作品を養うものと批評―『もう卵は殺さない』の比喩から

ご無沙汰しています。

現在まだ就職活動中ですが、そこからの逃避に何か書こうと思い立ったところです。

 

 さて、ところで私は、ここで何らかの作品をとりあげてべらべらと喋ったことはあまりありませんでした。前々回の記事くらいでしょうか。しかし実はと言うと、私はあるサークルのほうで(内輪の)小説の批評や良し悪しの議論をやってはいました。
 それと、高校生の頃の話ですが、私は若干小説っぽいものを書いていた時期があります。

 ネット上で感想を言う、内輪で善し悪しの議論をする、自分で創作する、かように創作にはそれにまつわるいろいろな立場があるわけですが、そういうものを経た上で、批評というものに関する考えがなんとなく形をとってきました。

愛のある批判/愛のない批判、ではなく

 まず、どうして私がネット上で作品について語りたくなかったかというと、「ネット上の批評=こわい」という印象が先行していたからです。特にこうした個人ブログでは「この作品はここが本当にダメだ、インクと紙の無駄遣いだ、時間返せこのやろう」という管理者、それに感情的に噛み付くコメント、それに対して羽虫を蹴散らすかのごとくコメントを連ねていく管理者……という感じの、戦闘的な光景を最初に想像します。昨今では作者の人もネット上で自分の批判を目にすることがあるわけですから、聞くところによると、作者が上のような闘いに直接加わるなどということもあるそうです。そういういざこざに参入したくないなあ、という気持ちが強かったのでした(まあそもそも私の文章がそんな議論で紛糾するほど人を集めるとは思えませんが)

 ただ、「批判には愛のあるものとないものがある(から愛のある批判は受け入れられるもの)」というのは、よく聞くところです。しかし、本当にそうなのでしょうか。

 いろいろな場で漫画の批評をされている、紙屋さんの言葉を引きましょう。

だが、つまらないものはつまらない、というサイトもやっぱり必要だし、何よりも書評をする側の欲求として、そういうもの――ひとの批判を書いてみたいじゃないか。
 しかし、自分の書いたものが何がしかの影響を与えるのではないかと思うと、ブレーキが働くのも事実。そこで向かうべき方向としては、より「ていねいな批判」を心がけるということになる。「愛のある批判」といってもいいが、多くの人が納得してもらえる批判ということだ。


 しかし、そんな難しいものが簡単にできるわけがない
 きれいごとに近い。
 とくに、批判された作者本人は、いくらていねいに批判をしてみたところで、いじける奴はやっぱりいじけてしまうのである。ていねいな批判はしばしば本質的な批判になってしまったりするので、乱暴な批判以上に、逆に徹底的に落ち込ませることになったりする。

「批判は才能をつぶすか」

 「愛のある批判はそうそうできるものじゃない」ということはやっぱりそうなのだろうと思いますが、私が気になっているのはそこではなく、「いじける奴はやっぱりいじけてしまう」という点です。創作者にとって、自分の作品に対する批判はどこか根本的に耐え難いものがあるのではないか、それはなぜなのか、ということを考えます。

 また「創作者は自分の作品への評価に異常と思えるほどの関心を払っている」。同ページの紙屋さんのこの言葉は、深く頷けるところがありました。一度でも、何か作品を書いて公開したことがあるとか、ブログやホームページを作ってコメント欄を日々チェックした経験があるとか、そういう人なら納得はしやすいことかもしれません。しかし、これもどうしてだかわからないところがあります。

「もう卵は殺さない」の比喩

 そのときに、思いがけず頭の中で繋がったのが、結構前に読んだ次の漫画でした。

もう卵は殺さない (マーガレットコミックスDIGITAL)

もう卵は殺さない (マーガレットコミックスDIGITAL)

 

  正直初めに読んだときには、私の好みの話は入っていなかったなと思ってしばらく放置していた短編集でした。しかし、表題にもなっている「もう卵は殺さない」という話だけは、そのときからどこか他の3作品から浮いている、長いあとがきを読んでいるような気分がありました。あからさまにメタフィクションな漫画というのは初めて読んだので、最初はどう受け取っていいのか困りました。

 この作品は表現や筋がとても素朴です。物語の内容に沿っていけば、誰でもそう変わらない場所に行けるでしょう(ゆえに、話として面白いかといわれると少し違う気がするのですが)。私も、次のような思考に真っ直ぐにたどり着きました。「どんな物語も、「その作者にとっては」唯一無二の価値を与えられている」。さらには、「どんな批評も論理も市場評価も、その価値を剥奪し得ない」ということに。

 ここには、まだ政治的な含意がないことに注意してください。作者にとっては価値があるんだから無価値な作品なんてないとか、だから作品の格付けのようなことをやめるべきだとかそういう主張が導かれるわけではありません。ここに「みんなちがってみんないい」という論理はありません。あるいは、著作権者が作品との関係で持つ、いわゆる著作者人格権とかの話をしているのでもありません。例えるならば「親は子に対して特殊な思い入れをもつ」、ただそれだけです。たとえこの世に人間が作者一人しかいなくともそうなのです。だから、これは「作品を通じて人に認められたい」という構図の問題とも厳密には違います。まだ他人は眼中にないのです。

 「もう卵は殺さない」の中では、作者が親に、物語は子に例えられています(物語の原案は卵に)。この比喩はどこか安易にも思えますが、まったく適切すぎるゆえにそうなのだという気がします。*1

「特殊な思い入れ」の二面性

 この「唯一無二の価値」とか「特殊な思い入れ」は、作品が公開されて、親と子以外の者が現れてきた場合には(複数の作品が並ぶ場面においては)「えこひいき」としての側面をたしかに持ちます。とはいえ、そこまで積極的に尊び大事にするとか、そういう類のものではありません。いわゆる母性とか乳児に対する愛着みたいなイメージもあまり持ちたくないです(なんか男には無理みたいな印象になってしまうし)。むしろそれは、否定的に言及されたときにはっきりします。親のことを普段とりわけ尊敬も肯定もしていない人でも、「おまえの母ちゃん✕✕✕」と言われたらイラッとしませんか。でも他の人について「✕✕✕」と言われていても「そうだね」としか思わない、そういう形で確認されるものです。*2

 そもそも、作品というものが初めて世に出てくることができるのも、そうした「特殊な思い入れ」が働いているからです。自分が産んだものが存在するということへの肯定(積極的な否定とも積極的な肯定とも違う、フラットな肯定)が。もしこれがなければ、何も産まれず、何も始まりません。作家が少しでも自分の物語に思い入れがなければ、それは完結も叶わず、他の人の目に触れることもなくなることと思います。*3 作品が生まれなければ批評や市場も成立しません。この「原初的なえこひいき」があるから、公平であるとか公平でないということを問題にできるような場が成立するのです。

 しかし、それぞれにとってそれぞれの作品が唯一無二だとしても、事実として人間は複数人います。矛盾を調停し、序列をつける言葉がやはり必要なのです。できる限り公平で冷徹である言葉が。こうしてある種の「批評の領域」が成立します。ただこの領域が豊かに機能するためには、そもそもそのような批評がどうして可能なのかを誰かが覚えておかなければならないとも思います。作品は手品のように出現するのではなく産まれるものであるということ、作品についてはじめに無条件に産出の同意がなされるということを、作家も批評家も想像できないというのなら、「どうせ評価もされないものは、産み出しても仕方がない」という転倒まであと一歩なのです。

 

 作品がこうした思い入れと契約することでしか生まれることができないということ、そして、その契約を任意に放棄することはできないということ、それが、作品が完成を見て世に出たとき(他人の評価に先んじて)喜びを感じることのできる理由であり、作品をめぐる言説の獰猛さや、批判の耐え難さの理由なのです。*4

距離をとること

 「唯一無二の価値」とか「特殊な思い入れ」というのを積極的に語るのは、かなり危険なことだったかもしれません。あくまでそれは批判すること自体やその内容を制限する実効性を持つものでないことは、何度注意してもし過ぎることはありません。私がやってみたのは、それらが批判/批判対象を養う糧ではないかという仮説を立てることです。そのような仮説を立てたことがあるかないかで、言葉の使い方がどこか別様のものになることもあるのではないかとの希望をこめてです。

 大切なのは作家、作品、批評家には、それぞれ距離が必要だということです。再び紙屋さんの言葉を引用しましょう。

作品はすでに出版され発表された段階で「作者の固有のもの」ではなくなり、社会的な存在になっている。どのような厳しいバッシングに遭おうとも、それを甘受することは発表した者の義務なのである。

 たしかに、作品は自分から出たものであっても自分自身ではない。それを忘れたら、子が享受する最初の肯定は最悪のえこひいきに変わります。作品について語ること自体を恣意的に制限する、創作世界におけるモンスターペアレントの誕生です。作品を発表したならば、「わが子はどこにでもいるような平凡な子だった」というように現実認識が変わることだって当然あるわけです。そのような現実の検討を認めず、子が文字通り比較を絶している「親子だけの世界」を公共的な現実だと言い張るのは、狂気の振る舞いとされても仕方がないことです。

 他方、批評家、ファンやアンチの人は、どんなに作品を詳細に分析しようとも、作品は「よその子」であるという意識をどこかで保持していなければなりません。作品は作者自身ではありませんが、作品を受け取った人の感想とも別のものですし、それ以上に、作者と批評家は別の人間です。世に出た作品のその後について最も激しく傷つき、最も快感を覚えることができるのは作者に違いありません。作品の産みの苦しみや思い入れと契約しているかどうかが、作家とそれ以外の人間を区別しています。そこで作者以外の人間が、この作品は一般に(もちろん作者にとっても)ああである、こうである、とても面白い、全くくだらないと断じるのは、その超えられないはずの区別を超えたと嘯くことが含まれるのです。その点で批評とは、どんなに作品を礼賛するものでも必ず作者を裏切るものです。誠実な批評というのはどこか矛盾しています。ただ、それは無意味なことでは全くありません。生産的なことですし、作家には絶対にできない固有の価値を持った営為といえます。だれかが序列をつけなければならないし、作家と作品との幸福な関係をずらさないといけないのですから。

真面目な批評ができずに

 ある人の全貌について語るということがしばしば困難であるように、作品について語るということは上のようにとても困難なことかもしれません。だからか、つい私は「ある作品を通して何かを語る」という方向に行きがちです。所属しているサークルでも、いつも評価から逸れて余計な話ばかりしていました。しっかりと作品間の交通整理をしたり技法について指摘したり、正面きって内容と向き合い面白い面白くないと言ったりする真面目な批評家の方からしたら、なに中途半端なことをしているのかと言われそうですが、当分はそういうスタイルで作品に言及することになる気がします。このブログではだいたい漫画しか出てきてませんが、そのうち飽きてゲームとか映画とかで何か言うかもしれません。物語であればなんでもいいのかもしれません。節操がない。

 私は「人を語る」よりも、「人と会って(自分が)考えたことを語る」のが好きです。ここはおそらくそういう場所です。

 でも考えてみれば、ここに書いたことも批評家や批判の仕方に対する批評をやってるということになるんですかね。わかりません。批評は対象作品に負っているとはいえ、それも一つの作品なので何か反対されたら多分ヘコみますよね。自分のこういう文章は作品というほど整ってはいませんが……。

 ちなみに就職活動中ゆえコメント返信についてはその可否も時期も約束できません。

 

  なお、ここに書いたことは主に趣味として何かを作るアマチュア創作者に最もよく当てはまることであり、それだけを仕事にしているような専業作家の人にはあまり当てはまらないかもしれません。専業作家の受ける批判は、もしかすると「自分のやるべき仕事をしていない、つまり賃金に相当する有効な労働がなされていない」という、義務違反の指摘であって、作品がいいのか悪いのかということ以外の側面も絡むかなと思ったからです。しかし、私は専業作家の方の実態について何も理解していません……それについてはさらに勉強しないといけないでしょう。

 

*1:当然ながら、この比喩が引き寄せる問題もあります。すべての子が親に関心を持たれるものだろうか、産んだ者が親という自覚を終始持たない場合だってあるではないか、といったように、比喩に使った物事をステレオタイプ化しているという文句ですね(これに応答すると脇道に逸れすぎるような気もしますが)。

しかし、第一には、思い入れというのがいわゆる愛情に限られるわけではありません。それは後悔とか面倒さとか色々入り混じったものかもしれません。親になった経験ないんで知りませんが。
第二に、典型的な親子関係は「事実としては」不成立であってもいいのです。この物語はまさに、産まれかけの状態で捨て置かれたり、他人の手に渡された物語(卵)を中心としています。水子供養のように、事実としては不可能だった親子関係が亡霊的に回帰する可能性のほうに、この物語はこだわっているとさえ言えるでしょう。

*2:思い入れとはもっと積極的なものじゃないのかというと、いわゆる「信者」という人々の心理のほうに話題が移るような気がしています。

*3:もし職業的義務感だけで事務的に作品を最後まで製造し続けられる人がいたなら、それはそれでその人は特別な才能を持っていると言えるのではないでしょうか。

*4: ちなみに「私は自分の作品についてクールである、作品が自分の子供だなんてとんでもない」と公言しつつ活動されている作家の方もたぶんいるでしょう(私は寡聞にして知りませんけれども……)。でもあくまで私はそういうのを、公的な場所で発言する者としての一つの建前、ある種のカッコつけであると受け取ります。自分の作品を根本的に認めていると進んで言うことには「私は自分の作品を公平に見られません」と受け取られ(こういう少々極端な受け取り方をするのは、その作家の発言を聞いている人たちでしょうけども)、どこか未熟だと思われそうです。でもその人だって、自分の作品をこき下ろす手紙がいっぺんに100通来たなら、まさか自室でポーカーフェイスを保つことはないでしょう、たぶん。あるいは、先に自己評価を下げておいて「自傷的自己愛」の論理に頼るか(そういう向上心のないプロがいるかは知りません)