自殺について 1

自殺という死因

 若者の死因と聞くと、どこか不穏な雰囲気がある。この国では、15~39歳の死因で最も高い割合を占めるのは自殺だという事実がある(ただし自殺の総数自体は減少傾向にあり、逆に交通事故や殺人、病死、餓死が少ないとも言える)*1。最も割合が高くて50%、低くても30%である。だがこの割合ほど、自殺が日常茶飯の死に方であると思っている人がいるとは思えない。そんな中で、若者の死因が自殺であったという情報は普通どのように扱われており、どのように扱うべきなのか。これは、その判断を迫られる人にとって一つの頭痛の種ではないのだろうか。

 ちなみに私は自殺についての言及がある一般書やノンフィクションやフィクション作品をいくつか読んだことがあるが、そのほとんどがこういった線引きには触れずに終わっていた。この線引きについて詳細に検討している資料があれば手に取りたいと思うので、ご教授いただけたなら非常にありがたく思う。

 話を戻す。若者の死因が自殺であったことの公表は微妙な問題である。ただ葬儀という場に限っては、あえて死因について明らかにする必要がないというのも理解できる。葬儀に必要なのは警察と医師が見極めた殺伐とした情報ではなく、死のあらゆる生々しさを覆い隠し文化の枠内に飼いならすための形式である。そもそも、葬儀の場というのは故人と関わりのあった人々が、故人はもうこの世にいないことに対して哀悼の意を表現することを目的に設けられるそうだから、故人がどのように死んでいったのかを参列者に報道することが主たる目的ではない、というのが常識らしい*2。ただでさえ疲弊している遺族に精神的負担をかけるような質問、告知は、特に注意がなくとも控えるべきなのだ。

 しかし、それで万事うまくいくということには懐疑的な人もいる。

意外なことだが、自殺がきょうだいに与える影響がよくわかっていないのと同じように、それが友人に与える影響についても、いまの段階ではほとんどわかっていない。... 事例に基づいた臨床経験から見れば、彼らもまた友人または同僚の死のほんとうの原因が自殺であったことを認めたがらず、やはり残された家族と同じように、一般的に罪責感に悩まされていることがうかがえる。...
多くの人は自殺のことや自殺と最も関係のある心の病のことをほとんど知らされていない。そのため、しばしば非常識なこととしか思えないその行為の意味を理解しようとして、七転八倒することになる。彼らは自殺の原因を必然的に人生のできごと(破綻した、あるいは困難な人間関係、経済的な問題、仕事上のストレスなど)に絞って考える。ときには、雇用主がその機会を利用して残されたスタッフに最も一般的な自殺の原因について教育し、うつ病とは何か、必要な場合にはどうすれば支援を求めることができるかについての情報を提供する例もあるが、残念ながら、そうした例はまだまだ少ないのが現状である。むしろ、死因にはできるだけ、あるいはまったく触れずに終わるのが一般的で、そのため憶測が正確な情報や同情を上回ることになってしまう。
...
わたしの同僚で、躁うつ病に苦しんでいた著名な科学者が数年前に自殺した。取り乱した妻は(そのこと自体は大いに理解できる)夫が自殺したことをあくまでも認めようとしなかった。そのため、葬儀や追悼式の場で自殺という言葉にはいっさい触れてほしくない、という気持ちを明らかにした。そのため、彼女の知らないところで、同僚の教授、大学院生、研究室スタッフなどが、彼の死と折り合いをつけ、先に進むのに大変な苦労をするという事態が生まれることになった。死から一年が過ぎても彼の指導を受けていた学生や同僚は、情熱的で想像力にあふれ、カリスマ性に富んでいた彼について話しあうことはむずかしい、という思いから脱することができずにいた。

ケイ・ジャミソン『生きるための自殺学』p.460-

実際、その人が自殺したというだけで、何かつらい出来事があったのだろうか、それに堪えられなかったのだろうかと勘ぐられ不憫に思われる、あるいは生来の弱虫としてなじられるのは非常に不名誉なことだし、それはそれで(故人に近しい人にとっては)耐え難いことではないのだろうか。ひとたび精神疾患を抱えれば誰でも、特に悲劇的なことがなくともそうなりうるのだ、ということには全く言及されることなしに。

 

自殺したと思われる人

 薄々お気づきの方もおられるかもしれないが、私が今回このような話をする背景には約2ヶ月前に起きたある人の死がある*3。それまでのその人と遺体の様子を見た上では、おそらく自殺だったろうと私は考えている。しかし私は亡くなるまでの事実について詳しいことをほとんど知らないし、すべては又聞きでしかない。遺書は有るとも無いとも聞いておらず、現場検証などには後にも先にも縁がない。だから、自殺だったと断定することに少しの躊躇いはある。実際、最近では遺書が見つからなければ自殺とは認められない例もあるという *4。ただ、最初に思いつく自殺の要件であろう「死のうという意志」が、どのようなときに確認できたといえるのかは、ほとんど立場の違いではないだろうか。行政の行う判断が「遺書」というはっきりとした基準を設けており、私がそれに違和感を覚えるのも当然ありうることである。たしかに遺書があるなら自殺だといえそうだとしても、遺書がなければ自殺ではないのだろうか。自殺者は、自殺を行うという宣言を、必ずあとに残るような形で行うのだろうか。その猶予を常に持っているのだろうか。宣言したときから決行までの間、ずっとその意志というのは有効に働いていたのだろうか。ただ今回こういった事柄にはあまり深入りしない。また機会があれば、そもそも「死のうという意志」という不可思議な想定について考え直すところからやり直したい。*5

 たとえ本当のところその人の死が制度上で自殺に分類されるものでなかったとしても、以下の文章を読む上では全く支障はない。私は突然その人が死んだことを聞き、真っ先に、大した情報もなしに、「その人は自分で死を望んだ」と思ってしまった*6そのように思われても仕方がないような外形をその人が備えていたと私は知っていた、私にはそれで十分だった。

 

葬儀の場で

 ともかく今回、部分的に語ることができると思われるのは、その人の通夜に行ったときのことである。通夜ぶるまいの後に(自殺という言葉は巧妙に避けつつも)まさに前述のような、なにか悲劇的なライフイベントを疑うようなアナウンス(何かつらい出来事があったのだろうか、それに堪えられなかったのだろうか、という趣旨)が流れたことに衝撃を受けた。あんたがいったいあの人の何を知ってるというんだ、と私はもう少しで叫び出しそうになった(これはある程度は自分自身に向かって投げつけたい言葉でもあるが)。ただそれは、露骨な言葉は避けるとともに、参列した人々の「なぜ?」に対して一定程度の満足がいくような、ゆえに遺族の方への無粋な介入を回避するような、最低限の説明を与えようとして行われたものだったのかもしれない。そういう予防的措置と考えなければ、何の意味があったのか全くわからないアナウンスだった。

 もちろん、葬儀の場においてオブラートに包んだ表現や形式的な文句がとても重要であることは今回でよくわかった。それでも私は「死因は自殺ということでした。故人は精神疾患に苦しんでおられました」という内容を率直に伝えたほうがずっと誠実なやり方だったと思うし、自殺をただその人の経験や性格からの帰結だとする(だから自分には無縁だと思う)人を戒めることにもなったと思う。婉曲的であるにせよそうでないにせよ、聞いた人がどうせ自殺だった可能性に思い当たる表現をするならば、「自殺ってやっぱり不幸なことがあった弱い人がするものね」というステレオタイプ*7を復唱するような憶測は含めないほうが幾分ましではないのだろうか。

 しかし、自殺の不穏さも含め死者を生者自身の現実からうまく隔離させる伝統的な戦略には舌を巻かずにはいられない。死者が残された者たちに死臭と精神衛生上の害をもはや与えることがないように、遺骸は香りの強い花で飾られ、棺に詰められて最終的には焼かれる。もはや別れた、あの世への旅に出発したということにし、後に残った灰と骨を確認する。それがこの文化圏において葬儀を行うということの意味だった。もちろん参列した者たちは、自分もいつかは……と思いはするだろうが、最終的には「でもそれはまだ先のことだ」と思えなければ儀式をやった甲斐などない。葬儀社の方や呼ばれたお坊さんは生者と死者の間に入ってスマートに規制線を引くことが仕事なのだし、そのプロの仕事について私のような素人が意見することができるなどとは夢にも思わない。皆がそれぞれの仕事を遂行していたのだと考え、私は自分を落ち着かせようと試みた。私はストアの賢者に倣おうと必死だった。

 

「もっとできることがあったはずだ」/「なぜ?」

 それが自殺かそうでないかということについて、そこまで私がこだわる理由は一つしかない。それが自殺だとすれば、自分がその原因の一端を担っていたのではないかと考えるからだ。そしてそう考えるならば、ひとり罪責感に苛まれることになるからだ。私は公衆に残忍な喜びを振りまく悲劇の材料集めとしてそれを知ろうとするのではないし、遺族の方々に恨みがあるから追求することでその傷に塩を塗り込んでやろう、と画策しているわけでもない(ただし、私の意図はどうあれそのようなことが事実上起こってしまう危険なしに情報を扱うことができる、と考えるのは間違っている)。

自殺という事件に見舞われたあと、残された人々のなかに罪責感が生まれ、それが彼らの心をむしばむことも少なくない。親、きょうだい、子ども、夫、妻、友人、同僚、さらにちょっとした知り合い程度だった人々までが、自分が過去にしたこと、あるいはしなかったことを思いだし、あれこれと思いをめぐらせる。言い争い、冷遇、不在時にかかってきたのにかけ直さなかった電話、医師に連絡しなかったこと、自宅から排除しなかった銃や薬物、延期した、あるいは抵抗されて果たせなかった精神病院への入院などなど。....

前掲書, p.452.

 しかし、そうした周囲の人間のささいな行為が自殺の決行を決定的に左右したというのは本当なのだろうか。

自殺はほかのどんなかたちの死とも似ておらず、残された人々はその現実と闘う過程で、ほかに類のない苦しみと直面しなければならない。そうした彼らを襲うのは、衝撃と「もし何々だったなら」という終わりなき思い、怒りと罪責感、そしてときどき訪れる恐ろしい安堵感だ。他人からの疑念にもさらされる。声になるもの、ならないもの。しかし、そのすべてが、なぜ、と問いかけている。衝撃を受けた、当惑した、あるいは悔やみの言葉や思いをかけることのできない、あるいは抱擁をすることのできない人々の沈黙にさらされ、もっとできることがあったはずだという他人の、そして自分自身の思い込みにもさらされる。

前掲書, p.449.(強調引用者)

 この本の著者ケイ・ジャミソンは、「自殺の原因は、ほとんどの場合、個人の先天的気質と遺伝的素因、あるいは重い精神疾患や急激な精神的ストレスのなかに潜んでいる」と述べる。つまり、極端な言い方をすれば、病魔に対して周囲の人間ができることなどたかが知れているのであり、「他ならぬ自分がどうにかできたはずだ」などと思うのはまさに思い込みだというわけだ。例えば、これが自殺ではなくガンにかかった人ならば話は明確である。その患者の友人が「自分のしてきたことににガンの進行を遅らせる力がなかったから」、「自分のしてきたことがガンの進行速度を早めてしまったから」と思い罪責感に苛まれるなら、まずその友人について妄想幻覚の症状を疑うほうがいいだろう。衛生的な病室と衣服、厚い人間関係、病人をとりまく環境はよいに越したことはないが、それには病を追い払う力も進行を遅らせる効果もないのである。

 では、これで話は終わりだろうか。そんなはずはないだろう。ガンとのごく粗雑な対比をした場合においても、その人の身体的・精神的健康に関して大きな影響力を持っていた人物については、この限りではないのではないかと思えるからだ。ただ、私がそのような人物だったかどうか確かめる方法がわかっているわけではないから、何の根拠もない「私の影響力」をここで主張しようとは思わないし、個人的なエピソードや人間模様などを語って人に判断してもらおうとも思わない(いつも自虐だの露悪的なことばかり書いている私でも、何でもかんでもインターネットの不特定多数にぶちまけられるわけではない)。

 かりに「あなたが何をしようとも結果は変わらなかった」という説明が正しかったとしても、少なくとも私には、それでは気の済まされない何かが残る。

「そんなこと、わからないじゃないか、それでもお父さんは自殺したかもしれないではないか」とどんなに彼を慰めても無駄です。それでもお父さんが自殺したかもしれないことぐらい、彼にはよくわかっている。しかし、彼にこうした理屈が通じないことこそが、後悔の「重み」を語っているのです。ここに、哲学的に興味の尽きない領域が広がっている。どんなに合理的に物を考える人でも、意図的行為であろうと非意図的行為であろうと、後悔する。後悔する者は、後悔しても過去の出来事をさかのぼって変えることができないことを知っている。それなのに、ときに全身を痛めつけるように後悔する。とすると、ここには、いかなる理論によって反駁されても覆ることのない、その意味でいかなる理論より根源的なある直観的な「了解」があるのではないか、と考えたくなります。

中島義道『後悔と自責の哲学』, 2006, p.37.

 私は、中島さんのいう「哲学的に興味の尽きない領域」などに格別な興味はないし、いかなる理論より根源的なある直観的な「了解」などというものを尊大にも解明してみよう、という気にもならない。私は現在特に学者を志しているわけではないのだから、自分の興味の持てる範囲のことを、自分の意図したことに必要な範囲で考えられればそれで十分だと思っている。

 しかし私は、結局、中島さんのいうような事柄の内容を少なからず検討せざるを得なくなっている。なぜなら、「あなたが何をしようとも結果は変わらなかった」という説明が、中島さんの本にある通り、まったく実際に効果を発揮しないからである。焦燥といわれのない罪責感が実際にやってくるのだから、そのような糞の役にも立たないものではなくて、きちんと有効に機能する装備を求めているのである。すると中島さんがやっているように、納得できていないことについて、なぜ納得できないのかを調べ補足するというくらいしか、私には他にできることがない*8。自分自身で納得していない論理をもって、いくら自らの潔白を訴えてみても身の入らない芝居にしかならないだろうし、そんなものの上演に付き合わされる観客のほうが気の毒である。

 さらに悪いのは、ある学者が言っていたことだが、学者の考える事の一部だけを切り取って持ってくることは確かに難しそうで、横着がきかないことだ。本当に面倒だけれどもやるしかない、そのような思いで現在少しずつ本を読んでいるところである。

 これから社会人となると学生のように暇ではないし、文章を書き上げるのも数年単位をみることになるだろうが、まずは一つ書いた。といっても今回は体験したことを思い出し、それらしい文章を引いてきただけで、ある理論の検討などほとんどしていない。「もっとできることがあったはずだ」と「なぜ?」についての考察は、実質的にはまだ始まっていない。

 

 

生きるための自殺学 (新潮文庫)

生きるための自殺学 (新潮文庫)

 
後悔と自責の哲学 (河出文庫 な 24-1)

後悔と自責の哲学 (河出文庫 な 24-1)

 

 

 

*1:http://www.mhlw.go.jp/wp/hakusyo/jisatsu/16-2/index.html

*2:葬儀マナーを説くページを幾つか参照すると、そのようなことがすぐにわかる。

*3:以下の記事で一度言及したことである(そこにその人のことや死の詳細が書かれているわけではないが)。
http://dismal-dusk.hatenablog.com/entry/2017/06/30/113610

*4:https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/lifex/198569

*5:一応の参考:http://ikiru.ncnp.go.jp/manual/gyosei/gyosei20.pdf 、これ以外にも文献を探索している。

*6:葬儀に出てその思いはほとんど確信になった。もう遺書がなかったと確かめたくらいでは、自殺でなかったと思うことは難しくなっている。「私が殺した」と称する者が物的証拠を持って自首してくる位のことが起こらないかぎり。
 もはや自殺の可能性を確実に否定する証拠など見つからないし、おそらく今後も出てこないだろう。そのことを認めざるを得なかったからこそ、このような文章を書くことになっている。私は当初そのような証拠を熱望していたし、本当は自殺でなかったならどんなによかったかと思っているが、もしここで、自分の願望に配慮して「自殺」という言葉を使うことを避けるなら、今回ほとんど何も語ることはできなかっただろう。

*7:しかし、精神疾患が自殺を導くというのも一つの理論であるし、つらい出来事や境遇が自殺に全く無関係だということもない。ただ人生のつらい出来事を乗り越えられるかはその人次第ということも多いが、精神疾患の症状は誰にとっても問答無用であり、その人の気力だけで乗り越えられるわけではない。

*8:精神科に行って薬もらえよ、というのはもっともな対処法であり、自分なりに受診する計画(訪れる際の目安等)はすでに立ててある。
精神的な平和のために自殺だったということ自体を信じないというのは、私にとってはどうも無理筋である。これは先に触れた。