「この街には何もない」ということ―『タビと道づれ』から

 いつもの通り自分語りから始めますと、私は都市らしい都市までは確実に一時間半ほどは要する中途半端な郊外の出身であり、今もそこに住んでおります。この街はなにか全国区の名物を有しており、休日のたび観光客がせっせと足を運ぶ……などということはほとんどありません。この町の(というよりこの町を内包するより広域な自治体の)人間は口癖のように頻繁に「ここは何もないからなあ」とぼやきます。もちろん、長らく私もその一人です。

 今回はこの「この街には何もない」という、ありふれていながらかなり不可解な言い回しの周辺事情を、具体的な作品の協力を得ながら文字にしていくこととします。

 

タビと道づれ 

  この作品は、「緒道」という架空の町(広島県尾道市がモデル)で展開されます。私の出生地と比べて断然全国的に名のあるところですし、実際私が出かけた時もとてもいい雰囲気でしたが、そういった観光者の感触はここでは忘れましょう。ともかくこの緒道は、はるか遠くの東京と対照される地方の小さな町とされています。

 この物語は、ある時からこの街が同じ一日を繰り返し続け、街からの脱出も不可能という状態に陥ったところから始まります。この物語の概要について、Wikipediaでは「謎を解こうと足掻く登場人物・とりわけ主人公の成長を描いている」とありますが、議論を進めるにあたって成長といわれても漠然としていて困ってしまうので、この物語では「夢を持つ人間と、夢を持つことが不可能な人間の交感」こそが描かれているのだととりあえず言っておきましょう。重要語は、作中で頻出する「夢」あるいは「現実」なのです。

 

「何もないなぁ この街には」

 まずは彼から始めるのがいいでしょう。街の謎の解決(とりわけ街の外への脱出)を強く望むのは主要人物のユキタという少年です。彼は上京し舞台俳優を目指すという夢を持っているのですが、街を出ることを決意し、東京へ向かおうとした矢先にこの街の空間的・時間的ループに囚われてしまったのでした。

 そもそも、彼がどうして街を出ることを望むようになったのか。それは、この街で過ごすことに息苦しさを覚えていたからでした。今までの彼の鬱屈は「叫びをあげられない息苦しさ」として表現されます(3/p. 129)*1。具体的には、若者がとりあえず勉強をし、義務教育から高校へ、高校から大学へとそろいもそろって進学することへの違和が彼のうちでは燻っているのです。また、「自分がいてもいなくても関係なく世界は続いていく」「暗闇の中で、自分がどこにいるのかすらわからない」という感覚に襲われるとも彼は言っています。彼は、こうした自身の身体感覚を十分に踏まえ、だからこそ舞台俳優になりたいのだと主張します。なぜなら舞台俳優は、舞台上で思う存分に声を張り上げることができ、そして自分の声によって自分がここにいることを認めてもらえるからだと。

 こうした、夢見がちな若者のユキタに彼の母親がかける言葉はきわめて冷淡なものです。第一に、自分を試したいなら他の子と同じように試せばいい、という返答。第二に、ただ叫んだとしても無駄なことだ、という返答。つまり、今まで学校や街の中ですでに叫びをあげてきたのに、それにポジティヴな反応が返ってきたことなどなかっただろう、ということです。状況に合わせる柔軟さに欠け、この街に適応しないユキタがユキタ自身の肩身を狭くしているのだと彼の母親は述べ、彼の夢を切って捨てています。

 一度は、こうした周囲の反対にあって夢を諦めかけたユキタですが、知り合った地元の警官ニシムラの言葉に触発され、自分が叫んでもいい場所を一生かけて探そうと決心します。彼は高3の夏に高校を中退し、劇団オーディションの二次選考(会場は東京)に向けて、一人で街を出る決心を固めます(結局、街の異変に巻き込まれて出て行けないのですが)。このとき彼の中では、すでに緒道の街は背後に置いてきた過去の風景になっていたと思われます。「街が変になる前 高校通ってた時はつまんねー田舎と思ってたけど 久しぶりに見るといいもんだな」(2/p. 11)というような口ぶりからも、それがわかります。

 ユキタの「何もない」とは、家族、幼少時代、友人、出身校、そういった自分のルーツへの無関心を象徴する言葉でもあります。「自分のことしか考えていない」とされる、反抗的で周囲から浮いていた彼は、それらのルーツを自覚することから得られる喜びを享受できなかったところがあるのでしょう。実際、田舎で若い人間が親密に関われる人々というのはごく限られています。家族か、少数の同じような若者か、近所の人々か。そうした地縁をうまく活用できるかはほとんど偶然に左右されるため、失敗すれば人間関係資本はかなり貧しくなります。するとできることは、その桎梏を(実際にはそれらによって養われながらも)できる限り自分の中でとるに足らないものとみなし、観念的に消去しようと試みるだけなのです。これは私の信念ですが、古色蒼然とした地方の街で浮いてしまった若者は(物質的にある程度満たされているのであれば)避けようもなく観念的になります*2。「何もない」とは、「他の人間が当たり前のように享受している地縁による福利は、自分にとっては全く重要ではない」という宣言でもあるわけです*3

 

カノコの望み

 もう一人地元住民を紹介しましょう。ユキタの家の隣に住む中学生、カノコです。私が思うに彼女も、ユキタと同じく「この街には何もない」という空虚感を抱えている者の一人なのですが、その表出はユキタと異なって、投影と屈折という操作を経ています。

 彼女は物語序盤、ユキタに「ユキ兄が好きだから街から出ていかないでほしい」と訴えますが、聞き入れられず、時間がループするごとにその一連の流れを(どこか戯画的に)繰り返します。このシーンは見た目ほどラブコメ的ではなく、恋愛の不成立という点で切ないというわけでもありません。重要なのは、カノコがユキタの夢を諦めさせようとしているという点なのです。カノコも、ループを通じて記憶を保持しているセキモリの一人なのですが、ループする毎日において彼女が希望している変化とは、ユキタの望むところのちょうど反対です。すなわち彼がいつしか上京を断念し、緒道での日常にしぶしぶ帰っていくことなのです。

 物語中、その望みを知ったユキタは、カノコに「こんな何もない田舎町で一生終わんの 俺は嫌なんだよ!」と掴みかかります(2/p. 38)。そこで彼女は微笑み、次のように言い放つのです。

「この街に何もないのは ユキ兄に何もないからよ」

 この言葉は、作中でもそれとはっきり示されているように、カノコが自分自身に対して向けてきた言葉でもあります(2/p. 46, 71)。「何もない」という感覚は実際、個人の能力(スペックと言い換えても結構です)つまり容姿・学力・芸術や運動の才の欠如と関係がある。そのような確信を彼女は持っています。

 

「他人に誇れること」の欠如

 まず、カノコは容姿、学力、何らかの天才的(芸術的?)素質……といった要素を「他人に誇れること」と定義します。それらの要素の有無が、「地元から離れてどれほどの範囲まで自分が通用するのか」、すなわち、別の地域にある難関大に進学したり、多くは都市に拠点をもつ大企業に就職する等、言ってみれば「夢のスケール」*4を決定すると考えます(2/p. 42)。

小学校の時 習った 距離を求める公式で
速さを才能に 時間を頭に置き換えたなら
その人間がこれから未来に行ける範囲が計算できる気がした

 この容姿・学力・天才的素質といった、ある種ステレオタイプな基準に則るならば、自分にはまったく卓越したところがないとカノコは十分に自覚しています。ここで、彼女は自分を「普通」であると認定するわけです*5

 普通な自分は、「普通の仕事」(例えば何か、ということは示されないのですが)には就くことができるかもしれない。しかし舞台俳優のような「何十倍も才能や努力が要求される夢」、東京で注目を浴び、全国に名をとどろかせるという夢は、そんなつまらない人間では到底叶えることができない。それがカノコの認識なのです。

 彼女はユキタと違って、家族に反抗もしていなければ学校で浮いてもいません。表面上まったく適応して過ごし、緒道という街にたしかに帰属意識を持っています。

だから私は信じている
私の魂は この海に根付いているのだということを

2/p.4

(私としては、そのように適応できることも一つの才能かと思うのですが)それでも彼女は、「何もない」という空虚感を抱えているのです。

 

上京-挫折の都市伝説と東京の影

 実際、夢を追って東京に出ていったところで無条件に幸せになれるわけではないというのが、この作品が舞台とする時代に共有され始めた空気でした。

 緒道の街は2001年の夏にループを開始しています。当時の日本は、バブル崩壊後続いてきた不況のどん底にありました。バブルの頃までは「東京に行けば幸せな生活が待っている、就職口など将来の当てがあるはず」という確信に近いものがあったのに、そう単純には行かないらしいという幻滅が広がってしまったのです。90年代、青森県でフィールドワークを行っていた宮台真司の証言は、次の通りです。

私がひどく驚いたのは、とりわけ中学生や高校生の女の子たちが、みんな口々に「東京には行きたくない」と言うことだ。「なんで?」と尋ねると「怖いから」という答えが返ってくる。どの学校でも「先輩が上京したけど、挫折してホウホウのテイで逃げ帰ってきた」とか、「行方不明になった」とか、「身をもちくずした」という噂が、まるで「口裂け女」の都市伝説のように流通している。…(中略)ある女子高生は「バブルの頃まではよかった」と言っていた。たとえ高校でムシャクシャしていても「あと三年我慢すれば東京で好きなことができる」と思えたからだという。遠くにでも灯が見えれば我慢できるけれども、その灯が消えてしまって「どうしたらいいの」ということらしい。

「青森のテレクラ少女たち」 宮台真司『まぼろしの郊外 成熟社会を生きる若者たちの行方』, p. 36.

カノコも、こうした都市伝説に親しんでいたのではないでしょうか。次の台詞は、まさにその寓話的表現であるといえます。

「ゴールが幸せじゃないなら双六じゃないわ

何も知らんと「上がり」目指して行った電車達は 東京に着くとバラバラにされるんよ
そうやって集められた鉄クズで 東京のビルは年々高うなるの

東京に喰われに行くんよ
電車も 人も」

(2/p. 14)

 ただ、いくら東京に行きたくない、行くべきではないと思ってはいても、その賑わいだけが遠く伝わってくる。都市への憧れを捨て去ることは不可能なのです。それはどこか、「誰でもできるような仕事」(そんなものが本当にあるとして)に従事しながら、「自分にしかできない仕事」を求めることをやめられない、そんな欲望と重なります。

そういう「何もない、お金もない」というムシャクシャは東京に灯がともっていた頃は何とか吸収できたのに、今ではそれもできなくなった。にもかかわらず、本屋やコンビニで売っているファッション誌やビジュアル情報誌には、相も変わらず東京情報があふれ返っていて、まるで外国の雑誌のようだ。しかし東京は外国ではなくて「同じ日本」。だからやっぱり「私たちも」と煽られる。なのに、もう「いつかは東京」とは思えない――。

前掲書 p. 37.

 自分はここ(緒道)に宿命的に結ばれているにもかかわらず、「東京の影」を振りほどけない。この街には何もない、とはいえもし東京に行ったとしても、どうせ何も手に入らない…….。同時に、「わたしは何もない、つまらない人間だ」と思いながら、つまらない人間に相応の、つまらない緒道での日々に甘んじることもできない、彼女が、「何もない」と表現する苦しみとはそういうことなのです。

私はただ

この田舎町の中で
普通であることを
私と一緒に 苦しんでくれる…

道づれが ほしいだけ

2/p.47

カノコは、自分と同じように特別な才能もないユキタを「道づれ」にしたかった。しかし、本当は二人には決定的な違いがある、カノコにはそう感じられてもいました。

 

夢への情熱

 ユキタは、カノコと同じようにとりわけ優れた才能がないにもかかわらず、東京で、自分のやりたいことを追求したいと公言してはばからない。同じ「東京の灯が消えた」という都市伝説の中にありながら、それでも東京を目指す人と、目指さない人がいる。その違いは何なのでしょうか。それは、先の都市伝説も跳ねのけるほど「欲しいもの」「譲れないもの」があるかどうかだとカノコは考えるのです*6

 例えば具体的な進路につながるかどうかはわからなくても、いま何かにとりわけ興味がある、やってみたいことがある、実際に打ち込んでいるという人はたくさんいるでしょう(学校で部活に精を出す人々というのが、その典型です)。そういった人々の持つ、拙くても何か自信をもって好きだと言えるような情熱、それすらも自分にはないのだとカノコは語ります。

教師「部活で高校を選ぶというのもあるのよ あなた何かやりたいことはないの?」
カノコ「…別に」

欲しいものも 譲れないものも 何もない
ただただ普通なだけ…
そんなつまらない自分の前で 無邪気に夢を語るユキ兄が妬ましかった

ここに告白されているのは、「夢を実現できるほどの能力が欲しかった」ということではなく、「身の丈に合わない夢でも実現できると『思い込める』能力が欲しかった」、「周囲の嘲笑も気にならないほど、自分も何かに夢中になりたかった」ということなのです。

 彼女は彼女自身が言う通り、ユキタに嫉妬しています。その愚かなまでの情熱が羨ましくて仕方がないのです。平凡な人間だと言われても平気な顔をして我が道を行く*7彼に、心底憧れているのです(2/p. 95)。だからこそ憎い。絶対にそのことを認めたくなくて、必死に「あなたも私と同じだ」という呪いの言葉を、彼にぶつけるのです。彼の情熱が冷めたとき、諦めるしかないと思えるのに諦められない苦しみに直面したとき、カノコは同じ苦しみを共有する「道づれ」を手に入れることができるからです。

 

「ユキ兄のあんなのは夢とは言わない」

 カノコは、ユキタの舞台俳優になるという夢をいくつかの角度から批判し、「夢とか東京という言葉で現実逃避しているだけ」と断じます(2/p. 18)。彼女はもはや、「同じつまらない人間でも、自分がつまらないということを深く認識しているだけ自分のほうが上等である」という、あの自虐者の論理でしか自分を支えることができないのです。

 また、カノコがユキタにかける「現実を見なよ」という言葉は、まさに彼女自身が幾度となくかけられてきた言葉をそのまま再生したものでした(e.g. 2/p.43.)。彼女は自らの劣等感を刺激する相手の足を引っ張り、道づれにするためなら、他所から輸入してきた「現実」すらも無批判に用いてしまえるのです。ただこのように、自分にとって都合の悪いことを錯誤や幻想の側に追いやってしまうのは、すでに十分狂気に接近してはいないでしょうか。例えばユキタが、カノコにはないほどの夢への情熱を現在持っており、東京へ出ていこうとしているということは(彼女にとっては都合が悪いが)その通りのことなのです。これを認めないことこそが「現実を見ていない」わけなのです。

私は

私も

本当はただ 逃げたかったのだ

2/p. 86

 彼女は、タビの独特の言語センス(これについては今回語る余裕はないでしょう)により、自分が何をしたかったのかを初めて理解し、改めてユキタを引き留めることに失敗するのです。それによって、彼女にとっての繰り返される毎日は一区切りを迎えたのでした。

 

作品の自己言及的構造

 少し話が逸れますが、『タビと道づれ』という作品の強度はある構造に支えられています。それは、まず自分の欲望であるはずのものを他人の欲望として語り、そしてその語りについての自己言及を行うという構造です。

 私はこの作品が、そしてカノコがまさに東京への欲望を隠し持っているのではないかと素知らぬ顔で語りながら、実のところ私自身こそがその欲望を秘めているのではないかと常に疑っています。ところで「誰々が君の悪口を言っていたよ」と、頼んでもいないのにそういった事実を報告してくる人に会ったことはないでしょうか。その彼もしくは彼女は、おそらくどこかうれしそうな顔をしてはいないでしょうか。私を悪く言いたいという欲望は、はたしてそれを最初に陰でささやいた人のものなのか、私のもとにその言葉を実際に届けた人のものなのか、はっきり分けることはできるでしょうか。「私が言ったことではないけど」と留保をつけ、潔白な媒介者=メディアを標榜しながら、実際は他者の言葉である伝言に媒介者自身の欲望を託している、そんなこともあるのだと思います。まさに今、作品あるいはそのキャラクターと、作品の受容者との媒介者を演じている私にはそれが実感できます。

 カノコは、ユキタに言い放つ「ユキ兄には何もない」という言葉が、誰よりもまず自分が自分に向けてきた言葉であることを理解しています。そしてその理解しているということを、モノローグによってさらに自分自身に告白するのです。

ユキ兄に言った言葉は 本当は私…
私には何もない

欲しいものも 譲れないものも 何もない
ただただ普通なだけ…
そんなつまらない自分の前で 無邪気に夢を語るユキ兄が妬ましかった

 このような、深く沈滞しどこまでも自己を追い詰めるような自己言及性、自分による、自分に対する告白に満ちた作品に私は強く引き付けられます。この構造を常に頭に置きつつ、次はまた異なる論点からこの作品を読み解くのもよいと思っています。

 

傷跡の記憶

 話を元に戻しますと、才能と全国的活躍への欲望、情熱と行動力への欲望、そしてそれを象徴するものとしての上京への欲望。こうした欲望を素直に表出するのではなく、いくつかの屈折を経て、繰り返される毎日での「道づれ」の希求に至る。こうした出口のない屈折が、カノコの「何もない」を構成するのです。

 自分はこの街から出ていきたくない、でも憧れている。他人が出ていくのを止められるとは思わない、でも挫折して帰ってきたら嬉しい。みんな平凡であってほしい、でも自分は密かに優越していたい。「道づれ」の希求は、二つの側面を持っています。都会へ出ていく人間への憎しみ。もう一つは、同郷の人間が都会へ出ていくことへの寂しさ。それが引き留めつつ突き放す自家撞着的な態度となって現れるのです。

 ところで、漫画家きづきあきら+サトウナンキの短編に「Sweet Curse」という作品があります(『侵触プラトニック』に収録)。この作品も『タビと道づれ』同様、東京の大学へ出ていく高校生と、田舎町に残る高校生との一シーンを描いています。町に残る2人が、上京する敬太にかける言葉はかなり辛辣なものです(pp. 166-169)が、これは単に、よそ者になろうとしている敬太を突き放しているというだけではないのです。

敬太「久美…
   俺にここに残ってほしいのか?」

久美「違う」

  「あんたはこの町に 自分で未来を残そうとせえへん
   町を捨てるんや

   そんなやつにいてほしない」

 このようなことを言いながら、久美は敬太の初体験を奪うという「傷跡」を彼に残します。彼女は敬太に絶対に忘れられたくない、絶えず思い出してほしいのです。

「あんたはすぐ町を やぎまさまを ウチを忘れる

 だから呪った」

 久美は、地方ー東京で離れざるを得ない寂しさ、会いたいのに簡単には会えなくなる苦痛を敬太にも無理やり共有させました。その苦痛が、距離が離れていても町のことや久美のことを忘れるのを許さない傷跡として残るように。

 カノコがユキタにテガタを分け、ループを通じて記憶が残るように、「より苦しむ」ようにしたのは、まさにこの「せめて傷跡によって思い出してほしい」という願いからだったのでした。

 正直、ここまで行ってしまった人間をわずか二言三言で回心させるタビという人物には、どこか魔術的な、あるいは機械仕掛けの神めいた部分があります。私としては、まだ彼女の論理のどこに説得性があったのか納得がいかないので、あえてここでタビの言葉を反復するのはやめておきましょう。最初の問題意識に戻り、「何もない」の背景に何があったか、それを確認しておくにとどめましょう。

 

なぜ「何もない」のか?―ロマン主義的前提の再検討

 カノコとユキタは、行動を見るなら正反対であっても「自分だけで始めたもの」「自分にしかできないもの」という理念にこだわっている点では同じです。このロマン主義的な宿痾ともいえるものとどう向き合うのか、それが現代の成長物語を描くのに必要な問いだろうと思います。そしてこの問いは、地方に生まれ落ちた人間が、東京の影とどのように向き合っていくかという問いにも通じます。

 『タビと道づれ』はきっとその問いを射程に収めているのですが、複雑な設定とポエミック*8な言葉で過剰に彩られていて、一見してその真価が見えにくい状態にあります。今回のように、特定のシーンに限って分析していくのが良いと思われます。

 最後に「何もない」のロマン主義的前提を、今回の分析から素描しておきましょう。

  1. 公共の場において、ある役割を果たすということから切り離された「単独の才能」を信奉すること(美貌、学力など)
  2. 憧れの対象をそうと認める代わりに大雑把に理念化してしまうこと(「東京の怖さ」「途切れることのない直線的な情熱」)
  3. 少年少女たちだけの世界。前世代やその前世代から受け継がれているはずのものを全く認めないか、それに価値を置くことを単純に拒否すること(多世代交流の不在、抑圧するのみの大人)

 この3つのこだわりをどのように変形していけるか、それは私自身の課題でもあります。予告しておくなら、現状これらの前提との格闘が取り出せそうな作品としては、田島列島『子どもはわかってあげない』・岩本ナオ雨無村役場産業課兼観光係』を挙げることになるでしょう。もちろん、まだ話題にしていない『タビと道づれ』の残りの人物について考察を続ける必要もあるのですが、今回はここまでです。

 

 

 

*1:/の前の数字は、コミックスの巻数を示します。

*2:かつて宮台真司は、東京都心を例とし、こうした若者の逃げ込む先として「第4空間=都市的現実」があると主張していましたが(『まぼろしの郊外』1997年)、そういったものが未だありうるのか、地方都市にもありえたのか私にはわかりません。

*3:この物語は、「セキモリ」同士の濃密な関わりを描いていながら、親子関係や近所付き合いの描き方はごく画一的であり、登場する匿名の大人たちはほとんど、子どもたち(=セキモリ)を直截的な形で抑圧してきた存在です。また、唯一多世代の交流がありそうな銭湯のシーンでさえも、セキモリ達以外は一切描かれることがありませんでした。つまり、この作品は緒道という街の生活風景の切り出し方自体が、はじめから「何もない」と感ずるセキモリたちの視点に寄っているのだと思われます。このような露骨にフェアでない視点の採用は、主要人物、つまりセキモリたちへの感情移入を容易にする有効な戦略と言えるでしょう。

*4:これは作中で使われている語というわけではありませんが

*5:こういうステレオタイプな卓越性が絶対的に有力なものだと思ってしまうことの是非については色々あるかと思いますが、今回はともかくカノコの実感に沿うこととしましょう。

*6:こういうことを書くとまた怒られそうですが、やはり地方ではまだまだ、女性は男性よりも、学歴や自由に職業を探すことの重要性が低いだろうと思われがちです。宮台はこのことにも言及していますし(前掲書p. 37)、カノコの母も「この子は大学進学とか考えてませんから」と当然のように教師に説明しています。したがって、女性はとりわけ、忸怩たる思いを抱きながらも地元に残りがちなのではないでしょうか。

*7:ですが先に述べたとおり、彼は一度上京を断念しています。ユキタ固有の性質として強い意志が備わっているというのは、どうしても彼を過大に見積もった認識であるように思います。彼も、周囲の反対にあって諦めたり失敗するのが怖かったりする普通の人間なのですが、ニシムラとのかかわりの中で強い決意が彼に生じている、ということにこだわるべきかと思います。

*8:poeticとはあえて言わず、和製英語の「ポエマー」的な、という意味でこの言葉を使いましょう。