作品の公開と不可能な廃棄―芦原妃名子「月と湖」から

 私は、一年ほど前に次のような記事を公開しました。

 今でも基本線はここにあるつもりですが、さすがに雑駁に過ぎるとの印象が拭えません。いくつかの点をまったく省略した、素描にすぎないものであることは明らかです。少しずつ補足していく必要があるとは前々から思っていました。以下はその一部となるものです。

 

 先の記事を読んで感じる根本的な疑問としては、次のようなことがあります。もし作品と作家が母子関係にも等しい絶対的な関係をもっており、「子が文字通り比較を絶している『親子だけの世界』」が当初は成立しているのだとしたら、どうしてそれを公開し、ほかの有象無象の作品群に自分の唯一無二の作品を並列させなければならないのか、ということです。作品を公開などせず、自分以外の誰の目にも触れさせないように鍵のかかった棚やHDDに閉じ込め、時折ひそかに愛でるだけで十分なのではないでしょうか?

 なるほどこれが本当の親子であれば、そうした親子だけの世界の永続はたしかに非現実的といえるでしょう。一定年齢になれば、親は子どもに教育を受けさせなければならないというのが、少なくともこの国では原則だからです。(もちろんそんな状況下にない国のほうが大半ですが、そうした場合子どもたちはすぐ働きに出されることが多いのでしょう)つまり、他の子どもや教師など、なんらか親以外との人間とも関係を結ばなければならなくなります。そして親の目につかないところで、徐々に子どもだけの世界を広げていきます。

 しかしながら、自分の創ったものを人目につかないところへ閉じ込めておくことに関しては、誰も難癖をつけることはしません。作品は、作家との二者関係から勝手に脱出を試みたりすることは、(他人に暴かれてしまった場合、全くないとは言えませんが)基本ありえません。作品を公開するかどうかという決定は、たいていその作者自身の決定といえるのです。なぜ、自分自身を罠にはめるようなこの決定が、当然のように日々行われているのか? なぜ、作品と作家の幸福な関係を崩壊させてでも、作品は公開されるべきなのか。それがわからないのです。

 

「承認欲求」で答えようとすること

 そんなのは単純明快だ、と思った方もおられるのではないでしょうか。自分の子どもたる作品のよさは自分のよさであるということを他人に認めさせる、それこそ公開の目的なのであると。素晴らしい装飾品が手元にあるならそれを見せびらかしたいと思うように、つまるところ見栄を張りたいからなのだと。たとえば最近読んだ朝井リョウ『何者』は、インターネットでひねた文章を書く私のような輩を皮肉たっぷりに描写しています。

「思ったことを残したいなら、ノートにでも書けばいいのに、それじゃ足りないんだよね。自分の名前じゃ、自分の文字じゃ、ダメなんだよね。自分じゃない誰かになれる場所がないと、もうどこにも立っていられないんだよね」(p. 317)

「私、あんたはもうひとつのアカウントにロックかけたりツイートを消去したりなんかしないってわかってたよ」「たまーに見知らぬ人がリツイートしてくれたりお気に入りに登録してくれたりするのが気持ち良くて仕方なかったんでしょ。だからロックなんてかけない。自分の鋭い観察力を誰かに認められたくて仕方がないから」(p. 305)

 私はこういった指摘が的を外しているとは思いません。ですがこうした指摘というのはなかなか難しく、それが絡まない行動などないようにも思われるので、どんなものにもメタを張れる万能の理由付けとなってしまい少々面白みに欠ける部分もあります。そこで今回は少し違った方向から考えていきたいと思います。 

 

なぜ作品は公開されるべきなのか?

 私は、なぜ作品を公開すべきなのかということについてはまず次のように答えてみます。物語を多くの人が読める形にしておくという文化自体がよいものだと思うからです。
 事実まれかもしれない「作品と作家の幸福な関係」が、完璧に維持されているとしたらどうなるでしょうか。皆が自分の作品をひそかに自分だけで噛みしめ、公開しなくなってしまったら。他の人の物語を読むということ自体ができなくなるでしょう。それは、他人にとってどうかは知ったことではないのですが、少なくとも私にとって耐えがたい損失を意味します。したがって「すべての作品は公開されるべきだ」と思ってはいないにしても、「すべての作品は公開される必要はない」という規範は絶対に認めることができないことがわかるのです。消極的な言い方ですが。

 私は他人の創ったものの中で出会えてよかったと思うものがたくさんありますし、もし他人の文章やその他の創作物に含まれる人間の破片を眺めるという娯楽がなかったら、今までどんなに退屈だったかしれません。結局のところ、私は他人の作品が自分の元まで流れ着く機会があることには感謝するばかりなのです。もしそれが気に入らなければ捨てればいいし、最初から流れ着く機会すらないよりはその可能性が開かれているほうがずっと重要であると思います。

 はい、はい、このままでは話が粗くなりすぎる予感がするので、少し落ち着きましょう。以下では具体的な作品に沿って進めていくことにします。ここでいう作品も小説に限定することにしましょう。

 

芦原妃名子「月と湖」

(いつもの通り作品の重要なネタバレを含みますのでご注意ください)

月と湖 (フラワーコミックス)

月と湖 (フラワーコミックス)

 

 この作品は「作品を公開すること」の問題化が構成要素の一つとなっています。作中では、妻帯の作家に愛人がいたという暴露を含む『月と湖』という架空の私小説*1が登場します。この小説は書き上げられてから一切公開されなかったのですが、作家の死後に発見され、出版されたという設定になっています。そして、この小説が周囲の人間に与えた影響をめぐって話が展開することになります。

 『月と湖』の出版は、物語の主人公の一菜(かずな)が当初思っていたように、妻に対する夫の裏切りの暴露であり、関係の人物全員にとってたしかに大きな害悪のようでした。作家の本妻(一菜の祖母)がその暴露によって長期間傷つけられただけではなく、作家の愛人として騒がれた実在の人物、水橋透子もその汚名を背負うこととなりました。

 けれどもその二人でさえ、『月と湖』が出版されていることに対してある種の肯定をしているさまが、この物語では描かれているように思います。なぜそんなことがありうるのか、すこし考えてみましょう。

 

原稿を捨てていればよかったのか?

 小説『月と湖』が、遺品の中から見つかってしまったことが、すでに述べた不幸の始まりなのでした。すると、作者である市原有生がこの原稿を捨てていれば、すべては丸く収まっていたということなのでしょうか。私の考えではそうではありません。世間に流布した話によれば、彼は結婚から死去までの40年間、不倫関係のあったことを隠し続けることができていました。では生きているうちに原稿を処分していたなら真実はまったく闇の中となったはずではないか、そう考えるのが普通です。しかし、私の信念ではそうではないのです。なぜなら作品を書いていた間、彼は水橋透子に惹かれていたということを自分自身に白状し続けたからです。『月と湖』の原稿、紙としての原稿は、重要ですが決定的ではありません。自己に真実を打ちあける儀式としての執筆が決定的であり続けたのです。もちろん彼はあくまで虚構を作り上げていたのですが、その虚構がまるで現実であるかのような生々しさ(作中の表現では「目を覆いたくなるような」)と交わる地点を目指していました。

 小説はたかが虚構であって、現実から虚構への取材があっても逆はないだろう、むしろあってはならんだろうと普通は思いませんか。私は思います。しかしそのあってはならないことが私の周りでも、この作品の中でも日々起こるのです。虚構のはずだった心の傾きはふとしたところでにじみ出て、この物語を駆動する要因にすらなっています。一菜から芙実へと心変わりをしていく航太のように。あるいは、その芙実への嫉妬を、『月と湖』の筋書きへの嫌悪にすり替える一菜のように。まさに空の月か湖上の月かという決定が不可能になる瞬間があるのですが、それは振り返っても見つからず、予知することもできない瞬間なのです。

 小説『月と湖』が「上手にウソをつく」「ギリギリ美しい」物語といえるのは、その瞬間に自覚的だからです。「事実かどうか」という意味での本当と、虚構であっても胸に迫るものを感じさせる言語の技術、そしてそれらをしばしば混同する私たちの(市原有生の、水橋透子の、一菜の、航太の)危うさに。ここには真摯さをもって不誠実を認める人がおり、欺くことによって誠実であろうとする人がいます。この捩れを承認しないまでも耐え忍ぶことができなければ、この小説を評価することはできないでしょう。

 市原の妻は、本当に水橋透子の存在に、というよりも水橋透子に惹かれていた市原有生がいたということに、気づかなかったでしょうか。帰ってきた夫の上の空に、確かな色があること、別離の寂寞があること、こぼれ落ちているそれに気づいたでしょうか。「体の中心を すうって冷たいものが走った」ことはなかったでしょうか。そうだとしたら、原稿の発見は衝撃というよりも答え合わせにすぎなかったでしょう。彼女はたんなる創作、妄想で終わらないものを『月と湖』の中に見てしまった、だからこそ崩れ落ちるほど悲しかったのだと思うのです。そして、その体験は『月と湖』を読んだ一菜の苦悶として反復されることになります。それは単なる感情移入ではなく、たかが文字の上のことが実際に現実を変えてしまいかねない危険な試練なのですが、最後のページではその試練に乾いた決意で飛び込んでいく彼女がいます。作中の小説『月と湖』への肯定的な反応は、彼女のその背中に捧げられているようにも思われます。

 

作品を本当の意味で廃棄することはできない

 以上のように「月と湖」を読みつつ妄想することからわかってくるのは、作品の原稿が処分されていたとしても、作品を本当の意味で廃棄することはできないということでしょう。虚構はある特殊な形で現実を分割し反復するのですが、それは、自分で書いて自分で読む場合、つまり未公開の場合でも同様です。いつのまにか現実に虚構が入り込み、紙切れの上の染みに過ぎないものが勝手に流れ出していく。それを廃棄しても作品が生まれてこなかったことにはならず、生まれてしまったことを認めないという統制が、そういった自己の在り方として、一つの作品を完成すべき努力として、日々の会話や立ち居振る舞いに冴え渡るでしょう。そうして生まれてしまったものが、純粋な虚無に帰すということは決してありません。

 実際の親子と同じように、親たる作者は全面的には作品という子供を管理することはできないということになります。つまり、「誰の目にも触れさせないように作品を軟禁できる」という前提、また「私たちはいつも(何らかの目的を設定して、自分自身で)作品の公開を決意する」という初めの前提が崩れることになってしまいました。このような状況は、「作品はどこまでが作品なのか」という混乱に読み替えることもできます。たとえば、『月と湖』はどこまでがその作品なのか? どこまで受け取ったら作品を完全に享受したことになるのか? 見つかった原稿か、出版された本か、同時に持ち上がった作者の不倫物語か、それとは両立しがたい水橋透子の語りなのか、あるいはそれらすべてを鑑みて一菜が再構成した物語なのか、あるいは、『月と湖』をめぐって展開される芦原妃名子作の中編少女漫画「月と湖」まで含めねばならないのでしょうか。この問題はキリがないようですから、ここでいったん切断します。あとは現代文学理論の研究者へと引き継ぎましょう。

 

 何かものを書いたとき、その原稿はHDDの奥底に、鍵のかかる引き出しにしっかりと隠してあるにもかかわらず、不意にその断片が口から飛び出ていた経験はないでしょうか。読書家のあなた、最近読んでよかった本の概念や気のきいたセリフがつい口をついて出てしまったことは? これらを、すぐ影響される人の行いだといって馬鹿にするのは少し待ってみましょう。実際、作品が自分の内面にただ沈殿し、二度と浮かび上がらないとしたら、本を読む意味などあるのでしょうか? あるいはそうして沈殿すると、表面には出てこないけれども何らかよい効果があるといったことを信じているのでしょうか(このほうがよほど神秘的に思えますが)。私たちは、引用するために文章と関わるのではなくとも、取り込む文章を、それが書きつけられたものに限らず、耳に入る他人の言葉を引用しないのなら、何を言うことができるというのでしょうか。その文章を知ることになった大元の媒体が目の前で堂々と提示できる状態になければ、私たちは引用しないのでしょうか(そのような状況では、もはや引用する必要がなくなるのではないでしょうか)。

 作品は作者の身辺を巻き込んで、いつでもすでに生まれてしまっているものであり、作品の公開は時間の一点を占めるように行われるのではない、という仮説が立てられるかもしれません。もしかすると、原稿用紙にペン先を当てる前から、構想の段階からすでに作品は生まれつつあり、公開は始まっているのかもしれません。『もう卵は殺さない』の記事でも書いたように、構想段階で中絶したとしても、生まれかけの物語に対する心残りが、肯定がありうるのです。なぜ何かを創る人はそれを途中で放り出したくないのか? なぜ作品は一応の完成を見るべきなのか? それは、自分で書いて自分で読むその文章をすでに肯定し始めているからであり、そこから引き返すことはもはやできないからです。作品を本当の意味で廃棄することができないというのは、その不可逆性のことなのでした。

 

 以前の記事を補完するつもりが、新たに問題を増やしてしまったような気がします。こうして私が益体のない文章を書き公開ボタンを押している理由を探る足しにしたいと思ったのですが、これが私の現状かと思うと少々情けないとも思います。未だそれをはっきり説明できずにいるという状態は、どうにも気持ちの悪いものです。

 

 ちなみに「月と湖」は、上記のように表題作として2007年刊『月と湖』に収録されていますが、『芦原妃名子傑作集1 記憶』にも収録されています。内容は変わっていません。この非常に美しく完璧な構成をもった作品をこんな程度で語り尽くした気になるのは傲慢というものですから、また機会があればきちんと読み直しなんらかの濫用を試みたいと考えています。

 

*1:読めばわかりますが、この小説は私小説といっても人物は大きく脚色され、実際に起こったことをそのままなぞっているものではないとされています。ここで「愛人」と呼んでしまうことが適切かといわれると微妙でしょう。