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女生徒の感覚

思うこと

 最近はこの先何をテーマに研究しようか考えているが、その候補が一つあるので書き留めておく。

 中学以来、今よりもっと実存的な気分になり、日々が苦痛だと感じていた時期に必ず抱いてきた感覚がある。それを実に精確に言い当てていたのが、太宰治の『女生徒』の一節だった。

 

私たちみんなの苦しみを、ほんとに誰も知らないのだもの。いまに大人になってしまえば、私たちの苦しさ侘びしさは、可笑しなものだった、となんでもなく追憶できるようになるかも知れないのだけれど、けれども、その大人になりきるまでの、この長い厭な期間を、どうして暮していったらいいのだろう。誰も教えて呉れないのだ。ほって置くよりしようのない、ハシカみたいな病気なのかしら。でも、ハシカで死ぬる人もあるし、ハシカで目のつぶれる人だってあるのだ。放って置くのは、いけないことだ。私たち、こんなに毎日、鬱々したり、かっとなったり、そのうちには、踏みはずし、うんと堕落して取りかえしのつかないからだになってしまって一生をめちゃめちゃに送る人だってあるのだ。また、ひと思いに自殺してしまう人だってあるのだ。そうなってしまってから、世の中のひとたちが、ああ、もう少し生きていたらわかることなのに、もう少し大人になったら、自然とわかって来ることなのにと、どんなに口惜しがったって、その当人にしてみれば、苦しくて苦しくて、それでも、やっとそこまで堪えて、何か世の中から聞こう聞こうと懸命に耳をすましていても、やっぱり、何かあたりさわりのない教訓を繰り返して、まあ、まあと、なだめるばかりで、私たち、いつまでも、恥ずかしいスッポカシをくっているのだ。私たちは、決して刹那主義ではないけれども、あんまり遠くの山を指さして、あそこまで行けば見はらしがいい、と、それは、きっとその通りで、みじんも嘘のないことは、わかっているのだけれど、現在こんな烈しい腹痛を起しているのに、その腹痛に対しては、見て見ぬふりをして、ただ、さあさあ、もう少しのがまんだ、あの山の山頂まで行けば、しめたものだ、とただ、そのことばかり教えている。きっと、誰かが間違っている。わるいのは、あなただ。

  今では、自虐的なことを言っていた時期も随分遠くに感じるようになり、私はまさにこの「世の中のひとたち」に漸近しているところかもしれない。

 あるいは、鷲田清一が痛みの作用について次のように語っていたところを読まなければ、私はこの「女生徒の感覚」を、若い時期特有の、精神的未熟ゆえの気分として片付けていたかもしれない。

痛みには、ずきずき疼くものとぎりぎり刺すものの2つある。さしあたってそれらを疼痛と激痛というふうに区別するなら、過去に受けた傷はいつまでもずきずき疼く。疼痛は過去に原点をもっていても、いつまでも過去のものとなってくれないで現在に居すわっている。(中略)これに対して、激痛はそういう向きあいそのものを不可能にする。激痛は、人を時間の一点、空間の一点に閉じ込めるからだ。痛む人の意識はその痛みの瞬間に貼りつけられて、そこから離脱することができない。烈しい痛みのなかで、人は思い出に浸ることはできないし、遠い先に想いをはせることもできない。時が、いってみれば庭を失って、点になる。苦痛のなかで、人は「いま」に閉じ込められるのだ。(『哲学の使い方』 p.56)

つまり、激痛は人を「いま・ここ」に閉じ込める。これは希望や祈りも思い出や後悔も不可能にする。他者への想像力や思いやりをも不可能にする。そう、人としての尊厳そのものを損なってしまう。だからこそ、末期ガンなどにともなう激痛には緩和ケアが不可欠なのだ、と。(同書p.57)

 私や女生徒の感じた鬱屈が、末期ガンの激痛に値するのかということはさしあたりどうでもいい。重要なのは、誰でもほんとうにつらい時は、そのつらさがなくなる未来を考えられなくなることがあるということだ。だから、「止まない雨はない」「明けない夜はない」と何度言われようが無意味なのである。それを言うのは決まって痛んでいない人だ。気合や意志の強さがどうのという話をする人もいるが、痛みに関してそういう問題意識で尽きると考えるのは浅薄にすぎる。何でもその人の性格に回収するような心理テスト的な態度に否を突きつけ、痛みの作用という視点から問題を捉えなおさなければならない。

 

ここまでで、今後考えていくことの種を二つ得た。一つには、痛む人と痛んでいない人では、時間と空間について存在の仕方が異なっているように思えるということである。それをもう少し詳しく分析してみたいという衝動がある。そのためには、痛みということと、時間と空間とが人間にとってどのようなものかを考察する必要がある。

 もう一つは、私がもうかなり「女生徒の感覚」を失ってしまって、それを持っていた頃の自分に対してどこかよそよそしい、別人のような印象さえ覚えるのはなぜかということである。自分の過去のことなのに、今ではまるで他人事だったかのように感じる。どんなに昔つらかった人でも、乗り越えてしまえばしたり顔で、「いい大人」として「いつかつらくないときがくるから」と諭し始めるのはそういうわけだろうか。この奇妙な出来事もまた、時間論や自己意識についてもっと知らなければ説明されないと考える。

 

 今のところはだが、そうやって「女生徒の感覚」について考えてみることにしたからといって、特別そういう思いでいる人の世話を焼こうとか、何かと政治的な肩入れをしようなどと企んではいない。というより「私はつらい人の味方だよ」と、今の私が自称することができるのか否か、まさにそれを探ろうとしているのだ。自称できるとしても、できないとしても、何をすべきなのか・何をすべきではないのかという具体的な主張を導くまでは遠い道のりがあるだろう。