『かたわ少女』琳ルートについて―名もなき絵画と飢える身体

 さて、琳ルートです。実は笑美ルートを次に書こうと思ったのですが、ひとつ私にとってあまりにもタイムリーな要素が含まれていたルートなので、静かに向き合えるまで後回しにすることにしました。とっくに残りの全てのルートも終えているのですが、なんだか大して書くことが思い浮かばなかったのでこれも後回しです。

手塚琳

重度の先天性障害と、それに伴う手術のため、琳の腕は小さな突起でしかない。そのため彼女は足と、時に口をあらゆる事 ―― 特に絵画 ―― に使う。障害のため、スカートを履くのは無理があるので、琳は学校では男子の制服を着ている。彼女の哲学的なひらめきは、その独創性に負けずとも劣らない。時折考え事に没頭したり、人間や世界、その他諸々のことについて難解な考えを披露するのが好きで、周りの人々は大いに混乱させられている。

言語への不信

 琳は、私たちがコミュニケーションに使っているような言葉を信じていないとは言わないまでも、不得手である、自分向きではない、ということを何度も言い方を変えて久夫に伝えようとします。彼女の、わざとやっているのか元々なのかわからない唐突なイメージの奔流も、言語の撹乱を思わせます。彼女は同時に4つのことを考えることができる(昔は5、6つもいけたらしい)と主張していますが、考えるというよりかは、自由連想法のような、イメージの連合のようなものが常に頭のなかでうごめいているということなのでしょう、たぶん。
 こうした事情から、琳という人物が比喩や矛盾した言い回しに訴えず率直な言葉を使う場面はとても貴重といえます。例えば、突如として画面いっぱいに台詞が続く演出がある場面がそうでした。このような手法はある種伝統的な狂気の表現かもしれませんが、今回それほど異常な印象は受けず、むしろ彼女の手がかりをつかむ有用なシーンに思えました。ここでは、彼女の混乱のためかいつもより言葉遊びが少なくなっており、無粋ともいえる台詞回しで彼女自身の感情が綴られていたからです。

話し言葉と絵画

 このように、言葉よりかはイメージ優位の彼女にはもちろん困難な問題も生じるのです。第一には、意識内容を一般的な言語に結びつける癖がないために、言いたいことを自分でもどう言ったらいいかしばしば困惑するということです。そして第二に、言葉で自己を措定することも習慣としてないので、自分についてもつ内容も言葉で保存することが難しいということです。*1

 第一のほうについては、琳は一応の折り合いをつける手段を持っています。イメージを言葉にしなければならないときは、じっくり考える時間をとり適切な結びつきを比較検討するか、即興の結びつきで隠喩・換喩や造語めいた言葉を駆使して相手の感受性に賭けるか、というやり方です。これが彼女の独特な話し方(あるいは黙り方)の由来なのではないかと思います。

 ただ、やはりどちらの問題についても彼女がより重視しているのは絵画です。彼女にとっては、絵画とは自分を同一性をもった存在者としていくための保持の様式であり、また、自分の意識の内容をなるべく直接に外界に提示するやり方なのです。

 ただしここで急いで付け加えておかねばならないのは、琳にとって絵画とは一つの受け入れざるを得ない運命だったと強調されていることです。絵画による表現は、彼女いわく「それしかできなかった」ために否応なしにとらざるをえなかった方法であり、決して自分から特化していこうと思ったものではない。といっても彼女は、その運命についていつまでも嘆き続け、苦々しい思いを引きずって生きてきたわけでもありません。「食べなきゃいけないということになれば、それほどまずくもない」*2もの、それが彼女にとっての絵画です。こうした絵画との微妙な距離感は、このルートのみならず作品全体にとっても重要なものと思います。それは、障害者と障害との距離感の実際に近いのではないかと私は想像するからです。

自己自身を与える

 絵画は琳にとって、他人に自分のことを伝える最も勝手のいい方法でした。

 ただ、彼女は絵画において「自分そのもの」を与えることにこだわります。女でもなく身体障害者でもなく、芸術家でもなく高校生でもなく、手塚家の人間でもなければ美術部員でもない、言ってしまえば人間としてでもない、あらゆる「~としての自分」以前の自己自身です。それは例えば次のようなものです。彼女は学園祭のためにある壁画を描きましたが、それを指して「自分で自分を表現している」と形容しました。なんの媒介も解釈も必要なしに与えられるもの、自己顕現するもの、それがいつも彼女が伝えようとしている自己自身なのです。

 しかし、かりにそのようなものが絵画に宿るとしても、ひとはそれを理解することができるのでしょうか。というよりも、それをなにかしらの概念に切り取ること、ある「~として」を適用することこそが、なにごとかを理解することなのではないでしょうか。個展の打ち合わせシーンでも言われていたように、絵画にタイトルをつけないことはできないのです。「無題」も無題というタイトルになります。タイトルがつかない作品とは、産まれることのなかった作品のことです。

 同様に、琳を理解するとはふつう、琳を「友達として」「恋人として」「芸術家志望として」理解することになります。しかしそれは彼女の望むところではないのです。彼女の求める「わかる」は、先のような自分そのものが直接に相手に受け取られるという、並外れた事態なのですから。これでは、琳と主人公含む周囲の人間に齟齬が生じるのも当然のことといえるのです。

久夫「先生はお前に、お前じゃない別の何かになってほしいと思ってたんだ。それで……」

久夫「……ごめん。俺も、俺たち二人が別の何かになれたらと思ってた……もっと、友達以上の何かに」

久夫「だから俺は自分を抑えられなくてあんなにイライラしてたのかもな、先生と同じように」

琳「何がもっとなの? 私にはこれ以上の私はないよ。私はこれで全部。わけわかんないよ」

シーン「レゾンデートル」(強調は引用者)

  しかし、もしそのような全面的な「わかる」が可能だとしたら、恐ろしいことではないのでしょうか。ありのままの相手、自分が云々というのは。それは事実上人間が使用されることの肯定に、というより、「事実上」も肯定も否定もくそもないような次元への移行に思えます。たとえ琳にそんなつもりがなかったとしても、久夫は使用されているかのようだったと私は解釈しがちなのです。彼はときには向精神薬のようであり、ときには自傷器具のようであり、自慰に使う玩具のようでした。

久夫「やめてくれよ、琳! 俺はお前の絵のために自由にもてあそばれる、くそったれのミューズじゃない!」

久夫「お前が追い求めるもののための踏み台じゃない、俺は俺なんだ!」

 
シーン「大嫌いなもの」ほか

 この久夫のような抗議*3がなかったら、事態はどうなっていたのでしょう。ありのままの相手なら受け入れたらよい、そしてまたこちらも全て自分自身の全てを開放したらよいというのは、「俺は俺なんだ!」という、久夫の悲痛な訴えあるいは嘆きを軽く見積もり過ぎなのではないでしょうか。「俺」は解消できるのでしょうか。後にまた取り上げますけれども、私がお腹が空いているときにあなたはお腹が空いていない、私がムラムラしているときにあなたは一切その気が起こらない、あなたが痛いときに私は痛くない、そして何より、その痛みや餓えを伝える言葉を持ちあわせていない、そのような断絶を消し去ることは、少なくとも琳と久夫においては実現しなかったのです。

2つのエンド

 琳の自己自身を与えようとする試みは、成功したとは言い難い結果に終わります。その挫折は、自分と他人とが決定的に別の人間であるという断絶に根ざしていました。

琳は俺の気持ちをわかってくれたんだろうか?

琳の世界はなにもかもが絶対で、自分本位……絶対的に自分本位なんだ。自分以外の他者の視点でものを見ることが一切できないかのように。

でも結局、それができる人なんているんだろうか? 客観性とか利他主義なんて、自分が心優しいと思いたい人たちのための幻想でしかない。

現実がより大きな何かを覆い隠すベールに過ぎないと考える人にとって、芸術が幻想でしか無いのと同じように。

もし世界が自分を中心に回っていると考えるのをやめても、あるいは神話的な箱の外側について考え始めても、人は抜け出すことのできないもっと大きな箱の中にいるに過ぎない。

そうすると結局、琳も俺たちと同じってことかもしれない。

 
シーン「問題のシーン」

琳「『君の気持ちがわかる』って、誰かに言ってほしかったんだ」

琳「そしたら最高だと思わない?」

久夫「ああ……でもどうしてそれがそんなに大事なんだ?」

琳「だってそうじゃなかったら……耐えられないかもしれないから」


シーン「君だけに見える世界」

 問題は、その断絶を実感として持ったときにどう耐えるかということなのです。バッドエンドを除く2つのエンドの差異は、その耐え方を探るため何を手掛かりにするかという違いであったと思います。

裏返る論理とひとつの決断

 ニュートラルエンドでは、言語の汚染に耐えつつも、琳はあくまで絵画という方法を追求し続けるという決心をします。

 なおこのルートでは「自分と他人とが決定的に別の人間である」というのが、先の節ですこし考えたような断絶とは違って、身体的なものを捨象した論理的な違いに純化されています。つまり、「わかる」ということも、互いの行動の意図や思想において同一の解釈をもつことというように意味が縮減されています(これは作中では、ピカソの「青の時代」に関する美術史の知識の有無を例に語られました)。したがって、「自分と他人は決して理解し合えない」というのは、人が言うこと感じることの解釈はさまざまであり絶対的な正解はない、という相対性を意味しています。

さえ「もし今、あなたが青の時代の作品を見れば、ピカソの友人カサヘマスのことを知る前とはまた違った解釈をするでしょう」

さえ「芸術に触れるというのはいつでも個人的な経験であって、偶然や状況によってしか相互性は生まれないの」

さえ「どんな芸術作品にも無数の説明が存在しうるけど、そのどれも作者の意図するところじゃない、ということもあり得るかもしれない」

さえ「人は孤島ではない、はずなのにね?」

俺は最後の言葉が何を意味するのかわからないままうなずく。

さえさんの言ったことは意味が通ってる。ひとつを除けば。

もし芸術が琳の言ったようにコミュニケーションで、しかしさえさんの言ったように誰もが自分だけの秘密の言語を使っているのなら、人が意思を通じ合うことなんて望みようもないじゃないか?

あまりに無意味で、無駄に思える。

芸術はやっぱり俺の分野じゃない。

 
シーン「青の時代」

 こうした意味での「自分と他人は切り離されているという一つの人間観」に久夫は同意し、琳にそれを伝え、受け入れさせました。これは初めて琳が人の意見を取り入れた瞬間かもしれません。そして、まさにその論理を推し進めることによって、琳は主人公との急速な離別を決断します。すなわち、芸術家を目指しての専門学校への転入を決めるのです。

久夫「でも、山久はどうするんだよ? みんなと卒業したくないのか?」

琳「みんなの人生は私の人生じゃないよ」

琳「みんな独りぼっちだって、君が今言ったよね」

久夫「そんな意味で言ったんじゃ――」

琳「君っていつも、今を楽しまなきゃとか、自分の人生を生きなきゃとか言ってたよね」

琳「私も自分の人生を生きないと」

琳は俺の言葉をもっともらしく捻じ曲げて、また逃げようとしている。腹が立ってくる。

 
シーン「君だけに見える世界」

 この一連のやりとりは、素朴な論理がいかにすぐ裏返るものか、信用ならないものかという琳の警戒が露骨に表されているところかもしれません。久夫のモノローグに反して、ここで琳は言葉を捻じ曲げてなどおらず、相対主義がある種の破壊的な側面をもつという伝統的な考えに沿っているにすぎないと思われます。お互いの世界の見方はあまりに異なっており、相互理解は不可能であるということを素朴に主張する人がまともな対話をすることができるのでしょうか。*4

 久夫は一方では(さえさんの話を受けて)自分と他人とが決して理解し合えないのだとどこか得意げに語りますが、他方で琳がまさにその通り久夫の理解外の行動を取ると非難する。どうして自分の言ったことに忠実に「お前がそう思うなら俺がどうこう言うことじゃないな」と送り出さないのでしょうか? 結局、久夫のほうが琳と離れるのが嫌だから、あるいはその心づもりができていないから、終始必死に止めようとしているように私には見えました。ここで言葉を捻じ曲げているのは果たして誰なのか、そして言葉を捻じ曲げさせるものとは何なのかについて、また別の機会を設けて考える必要を強く感じます。

 では「逃げようとしている」についてはどうなのでしょうか。たしかに琳は独断で、久夫の態度に失望しいじけたとも言えそうな形で芸術学校への転入を決めました。しかし、単に琳がそれまでの人間関係を切断して自らに引きこもったのだと断じることは決してできないでしょう(シーンタイトルはそういう風にとれなくもないですが)。「自分なりのやり方で人をハグできるように勉強する」と最後に琳は宣言しました。彼女が決意したのは次のようなことです。すなわち、言葉が不得手であっても、自分と他人が決定的に分離されているとしても、絵画という方法において、先の「並外れた事態」があたかも起こるかのような表現を地道に追求することです。そうした先どうなるのか、何が見出されるのかは、作品で描かれる範囲を超えていますけれども。

 それに一度切れた人間関係というのも、それがいいものだろうと悪いものだろうと忘れた頃に回帰してくるものではないでしょうか(相手が死んでいなければ、あるいは死んでいても?)。人の情報がところどころに散らばりがちな世の中、簡単にそれらを抹消し尽くせると思うのは甘いというもので、逃げるのも簡単ではありません。そしてさらには、芸術家を志望するというならば、既に知り合っている野宮先生やさえさんとの関係は継続せざるを得ないでしょうし、別に誰かととりわけ親密にならずとも、芸術家集団との何らかの関わりを持つことは避けられないでしょう。それも含めて琳は勉強すると決めたということなら、どうして彼女が「逃げようとしている」ことになるのか、私には理解が難しくなってきます。彼女はむしろ、より一層逃げることの難しいしがらみに足を踏み入れていないでしょうか。

 またそのような決断は、実際のところはどうあれ、最終的には自分一人で行ったということにしておく必要があるのではないでしょうか。後になって上手く行かなかったからといって「あんたがあのときこっちに行け/行くなって言ったからそうしたのに!」というように誰かに文句を言うことになるよりは、全く事前の相談もない独断のほうが幾分ましではないでしょうか。

自己の背後の否認

 グッドエンドでは、先ほどでは否定的にしか言及されていなかった、自分と相手の感覚的な断絶と共鳴とが主題に上がります。最後に用意された二人の初めての双方向的な性行為は、象徴的だったかもしれません。

 ですが私が注目したいのは、このルートにおいて琳は初めて、自己もいわば背後を持っているということを認めたということです。

 「紙とペンとインクにはなんでも伝えられた」と琳は言っていました。ただ、これをいったん認めるとしても、「伝える」というのは自分の意識から逃れることをも伝えるということになるのでしょうか。自己自身を与えるという試みに際して、もし自分が理解している限りの自己しか表すことができないとすれば、自己自身をあらかじめなんらかの自己像として切り取ることにはならないのでしょうか。自分自身の意識にすらないような自分という泥沼の困難に琳は薄々感づいてはいました。展覧会の作品づくりにおいて、なぜ琳には密室が、煙草が、自慰が必要だったのか。それは、ともかく意識の外部に赴くことが、無意識を掻き立てることが必要だと感じていたからかもしれません。

 琳にとっては、あらゆる欲求は究極的には自分の都合で打ち消したり喚起したりできるはずのものだったのです。基本的に、都合の悪い欲求に突き動かされる自己というものは認めたがらないのです。あるいはそのような自分を認めるとしても、それがあえて呼び出された限りで認めるのでなければなりません(あえて異常な環境に身を置き、物質の力を借りて)。彼女はそのつど彼女の全体であり、「自分の自覚に先立っている自分(の欲求)」などあり得ない、というか、あったとしても決して受け容れられないのです。グッドエンドのほうではありませんが、そのような心情の吐露がありました。

琳「ぴったりの言葉っていうのが絶対出てこないのがどうしてなのか、わからない」

琳「自分で笑おうって思ったときしか笑えないのがどうしてか、わからない」

琳「自分が今にも爆発しそうなのに、どうして私の中から何も出て行かないのか、わからない」

平然とした無表情の顔は、その言葉を口にしながら揺らぎもしない。

いつもの落ち着いた声が普段よりわずかに小さくなる。

琳「でも誰が……誰がそんな気持ちになりたいなんて思うの?」

琳が俺を見ると、本当にそれがあろうとなかろうと、俺はその目に映る悲しさを想像する。

琳「私はいやだ」

琳「そんな気持ちになんてなりたくない」

それから俺たちはしばらくのあいだ黙り込む。

 
シーン「君だけに見える世界」

 琳が決してそれを受け容れられないのは当然のことでした。ぴったりの言葉を当てはめることができない、そして絵画を用いてですら十全には掬えない、そのようなものは琳にとって、自分のうちに巣食いながらも自分の努力を嘲笑う得体のしれないエラーと見えていたのです。彼女をとらえた「自分がおかしいのではないか」という不安はまさにこのことではなかったでしょうか。総括するのは、次の一連の琳の台詞です。

琳「こんなのおかしいってずっと思ってたんだ。私の中にあるものと違うって。自分がどんな風に感じてるのかちゃんと説明できない、っていうか」

琳「だから、もしかしたら私は自分の感じてることがわからないんじゃないかって思い始めた。おかしいのは私自身なんじゃないかって――」

琳「そんなことを考えてた」


シーン「レゾンデートル」

 琳は二つの困難に直面していました。第一のものは、さきに述べたように、琳の求める「わかる」の問題です。*5

 そしてもう一つが、「何かがおかしい」というもの。これは自己の背後が自分の意識から逃れるということに由来する問題でした。

身体的欲求の投影

 この「おかしさ」に関連して私が作中で気になっていたのは、琳が身体的な欲求を他人に投影して表現する傾向があることでした。例えばAct.1では、頭痛がするという久夫に対し、「お腹が空いたの?」と尋ねる。その後すぐにわかりますが、このとき実際に空腹だったのはこの質問をした琳のほうなのです。それまで奔放なふるまいを見せる彼女が、いきなり「わたしはお腹が空いた」と言わないことに私はどこか違和感を覚えました。

 もうひとつの例は、シーン「非現実逃避」の中の言葉です。

久夫「俺はただ、お前との間の距離を感じたくないんだ」

琳は鳥のように首を傾げ、考えながら少し目を細める。

琳「なら私に触っていいよ」

久夫「なんだって?」

琳「触っていいよ、触りたいならね。それで気がすむんでしょ?」

久夫「さあな」

琳「触ってみて」

 私は、この唐突な提案は普段から琳のほうが接触を望んでいたからこそ出てくる言葉ではないかと思います。そして問いかけの形をした願望ではないのかとふと思ったのです。「触っていいよ、触りたいならね」と一言置いておけば、「触れる」という事態を望んでいたのはこれを言われた久夫だけになるとでもいうような、「まあ私にはそんな欲求特にないんですけどね」とでもいうような、何か疎外するようなニュアンスを私はこの言葉に読み取ってしまったのです。*6

 しかし、もしその両時点で、久夫が私の思いつくような意地の悪い指摘(君は自分の欲求をこちらに投影している)をしたとしても、琳はまたのらりくらりと言葉遊びでそれを躱したことでしょう。彼女が自らの身体的欲求に折り合いをつける過程もまた身体的であり、何か観念を頭の中で操作するのではなく、ある特定の場で、全身に迫ってくるような実感を伴うことが必要でした(加えて、それを自分の思い過ごしにすることを許さない証人がいると、より確実でしょうか)。一度目は、久夫に自慰しているところを発見され、補助されることになった場面。ただ、これはのちに「本当はそんなことを望んでいなかった」として、久夫もろとも琳の頭の中で純粋なハプニングとして否認されることになってしまいますが。二度目、もういいかげん認めざるを得なくなったのは、シーン「レゾンデートル」の、琳に泣くということへの衝動が初めて生じた場面でした。彼女は、特に泣こうとは思わないのに泣いていた自分を初めて発見し、認めました。その後に彼女が「私も変わらないといけないね」と言ったのは、把握する以前にそうなってしまっているような、ゆえに表現が取り戻せない遅れを被るような、そのような想定を一度試みようということだったのだと私は思っています。

恥じらい

 私は以上のような読み方を適用した結果、グッドエンドにおける最後の二つのシーンも少しとらえ方が変わりました。まず、琳が久夫の部屋に赴きセックスへ至るシーン。これは、琳が自分の性的欲求を認めたうえで、やはり他人に転嫁し挑発するようなところも残しつつ行為を進めるという、ある種の「恥じらい」が生じる場面なのだと思いました。恥じらいは、自分のすべてを性的欲求のほうに投げ出してしまって、行くも来るもご自由にという放埓ではなく、あるいははなからそんな汚いものは絶対に見せない、持っていることすら肯定してほしくない、という潔癖な制御とも違います。自分から見せたくはない、でも隠しきることも望んではいない、隠すしぐさが触れる距離まで互いを近づける、そのような様態なのだと思われます。それは、あの殺伐とした、刑の執行を思わせるような自慰の補助シーンと違って、どこか遊びのようなのです。この様態が、琳にとっては自分自身の身体との和解交渉の始まりだったのかもしれません。

 この恥じらいはやはり性行為の周辺によく見いだされると思いますが、別にそれだけではありません。琳がそうだったように、人前で泣くことにも、お腹が空いたと伝えることにも、寂しいからここにいてほしいと伝えることにも、雨に濡れたから拭いてほしいと伝えることにも、恥じらいとの格闘があるでしょう。それは、久夫と一線を越えることはなかったニュートラルエンドの琳も、いずれ新天地で直面することになった課題だろうと思います。*7その格闘の一回目が実際にはどのような様子になるかを物語の範囲内に収めていたという点で、グッドエンドのほうが物語としてたしかに十分なものになっていたのでしょう。

変化しつつあるもの

 ただし、この恥じらいの訓練も、性的に繋がることも、けっして終局的な解決ではありません。それらが実存的な孤独に駆られた二人の刹那的な慰め合いだったというほどに単純化するのは、何か不穏に屈折した見方な気がしますけども、私の第一印象は正直それに近いものでした。二人が結ばれたという事実を作ろうと、「好き」という言葉を口にしてみようと、ずっと琳が悩まされていた「何かがおかしい」は消えず、実際彼女はそれを物語の最後まで恐れています。

琳「私……私さ、君といると時々、すごく逃げ出したくなっちゃうんだけど、でも動けないんだ、足がレモンのパンナコッタになっちゃったみたいで、胸が破裂しそうで……」

琳「君といると、私以外の誰かにならなきゃって気持ちになるんだ」

琳「これって怖いことだよ」

琳「君が優しくしてくれるたびにそう思うんだ。昨日みたいに」

琳「そういうとき、どうすればいいか全然分かんないんだ。大変なんだよ」

琳のかすかな声がかろうじて聞こえる。そのささやきは、口に出すどころか考えるだけでも恥ずかしすぎることの告白だ。


シーン「存在の証明」

しかし、久夫にかなり近いところまで接近して、彼女自身に変化が生じたのは確かだったのだろうと思います。琳はその恐怖についておそらく初めて誰かに語ろうと試みたのですから。それは屈辱の、あってはならない経験なのですけども、久夫はそれを良しとしました。いや、良しとしたのかはわからないですが、それをとりあえず聴いていました。

 最後のタンポポ畑のシーン、私はそれまでの物語の醒めた雰囲気に対して脱力的であまり好きではありませんが、この後これまでとまったく同じくモラトリアムを食いつぶす、ということにはならないのだろうとは思いました。琳が雲について述べたように、変化しつつもどこか同じであるということが、この物語における主要人物のあり方ではないでしょうか。そのようなあり方にに対し、タンポポが種子をつけ飛散させる、そしてまた芽吹く、という繁殖的なあり方とはどのような関係にあるのでしょうか。この小道具が無意味にここに配置されているとは、私には思えないのです。

 

 

 私が現時点でこの物語をネタに言えそうなことはこれが全てです。しかし芸術作品と美について、あるいは性と性に対する意識について、あるいは言葉と世界と自己の関わりについて精緻に考える訓練を経た人なら、この物語から取り出せるものはずっと豊かになるように思います。そういう方に是非ともプレイして私に何か教えていただきたいと思っています。

 

 他のルートについても何か書きたいことがあればいつか書くかもしれません。それではまた。

 

 

 

*1:後期ウィトゲンシュタインは、「いまの新しい感覚をある感覚と同一の言葉で表す」わけではなくて、「同一の言葉を適用するということが、当の感覚をある同じ感覚にするということなのだ」という主張をした? 私はウィトゲンシュタインについてほぼ知りません……。 ただ言葉を発すること自体に、表されたものを同一化させる力があるとすれば、言葉を発しないことで、自己について完全に沈黙を保つことで何が起こるのか(あるいは起こらないのか)は興味深い問題です。

*2:これは彼女の独特な例えで語られています。シーン「自己参照論理の問題」参照。

*3:実際この言葉は単に振り回されたことへの怒りではなく、久夫にとっては別のニュアンスをも含んでいたのだろうと思われますが。恋愛関係を求めているのにそれに正面から応じない琳への苛立ちとか。

*4:これは非常に入り組んだ議論になると思うので脇に置きますが、私はそうした立場でまともな対話は成立しないのではないかと思っています。そこになんらかの論理が持ち出されてくるとしても、それは互いの利害を突き合わせるための交渉になることと思います。

*5:

>琳「私……絵を描くだけで充分だと思ってた。少なくともそれだけは上手くできると思えたから」

>琳「頑張れば私の中にあるものはみんな絵にできるって思ってた。実際にできてたんだ」

>琳「でも、もうそれだけじゃ足りなくなってる。だって私以外の誰にも見ることができないなら、私はやっぱりひとりぼっちだから」

>シーン「レゾンデートル」

  これはたとえ、自動筆記のようにして自己の背後を垣間見るような絵画を生産した(「実際に(すべてを絵に)できてた」)としても、それを見る者は見たいように見てしまう、という問題でもあります。こちらの困難は他人との関係で生じるものと言え、主に絵画表現の追求に焦点を当てていたニュートラルエンドについて、それは他人との関係においては何も解決していないという指摘にも読めます。

*6:ちなみに、実際に琳が自分から久夫に「触らせてほしい」と告白するのは、ずっと後のことになります。シーン「息もなく、音もなく」参照。

*7:付け加えるなら、個別ルート以前、生理が始まったので一人でその場を去りたいことを久夫に伝えるシーンにもその兆しはありました。ただこのときの琳は、恥じらいというよりかは苦々しい表情が選ばれていました。そしてこのときの台詞が普段からみて実に明晰で含みがないのは照れ隠しなのか、それとも過度の切迫、混乱を示すものなのか決定するのは難しいです。琳は追い詰められたときほど論理的になるように思えるからです。恥じらいの言葉と、本気で拒絶する態度の境界は何なのでしょうか。自分の身体を肯定することが出来ているか、でしょうか。