無題

 先日、親族ではありませんが、私にとって重要だった人が亡くなりました。
 どれほど冷静に見積もっても、私がこれまで最も無防備な姿勢で向き合ったと言わねばならない人です。

 私は何か心をかき乱されるような出来事があったときには、内省し自らの意識にある内容をできるだけ多く書き出して内心の整理をはかるのですが、それらの多くはここでわざわざ公開する意義もないような、混沌としてごく個人的な心象に満ちた断片となります。今回もそれを書くことになるのだろうかと思っていたら、そうはなりませんでした。なぜそうしなければならないのかわからないのです。そもそも大して心をかき乱されてなどいないのではないか? とも思いました。昨日はなぜか、葬儀から帰って、ある本の一部をひたすらに画面に打ち込んでいました。

 葬儀の場に出ていってみて、あるいはその本を読み返して一つわかったことがあります。それは、私はその死を悲劇の物語に、あるいは新聞の三面記事にあるような不幸話にしようとしていたということです。それは今回ばかりは回避しなければならないことだと思いました。

 「悲劇」の語源は「山羊の歌」であり、「スケープゴートの歌」と翻訳すべきだとされている。著者によれば、ギリシャ悲劇の起源は動物を生贄にさしだす儀式にあった。スケープゴートについては、百家争鳴の意見があり、ここで紹介する余裕はない。いずれにせよ、共同体は生贄を選び出し、それを破壊することによってそこから価値を引き出す。クラスで誰かをいじめて喜ぶのもスケープゴートの思想の実践であるし、「オイディプス」の上演を鑑賞することもその実践である。

テリー・イーグルトン、『甘美なる暴力――悲劇の思想』 | 存生記 - 楽天ブログ

 私は以上の本を開いてもいませんが、悲劇は人に望まれているというのは確かなことのように思われます。最近ある歌舞伎俳優の奥方が若くして病気で亡くなられたと聞きますが、その報道の仕方と反応をなぞっただけでもそのような印象を持たずにはいられません。ともあれ私が今回の出来事を何らかの悲劇、不幸話に類するようなものとして即興的に書けば、ここを見た人が残忍な喜びを感じることに貢献するかもしれません。そうすることは悪趣味であっても、禁止されるべきことでは全然ないと思われます。しかし今、この状況では、関係者各自の認識と現実に起きたことの間に多大な混乱があり、それが一定の振幅に減衰するまでには相当の時間が必要とされることを分かっていながら、そういうものを書き、言説として効力を与えようとするならば、不必要な、起こらなかったはずの危険を呼び込みかねないと思われます。私が今後、諸々の種類の妄想狂として周囲をかき乱さないためには、いつになく慎重に言葉を選ばなくてはなりませんし、必要な規制を敷かなければならないと感じています。*1

 ところで、弔意という感情が私の中にいつ到来したといえるのか自分でも分かっていません(葬式マナーを説くあるページ曰く、葬儀に参列したことが弔意を表したことになるとのことでしたが)。それはこれから、その人がもういないということが実感された場面で何度となく感じることになるものだと予想しています。だからこのような場で、また今の時点で、私が形式的な弔辞めいた一文を記しても、それは修辞の域を出るものではなく、なんの証明にもなりません。私のこの文章は、弔意のアピールのために書かれるものではありません。実のところ、今まで私の心にあるのは、それとは別の感情なのです。しかし、その内実を詳細に書くことには上のような慎重さが必要なので、まだ困難が伴います。

*1:ここに書いた文章の内容がどこかに流布し、何か直接に現実の人間に関係づけられるに至る、という可能性は低いでしょう(それでもインターネットですから、起こらないとは限りませんが)。だから、他の人に直接的に迷惑な言明を慎もう、というつもりではあまりないのです。私はむしろ、ここに何かを真実の言葉として述べることによって自分の意識が再帰的に被る影響についてをより心配しています。