読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

「自分に厳しく、他人に優しく」から始まる思考実験

 「自分に厳しく、他人に優しく」。どこかしらで耳にするひとつの道徳的な教えかと思います。私たち若者の中にはスレた輩も多く、そんなことを大っぴらに口にするのはどこか憚られる雰囲気もありますけれども、周りによく話を聞いてみればそれを格率としていると主張する人はいるようでした。今回はそういった人と話した事柄について少しばかり考えてみたいと思います。

 先にことわっておきますと、明快な結論や「私が特に言いたいこと」というのは書かれてないです。

 

もし自分の大切な人が死ぬことになったら……

 今回話を聞いた人は根っからのいい人という感じで、常に集団の調和に気を配り、損な役回りを進んで引き受け、という態度で生きているように思われました。人のせいにしたり人に自分の仕事を押し付けることを嫌っている様子で、自律性を極端に信仰しており、何らかの問題の要因はとりあえず自分が弱いことである、自分に責任があると考えているようでした。社畜になってしまったら大変なことになりそうです。

 そうした勝手な性格評はともかく。

 「自分に厳しく、他人に優しく」が最も鋭く問題化するのは、人が老いたり病んだりして死んでいくときです。私はとある文脈で「年取って自分が病気になって、親族や子どもにものすごい負担や金をかけて世話されないと生きられなくなったとき、迷惑になってでも生きるか、迷惑かけるくらいなら死ぬか」とその人に尋ねました。その人はきっぱりと死ぬと言いました。

 続けて私は「では逆に、自分の家族や大切な人が年取って病気になって、自分がものすごい負担や金をかけて世話しないといけなくなったとき、どうするか」と尋ねました。すると、その人は「その人は本当に大切なら生きていてほしいから、絶対に世話をする(安楽死はさせない)」と答えました。

 

 この2つの答え方の齟齬にはお気づきかと思います。この人自ら語ったところでは、自分だけに適用される規範と、自分以外の人に適用される規範が2種類用意されているのだそうです。そしてそれらは全く逆の内容を持っているのです。すなわち、①自分は他の人に迷惑かけるくらいなら潔く死ぬべきだが、②自分以外の人は自分にいくら迷惑をかけようが構わず生きるべき なのです。これが「自分に厳しく、他人に優しく」生きようとする彼の理想らしいのでした。

  余談ですが、似たような問題が『ナルキッソス』というノベルゲームの中で提起されていました。でも微妙に表現が違うのでこの文章自体は扱いません。ただ挙げるだけです。

姫子「もし、あなたのとても親しい人が少しづつ弱っていったとして……
   あなたはその姿を、ずっと傍で見ていたい?」
セツミ「……」
姫子「それとも、自分の知らぬ間に、いつの間にか亡くなっていて欲しい?」
 わたしは、その質問の意味を考える。そして、自分なりに真剣に考えてから、
セツミ「……わからない」
 これが正直な気持ちだった。
姫子「私は、ずっと傍に居てあげたいと思うわ。
   でも、自分が去る立場ならば、逆……
   傍には、誰も居て欲しくない……」
セツミ「……矛盾してるわ」
姫子「その通りよ。
   去るものと、残されるものは……決して交わることはないのよ」

(第2章 「空」)

 ここで改めて、私が2回目に質問した状況を思い浮かべてみましょう。話題の彼について、例えば彼の母親が死に向かっている場面とします。彼の論理では、彼は自分の母親を手厚く介護し、死なせないように全力を尽くさねばなりません。

 しかし一方で、彼の母親はどんな考えをもつでしょうか。なんたって彼の母親ですから、彼と似たような論理をもっているかもしれません。もしそうだとしたら、彼女は回復の見込みが無いと分かりしだい速やかに死を望み、息子に迷惑をかけないようにしなければなりません。

   この場合、彼の望みと彼の母の望みは矛盾することになります。どちらも曲げる気がない場合、もはや物理的にやったもん勝ちです。彼の隙をついて呼吸器でも外すなり何なりして死ねば彼の母親の勝ち、死なれないように付きっきりで介護できれば彼の勝ちです。私と彼との話がこうした結論に行き着いたとき、彼は「もう倫理もへったくれもねえな」と投げやり気味に言いました。同感でした。

 これはある意味「皆が他人を蹴落としてでも自分を利そうとすると戦争状態になる」とかいう、よくある思考実験と似ています。「自分に厳しく、他人に優しく」とか、あるいは自己犠牲的な精神は「(優遇でも不遇でも)自分は他の人とは違って特別扱い」という例外を設けてしまう点で、「倫理もへったくれもない」エゴイスティックな状況を導いてしまうこともあるのでした。

 

「倫理もへったくれもない」ところから

 もう倫理もへったくれもない、やったもん勝ちの状況はどうにかならないのかなあ、と私は考えました。なんでどうにかしなければならないのか、というそもそもの疑問はわからないし、実際にはやったもん勝ちなのかもしれないですが。

 とりあえず方法は2つありそうに思いました。

  1.  自分(他人)を例外にするのはやめ、誰にでも(対称的に)当てはまる倫理を構築する。(古来の倫理学説)
  2.  同じ論理を相手も使うだろう、というそもそもの相互主観的・投入的な考え方をやめてみる。

 そもそも、やったもん勝ちの状況が生まれてしまう原因は、先ほどの①と②、「対ー私」の規範と、「対ー私以外」の規範を分けてしまったことにありました。これは、たった一つの、観点に依存しない考え方を立てなかったという点で、相対主義の領域に踏み出しているものと言えるのでしょう。*1

 1.というのを考えてみれば、多くの規範倫理学の説は「対ー私」だろうと「対ー私以外」だろうと、規範の示すところが変わることはありません。言い換えれば相対主義を最初から排除してあります。例えば功利主義的には、死ぬことになるのが私でも私以外でも、その人がなるべく苦しまないように、またなるべく関係者の負担が増えないように死ぬべきということになりますし、権利についての理論を考慮すれば、その人が意志を表明しているかぎり自分の命をどうするかはその人が決めることです。こうした学説同士の衝突はありますが、物理的に「やったもん勝ち」とはならないでしょう。「自分に厳しく、他人に優しく」というように自分(他人)を例外にするのはやめ、誰にでも一義的に当てはまる何らかの規範があるという前提で模索するならば。

 ですが、この1には何となく、自分も相手も同じように考えるよね、そうだよねという押し付けがましさのようなものがある気がするのです。そこで何となく考えたのが2でした。

 

 2をとった場合、先ほどの彼と彼の母親の状況がどうなるのかは、具体的に予想することができません。というより、死んでいく人には対しては何を望んでも、何を望まなくても間違いなのですし、同時に正解なのです。そしておそらく、残される人に対して何を望んでも、望まなくても間違いであり、同時に正解なのだと思います。

 これは、お互い好きなことをすりゃそれでOK、ということではないと思います。もちろん1みたいに考えなくてはいけないんだけども、確かにどこかでそれは間違っていて、自分の方が必ず有罪なのです。

 だいたい、死ぬ間際の人が健康な人と主張を検討できるくらいピンピンしてるでしょうか。もはや喋れもしないとか、認知症になってるとかだったらどうするのでしょう。そうした人について、その人自身苦しいだろうからという理由で死なせるのも、周りの迷惑になることを望まないだろうからといって死なせるのも、事前の(健康なときの!)意志があったからといって判断するのも、自分にとっては大切な人だからといって長く生かすのも、判断する側に勝手さが一ミリもないと言い切れるでしょうか。

 たぶん、件の「自分に厳しく、他人に優しく」という態度をストレートによいと信じてしまうことも、どこかで身勝手さがあります。人に迷惑をかけないようにしても、人の迷惑を喜んで引き受けても私は有罪を免れないです。私は他人自身ではないからです。本当に「自分に厳しく」というなら、そう考えるくらいでないといけないような気がします。なんだかんだ言って、それも自分を特別扱いすることではあるのでしょうが。

 

非対称の倫理、妄想

 何をしても自分は間違っている気がするという形で自分を特別扱いする、自罰的な妄想に似たものは、他者に責められている、責任を負っているという形で自分を確立する効果があるのだろうと予想されます。それは次の本の6章とか読んで思ったことです。

【現代思想の現在】レヴィナス ---壊れものとしての人間 (河出ブックス)
 

 

 結局なんなんだろう。

 今回話した彼も、私も、他人事としてこういうことを考えはしますが、実際に自分の親族や大切な人が死ぬぞとなったら、普段なにか一端のことを考えていると思っていても、もう一度、二度と初めから考え直さざるを得なくなるかもしれません。何かしら決めなければならない時が来て、清水の舞台から飛び降りる気持ちで方針を決めても、最後まで納得はできないし間違っている気がするかもしれません。少なくとも私はたぶんそうなるだろうと思います。ちなみに私はまだ2親等以内の親族や親しくしていた人が死んだことはありません。彼にもそういった経験はないそうです。私たちが本当のところどうなるのかはこれから嫌でも分かることです。まあ先に死ぬのが私たちでなければの話ですが。

*1:入不二基義相対主義の極北』には、相対主義という思想のエレメントが6つ挙がっています。今回はそのうち、内在性、複数性、断絶性が関わってくるのでしょうが、その詳細な解釈は考えてません。