『かたわ少女』静音ルートについて―公正さ、声、切断、日常の唐突

 なんだかんだいろいろ考えることのあったルートだと思います。登場人物数が多かった割に一言も触れてない人たちがいますね……まあいいか。

 いちおう静音という人の概要を公式サイトから引いておきます。

羽加道静音
意志が強く、押しが強い静音は間違いなくリーダーの器である。耳が聞こえず、口もきけないにもかかわらず、彼女はずっとクラス委員を務めており、たいていの状況で主導権を握る。学内では厳しい監督者、有能な仕切り屋、そして公正なリーダーとして知られている。

 なお、耳が聞こえない(話せない)ことと、彼女の固有の性格面は、それぞれ分けて書いたり分けずに書いたりしますがご勘弁を。前者は一般的なこと、後者は彼女固有の事柄になるのですが、はっきり区別して語れるというものでもないからです。そして私はろうや手話についての知識や現状に関して何も知らなかったので、この作品中の情報から判断した範囲内で書いています。したがって、ここに書かれているろうや手話とはある種のフィクションかもしれません。その検証は、私ではなく学者の領分になるでしょう。もちろん自分でも今後勉強するつもりではいますが。

公正さ、気づかれない依存、第三者の介入

 作中には、静音の通訳をやっているミーシャというキャラクターが登場します。中盤まで、どんな長大なやり取りも逐一彼女が手話にし、静音と主人公のコミュニケーションを可能にしてくれます。さらに、主人公以外とのほとんどあらゆる意思疎通も片っ端からミーシャは通訳しています(3人以上の会話や口論ですら全訳するのです)。私はこれを見ていて、彼女がここまでやる原動力は何なのかと思ってしまいました。実際、通訳に疲れて放課後にぐったりしている描写もありましたし、これで何らか見返りが得られていないなら、ボランティアの域を超えて不当な労働ではないのかと。普通のエロゲなら、二人は「仲がいい」のだし、「そういう役割を割り当てられたキャラだから」ということで、お約束として不問に付されていたことかもしれません(エロゲ主人公の家の家事を全面的に受け持つ妹やメイドキャラのように)。こうした、あえて突っ込まれないようなタダ働き*1を、この作品は看過しません。

 静音・ミーシャの非対称的な二者関係に主人公が介入することによって「公正/不公正」という概念がはじめて生起することになります。「同じことをしているのに、むしろ自分のほうが貢献してきたというのに、なぜあいつにだけ見返りが与えられ自分には何もないのか」……「自分は、自分も含めて誰をより大事にするべきであるのか」。ここまでいくと言いすぎかもしれませんが、手話を習得した主人公に対するミーシャの思いの内には、似たような思考が含まれていたのではないかと私は想像します。自分と他人の負っているもの同士で比較ができてしまうということは無私無欲の倫理の限界であるかもしれませんが、公正さの始まりでもあります。

 また、物語終盤では静音の側から「私はミーシャを自分の延長のように感じてしまっていた」という認識が出てきます。静音は、手話の分からない人と親しくなるためにはミーシャを介さなければなりません。人を通して自分語りをするということの傲慢さをよく理解していた彼女は、結果としてミーシャ以外の人と親しくなる可能性を閉ざしました。その瞬間から、静音とミーシャの境界は危うくなったのです。ふつう人は文字の内容に集中してそれを読むとき、その背景がどんな肌理をもつかを気にすることはありません。静音はミーシャに自分の手話を訳させれば訳させるほど、静音にとっての彼女は透明になっていくわけなのです。また、ある一人しか親しい人が居ないなら、その人の固有性というものに頓着することにも大した意味がなくなることでしょう。静音は、自分でも語ったように、ミーシャ自身には興味をなくしていくと同時に深く依存していったのです。依存は、依存しているという事実を当事者に気づかせないことにその特徴があるのではないかとつねづね思います。依存に気付かされるのは、いつでも愕然とするような体験です。作中で、ミーシャが静音の通訳を放棄する期間がありますが、まさにこのとき、静音は自分の身体の一部が突然機能しなくなったような衝撃を受けたのではないでしょうか。

 このルートは一見するとありがちな三角関係ラブコメの体をしていながら、実質は全く違っています。どこか歪み、危険を孕んでいるように見える静音とミーシャの二者関係が、主人公の加入により変化していくさまに見応えがあるのです。そして、静音の紹介文にもある「公正さ」に終始こだわるのがこのルートです。ライトな読み物によく見られる、ヌルい馴れ合いの秩序ではありません。公正さなのです。

影響力=声への執着

 ここまで来て何なのですが、私の言いたいことをすでに明快に書かれている方がいますので、長々と引用させていただきます。これを読んでしまうと、私の文章がむしろ蛇足に思えてくることかと思います……。

羽加道静音

(中略)

 ボクにとっては、強烈な親近感をおぼえる子です。
 とはいえ、実際に目の当たりにしたら絶対にケンカすると思いますけどね。
 ディスプレイの向こうではなく目の前に彼女がいたとして、同情心や保護欲抜きで「かわいい」と言えるでしょうか。
 強引に自己中心的に、あの手この手で弛まず干渉してくる彼女に向き合い続けるなんて、体力も根気も無いボクには無理な気がします。残念なんですけど。
 むしろ、彼女を遠巻きにするクラスメートの方に同情的で。ボクもきっと、そう振る舞ってしまうと思うんです。ボクもわがままだからね。

 彼女は、この世界に「手応え」を求めています。
 反発でもいいから反応してほしい、その気持ち、ボクにもわかるんです。
 そして、彼女がどれだけの孤独の中を生きてきたのか、思いを致さずにはいられません。
 音の無い世界で、まわりの人の反応だけを頼りにフィンガースナップの訓練を続けた彼女の幼少期を想像すると、胸が押しつぶされそうになるのです。
 だいいち、なぜ発声訓練を受けていないのでしょう。現在の聾学校では、手話より優先して発声と読唇の訓練を行うはずです。
 医療監修がしっかりしている本作で、これが単純なミスやご都合だとは、ボクには思えなくて。

 「誰かの心に何かを残したい」という考え自体は、批判されない立派なものかもしれません。
 しかしボクは、どうにも腹立ちを覚えて仕方ないんですよ。彼女がその裏でどんなことを思っているか、それはとても褒められたものじゃない。
 ボクたちは勇者じゃない。自分以外の何者になることもできない。誰だって成長する過程で、必ずそのことに打ちのめされるんです。
 誰だってそうなんです。誰だってそれを乗り越えて、それでもやることを見つけて、そして生きていくんです。
 だから、そのことは自分の人生に絶望して、逃げ出す理由にはならない。余生を過ごす老人のような達観に耽ることは許されない。
 自分の道を見つけることもせず、「誰かの心に爪痕を残せれば、自分のことを思い出してくれるんじゃないか」とか、「自分という重力場で他の星が運行を変えるんじゃないか」といった傲慢な妄想を繰り広げるのは、あまりにおこがましいとは思いませんか。
 「渚に残した足跡のように生きてるしるしを熱く残」したいなら、まず自分の行き先を考えろ、と言いたい。足跡が残るのは結果であって、それを目的にするもんじゃない。
 ええ、今ボクは彼女のことを語ってるんじゃありませんよ。ボクのことを言ってるんです。悪いか! 悪いよ!!

http://gekikarareview.com/review_h/1506katawa.html(赤松弥太郎氏)

 
 静音の「大音量で指を鳴らす」という特徴的な行動。赤松氏も注目したように、これは単なる気の利いた仕草ではないことは明らかです。音が聞こえない彼女にとっては、指に力を入れただけで人々を驚かせたり振り向かせられるというのは、何か魔法めいた技術に思えるものだったのかもしれません。

 また、必要以上に大きな声で喋るミーシャが近くにいることでも、静音は注目されることでしょう。彼女にとっては、人がこちらを見なければ、注意を引くことができなければ、何事も始まりません。作中で主人公が正しく推察するように、相手と視線を交わせる状態にし、視覚的なリアクションを引き出さないかぎり、静音は相手の状態を把握する材料がないのです。こうした事情と、ときに暴力的に挑発し人を巻き込もうとする彼女の振る舞いはたぶん無関係ではないのでしょう。

 一方で彼女は、「影響を受ける」ということに関してはなるべく避けたいと思っているようでした(実際に避けられているかどうかはともかく)。人の興味や自発性を喚起するのは好きだが、自分が責任を問われたり逐一指示を出したいわけじゃない、ということを、静音自身何度も主張していました。また作中、彼女は何度も笑いを隠したり抑えるのですが、これがなぜなのか私はずっと気になっています*2。これは単なるしとやかさの表現なのか、あるいは自分が意図しないのに感情を発したことになるのが嫌なのでしょうか(でも表情を完全に作ることはできません。頑張ってはいたけれども)。自分の意図通り人を動かすのは望むところだが、自分が自分の意図に反して動かされるのは嫌。影響というより操作への欲望? 「(静音は)人を自分の思い通りにするくせがあるんだよ。そうしたくてすることもあるし、そうでなくとも自然とそうなっちゃうこともあるし」とは、ミーシャの言です。

 これらの静音の性質と、作中から読み取れる手話によるコミュニケーションの特徴を関連させる必然性は特にないかもしれませんが、やってみましょう。

 静音は、最終章近くで自分自身について加えた反省を主人公に伝えています。ミーシャを介さなければ、自分は自己開示すらできない。人と親しくなったり信頼されることに大きな壁があった。だから自分を語るのではなく、親しくなろうと歩み寄るのではなく、人を挑発し発奮させる方向へ動くと決めたのだ……彼女はそう言います。彼女にはそれが可能だと思われたのです。

 手話によるコミュニケーションは、主人公曰く、話す前に全ての内容を思い浮かべなくてはならないために、言うべきか言わざるべきかを考える時間があります。だから、手話は常に韜晦とともにあります。また、手話は表されていることが嘘か本当か見分けがたい、と主人公は感じているようです。これは別に他の第二言語にもいえることでしょうけども、それなりの熟練がなければ、言葉の細かいニュアンスというのを汲み取るのは難しいことです。彼女は本来ジョークも皮肉も通じる人なのですが、手話のこうした事情をもとに、文字通りに解釈することだってできる。相手が嫌がっていることがなんとなく感じられていても、「嫌だ」という手話で言われないかぎり、自分はまだ諦めなくてもよい、この方向性で間違っていないのでどんどん突っ込め、ということにできた。はっきり(手話で)言われたことが全てなのだと。以上のことによって、相手が自分の、もしくは自分が相手の気持ちを察することは、可能であったり不可能であったりします。このことが、静音の関与するコミュニケーションの錯綜をより複雑なものにしているのではないでしょうか。

二分法と絶え間なき切断

 赤松氏同様、正直私も静音という人物にはついていけなさを感じてしまったのですが、とりわけうんざりしてしまったのは彼女のその極端さです。作中通して仲違いをしている砂藤リリーの人物評でも言われているように、静音は自分の意図を実現するかしないかで、周囲の人間を完全な従者か、倒すべき敵かに早々に区分します。状況に応じて関わる人を変えるとか、同じ人でもいつも同じ態度だとは限らないと考えるとか、そういう発想はないのだろうかと思ってしまいます。

リリー「紅茶には何が一番合うと思いますか? クッキー、それともスコーン? それぞれ違うけど、私はどちらも好きです。選ぶことなんてできません」

「いつも私にどちらの味方につくのか選ぶよう強いる人、どんなことでも勝負にしてしまうような人は好きではありません」

~シーン「現在形」より

 こうした極端さは、単に人間関係上で現れているばかりではありません。作中、主人公やミーシャは静音の特異な時間感覚にまで言及しています。すなわち彼女は、ターゲット設定→火をつけようと奮闘→結果を確認 という一連のサイクルで、人や活動への関心を完結させようとするのです。彼女は望む結果になればそれで満足し、結果に満足しなければ憤慨し、どちらにせよ、その事柄を一度切り捨てます。彼女の与えた影響が「他人に」残っていることが確認だけできればよく、彼女自身に思い出は必要ないのです。それに、敵とみなした人間を見直す機会がないのと同様、不首尾に終わった結果については手段ごとなかったことにします。まるで、そうすればより完全な人間になれるとでも言わんばかりです。それは主人公がそう捉えるように、常によくありたいという彼女の向上心なのかもしれませんが。

 これは深読みになりますが、彼女はあらゆるテクノロジーに対してもそういう態度を取ってきたのではないでしょうか。うまく動いてくれなかった手段は捨て、別の方法をとる。彼女は携帯や筆談用のメモ帳を、本当に必要に迫られないかぎり使いませんでした。挑戦の結果、この手段はあまり気に入らなかったのかもしれません*3。彼女は、それが用をなさない状況であっても、優先順位の第一に手話を、次に指を鳴らすことやボディランゲージを置きます。それだけが彼女御用達の、信頼できる道具だからです。

唐突さの解釈

 ストーリー上の転換点として、ミーシャが主人公に迫るシーンがあります。私はこれには少なからず驚きました。唐突だと思えたからです。私はそれになんとか合理的説明を加えようと苦心しました。

 一つの解釈は、ミーシャは静音に対するアンビバレントな感情を持っており、自分に注意を向けてほしいがために主人公を利用した、というものです。これは実にもっともらしい、精神分析めいた説明です。ミーシャが執着し揺さぶりをかけたかったのは、主人公ではなく静音だったのは明らかです。静音の恋人に手を出すことによって、激怒するとか、困惑するとか、そういった彼女の反応を引き出したかったからやったのだと。何より、こう考えたほうがドラマチックな展開が期待できるというものでしょう。

 しかし、この説明からくる期待は、その後の人物たちの自省的な変化による結末によって肩透かしをくらうのです。このスキャンダラスな出来事については翌日に少しだけ言及されるだけですし、少なくともそれをきっかけにした修羅場などは一切描写されません*4。それをライターのエンターテインメント性の欠如ととるのは簡単ですが、それこそ特に面白くはない。あるいは、そうそう現実にそんな展開はない、という観察に基づいたある種のリアリズム(スノビズム?)と理解することもできます。きっとこれは他ルートにもいえることでしょうが、単純に雨降って地固まるという弁証法的解決には向かわないのです。この物語には見えづらい心理的過程が響いているだけで、解決点がはっきり現れることは稀なのかもしれません。

 ところで、ここで私が「肩透かし」だと思ったということは、恋人というのはある種の財である、それを取った取らないという諍いが引き起こされるところのものである、そうであるべきだ、というお約束に私がどっぷり浸かっていたことを示してもいるわけです。

 続いて、いちおう別の説明も考えつくことができます。といってもこれは解釈ならざる解釈です。ミーシャはこのとき、本当に「慰め(comfort)てほしかった」だけであり、そこに打算も結果への懸念もない、喉が渇いたから水を飲むように、ただ欲しかったから主人公の身体を摂ろうとした、という解釈です。

 つまり、このアダルトシーン含む出来事に、物語の流れの上で初めから計画的に与えられていた意味などないということです。意味をもつとしても、それは事後的に付け加えられたものなのです。後付け設定についての伏線を仕込むことがほぼ不可能であるように、このシーン自体は何の伏線にもなりえないものです。しかしそれでも、この出来事の選択肢(ミーシャを拒むか、受け入れるか)によって結末はたしかに変わるのです。それはなぜか?

 自分で立てておきながらこれは難しい問いです。すごく陳腐なことを言えば、事柄を分けたのは罪悪感でしょう。ただ重要なのは、罪悪感を感じる当の行動をとっているまさにその際中には、その行動を妨げるものは何もなかったはずだということです。罪悪感が最初からあって、それが行動を抑制する力を持っていたのなら、当の行為はそもそも行われないからです。喉が渇いたから水を飲みたい、視界もぼやけて耳鳴りもするほどなのだ、そこに他人を傷つけようとかいう目的も計算もないけれども、すでにいくらか飲み干してしまった後で、地面に倒れた隣人と自分の手の痣が視界に入るようになり、いま自分がどういうことをしたのか(自分が水を独占するために彼を殴り倒した)を推論するのです。もちろん、自分がどこで我に返ったのかどうかで、罪悪感は変わってくると思います。バッドエンドの選択肢では、ミーシャも主人公ももはや罪悪感を軽減するような材料はありません。二人は水を全部飲んでしまったのですから(飲まなかったからと言って、まったく疚しさを感じないわけではないでしょうけども)。結果、主人公は3人で対面することすら耐え難いほどになっていました。そのことが命運を分けたといえば分けたのでしょう。

コンテクストと日常

 このシーンは、主人公がミーシャに初めて「警戒感を抱いたfeeling the need to be on guard」シーンでもあります。警戒感なのです。これは私もどこか覚えのある感情でした。しかし、なぜ警戒なのでしょう。私は、主人公は、何を守らねば(guard)ならないのでしょうか。

 今回「警戒感」と表現されたこの心理状態にどこか覚えがあったのは、それが女性向け漫画を読んだときにもしばしば襲い来るものだったからです。その突出した例として、私はシギサワカヤの作品群を挙げたいと思います。シギサワカヤの描く女性は、もちろん全員ではありませんけども、ときどき霊か何かが憑依したかのように男に迫ったり男を誘ったりすることがあります。何か底知れない表情をとりながらです。物語中の男や読者の私はそこで空恐ろしさを感じつつ、警戒感を抱きます。それはきっと、体面だの、社会的常識だの、そういった文化*5を人はそれなりに守らねばならない、と思うからです。その女性が、コンテクストの外へ軽々と飛び出てしまえるように、あらゆる文化的なものを剥ぎ取る権能を宿しているように見えるからです。

 このように唐突なそういうシーンの挿入を、「日常から乖離している」「展開が唐突である」と言って、物語構成上の不備とみなす見方があります。しかし私はこういう見方はとりません。むしろ、その唐突さは性欲やセックスに関しても徹底して日常化した、文化的に漂白した結果なのだと思います。普段、私たちはそれが適切なときだと思えるから水を飲むのでしょうか? どう考えてもそうではありません。私たちは喉が渇いたから水を飲むのですし、適切なときだろうとそうでなかろうと喉は渇くのです。つまり最も日常的な行為は、どうあっても物語の流れを寸断するのです。物語上必然性のないセックス描写の挿入が無用であるのなら、このようなエロゲにお決まりの「毎晩律儀に眠りにつく描写→アイキャッチ」も無用と言わねばなりません。それどころか最もいいのは、寝ることも、飲むことも食べることも、トイレに行くことも、セックスもオナニーも、物語に要請されないかぎり描写しないことだ、ということになります。しかし、そもそも日常とはそのように都合によって省略可能なものでしょうか? 省略しようと思ってもできないのが日常ではないのでしょうか。……このあたりはまた別の機会に考える必要があるでしょう。シギサワさんの漫画含め日常性というものが顔を出している種々の作品とともに。

 

 まだまだ書き足りないことが……この作品の特異なコミュニケーションを現象学的にとらえたらどうなるかについて、具体的には静音の口論などについて、セックス中の描写の特徴について等ですが、それはまた総論的なまとめに回すとして、ここでいったん終わりとしましょう。

 とりあえず、私はこのルートやってて面白かったです。興味を持たれた方がいたら試してみてください。

*1:こうしたものを問題化することには、すでに馴染みがある方も多いのではないでしょうか? 漫画『逃げるは恥だが役に立つ』における鍵語の一つである「好きの搾取」も、類似の問題意識がありそうです。

*2:一般にはろうあ者は笑い声をどうするのでしょうか。

*3:また赤松氏が疑問に思っていた、静音が声を使って喋らない理由もここにあるのではないでしょうか。発話訓練は誰もが正確に喋れるようになる、というわけにはいかないものらしいので、おそらく静音も挑戦したことがあっても結果的にそれを捨てたのかもしれません。こうして過去を推測する材料は作中にはありませんけども。

*4:正確に言えば静音とミーシャの怒鳴り合いはあったようなのですが、主人公はその場にいませんでした。しかし怒鳴り合いというよりも、一方的に怒鳴るミーシャに対して静音はその理由を十分に読み取れず、まさに暖簾に腕押しといった様相だったことが伺えます。

*5:「文」とは人を飾り付けるものの謂だと、ある教授から何度も繰り返して言われたことがあります。