る作品とも言い切れないのは、この舞台と結末との乖離のためなのではないかと思えてきたところです。

 もう一つ、この作品のメタなレベルには、時間というテーマがあることも見えてきたのではないでしょうか。第一に、「永遠の片想い」と「緒道の街のループ」は、「災厄にせよ救済にせよ、決定的に新しいものは到来しない時間」的です。第二に、ニシムラの片想いに何らかの決着がつくため、つまり緒道の街に明日が来るために必要だったのが「決定的に新しいものを肯定する時間」的なものだといえます(第一と第二が矛盾する関係にある、というのではありません)。これについても、次回またまとめなおす予定です。

*1:しかし、「自分はそのキレイな世界には入っていけない」と思いながらも、「いつの日か自分も」というやさぐれた野望を持っていたことを彼はのちのち認めるでしょう。彼は結局、当時圧倒的に立場の弱かったツキコを助け「彼女のおまわりさん」となることを経由して、彼女との恋愛物語の主役を張ろうとしていたのですから。

 彼のように「自分はリア充ではない」というポーズを取ることは、ヘゲモニックな男性性に親和的ではないということを全く意味しないのです。この点は近年の「オタク」の恋愛に対するスタンスを見ていくことで、より鮮明にすることができるかもしれません。また私は全面的に同意するわけではないですが、この点は宇野常寛氏が最も厳しい批判を投げかけてきた点でもあります。

*2:自分は無害であると称しながら、街の時間を動かしたい人、街の外に出たい人が自滅するように策を練る……彼のやっていることは善か悪か、と問うことに私の興味はありませんが、少なくとも彼は「人が欲している情報を、そうと分かっていて与えない(もしくはミスリードする)」「単純に嘘をつく」ことを数えきれないほどやってきたのは確かです。

 あと、街のループを維持するためにしたことではないですが、彼はツキコの家庭の事情等かなり個人的な情報をストーキングによって調べ上げていました(6/p. 53)。職権を濫用したとか悪用するためとかではないにせよ、これはやられて気持ちのいいものではないですね。だからツキコがそんなニシムラに対して「気持ち悪い」と言い切ったのちに目立ったロマンスも描写されないのは、ごく単純に読んでもまっとうな流れなのです。

*3:といっても彼女は別に航一に多くを負っているわけでもありません。影響は受けていますが。航一が、一人の人間にのみ特別に依存されるということは考えにくい事態です(その根拠については後の記事に回します)。

*4:しかし厳密にいうなら、唯一「すれ違う時に相手を無視できない小道」への肯定的な描写が見られます(2/p. 154)。ただ、これは物語といえるのかどうか(この時すれ違ったおじいさんが再登場することはありませんでした)。

*5:6巻32話を参照してください。

*6:ですが、このときの彼女がニシムラに助けを求めていたのか私は疑問に思っています。詳しくは次回。